人間とコンピュータが意思疎通できるとはどういうことか

2016年10月21日に、情報サービス産業協会(JISA)というところが主催するJDMF(JISA Digital Masters Forum)2016というイベントで講演をしました。そこで話したのがこの話…というわけではないのですが、講演の一部を切り取って詳しく解説を書いて協会の会誌に寄稿しました。その文章を掲載しています。

 

コンピュータの力を借りられる人と借りられない人の格差問題

いささか身に余るテーマのような気はするが、人間とコンピュータはどのような関係を持つべきかということを論じてみたい。これを読む方にとって新鮮な話と感じていただければ幸いである。その割にまたその話かと言われる気もするが、将棋や囲碁人工知能が人間に勝ったという話から始める。

 

コンピュータと人間が対峙している場面だけを見れば、確かにコンピュータは人間に勝った。しかしここで視点を変えて、これを人間同士の戦いとして見てみよう。すなわちこの戦いを、人工知能を開発した人間とプロ棋士との戦いだと考えるのである。プロ棋士が持っている将棋の力を100とすると、人工知能の開発者は30も持っていないのではないかと思われるが、勝ったのは人工知能の開発者である。ではその差を埋めたのは何かと考えると、それはコンピュータの力ということになる。つまり人工知能がプロ棋士に勝ったということを人間同士の戦いという視点から見ると、現代では、そこそこの将棋力とコンピュータを自在に操る能力を併せ持った人が、将棋だけを極めたプロ棋士より合計の力が大きくなったのだと解釈することが出来るわけである。

 

将棋や囲碁は閉じたルールの中のゲームであって、またそもそも娯楽であるから、ルールでコンピュータの使用を禁止してしまえば人間同士が競う場が乱されることもない。しかし、その他の場、例えばビジネスの現場ではコンピュータを使ってはいけないというルールはないのだから、このことが意味することはより大きなものとなる。つまり、コンピュータを自在に扱う能力を持つ者は、コンピュータの力を借りることができるので、それが出来ない者に対して圧倒的な優位に立つことが出来るのである。この視点から、近年よく話題になっている「人工知能が人間の職を奪う」という問題を捉え直してみると、人工知能を導入して既存の労働者を追い出す人をコンピュータを使う側だと考えれば、これはコンピュータを使える側とコンピュータを使えない側の格差が広がる問題ということになる。

 

コンピュータを使えると一口に言っても、これには色んなレベルがある。キーボードやマウスなどの入力デバイスを使えるというレベルもあるし、メールやSNSを使えるというレベルもある。そして最終的には、プログラミングが出来るレベルということになるだろう。プログラミングが出来るということがそれまでのレベルと何が違うかと考えると、コンピュータに自分の要望を細かく伝えることが出来るということではないだろうか。既存のソフトでは誰かが用意してくれた機能しか使うことが出来ないが、プログラミングをする人は自分の欲しい機能を表現してコンピュータに伝えているわけである。そもそもプログラミング「言語」というところからしても、これは人間とコンピュータの意思疎通のためのものと言ってもいいのではないか。振り返ってみると、コンピュータで出来ることのそれぞれのレベルも、意思疎通の精緻さのレベルとして捉えられるのではないかと思われる。

 

さて、この話は、コンピュータと意思疎通出来る人と出来ない人の格差が広がるという話としても解釈出来るが、逆に言えば、人間とコンピュータの意思疎通の方法をより簡単なものに出来れば、格差を解消することが出来るかもしれない、という話としても解釈出来るわけである。あるいは、コンピュータに人間の望みを伝える能力を向上させることが、コンピュータを使う人間の、あるいは人類全体の能力を向上させる鍵だという話としても捉えることが出来る。

 

人間とコンピュータの意思疎通という観点から見る人工知能技術の歴史

以上の話を踏まえたうえで、人間とコンピュータの意思疎通という観点から、人工知能技術の歴史を振り返ってみたい。良く言われる通り、現在の人工知能ブームは3回目のもので、それはつまり過去2回のブームは終焉を迎えたということである。では、過去のブームで解決できなかった問題はなんだったのか。それは、人間は自分のしていることを全て記述することは出来ないという問題である。これをコンピュータと人間の意思疎通の問題として見れば、コンピュータに人間がやっていることを説明しようとして失敗したということである。

 

過去の人工知能ブームでは、人間が持つ知識を、「どういう場面ではどういう判断をするか」というルールとして全て書き出そうとした。ここでは、ルールを人間が伝えるという形でコンピュータと意志疎通を図ろうとしたのである。このようにして作られるシステムをエキスパートシステムと言う。しかしこの方法は、医療など限られた分野である程度の成功を収めたものの、ほとんどのケースでは上手くいかなかった。なぜなら、必要なルールがそもそも膨大で、またルール同士が矛盾しないように設計しなければならないが、そのためには無限に例外を考慮しなければならなかったからである。このことを表す身近な例として法律を挙げることが出来る。我々の法律というものは、あれだけ複雑でありながら執行するには人間による解釈を必要とする。これは記述された言葉だけでは全てのケースを網羅することは出来ないと考えられているからである。

 

エキスパートシステムの路線が一度頓挫した後の、つまり今回の人工知能ブームの主役になっている手法は機械学習である。機械学習とは、データを与えて、そのデータの背後に潜んでいる知識を自動的にコンピュータに獲得させる技術の総称である。上記のエキスパートシステムとの比較で言えば、「人間はこういう場面でこう判断した」という結果だけを与えて、ルールに当たる部分をコンピュータに自動的に獲得してもらおうということである。このことをコンピュータと人間の意思疎通という観点から見ると、人間が手取り足取り教えてあげなくてもコンピュータに人間のして欲しいことを伝えることが出来るようになったということであり、これは今までならプログラミングに相当していた部分を代替する技術だと言うことが出来る。現状でプログラミングの全く出来ない人が人工知能技術を使えるとは言い難いが、少なくとも意思疎通の困難さを緩和する方向の流れだと見ることは出来るはずである。

 

ただし、ルールを記述することとデータを用意することで、データを用意することの方が楽だと一概に言うことは出来ない。ルールを記述するにはより専門性が求められるが、データを用意するには収集する手間や正解不正解のラベルを付ける手間がかかるからである。ルールを人間が記述する量と必要なデータ数は一般にトレードオフの関係になるため、機械学習の手法の中にもルール記述に相当する部分は依然として残っている。機械学習の手法として知られているものはたくさんあるが、それらの違いはルール記述とデータ数の比重の置き方の違いだと考えるとすっきり整理出来ると思われる。機械学習の手法の中で現在最も注目されているディープラーニングは、ルール記述とデータ数のバランスで言えば、ルール記述をほとんど行わなくてよい代わりに大量のデータを必要とする手法だと説明することが出来る。振り返って考えてみると、エキスパートシステムを作るのにはデータは必要ないが、しかしこれは一種の錯覚であって、コンピュータがデータを処理する代わりに人間が事前に処理しているからルール記述が可能になっているわけである。

 

ディープラーニングの達成したことは人間とコンピュータの意思疎通という観点からは更に興味深い点がある。これを理解するには、今までルールと呼んでいたものをもう少し細かく分けて論じる必要がある。ルールは実際には特徴とその組み合わせから出来ている。特徴というのはデータの属性のことで、例えばある一人の人間のデータの中の、身長や体重といったような、何らかの意味が見出された、分析の基礎となる変数である。ルールを記述する時は、人手でやるにせよ機械にやらせるにせよ、この特徴同士の組み合わせとして記述するわけである。人手で記述するのであれば、特徴の中で何が重要なのかを自分で記述することになるし、機械学習では、どの特徴が重要なのかを自動的に導き出させることになる。特徴に何を採用するかは基本的に自由であるので、身長や体重のようなプリミティブな(基礎的な)ものと同時に、それを組み合わせたBMIのような複合的な指標を採用してもよい。課題に対して何が重要な変数かということが最初から分かっていれば、それを選んでおけば良い性能が出ることになる。そして、この重要な特徴というものを自動で導き出すことに成功したのがディープラーニングなのである。ディープラーニングが特徴表現学習と呼ばれるゆえんである。ただし、ディープラーニングで導かれる特徴というのは、プリミティブな特徴から作られた新たな複合的な特徴という形になる。ここでエキスパートシステムの話を思い出すと、人間が記述出来ることには限界があるということであった。ディープラーニングが導き出す特徴というのは、まだ人間が意味付け出来ていない特徴であり、それはつまり人間の記述能力を越えるものである。このことによって、人間の記述能力に制限されるボトルネックを突破する手法だと考えられているのである。

 

しかし、人間に理解できない特徴によってルールを表現するということは、人間とコンピュータの意思疎通という観点からすると後退しているようにも思われる。コンピュータの下した判断に対して、どのような根拠でその判断を下したのかということを確認しようとしても、コンピュータのする説明を人間は理解することが出来ないわけである。そうなると、この仕組みを適用可能な範囲はかなり限定されるのではあるまいか。筆者も少ないながらデータ分析の仕事をしたことがあるが、同様の問題意識を持っている方が多かったように思う。実験段階で上手くいくことが分かっていても、それをリリースした実際の場面で上手くいくのかということを判断するには、なぜその結果になるのかについて納得感のある説明をして欲しいという要望がある。これは、クライアントにも求められることが多いし、それ以前に自社の上司に求められることが多いようである。

 

さて、では根拠が示せるような手法はないのかということになると思うが、JDMF2016で講演されていた日立の矢野氏の研究も、産総研の本村氏の研究も、そして僭越ながら筆者の研究もそのような手法を目指したものである。是非そのような観点で彼らの研究を見直していただきたいと思う。根拠を示すためのポイントは、特徴として人間が理解出来るものをまず選んで、その組み合わせでルールを表現するということである。採用した特徴のうち何が重要かを自動的に判断させるわけだが、事前に特徴を厳選するのには専門性が求められる代わりに、特徴をたくさん採用した場合には組み合わせが膨大になって計算時間が長くなる。したがって、そのバランスの取り方や計算時間の圧縮方法が研究対象となる。こうした知見に普遍性が見い出せれば、課題ごとに特徴と目標さえ選んでやれば様々なケースに対応出来る汎用の仕組みとなる。そうなれば、コンピュータと人間の意思疎通のうちの、今までプログラミングが担当していた部分のほとんどをコンピュータに任せることが出来るだろう。彼らと呼び方が一致しているか分からないのだが、筆者はこの手法を「メタシステムからの動的システム構成」という名前で呼んでいる。なお、この手法では特徴を人間の理解出来る特徴に限定する以上、人間の記述能力の限界に縛られるという点でディープラーニングに敵わない面がある可能性は否定できない。このことは、この手法では特徴を「選択」するが、ディープラーニングでは特徴を「生成」するという違いとして整理出来ると思われる。

 

「人間vsコンピュータ」と「人間+コンピュータ」を分けるもの

さて、この文章は人間とコンピュータはどのような関係を持つべきかを論じようとしていたのであった。しかしその話をまとめる前に、一つ問いかけをしてみたい。それは、「我々人間が欲しいのは結果なのか理由なのか」ということである。

 

エキスパートシステムを作るためにルールを書き出していた頃、研究者達は知能とは何かということを必死で考えていた。その営みは、良い人工知能を作るということ以上に、自分達人間のしている活動を解明したいという欲求に基づいていたのではないだろうか。しかし、その問題は難し過ぎて手に負えなかった。そしてその後機械学習の手法が広まるにつれ、研究者達の興味は仕組みより結果に移っていった。そもそも人間の意思決定の仕組みすら解明されていないのだから、他者の意思決定の理由が分からないのと同様に、機械のことも分からなくて良いというのは割り切りとしては正しいと思われる。ただ、こうして人工知能技術が社会に出て行き、専門家でない人に触れるフェーズになった際の反応を見るに、どうも専門家の方が理由を軽視し過ぎていたのではないかと筆者には感じられる。他者の意思決定の仕組みが本当には分からなくても、言葉を交わせば人間は共感出来るというところまで、自分達の都合で割り切ってしまっていたのではないか。

 

ただし前途が暗いというわけではない。機械学習の手法は、良い結果を出した時の内部構造という形で間接的に理由を説明してくれている。これを読み取ることが出来れば、人間が自分達のことを知るための知識としても、エキスパートシステムの時代以上の成果になるだろう。また、そうやって人間側の表現力を高めて行くということが、コンピュータに伝える要望を精緻化していくことにも繋がり、それはまた、よりコンピュータの助けが得られることに繋がっていくと思われる。

 

まとめると、人工知能およびそれを用いたデータ分析の分野には、理由は分からなくても結果が良ければよいという態度と、理由が分からないものはダメだという二つの態度が考えられる。ここで、人間の記述力の限界という原理から言って、理由は分からなくてもよいという態度の方がその時々で達成出来るものは大きなものになると思われる。ただし、理由を得るということも一つの成果として考えられ、それによって人間の能力が向上する分を勘案すると、長期的には後者の態度の方が大きな成果をもたらすのではないか、ということである。

 

そして、いささか強引な議論のような気もするが、将来的に、コンピュータが人間を単に置き換えるものになるか、人間と手を取り合えるものになるかということは、案外こうした態度の違いが分岐点になるのではないかと、今の筆者には考えられるのである。

すべての人を罪人に出来るルールは諸刃の剣である

その昔、ヨーロッパで魔女狩りという風習があった。ざっくりと解説すると、今起きている社会の問題は人間に紛れている魔女が起こしているから、その魔女を見つけ出して殺さねばならない、というような風習である。その際、疑いをかけられた人が魔女なのかどうかを判定するために、「魔女裁判」と呼ばれる取り調べが行われていた(後世の人がそう呼んだだけかもしれない)。その方法は色々あったようだが、特に私の印象に残っているのは以下の方法である。「体を縛って川に投げ込み、浮かんできたら魔女で、沈んだら魔女ではない」。当然この方法では、浮かんだら殺されるし、沈んだらそのまま死ぬので、疑いをかけられた時点でその人は死ぬしかない。このような理不尽な裁判が行われたらしく、転じて、現代でもこのような一方的な処罰のことを魔女狩りと呼ぶことがある。

 

魔女狩りが行われている世界に住んでいる状況を想像すると、やはり酷く恐ろしい。いつ自分が魔女だと言われるか分からないし(ちなみに、魔”女”狩りだからといって、女ばかり殺された訳ではないようである。魔術が使えるんだから男にも化けられるという事だろうか)、一度やり玉に挙げられたらもう助かる見込みがない。そういう世界では、目立たぬよう、角(かど)を立てぬよう、おびえながら生きることになりそうだ。

 

では魔女裁判は具体的には何がおかしいのだろうか。それはもちろん、自分が魔女ではなかった場合に処罰を免れる可能性がないことである(そもそも魔女であることが悪いことなのかはよく分からないが、ここではそのことは忘れておこう)。これを防ぐために、近代法には基本原則として「無罪の推定」という仕組みが組み込まれている。「無罪の推定」は「誰でも裁判で有罪が確定するまでは無罪と見なされるので処罰(不利益)を与えてはいけない」ということと「その人が有罪であることを証明する責任は告発した側にある」ということだとしておこう。

 

「無罪の推定」によって「あいつはなんか怪しいよな」という理由だけでは人を処罰できなくなる。これによって、みんなが気楽に生きられるようになる。しかし、この原則は裁判所ではともかく、一般にはすぐ破られる。人は「なんだか怪しいからあいつを排除したい」と思うのが普通なのである。それがなぜかと言われると、人間ってのはそういうものだとしか言いようがないところがあるのだが、逆に、人間ってのはそういうものだからこそ、自然に任せていると皆がどんどん生き辛くなってしまうので、長年(千年単位)の議論の末に「無罪の推定のような仕組みを入れておいた方がいい」というところにたどり着いたのだと考えるといいと思う。直観に反するからこそ必要なものの一例だ。

 

さて、具体例としてセクハラについて考えてみよう。セクハラという概念が生まれたのは、これまで男性が女性の嫌がることを多々してきたことへの対処であるわけで、それ自体は良い変化だと思う。ハラスメントの概念の画期的な所は、「受け取る側が嫌だと思ったらハラスメント」と定義したことである。普通、ある行為の良し悪しは行為者側に依存する。それを、行為を受け取る側から論じられるようにしたのだ。それによって、「問題ないと思う人もいるかもしれないけど本人にとっては嫌な事」について、嫌だと表明できるようになった。しかし、セクハラだと表明して、もしそれで弁明の余地無しに相手に処罰が与えられてしまったら、それは魔女狩りと同じだ。さらに、表明しただけで処罰が与えられるとなると、それ自体が重い意味を持つようになり、女の人も表明しにくくなって損をしてしまう。それを防ぐには「嫌だと表明すること」と「相手が悪い」ということは別だと考える必要がある。

 

相手の言い分に依らず人を罰することが出来る仕組みは、それがいかに自分に都合が良く思えても、同じことが自分にも適用される危険性を常に考慮しなくてはならない。

人工知能が罪を犯せるようになるには(リメイク)

以前書いたもののリメイク。そんなに変わってません。

 


 

現在、ロボット(人工知能)がもし事故を起こしたらその責任は誰が取るのか?ということが大きな議論の的になっている。多くの場面で自律型のロボットが導入される未来を想像すると、ロボットがいずれ重大な事故を起こすのは明白な事だろう。もちろん人間だって事故は起こすので、ロボットの方が事故を起こす確率が少ない可能性はあるし、だからこそ人工知能は注目されている。最近では自動運転自動車などがまさにそうだろう。しかしそうだとしても、事故の責任をロボットを製造した者が全て負うのであれば、製造会社はすぐ倒産してしまうだろう。

 

果たして、人工知能が問題を起こした場合、その責任は誰に求めたらよいのだろうか。…いや、この言い方はあまり適切ではないかもしれない。それはどこかに答えがあるような話ではなく、我々が考えて、どうするか決めていくことなのだから。

 


 

突飛に思われるだろうが、「自律」というテーマに関連するものとして、「少年法」について考えてみよう。少年が起こした犯罪が取り上げられる度に「少年法を改正して子供も罰するようにしろ!」という議論が持ち上がる。皆がこうした話にどれぐらい賛同しているのか分からないが、私は少年を大人と同じように裁かないことにはそれなりに理由があると思っている。子供の刑を軽減する理由としてよく言われるのは「責任能力の有無」というものだ。

 

責任能力が無いというのはどういう状態だろうか。極端な例で考えてみると、赤ん坊の隣にナイフを置いて赤ん坊が怪我をしたとすれば、赤ん坊に責任があると言う人は居ないだろう。それはナイフを赤ん坊の隣に置いた人が悪いとするしかない。そうした状態が「赤ん坊には責任能力が無い」ということである。もちろん、人はそのうち赤ん坊では無くなり、自分のしたことに責任能力があると見なされるようになる。それが実際にはいつなのかというのが、「少年法の適用年齢を何歳までにするのか」という議論だ。しかし、それが何歳になるにしても、人には自分のしたことに責任が取れない場合があることには変わりがない事には注目しておいて欲しい。

 

責任が取れるというのはどういう状態かと言うと、それは一般的には「自由意志」があるかどうかということになっている。ここでいう自由意志というのは、ある問題が起きたとして、その問題の直接の原因を作ったのがその人であり、その人さえ悪さをしなければ問題が起きなかったとみなせることだと考えると良いのではないかと思う。

 

別の言い方をすれば、責任があると見なせる事というのは、その人がそれをやめようと思えばやめられることでなくてはならない。そのためには、取りうる選択肢の中に問題を起こさないものが含まれていないといけない。例えばコンビニ店員が強盗にナイフを突きつけられてお金か商品を渡せと脅されたとすれば、その人はハズレの選択肢しか持っていない。店員が問題を起こしたとしても、その意思決定をしているのはあくまで強盗である。このように、選択肢があってもそれが合理的でなければ、自由とは言わない。問題を回避できる選択肢を持っていた強盗の方に責任があると見なされるのである。

 

そう言うと、やはり中学生などが犯罪をするのは、本人達がやらなければ問題は起きないのだから、本人達の自由意志によるもので本人達に責任がある、と思うかもしれない。しかし「本人達にもどうにもならずそれが起きている」という可能性をもう少し考えて欲しいのだ。

 

私達は、環境の中で生きて、環境に適応して生きている。我々が自分の実力だと思っている事の多くも、環境の恩恵に過ぎなかったりする。例えば親の年収と子の学力には正の相関があることが良く知られている。貧困の中にいる人には貧困から抜け出す選択肢がそもそも与えられていないのかもしれない。

 

社会の仕組みが犯罪を起こしているなら、社会の仕組みを改善しないと同じ問題が繰り返し起こる。犯罪者一人を裁いて済ますことは、社会の改善をせずに済ますことになる。しかし社会の改善には多大なコストがかかるのが常なので、わずかな犯罪者を出さないようにするためのコストとして割に合わないと判断されれば、犯罪がただ一人のせいで起きていると見なして、その一人を裁くのは合理的な判断ということになるのだろう。

 

少年法が少年を保護するのは、環境が強く影響する(とされる)子供については、本人ではなく親やその他周囲の環境が問題を起こしていると見なしていることになる。そして少年法の適用年齢を引き下げるという事は、我々全体が、社会の改善の努力を(あるいは、社会の改善にかけるコストをやむなく)減らすという事を意味しているわけだ。問題を起こす人が減ればその他の人に取っても安全に暮らせるメリットがあるので、そういうことも込みでコストについて考える必要があるだろう。

 


 

さて、ようやく人工知能の話だ。人工知能が問題を起こした場合にだれが責任を取るのかという問題について、現実的な案としては、自動車社会のように保険をかける事が当たり前の仕組みにして、皆で損害に対する補償を分担するという話があるらしい。ここから私がする話はもっと未来の架空の話なので、眉に唾を付けながら読んで欲しい。

 

ロボットが反乱を起こさないにしても、ロボットが人間のパートナーのようになることはあるだろう。ロボットと人間が対等な関係に近づいていくと、ロボットは人間に「人権をよこせ」と主張してくるかもしれない。いや、ロボットが主張しなくても、人間の側がロボットに与えようとするかもしれない。今でも、ペットに人権を与えようとしている人が居ることを考えると、これはそう突飛な考えとも思えない。人類は歴史上「人間」の範囲を拡大し続けてきた。そう言われてピンと来ないならば、白人が黒人を人間だと見なしていなかった歴史を思い出すと良いかと思う。あるいは「女性」もそうだろう。

 

「ロボットに人権を与える」というのは、なんだかロボットのくせに生意気な気がする。しかし、人権とは少し違うかもしれないが、これを「人間扱いする」ということだと考えると、これは少年法の文脈で言うところの、少年が大人になる程度の事なのかもしれないと考えることが出来ないだろうか。

 

ロボットが問題を起こした時に、ロボットに「人格」が認められ、自律的に判断したことだとするならば、ロボットの製造者ではなく、そのロボット自身を裁けばよいことになるのではないか。そしてこれは、製造者にとっては、責任を回避するための手段となるのではないか。そう考えると、ロボットは人間の意に反して人間と対等になろうとするのではなく、人間の望みによって対等に近づいていくのではないだろうか。

 

人工知能が罪を犯せるようになるには、人工知能を作る人間ではなく、人工知能自身に判断の自由がなければならない。しかしそれはどこまで行っても、社会がどう見なすかということでしかないのだ。それは人間の場合でも同じである。そもそも、自由という概念自体が、個人に責任を取らせるためにあると考えることも出来る。すると果たして、自由があるのが幸せなのか、無いのが幸せなのか。その答えもまた、我々が考えて決めていくしかない。

 


 

人工知能について語るときには、多くの人はそれが「人間のような知能を持つ」ものだと解釈する。しかし、我々は「人間」や「人間の知能」について本当は良く知らないのである。逆に言えば、人工知能について考えるということは、人間について考えることなのである。

 

コンピュータに支配されるということは道具に支配されることの一種である

(以前書いた、「コンピュータに支配されるという事」のリメイク)

 


「コンピュータ(人工知能orロボット)の人類への反乱」というテーマは、古くからSFではよく扱われてきた。そして現在、人工知能の研究の盛り上がりもあり、本当にそれが起きるのではないかと大きな議論になっている。「人工知能に自我が生まれて人間を殺し始める」というシナリオについては、私見では全然心配しなくてよいと思っているが、その説明は今回はしない。しかし、殺されるのではないにしても、コンピュータに支配されるということは起こるし、今も起きているのではないかと思っている。

 

突然だが、次の二つの文を見て欲しい。

 

  • それでは、■■時■0分に■■駅改札でお待ちしています。よろしくお願いします。
  • それでは■19時30分に岩槻駅改札でお待ちし■います。よ■■くお願いしま■。

 

この二つの文は、同じ文を、同じ文字数だけ■で伏せたものである。見比べると、上の文では待ち合わせに失敗すると思われるが、下の文では問題ないはずである。このように見ると、同じ一文字でも情報量が多い場所と少ない場所がある事が分かる。さらに、伏せられても理解できる部分は、例えばパソコンや携帯で「よろ」まで打てば、変換候補として「よろしくお願いします。」まで出してくれるような部分である。伏せられても理解できるということは予測が出来るということであり、予測が出来るということがエントロピーが低いということである。変換候補をコンピュータが出してくれるということは、コンピュータが予測(一種の知能的なことを)して、文字入力を助けてくれているということになる。

 

定型文の変換候補を使わないにしても、キーボードで文字を打っていると、こういう挨拶のような部分はスムーズに打てる。私にとってはペンで書くより速く書ける。しかし例えば「祐太」という名前を打とうとすると、「優大」「雄太」「勇太」「佑太」…と、同じ読みの漢字がたくさん出てきてしまって、明らかに一文字当たりの時間が多くかかる。これをペンで書くことを考えてみると、脳に浮かんだ図形をダイレクトに書けばいいわけで、挨拶の部分を書くのと名前の部分を書くのでは時間的にほとんど変わらないはずである。ここで、コンピュータで書くのとペンで書くのとでは、得意なことが違うことが分かる。そしておそらくそのことは、我々が書く文章にも影響を与える。得意なことはよくするようになって、苦手なことはあまりしなくなるからだ。

 

例えばパソコンを使って文章を書いていると、ペンで書くなら使わない漢字も使うので、漢字が多くなる。漢字が思い出せなくても変換候補として見せてくれるし、また画数の多い字をペンで書くのは大変だが、コンピュータでは何の苦労もないからだ。また例えば、少し砕けた言い方として「来(く)りゃいいんだけど」と書こうとしたとする。これをコンピュータは「来」とは変換してくれないので、ついつい「来ればいいんだけど」と打ち直してしまう。すると次第に、言葉遣いが綺麗になっていってしまう(規格化される)。おそらく方言を使う人も、標準語にどんどん引っ張られていくだろう。

 

これはつまり、我々の文化の方向性が、コンピュータ、すなわち使っている道具に引っ張られているということである。そして道具に合わせて人間側が変化することが、ある意味「道具に人間が支配される」ということなのである。この意味でのコンピュータによる人間の支配は日々強まっている。ただし、これはまさに「効率化」でもあるので、良いか悪いかは慎重に議論していくべきだろう。

 


なお、そもそも我々の使っている「言語」こそが、思考を支配している「道具」なのだろうとも考えることが出来る。こうした考えについての有名な研究に「サピア=ウォーフの仮説」というものがある。色々批判もある考えなのだが、興味がある人はチェックしてみるといいと思う。

人間は因果関係を見出し過ぎる(リメイク)

過去に書いた記事、「人間は因果を見出し過ぎる」が、読み直したところ分かりにくかったので書き直しました。

 


「二度ある事は三度ある」という諺(ことわざ)と「三度目の正直」という二つの諺がある。諺とは「人生の教訓を短い言葉で表現したもの」なのだが、この二つの諺が両方正しいとすると矛盾するので、教訓にするにしても、どちらを信用すればいいのか分からない。ではこれらの諺が使われないかというとそんなことはなく、各々がその場その場で自分に都合の良い方を選んで使っている。こんなに明らかに矛盾している教訓をついつい口に出してしまうところからしても、どうも人間はこうした教訓を見出すのが好きらしい。

 

教訓を見出すということは、「こうなった場合はこうなる(ので、こうした方がよい)」という法則を見つけるということだ。この能力が無いと同じ失敗を何度も繰り返すことになるので、当然あった方が有利だ。おそらく、原初の社会からそういう能力を持った人間が生き残っていき、そういう性質が次第に強化されてきた結果、教訓を見出すのが好きな人間達(我々)が生まれたのだろう。

 

「ある事象Aが起きた」ことの後に「ある事象Bが起きた」際に、事象Aを事象Bが起きる原因と見なすことができる。こうした関係を因果関係と呼ぶ。因果関係を見出すと、事象Bを起こしたくない場合には事象Aを取り除くことで対処することができる。因果関係を見出すということは物事に理由を見出すということだ。当然この能力もあった方が有利なので、強化されてきている。

 

一応注意しておくと、この因果関係というのは、究極的には人間の頭の中だけに存在する概念である。「事象Aと事象Bはセットで起こる」ということは客観世界にある事実を人間が見つけているだけだが、そこに因果関係を見出すのは、世界に色があると人間が認識するのと同じで、人間側の作用である。人間の観察能力が有限である以上、見えていない原因が他にある可能性は常にあるわけだから、「これが原因だ」と言い切ることはできない。しかし、どうせ本当の原因は分からないと思えば、今その知識が有効に使えているならば本当の理由でなくても構わないとも言える。

 


冒頭の矛盾する二つの諺の例は、法則を見出す能力が起こした失敗と考えることができる。人間は教訓や理由を見出す能力は高いのだが、そうして見出した法則同士に矛盾があっても気付きにくい。血液型性格分類に根強い人気があるのも、人間が関係(法則)を見つけるのが好きだからと言えそうである。

 

関係を見出すどころか、元々なかったはずの理由を作り出してしまうこともある。「神様」や「悪魔」や「妖怪」なども、そうして生み出されたと考えることが出来る。例えば地震が起きたとして、昔の人には理由など分かるはずもない。しかし人間は問題が起きた時に理由を見出さないと不安になるように出来ているので、「神という存在がいてそれが怒った」というような説明を無理矢理生み出してしまう。元々は存在しなかった理由を作ってそれで何か分かったことになるのだろうか?と不思議に思うが、とにかく人間は理由さえ付けば納得してしまうのである。

 

錯視(錯覚)が起こるのも、法則を見出す作用と、その法則の不完全さによるものだ。人間の眼は2次元の情報しか取得することが出来ないが、それだけで3次元の世界を認識しなくてはならないので、「正しく見る」ということは本来不可能なのである。ではどうしているのかというと、「こういう風に見えている場合はこう認識する」という法則をたくさん持っていて、それに当てはめて分かったことにしているのである。そうした法則は「よくある状況」に合わせて作ってあるため、普段は上手く認識できるが、法則の想定から外れた状況では認識に失敗してしまう。例えば、人間は長らく太陽や月しか光源の無い世界で生きてきたので、「光源は上にある」という状況を想定しているため、光源が下にある場合は、物体の凹凸が反対に見えてしまったりする。(「Hollow Face 錯視」はその例)

 

人間の観察能力に限界があるのは視覚だけの話ではないので、人間が見出す法則はどれも不完全だ。法則を知識と言いかえると、人間の知識はいつも不完全だ。しかし錯視が「よくある状況を外れると問題が起きる」ということであるならば、「よくある状況を外れない範囲ではその知識は正しい」と言う事も出来る。

 

つまり、ある知識(法則)の正しさは、それが成り立つ状況(まさにこれが「文脈」である)とセットで語られるべきものなのだ。例えば「真面目に頑張った方がいいよ」というアドバイスは、ちゃらんぽらんな人に対しては良いアドバイスだが、既に真面目にやっている人に言えば鬱病になりかねない。ついつい真面目に頑張り過ぎてしまう人には「少し肩の力を抜けよ」と言うべきである。大抵の知識や教訓というのは、それが見出された状況における多数派に向けられたものであり、それを違う状況の人に同じように言うのでは余計にバランスを崩してしまう。「温故知新」という諺があるが、歴史に学ぶにしても、当時と今の状況の違いは考慮に入れなくてはならない。

 

ある知識が正しいか正しくないかを判断するためには、状況を絞り込む必要がある。状況を絞り込みさえすれば、見出せる知識はたくさんある。逆に、様々な状況においても常に成り立つような普遍的な法則を見つけることは難しい。冒頭の二つの諺が矛盾してしまったのは、二つの別の狭い世界の中ではそれぞれ正しかった知識が、広い世界では使えないものだったということを意味している。

 


さて、「人間は因果関係を見出し過ぎる」に話を戻そう。原初の時代の人類は因果関係を見出す能力を次第に強化していった。人類は生物としてはその頃から大きく変化していないので、その能力は今も本能として、言い方を変えれば直感として残されている。しかし、原初の時代の人類の生活は世代が変わってもほとんど変化しなかったのに対し、現代は自分が生きている間にすら生活が変化してしまう。影響し合う人の数も多様性も比較にならないぐらい増大している。つまり物凄く広い世界に生きるようになったのである。したがって直感が誤作動を起こし易くなっている。人間の直感は、昔から変わらないことや、身の回りの狭い範囲を最適化するには上手く働くが、現在問題になっているような地球規模の問題は能力の対象外なのだと思う。

 

「一を聞いて十を知る」という諺がある。頭の良い人を褒め称えるために使われる言葉なのだが、はたしてその知った十の事は正しいのだろうか。例えば医療現場で「一を聞いて」分かった気になって、「その他の九のこと」を勝手にやる人は大変危険ではないだろうか。つまり一を聞いて十を知ってしまうのは見方によっては失敗なのである。我々はついつい、過去に一回しかない事例が毎回起こるような気になったり、三人の人が言っているだけでみんなが言っているような気になったりしてしまう。より普遍的な知識を見出したり、多様な状況に対応したりするためには、その「因果を見出す」自分をぐっとこらえることが必要な場面が多くあるのだ。

 

しかし普遍的な知識しか使えないというのでは、解決できる問題は非常に狭くなってしまう。普遍的知見の代表である科学的知見は、ほとんどどのような状況でも成り立つがゆえに「正しい」とされる。しかし現実の問題を解決するには、それを絶対視するのではなく「どのような状況でも成り立つ知識」と「限定的な範囲で成り立つ知識」を、それぞれの限界を知りながら使うことが必要なのだろう。

 

直感がいつも正しければ学問など必要ないのだ。多くの人が直感で分かってしまう事を、本当は分かっていないのではないだろうかと考えるところに学問の価値があるのだ。

大学の勉強は社会より自分の方が正しいと言うためのものだ

(過去ブログ記事より転載)

 

小中高と学校で勉強してきたことは、主に社会に順応するためのものだ。それに対して大学の勉強というのは、今ある社会を正しいと思うのではなく、どんな社会にするべきなのだろうと考えるためのものだ。

 

今まで小中高と、なんのために勉強してきたのだろう?立派な大人になるためだろうか?就職して立派な社会人になるため?では、「立派な大人」や「立派な社会人」とは一体なんなのだろうか。

 

逆に考えてみる。今既に働いている人は全員「立派な大人」を「立派な社会人」なのだろうか?もちろん、そんなことはないだろう。であれば、その人達の言う通りにする事が正しいとは限らないことも分かると思う。社会が正しければそれに順応すればいいが、社会が正しくないのにそれに順応するのは、単に自分の精神状態にとって良くないだけでなく、そういう環境を維持することに一役買ってしまうことになって、後に続く人にとっても良くない。言う通りにするばかりでなく、そういう状況を改善することが出来るのが、より「立派な大人・社会人」ではないだろうか?

 

「自分が間違っているのではなく、社会が間違っているのではないか?」と思った時、それを実際に周囲の人に納得してもらうのは簡単な事ではない。そういうことを出来るようにする能力を鍛えるのが大学という場所である。そのためには、主張の根拠となる専門の知識と、主張するための筋道の立て方の両方が必要である。*1

 

こういうこと言うと「反抗するのが格好良い」みたいに思うかもしれないので注意しておくと、結局のところ物事を達成するのは「信頼」とか「協力」なのも事実なので、ただ正しい事を言えばいいという話でもない。例えば、そういう話をする前にそもそも話を聞いてもらえる関係を築くのも大事である。まあでもそれは(本来は)大学で学ばなくてはいけないことではないのだ。大学は、というか、学問分野というのは、他に比べてかなりの割合で、正しければ話を聞いてもらえる世界だ。そういう特殊な世界だからこそ、自由に考えたり主張したりすることが出来るのだ。

 

…とここまで書いてきたが、上記のような大学像は一応、昔の話であり、理想論だ。「本来の大学」の役割はそういうものだったろうが、状況はとっくに変化している。「高等教育」という言い方をするが、それを受ける人は一握りのエリートで、そういう人達が人民を導くという時代があった。今は日本では50%の人が大学に進学するわけで、半分がエリートだと言ってもみんな納得しないだろうし、実際のところそういうことを考えられる人が50%も居るかというと怪しいのではないかと思う。だから大学の機能も変化して、今ある社会に順応させるための役割を果たすようになった。これは仕方のない事だし、実際それがニーズに応えた形なのだから、悪いともいえない。

 

まあとはいえ大学に来てしまった(?)人には、せっかくだから大学のいいところ享受していってもらいたいと思う。大学で学ぶことが現場よりも先を行っているから現場の人の知識より役に立つ、ということもあるかもしれないが、実際あまりそういうことは多くないと思うし、その捉え方だとそんなに大学の勉強は役に立たないように思うのではないと思う。それだけではなくて、いろんな考えに触れて、自分なりの視点を持って、そして自分なりの正しさをもって、それを主張してみて欲しい。もちろん最初は失敗ばかりだろうが、それが許されているのが大学なのだろうから。

*1:ある分野についての経緯を踏まえ、問題点を整理し、改善方法を探る、というプロセスにおいて、多くの人が出来ないのは「経緯を踏まえる」ということのようである

デマがなくならないのはそれを望む人が居るからだ

(facebookに書いていた過去記事の転載)

 

血液型性格分類がいくら「科学的根拠がない」と言われてもそれを使う人がなくならないのは、それが面白いからではなかろうか。「血液型で性格が分かる」のが嘘で「血液型では性格は分からない」が真実だとすると、真実は全然面白くない。何しろなんの情報量もない。厳密には、血液型で性格が分かるのが当たり前だと思っている人からすると、分からないという真実は情報量があるとも言えるのだが。

 

すると「デマの方が真実より面白いからデマはなくならない」と言いたくなるが、それはちょっと言い過ぎて、おそらく「真実より面白いデマはなくならない」ぐらいのことなのだろう。つまらないデマは、ちゃんと消えていっているのだと思う。

 

こういうことを言うと「血液型性格分類みたいなデマを肯定するのは許せない」と言う人が居るかもしれないが(否定するのを許せないという人も居るかもしれない?そっちの方が多い?)、私がしているのは「デマの内容そのもの肯定する」ことではなくて「デマを信じてしまう人が居るということを肯定する」ということである。私が彼らにどういう印象を抱いているかに関わらず事実としてはそういう人達は居るのであり、否定できる事ではない。そしてそういう人達が特別馬鹿なのではなく、自分も時と場合によっては同じことをしているということを見つけていくのが、人間について考えていくための第一歩だと私は考えている。

 

例えば自分が治癒の困難な病気にかかっているとする。現代の医学の定説では、その病気はもう治らないと言われた。そんな中で「現代の医者は頭が固いので認めたがらないが、実際にはこの方法で治る」と提案されたら、その方法を試したいと思うのではないだろうか。これがデマだったとして、デマを受け入れてしまうのは、そのデマこそがその人を救うものだからだ。真実が自分を救ってくれない者にとっては、嘘にすがるしかないのだ。自分がその立場になって、藁にもすがる思いでデマに乗っからないと言い切れるだろうか?

 

またこんな例はどうだろう。何か輝かしい成果を上げて有名になった人はよく、みんなの前で「やれば出来る」「諦めなければ道は開ける」などと言う。しかし、その言葉は正しいだろうか?「正しいか・正しくないか」で考えれば、正しくないであろう。「やっても出来ない」ことは必ずある。では正しく言い直すとどうなるかというと、「やって出来る時と出来ない時がある」のような話になる。これは正しいが、こんな話をありがたがって聞く人は居ない。大多数の人は正しくない方の「やれば出来る」を心に残す。

 

このような人達(私達の事だ)は馬鹿なのかと言われれば、ある程度そうだとは思う。しかし、それが直した方が良い馬鹿なのかは、正直なところ分からない。例えば、世界中で色々悲惨なこと(貧困とか飢餓とか、日本では放射能の事とか…)が起きているのにも関わらず、テレビではどうでもいいニュースばかりやっている。それをけしからんと言うことも出来るが、では毎日毎日そういった暗いニュースを報道されて、果たして私は耐えられるのかと言うと全くもって自信がない。例えば私は、東日本大震災の時にテレビを見ていて、これからどうなってしまうのかと気が滅入ってしまっていた。報道機関が「明るいニュースを届けたい」と思うということは、ありのままの真実を映すことではないため望ましくない気がするが、私はその考えに乗っかってしまいたいと思ってしまう。

 

一応教訓として、「人は受け取りたい情報を優先して受け取り、都合の悪い事は無視する」ということは言える。それをしないようになるには、そうしないようにと思うのではなく、そうしている自分に自覚的になることが必要だ。そういう感覚を磨いていくのが、学問的な訓練というものだと思う。ただ、学問的な正しさと、人間の幸福は必ずしも一致しないということも言えるのではないかと思う。…「必ずしも一致しない」じゃ、情報量ないかなあ。