ジョン・ケージの「4分33秒」を聴いて

(以前書いたものに加筆修正しました)

2014年2月15日の筑波大学ピアノ愛好会卒業コンサートで、ジョン・ケージの「4分33秒」が演奏されました。それを聴いて、思ったことをまとめておこうと思います。


 

ご存知かと思いますが、この「4分33秒」という曲は、その時間(4分33秒の間)「何の音楽も奏でない」という曲です。言わば曲であって曲でないという、極めて変な曲です。その解釈についてはこれまで色々と物議を醸してきましたし、ネタ的に扱われることも多い曲です。「ピアノは弾いたことないけど、4分33秒なら自分でも弾ける」なんて言われたりして。

 

しかし、実際に聴いてみて、私は「なるほど」と思い、一つの解釈に達しました。もちろん、芸術作品というものは、受け取った人が感じたことが優先されるべきだとも思うので、定まった解釈を決めること自体が野暮だとも言えて、今から私が言うことも、単なる私の一意見として聞いてもらえればいいと思います。ただ、私的には思っていたより明確な意味を感じたので、みんなが言うほど難しいことじゃないんじゃない?という気持ちもあってこれを書いています。

 

演奏の様子を振り返ると、こんな感じになります。 

演奏が始まりました。何も弾かないのに演奏が始まるというのも妙な話ですが、演者は鍵盤のフタを開け閉めして楽章が始まったことを示しました。驚いたことに、その直後から、音が聴こえたのです。もちろんピアノの音ではありません。聴こえたのは会場の空調の音です。この空調の音は、演者が交代している曲の間の時間も、他の演者が弾いている時も変わらず鳴っていたはずなのに、その間は聴こえなかった音なのです。さらにその後には、会場にいる人が出す、服のこすれる音、息の音も聴こえてきました。これらももちろん、さっきまでもあったのに聴こえなかった音だったのです。それが、演奏が始まったら聴こえるようになったのでした。

 

どうでしょう、お分かりいただけたでしょうか。つまり、ごく簡単に言えば、この4分33秒という曲は会場の音を聴く曲ということになります。Wikipediaにも、会場の音を聞く曲だと書いてあるので、これは割と一般的な解釈でもあるのだと思います。しかし、それだけでは何が面白いのか良く分からない人も居ると思いますので、会場の音を聴くということはどういうことか、もう少し深めて考えてみましょう。

 

会場の音を聴くということは、会場の音というものが存在しているということを知ることであり、それはつまり会場というものが存在しているということを知ることです。会場にあるのは、ホールそのものや、そこに来ているお客さんです。それらの存在を「演奏」として提示されて初めて気付くことが出来たのです。さらに言えば、その存在は、お客さんが「演奏が始まったので真剣に聴く体勢なった」ことによって初めて気付くことが出来たものなのです。演奏が始まって、世界には何も変化が起きていないにも関わらずそれまで聴こえなかった音が聴こえるということは、聴衆側が変化したということです。それは聴く人にとっては自分の存在に自覚的になるということでもあります。普段聴いている音楽も、演奏側だけではなく、聴く側のコンディションによって違って聴こえているはずだという事が分かるのです。そして究極的には、自分が聴いているから音楽があるのだ、ということが分かります。

 


 

突然ですが、絵画の技法である遠近法と比較してこのことを考えてみましょう。遠近法自体は皆さんご存知だと思います。近くのものを大きく、遠くのものを小さく描くことで、平面上に人間が視覚で見えているものを再現して表現する技法です。一応、単に距離に対して大きさに違いを付けるようなものは「素朴遠近法」などと言うらしく、ここで述べたい厳密な遠近法は「透視図法」などと言うようですが、ここではその厳密な方のものを遠近法と呼ぶことにしておきましょう。

 

さて、その遠近法は西洋のルネサンスの頃に出来たのですが、それまでの西洋の絵がどういうものだったかというと、大事なもの(神様とか)が上に大きく描かれて、些末なもの、良くないとされるものなどは下に小さく描かれるなど、必ずしも人の視覚を再現することを目的としたものではありませんでした。それに対して遠近法で描かれた絵は、まさしく人の視覚を再現したものになります。

 

遠近法で描かれた絵というのは、誰かが見た世界です。描かれた絵から逆算すれば、見ていた人がどこに居たのかということを割り出すことが出来ます(ただしもちろん、架空の世界の絵であれば、架空の世界の位置が分かるだけですが)。絵に見えている世界は、誰か一人の視点でしかなく、他の位置から見れば違うものが見えるはずです。こうした絵は、強烈に「見る者」の存在を意識させます。それに対して遠近法を使わない中世の絵は、誰が見ている世界なのかははっきりしません。そこに「見る者」はいないわけです。

 

「誰の視点なのか分からない絵」では、「見られるもの」と「見るもの」は分かれていません。しかし遠近法では、世界は見る者が居るからそのように見えるということ、そして別の人が見れば別のように見えるということが強調されます。これが「見られるもの」と「見るもの」が分かれた状態です。そして、この遠近法の出現は、まさに当時の人々の意識を反映していて、西洋風の「確立した自己」が出現したことの象徴として語られたりします。

 

(ちなみに、これを突き詰めて考えていくと、世界は人が見るから存在するのであるから、世界というのは見た人の数だけあって、何か一つ正しい世界というのがあるのではない、という考えになっていきます。そのような世界で人同士はどのように共通認識を得ることができるのか?ということが哲学上の問題になって、例えば「人の認識機構は大体共通しているから共通認識が得られる」という見解を示したのがカント、などとざっくり認識しておくと哲学の勉強に入る手掛かりになると思います)

 

さて、遠近法の話が長くなりましたが、この話が4分33秒の話に繋がっているのが分かりますでしょうか?私達は演奏を聴く時に、その演奏が良い演奏であるか悪い演奏であるかということを、普通は演奏者の奏でる音を聴いて判断しています。そのとき、聴く自分のコンデションのせいでその音楽が悪いものに聴こえているということはあまり意識されません。音楽はただ音楽として存在している、と感じているわけです。しかし、4分33秒の演奏が始まって、会場の音の聴こえ方が変わるという事は、強烈に「聴く自分」を意識させます。そしてそれは、普段聴いている音楽も、聴く側のコンディションによって変化しているのだ、ということを理解することに繋がるのです。もちろん、会場の音を演奏に適した状態にすることの重要さにも気づかされます。

 

Wikipediaを見ると、こんなことも書いてありました。「ケージは、この作品を気にいっている点として、演奏はいつでもできるのに、それは演奏されたときにしか生き始めないことをあげている」。これは頭で「無音の音楽」だと分かっていても、「実際に聴こえるものはそれとは差がある」ということにも対応しています。こうしたことからも、ジョン・ケージはこう言いたかったのではないでしょうか。「音楽というのは、音楽だけで存在しているのではなく、それを奏でる空間、そして聴衆があって成立しているのだ」と。「演奏するという事は演奏者一人で完結したものではないのだ」、と言ってもいいでしょうか。

 


 

ただ、この「演奏には聴衆が必要だ」というのは、誰もが認める立場だとは私は思っていません。このことは、同時代を生きたピアニストであるグレン・グールドを対比に出すと、よりはっきり理解できるのではないかと思います。グレン・グールドは、ある時から演奏会という形態を否定して、録音したものだけを世に出すようになりました。良い音楽を作るにあたって聴衆の存在など不要だ!と考えたのです。演奏会において演奏者と聴衆は対等ではなく、聴衆は演奏者が間違えたらそれを咎めようとしている失礼な存在だとまで言いました。

 

この二つの立場の対立は、現在まで脈々と続いています。そしてこれは、音楽の録音という形態が現れたことで明確に意識されるようになったのでしょう。私が見るところでは、音楽における最大の革新と言えるものは歴史上二回あり、一回目は楽譜が発明されたことで、二回目が録音が発明されたことです。つまりこの話は、録音が出てきて音楽の在り方が見直しを迫られた時に、二人の人間(もっとたくさん居るでしょうが)が異なる見解を提示した、と解釈することが出来るでしょう。

 

では皆さんはどちら派でしょうか。例えば、以下のそれぞれの立場について、皆さんはどのような見解を持っているでしょうか。

 

  • a.演奏はミスするか分からないから素晴らしい
  • b.確実にミスしていないものを届けることが出来るならその方が良い

 

  • a.CDの音楽はライブ演奏を疑似的に切り取ったもので本物ではない
  • b.CDを聴くのはライブに劣る行為ではなく一つの独立した音楽体験

 

  • a.音楽は人間が奏でるもの
  • b.音楽は機械が奏でても音楽

 

  • a.聴衆の反応が見られるのが演奏の醍醐味だ
  • b.どこかで誰かが聴いてくれていることさえ分かればそれでも十分嬉しい

 

  • a.音楽は多くの人が評価するものに価値がある
  • b.自分一人が納得できる音楽が作れれば多くの人が評価してくれなくてもよい

 

  • a.ライブで周りの人と一緒に盛り上がる方が音楽を最大限楽しめる
  • b.一人の世界に入り込んで集中した方が音楽を最大限楽しめる

 

  • a.音楽は演奏者の動きや人物のバックグラウンドを含めて楽しむもの
  • b.音楽は音を聴くのが純粋な態度でその他の要素は邪魔なもの

 

 

いかがでしょうか。なかなか境界線を引きにくいところもありますが、それぞれaがライブ派(ケージ派)、bが録音派(グールド派)、と考えられるのではないでしょうか。こうしていろいろ並べてみると、絶対こっちだ!というものと、どっちか迷う、というものがありますよね。つまり、全面的にどちらかに寄っている人はあまりいなくて、その間ぐらいというか、場合による、というぐらいに思っている人が多数派なのではないでしょうか。とは言ったものの、私はかなりbの録音派だと自分では思っています。が、その話はまた別の機会に述べたいと思います。

 

少し別の観点としては、音楽鑑賞において、演奏者の動きなどは純粋な音楽の要素ではないと考えたとしても、その純粋な音楽はありふれたものになってしまったせいで、わざわざ音楽鑑賞をするならライブのような音楽以外の要素があるものを望むようになった、と考えることも出来ます。アーティストがCDで稼ぐのではなく、まずYouTubeでタダで見せて人気になったらライブで稼ぐ、という形態へシフトしているのはご承知の通りです。それは「音楽がお金と交換されなくなった」ことではあるかもしれないですが、「音楽を純粋に聴かなくなった」とまでは言えないだろう、つまり音楽の価値(お金以外でも測れるとすれば)が減じたということではないだろう、と私は思います。

 

以上で話は終わりですが、ここで改めて、4分33秒を演奏してくれた後輩には本当に感謝したいと思います。これはまさにCDでは意味が無くて、演奏会で聴かないと得られない体験だったのですから。

 


 

(参考文献)

「はじめての構造主義

遠近法のあたりの話は、この本を参考にしました。

 

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 

 

「レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち」

私はまだ読んでないですが、以前の記事を書いた時に、この本にまさに同じようなことが書いてあるよ、と薦めてもらいました。 

レコードは風景をだいなしにする  ジョン・ケージと録音物たち

レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち

 

 

「努力して問題を解決する」ことと「努力して実力を高めてその実力で問題を解決する」ことの違い

すごく微妙な話なんですが、「努力して問題を解決する」ということと、「努力して実力を高めてその実力で問題を解決する」ということの違いについて最近よく考えます。

 

武井壮(タレント・十種競技の選手)がこんなことを言っていました。「色んなスポーツ選手がいて、各専門では自分はトップの人には敵わないけど、各専門の人はそれに特化した体になっているので、他のことにはむしろ向いていない体になってしまっている。自分が目指しているのは、全てのスポーツがかなりのレベルで出来るようになることだ」と。そして、それを達成する方法として、「自分の身体を思い通りに動かせる、という基礎的なことを完璧にすること。そのために必要な筋肉と、身体のコントロールの精度を高めること」というようなことを言っていました。

 

これ、私もピアノ奏者として、すごく思い当たる節があります。私はかつて、難しい曲をなんとか弾けるようにと、自分の身の丈に合わない難曲を選んで挑戦して、長い時間をかけてなんとかモノにする、ということを繰り返していたのです(と言っても、一曲ごとに長い時間がかかるので、数曲だけですが)。しかし、これをしていても、あまり本当の実力(漠然としたのものですが)が付いてないような気がして、あまりそういうやり方をしなくなって、理論の勉強やコード弾きの練習、リズムの練習、そして何より色んな曲を弾くこと、などに切り替えて行ったのでした。

 

私は幼い頃はピアノを習っていましたけど、それもあまりちゃんと取り組んでいたわけではないし、小学生のうちで止めてしまったので、基本的なピアノ能力はあまり高くありませんでした。そういう状況で大学に入学するわけですが、大学のピアノサークルでは、コンサートでババーンとかっこいい曲を弾いて称賛を浴びたい、というモチベーションがありました。だから「弾けたらかっこいい」というレベルの曲を選んで、一発逆転を狙って、そればかり弾いてなんとか形にする、という道を選んだわけです。いやこれは、そういう態度は良くなかったという話ではなくて、その時に取る選択肢としてはなかなか賢かったのではないかと思います。実際、コンサートではそれなりの演奏をすることができて、称賛を得るという目標自体は達成できましたしね。

 

しかし、これはやはり長くピアノを続けていくための方法としては良くなかったのではないかと思います。たとえて言うなら、受験勉強を暗記やパターン認識で乗り切るようなものです。確かに、似たような問題をたくさん解いていくと、センター試験ぐらいまでのテストの点は取れるようになっていくけども、応用問題には対応できないし、学習の喜びからは離れていってしまう。学習の喜びから離れてしまうと、ハードルを乗り越えた後は全然勉強する気が無くなってしまいます。そういう学習法は、短期間で成果を出すには優れているけど、長期的には悪影響があるわけです。

 

しかしあんまり成果が出ないというのもモチベーションが上がらないので、場当たり的なピアノ練習でとりあえず成果を出して、対外的にはそれなりに実力を見せつけられるようにしておいてから、真の実力になるような訓練をしていくという戦略は、そんなに意識してやったわけではなかったのですが、今考えると理想的な流れだったのでは、とも思います。まあ、最初から実力が付くようにやっておいたらその方が良かったのかもしれませんが、それは後になって気付いたのだからしょうがないのです。

 

さて、ここで少し見方を変えますが、その「短期的に成果を上げるための方法」は、問題が難しくなってしまうと「ものすごく多くの努力を必要とする非効率な方法」になってしまって、普通は破綻します。しかし、それが原理的には破綻しているにも関わらず、「強い意志」などによってその「ものすごく多くの努力」を実際にやれてしまう場合があり、そういうときに大きな不幸が訪れるのではないか、という気がするのです。

 

私はここ数年ずっと、講演の録音から文字起こしをして更に文章まとめをするという仕事を続けているのですが、これにものすごく長い時間がかかっていました。実際のところ、やった仕事の評判はとても良くて、いつも褒められてはいたのですが、あまりにも時間がかかっていて、休日は全部潰れるし、他の事が出来なくてまずいなと思うようになっていました。しかし、せっかく褒められているのにクオリティを落とすのも忍びないなあ、と思ってなかなか舵が切れずにいたのです。

 

ここで、効率の悪いやり方でも、時間をかければうまく出来てしまって、そして褒められてしまうという場合、やり方を根本的に変えるという選択をしにくい、という問題が見て取れます。これは、褒められたりやりがいがあったりする場合に起きやすい問題だと思われて、小中学校の教員や、看護師、介護士など、激務だけどやりがいがある仕事で良く起きている問題のように思います。実際、私の講演録まとめは少しぐらいクオリティを落としても問題ない仕事ですが(と言ったら怒られるかもしれないけど)、人命に関わるような仕事では、そう簡単にクオリティを落とすという選択肢が取れないのは仕方ないことでしょう。

 

しかし、私のやっている講演録を作る仕事は、自分の能力さえ上がれば、もっと楽に、もっと良いものが出来てもおかしくない仕事だと思うわけです。一般的には「クオリティとスピードは反比例の関係にある」という法則があると言えると思いますが、それは同一能力の中での話であって、そもそも能力が上がればクオリティもスピードも向上するはずなわけです。そして、これまでの自分の取り組み方が、目の前の課題に対して場当たり的で、時間を湯水のように使い過ぎで、能力を高めることに真面目に向き合っていなかったのではないか、と思ったのです。

 

効率の悪いやり方をしていたら全く成果が出ない仕事なら、むしろ効率化への意識が働くのですが、時間をかければある程度の成果が出せてしまう場合に、苦しいままずっと同じことを続けてしまう、という事態が発生するのではないかと思います。苦しさを脱することを真剣に考えなくてはいけないのではないか、と思うようになったのです。

 

難しいのは、同じ仕事をしていても、その人が「毎回の仕事をこなしているだけ」なのか「仕事を通じて実力をつけている」のかはというのは、なかなか自覚しにくいし外からも見えにくいという事です。ピアノ演奏はまさにそうなのですが、難しい曲に挑戦する中で、自然と応用力のある実力を身に付けられる人も居ます。自分だって少しは身に付いたと思います。しかし、間違ったやり方で、とにかくある一曲に自分の身体をフィットさせただけ、という場合も往々にしてあります。自然に基礎力を身に付けられる人からすると、「実践から学べばいいじゃん」と思うのだと思うのですが、しかし受験のテストのように、同じ点数を取っていても全く中身は別物、ということが起きているのです。

 

ちなみに、ピアノでは練習曲の意義というのがよく取り沙汰されるのですが、私は上記のような話から、一定の意義があるのではないかと感じています。練習曲というのは課題が限定された曲です。課題が限定されていると何が良いかというと、間違った時に間違っていることが分かるという事です。色々な要素が複雑に絡み合っている課題では、上手く行かなかった時に何が原因なのかを判断することが自他共に難しくなります。単純な課題であれば、間違っていることが良く見えます。私はあまり詳しくありませんが、絵を描くことの最初の基本は、直線が引けること、らしいです。要するに、直線が引けるという事は自分の手を精密にコントロールできるということなのでしょう。それがちゃんとしていないと、他のもっと複雑な技術が上手く出来ない時に、何が原因なのかを特定できなくなってしまいます。そうすると、上達も遅くなってしまうことでしょう。

 

私は何年か前に、「楽譜に書いてある曲を体に覚え込ませるように弾いても、音楽が分かったような気がしない」と感じて、コード弾きなどもっと別の方向に舵を切りました。しかし、世間的には楽譜に書いてある曲を体に覚え込ませるようにして弾くというのは、「正しい」方法として理解されているような気がします。実際確かに、それが一番効率よく、人前で披露できる演目を用意する方法なのではないかと思います。しかしそれゆえ、その方法の問題点というのが指摘されないのではないか、ということも感じています。指導者さえ、そういう方法を標準として学んできてしまっていたりして…(そういうやり方がそれほど悪いと言いたいわけでもないのですが)。

 

人工知能が東大に入学できるか、ということに挑戦してた研究者がいて、その研究の中で、多くの生徒がそもそも問題の内容を理解しないままパターン認識だけで問題を解いていることが明らかになったらしいのですが、そういう風に、「間違った方法のまま異常なほどの努力して、ある程度の成果が出てしまっている」ことって、意外に多いのではないか、と感じるようになったのです。

 

機械学習の文脈で言うと、確かに今はそういうパターン認識の方法の延長で精度が出るようになったけど、それは人間より圧倒的に計算力を使うことができるコンピュータに適した戦略であって、人間がその方法で問題を解くのはやはり推奨できないのではないか、というようなことが言えると思います。

 

成果が出てしまうからこそ、努力をやめられない。頑張ることしか方法を知らない、という人って、結構多いのではないか、という気がするのです。そして、そういう人は、いつか限界が来て潰れてしまうのではないか、という心配もしています。

 

そしてとりあえず、実力が付いていることの一つの目安は、「同じクオリティのものが短い時間で出来るようになる」か「同じ時間の中で高いクオリティのものが出来るようになるか」ではないかと思います。こう書くと当たり前ですが、「より長い時間をかけてクオリティが高くなった」は、実力が向上したわけではない、と考えると、そういうことって結構多いと思うのではないかと思います。

 

どうでしょう。「努力して問題を解決する」ということと、「努力して実力を高めてその実力で問題を解決する」ということの違いについて、理解が深まったでしょうか。

幸せになることに真剣になろう

最近自分は、幸せになることに昔より真剣になったと思う。以前は、自分が何か勉強したりして能力を高めることはしていても、それを本気で自分を幸せにするために使っていなかったような気がする。

 

例を挙げよう。私はとても痩せているので、身体が弱いというイメージを持たれがちなのだが、実際には、ここ最近は、一年半以上一度も風邪をひいていないという実績がある。大抵の人は一年に数回は風邪をひいていると思うので、これはかなり強い方だと自分では思ってる(もちろん、もっと強い人はいくらでもいるとは思うのだが)。これを達成するために、どういう時に風邪をひくかということを自分なりに真面目に検証して、風邪をひかないように振る舞っている。これは、高めた能力を自分を幸せにするために使えていると言えると思う。

 

そして、もう一点が重要なのだが、ちゃんと風邪をひいていないという実績があれば、他人がいくら私に「身体が弱い」というイメージを押し付けようとして来ても、跳ね返すことができる。…と言うと、「いや、いくら言ってもそういうイメージを持つ人は持つのでは?」と思うかもしれない。それは実際そうだ。しかし、私は少なくとも内心でそれを否定することができる。私は、自分より健康じゃない人が偉そうに私にお説教して来ても「フッ、ザコが何か言ってるよ」と思っている。これがとても大事だと思う。

 

多くの人はここで「自分はちゃんとしてるのにちゃんと評価されない」と怒りを抱いてしまうように思うが、これが良くない。私は能力を高めたのだから、それを幸せになるために真剣に使う。それは体調管理の能力だけではなく、精神の能力である。怒るのは損だ。私は悪くないのだから。私はいちいちそんなことで不幸になってはならない。だから、不幸にならないように精神をコントロールする。見る目のない馬鹿の言うことはいちいちに気にしなくて良い。それが幸せになる道だから、そう真剣に思い込もうとする。そして、それを実際に成し遂げることができるようになってきた。

 

もう一つ例を挙げる。ちょっと前に、電車の待ち列で、横から割り込まれた。一瞬注意しようかと思ったが、結局しなかった。私は一瞬怒りを抱いたが、こう考えた。「リスクを取って注意して世の中を良くしようとするか、気にしないかどっちかにしよう」「何も行動しないくせに、怒りだけ感じて良いことをしたように思うのは、最悪の卑怯者」。そう考えて、精神をコントロールして、気にしないことにした。そして、そのコントロールは数秒で完了した。自分でもコントロールできることに驚いたが、とにかくできた。それによって怒りを感じるという損を回避して、電車の中で好きな本を読んだり、楽しく過ごすことが出来た。

 

これは「出来もしないことを望まない方が良い」というような話でもあるのだが、そう言うと人によっては、不満を感じる気持ちが社会を良くする原動力になる、と思うかもしれない。しかし、別に不幸な気持ちがないと出来ないことが出来るようにならないなんてことはない。出来ないことは用意周到に準備して出来るようになれば良いし、楽しくやってた方が上手く行くことの方が多い。逆に、普段から不満を感じていると、既にフェアでない扱いを受けているという意識の反動から、相手にフェアでない要求をするようになってしまいがちである。そうなるとまた自分の扱いが悪くなり、余計に不満を募らせるようになる。(そういう傾向を証明する実証実験とかしたわけではないが)

 

私は何年か前に、ピアノをコードから弾けるようになりたいなあと思ったので、どういう準備をしたらいいか考えて、順にこなしていくことで、実際にかなり出来るようになったし、今も順調に推移している。ずっと考えていたのは、どうしたら楽しく続けられるかな、ということだった。楽しくないと続かないので、練習自体を楽しくすることばかり考えていた。成果が目に見えて出ていれば、ちょっと苦労があってもそれ以上の見返りが予測できるようになるので、地道な努力もしやすくなる。…この真剣さを、本業の方でもっと発揮しないといかんなと思うのだが。

 

周りの人とも仲良くしようとしている。普段接する人と仲良くできたら、普段が楽しいので、幸せである。上機嫌にしていると周りの人もストレスが少ないので、周りの人にとっても良い。「上機嫌な人を見るとムカつく」というような人は幸せになる道が存在していない悪循環に陥っているので、考え直した方が良いし、そういう人に合わせる必要は全くない。

 

こういうのが、私の言う、幸せになるために真剣であるということである。正直なところ、まだまだ、わざわざ自分を不幸にしていることがたくさんあると思っている。例えば、私はもっとちゃんと仕事した方が結局幸せになると思っているので、そういうのは反省して今後は改善して行きたい。幸せを追求するという事は刹那的になるという事は意味しなくて、むしろ逆だと思う。

 


 

…というようなことをわざわざ書いたのは、どうも、賢くなったはずなのに、それを自分を幸せにすることに使えてない人がたくさんいるような気がしているからである。そしてそれはかなりの部分が「学問のせい」な気がしていて、私も人に教える側として自分にも責任があることだと思っているからなのだ。

 

サークルの後輩が、「大学で勉強したおかげで、点字ブロックに自転車が止まっていると、怒りを抱けるようになった」というようなことをツイートしていた。私はこういうのはとても危険だと思う。怒るだけではまだ自分が損をしているだけだからだ。「解決しなくちゃな」と思うのはまだいい。しかし別に怒る必要はない。怒ったって問題は解決しない。粛々と解決策を考えて実行すればいいだけだ。しかし学者が提示するような問題は、実際には、問題に気付くようになったのに、自分には解決できない、ということがほとんどだ。そして、怒るだけで(あるいは何が悪いか指摘しただけで)何か良いことをした気になってしまう人を量産してしまっているように思う。というか、学者自体がそういう存在になっていることがかなりある。

 

これは、かなり際どい話だが一応言っておくと、セクハラの問題にもそういう所がある。よく「昔は普通だと思っていたことが、『それはセクハラだ』ってみんなに言われて、許せなくなった」という話を聞く。これは、「それはセクハラだ」と言った人が、不幸ではなかった人を不幸にしていると私は思う。もちろん、「それはセクハラだ」と言った側にも言い分があることは分かるが、そういう人にこそ、自分が本当に幸せになるために真剣に行動しているか、ということを一度真剣に考えてみて欲しいと思う。

 

それはさておき、世の中の厳しい問題に取り組むには、その厳しさに見合った精神のコントロール力を身に付けて、自分が不幸にならないように気をつけないといけない。しかし実際には、精神のコントロールの方は全然教えないで、問題ばかり見せてしまう。これではみんなが暗い気持ちになるのは当然だろう。自分の手に負えない問題は気にしなくても良い、ということをもっと強調しなくてはならないと思う。自分の手に負えるようになるように自分を進歩させるのは良いことだが、手に負えない問題にただ立ち向かうのは辛いだけである。

 

勉強して、他人の愚かさを指摘できるようになっただけでは、愚かだと指摘された人の分、世の不幸の合計が増えているだけである。そういうのは別に賢くなっていない。賢いというのは、まず自分を幸せに出来ること、そして、余力で他の人を幸せに出来ることだ、と私は思っている。そして、自分の力を幸せになることに真剣に注げば、多くの人は(少なくとも私の周りにいる人位の能力がある人なら)それが達成できるぐらいの能力は持っているのではないかと思う。

単一スキルの成長は対数関数的だが、総合力の成長は指数関数的になる

単一スキルの成長曲線は対数関数的になるが、総合力は指数関数的になる、というようなイメージがある。

 

例えば走る速さみたいなものは、まさしく対数関数的になる。つまり、だんだん成長が緩やかになっていく。普段全く走っていない人は、少し練習するとすぐ速くなるが、ずっと極めている人は、ほんの少しの伸びを得るために膨大なトレーニングが必要になる。

 

ところが、例えば知識というのは、組み合わせで価値が出て来るので、勉強すればするほど、一つの事を勉強した事で分かることの量が増えて行くという実感がある。もちろん、組み合わせることが出来なければそうはならないのだが、組み合わせが出来るとすれば、それは指数関数的に成長することになる。

 

運動能力は対数関数的に成長して、知識能力は指数関数的に成長する、という面は確かに少しはあるけれども、そこは本質ではなくて、冒頭に言ったように、単一スキルであるか、総合スキルであるか、という違いなのだと思う。それは、スキルの組み合わせが出来るかどうか、という違いである。

 

100mを走る速さで考えてみると、世界最速の人に比べて、何もトレーニングしてない私でも半分ぐらいのスピードでは走ることが出来る。しかし、頭の良さとか、問題解決能力、みたいなものを考えると、世界最高の人に比べて、一万の一とか一憶分の一ぐらいしか賢くないのではないか、と思う(もはや差があり過ぎて良く分からない)。最近、サイバーダインの山海先生の講演とか聞いて、本当にそんな気持ちになった。

 


 

つまり、大きな能力を得るには、スキルを組み合わせることが大事だ、という話なのだが、逆に言うと、スキルの組み合わせが出来る「勝負事」では、差が付きすぎてゲームとして面白くならない、という話と捉えることもできる。

 

スポーツみたいなものは、世の中の「勝負」の代表かというとそうではなく、そういうゲームは、ゲームとして面白くなるように工夫がされている特殊なものである。端的に言うと、あまり差が付きすぎてしまうとゲームとして面白くならないので、僅差になるように設計されている。「なんでもあり」の勝負では差が付きすぎて面白くならないので、ルールによって出来ることを制限して差を縮めることで、面白い勝負ができるようになっているのである。

 

これもまた逆に言うと、世で我々が意識して「勝負事」だと思って見ているものは、そういう特殊なゲームであることが多いので、そういうものが勝負の標準の姿だと思ってしまいがちなのだが、例えば普通の仕事などの「広い世界での勝負」は、総合力で勝負するフィールドであるので、スキルを組み合わせてボロ勝ちするという道があり得るのである。

 

これは、格差がなぜ生まれるか、という問いとも繋がっている。人が暴力での問題解決に頼っていたころは、人一人の力の差はせいぜい2~3倍ぐらいしかなかった。3対1で勝てる人というのはなかなかいないだろう。そういう意味で、暴力はかなり平等である。これが知識になると、1,000人いたって1人の天才に適わないというのは普通に起きてしまう。どうも、暴力が禁じられると、格差が広がるらしい。

 


 

それはともかくとして、まとめると、色々なことに少しずつ触れておく、というのは総合力を高める上で有効だ、という話ではあるのだが、スキルを組み合わせで使うことが出来ないとそれはあまり意味がない。というわけで、どうすれば組み合わせる事が出来るのか、と自分なりに考えて、私はある時期から世界史を勉強することにした。普段、色々な本を読んだりして色々な知識が入ってきても、それらに関連を見出せないと価値が生まれてこない。そこで、とりあえず世界史という「時間と空間すべて」を含む空間を手に入れれば、とりあえずその空間内に知識を位置づけることができるのではないか、と考えた。これは、まあ机上の空論ぽい話ではあるが、それなりに効果があった、と私は思っている。ただ、あまり深入りしすぎても他の事が出来ないので、ほどほどでいいのかなとも思っている。

 

ただ、私は無邪気に、色んな知識が繋がればいいと思っていたのだが、それには副作用もあった。何を見たり聞いたりしても、別のことが色々頭に浮かんでしまって、結果として集中力が落ちてしまったのである。広い視野を手に入れることと目の前のことに集中するのは、トレードオフの関係にあったらしい。しかしこれも、だからしょうがないと考えるのではなく、力を手に入れたらそれを制御する能力も身に付ける必要があるみたいなことだと考えて、集中する方法というのも考えていきたいと思っている。

完成度と減点法

日々食べたいものが思いつかなくて困っている私ですが、今日も昼に何を食べようか迷ってウロウロした挙句、なんとなく目に留まったロッテリアに行きました。そういえば最近行ってなかったなあと。

 

それで「絶品チーズバーガー」というのを頼んで食べたのですが、チープながら旨い、と思いました。確かに、別に感動するほど旨くはない。でもこれはこれで完成している、と思いました。

 

ところで、私は、中身が盛りだくさんで、とてもかぶりつけなくなってしまっている、いかにもオシャレなハンバーガーというものがとても嫌いです。お前、ハンバーガーの形しているメリットを消失しているじゃないか、と思うわけです。絶対きれいに食べられないし。

 

それに比べて、今日のロッテリアハンバーガーは圧倒的に食べやすい。パンとほとんど変わらない肉の堅さ、全くはみ出さない具、垂れない水分と、手で掴んで食べる食べ物としては最高の調整がなされています。実際、片手でも余裕で綺麗に食べられます。私はおかげでkindleで漫画を読みながら食事をすることが出来ました。それはそれで優雅な体験でした。

 

ここに、評価の観点として、「個々の要素はチープながら完成している」というものと、「個々の要素は高級だが完成度が低い」というものの、どちらが良いか、というものがあると思うのです。

 

料理というのは、まさにそういう議論をするのに適切な例と言えるでしょう。甘いものが好きだからと言って、砂糖を入れれば入れる程旨いわけではない。バランスというものがある。必ずしも高級なものを使えば旨いというわけではなくて、それを引き出す調理法を必要とする。ハンバーガーの中の肉だけを本格的にしてしまったら、歯ごたえがあり過ぎてパンと同じようには噛み切れなくなってしまうかもしれない。

 

つまり料理というのは、「全体としての完成度」と「個々の要素の良し悪しの足し合わせ」が同じはならないという特性を持っていて、全体としての完成度が重視されるジャンルである、と言えると思います。少なくとも私はそう思っているので、オシャレハンバーガーよりロッテリアハンバーガーの方が出来が良いと思っています。

 

しかし、世間ではオシャレハンバーガーの方が「いいもの」として認識されているような気がします。これを私は、現代はここで言う「完成度」が軽視されているからなのでは、と思うのです。言い換えると、個々の要素が良ければそれを褒めるという習慣が染みついてしまっているせいで、要素を盛ることばかり考えてしまっているというか。

 

ビデオゲームなんかが良い例で、一時期は、グラフィックが良くなるばかりでちっともゲームは面白くなってないと揶揄されていました。ゲームの良し悪しと言うのはかなり「完成度」によるもので、ぱっと見では評価が難しい。しかしグラフィックが良くなるというのは誰の目にも分かるから、ついついそこに力を入れてしまう。そういうことがずっと起きていたと思います。教訓としては、完成度というのはなかなか目に見えないものという事も言えるかもしれません。

 


 

少し話は飛ぶのですが、学業での成績評価について、以前から不思議だったことがありました。それは「減点法」と「加点法」という考え方です。私は、その違いが良く分かっていませんでした。例えば、課題の採点をする時に、何かが出来なかったら減点という基準にしても、何かが出来たら加点という基準にしても、全員に同じように基準を適用したら、最終的には相対評価をするだけであって、同じことの言い換えをしているようにしか思えませんでした。ただ、「減点」という言葉のイメージの悪さを嫌って、「加点」と言い換えてるんじゃないかと感じていました。

 

しかしここに、「完成度」という概念を導入すると、加点法と減点法が何を意味しているかがスッキリ解けることに気が付きました。

 

例えば、木工工作でゴミ箱を作るとする。ゴミ箱であるからには、ゴミ箱としての機能は最低限持っていないといけない。口が開いていて、勝手に倒れたりしない、バラバラになったりしない、ゴミ袋が釘に引っ掛かって破れたりしない、などなど、当たり前ですが、そういう機能は最低限満たしている必要がある。そういうものは、「完成形」として想定されるものに対して、減点方で採点するのが望ましい。

 

しかし、例えば作者の独創で、そのゴミ箱に素晴らしい絵が描いてあるとか、彫刻がしてあるとかで、美術的価値が生まれているとする。そういうものは「完成形」とは何の関係も無いから、減点法では単なる「マイナスがない」でしかない。したがって、そういう物を良しとして評価するには、加点法で採点するのが望ましい。しかしそれでも、ゴミ箱としての機能を満たしていないのであれば、それはゴミ箱としては失格と言わざるを得ない。ゴミ箱であることをやめて、単なるオブジェとしての価値を主張することになるでしょう。

 

つまり、完成度という観点で物事を見る場合は、減点法で見る方が望ましいのです。しかし前述したように、我々は加点法を素晴らしいもののように言い過ぎてきたような気がするのです。

 

何かの作品を作るには、色々なスキルが必要です。プログラミングなんかをやってみれば分かりますが、一つの成果物を作るためには、何か一つのパーツがかけても完成しない。そして、完成しないものには何の価値も無いのです。これは、音楽の製作などでもそうでしょう。どんなに理論を知っていても、作品を作らない人は永遠に評価されることはない。

 

確かに、皆と同じスキルを持っていることばかりが持て囃されて、人と違うスキルを持っている人が低評価になる社会では、同じような人間ばかりになってしまって、多様性が失われて閉塞に向かってしまうかもしれない。しかし、だからと言って本当に単一のスキルでは何の作品も作れなません。結局何かの作品に結び付くから、そのスキルも意味があるのです。

 

加点法は、その、何かのスキルを「スキルがあるのは良いことだよね」と推奨する方法です。その加点法を良いもののように言ってきた結果、アンバランスなスキルばかり持って、ろくに作品を完成させることが出来ない人を量産してしまったのではないか、という気がします。

 

というか、まあ私がそういうアンバランスな人だという反省がとてもあるという話なのです。

 

ただ、人の持っているスキルがアンバランスであっても、チームとしてうまく組み合わされば、いい作品を作れることはあるでしょうね。また、例えば作曲コンテストに応募してきた新人の曲を聴いた審査員が「光るものがある」とか言うのは、要素を評価しているのですが、完成度はこれから高められるからいいという判断をしているということでしょう。そういう事もあると思います。

 


 

ということで、ここまでの話をまとめると、

・「作品」は完成度からの減点法で評価すべきである

・「可能性」は個々の要素の加点法で評価すべきである

みたいなことが言えそうです。

 

そういう整理をしたので、これからは私は積極的に減点法で作品を評価していくぜ!と心に決めたのでした。

 

ちなみに、これも地味に「合成の誤謬」の話だったと思います。適用範囲が広いなあ。

皆さんは私の力を授けて良い人間なのか

これは自分の持ってる授業で、毎回一個ずつエッセイを書いて配っていたものの、最終回で配ったものです。偉そうなことを書いて恥ずかしくもあるのですが、ずっと問題意識として持っていたことなので、皆さんにも見てもらいたいと思っているので、公開します。

 


外を一人で歩いている時に筋骨隆々の強そうな人とすれ違う状況を想像すると、危険を感じることがあると思う。しかし、もし筋骨隆々な人が知り合いで、一緒に歩いてくれているのであれば危険から守ってもらえるわけで、むしろ安心すると思う。自分にとっての味方が大きな力を持っていることは自分にとって望ましく、自分にとっての敵が大きな力を持っていることは望ましくない。自分は自分の味方なので、力を付けることは自分にとっては望ましいが、みんなが力を付けることは必ずしも自分にとっては望ましくない。

 

さて、今のは物理的な力の話だったが、知もまた力だ。いやむしろ現代では、知の方が筋肉よりはよほど大きな力であることが多い。しかも、現代では物理的な暴力はかなり制限されているが、知による暴力はあまり制限されていないし、そもそも不利益を押し付けられているということに気付くことにも知が必要だったりする。例えば、医者という専門家が言うことを、多くの非専門家である患者が検証するということは事実上不可能に近い。そんなわけで、知の力もまた、味方が持つ分には望ましいが、敵が持つのは望ましくないということになる。

 

さてここでもう一歩踏み込んで考えて欲しい。あなたが力を持つことは周りの人にとって良いことなのだろうか?あなたが周りの人の味方であればあなたが力をつけることは周囲の人にとって望ましいことになるし、あなたが周りの人の敵であれば、あなたは力をつければつけるほど周囲の人から疎まれることになる。このことを少し言い方を変えて言ってみよう。あなたが周囲の人を見下すために賢くなっているならばそれは嫌われて当然で、あなたが賢くなって周囲の人を助けられるからこそ、賢いことが好かれることに繋がるのではないか?ぶっちゃけて言えばこれは私の過去の思い出そのものであって、私は周囲の人を見下していたことで嫌われていて、自分の力を人のために使うようになってからは劇的に人間関係が改善して行ったのだった。

 

私は皆さんに授業を通して知という力を授けている。しかし皆さんが、与えられた力を、自分のためばかりに使うのではなく世の中をより良くするために使ってくれるのかということを、私は確認していない。逆に学生側の視点としては、この先生は話を聞くに値する人間であるか?ということは…ある程度判断しているような気がするが、それにしても、授業で会うだけでは判断が難しいというのが実情なのではないかと思う。お互い「入試を通ってきてるんだから大丈夫か」「大学が先生に据えてるんだから大丈夫か」と、大学という組織に頼って、お互いを信用している。一応言っておくと、試験での不正行為等は、その信頼への背信行為だからこそ厳しく罰せられる。能力がないことより、力をつけてそれを使って目指すところが間違っているということの方がより重大な問題だということである。

 

昔の人は丁稚奉公という形で、職人の家に寝泊まりをして技術を学んだのだが、最初は雑用ばかりで技術を教えてもらえないことが多くあったようだ。似たような例として、テニス部に入部した人が最初は球拾いばかりさせられる、というようなものをイメージするといいかもしれない。それは、技術を学ぶ前に、技術を学んだ人がどのような生き方をしているかを一緒に暮らすことで学ぶという意義があったのだろうし、教える方も、技術を正しい目的で使ってくれるかを判断してから教えていたのだと考えることもできる。

 

しかしもちろん教わりたい人から見ればそんなのは非効率だと思うわけで、どんどん「早く教えてよ」という要望に応えるようになっていった。しかし例えば柔道で投げ技をやる前に受け身を徹底的にやるみたいなことはある程度は必要なことだったのではないか?これは、力を得る前に、力に振り回されて大惨事にならないように防衛策を学んでおくということに相当するだろう。教えて欲しい側が早く力が欲しいと言ったとしても、それに応えないという態度も時には必要なのではないだろうか?

 

今、知というものは多くがオープンになっている。インターネットでも図書館でも、知識は勝手に一人で学ぶことが出来るわけで、知の力を手に入れるのに誰かから人格のチェックを受けるという世界ではない。これはもちろん学ぶということについての格差が解消されているという意味では良いことだ。だがしかし、目的が正しくない人にも力を与えてしまうという意味では危険なことでもある。

 

ではなぜ知というものは無頓着にオープンになって行ったのだろうか。色々理由は考えられるが、ここでは、近代という時代が、民主主義や資本主義を採用していたからということを挙げておく。こうした仕組みが作る社会というのは、実はあまり倫理について個々人が考える必要がない社会だったのだ。この時代における主要な関心事は経済活動だったわけだが、資本主義の経済というのは「個々人が自分の利益を最大化するように振る舞えば、『神の見えざる手』が働いて、結果として全体としても良くなる」ということを前提としていた。これはつまり、合成の誤謬が起きない前提で考えていて、その前提だとすると、個々人はただ自分の力を伸ばすことを考えていればよかったのだ。民主主義も同様で、各個人が自分で良いと思うことは何かと考えて、平等に投票すれば、全体として良い結果になるという考えに基づいていた。これも合成の誤謬が起きないことが前提にある。

 

しかしこれは段々とその限界が明らかになって行った。ほとんどの人は経済活動において、消費者であると同時に生産者でもある。つまり商品にお金を払う側であると同時に、商品を売ってお金を受け取る側でもある。したがって、みんなが出来るだけ安いものを買うことを目指すと、確かに効率の良い企業が残って効率の悪い企業は淘汰されていくのかもしれないが、それで淘汰されるのは生産者としての自分である。効率の悪い、つまり気楽な仕事は存在しなくなり、厳しい労働だけが生き残っていく。そうした状況をブラック労働と言ったりもするが、ブラック労働が蔓延するのは、消費者としての利益を優先しすぎた結果である。個人には自分の行為が自分を幸せにするか見通せなかった、と言ってもいい。

 

「段々と分かってきた」と言ったが、実際には、昔から日本には「金は天下の回り物」なんて言葉もあるように、そうした仕組みについての理解はある程度進んでいたはずだ。したがって、ある一時期だけそれが忘れられていたのだ。そしてそれは、例外的に、皆が伸びたら全体も伸びるという合成の誤謬が起きない時代が存在したということで、それが明治維新から高度経済成長期の間だったのだろう。そしてそれはかなりの程度、外国に先んじることで貿易で得をすることが出来たということに依存していて、外国が追い付いてくるに従ってその効果を失っていったと考えられる。「資本主義は資本主義でない他者を必要とする」という言葉があるのだが、資本主義は経済を超加速させるシステムで、それによって他者に先んじるから利益が得られるので、皆が資本主義になって一緒に全力で走るようになると、苦しいばかりでそのメリットが失われてしまう、しかしだからと言って自分だけ走るのをやめる訳にもいかない…というような大枠のイメージを描くことが出来るだろう。

 

さて、今は結局、地球の環境がボトルネックになって成長が頭打ちになったことで合成の誤謬が起きるようになり、各個人が自分の利益を追求していればいいという時代は終わろうとしているのではないかと思う。それによって、我々が学び力を付けるということが、果たして社会全体を良くすることに繋がっているのか?ということを考える必要が出て来ていると私は思う。私はそんなことばかり考えていて自分のことが疎かになってしまった感があるので、皆さんもまず自分が生きていけるのかを考えてもらえばいいのだが、余力があったら、自分のしていることが世の中全体にとっていいことなのかも考えるようにして欲しい。

 

皆さんは、私が授けた力を、世の中を良くするために使ってくれますか?

差別されたくないことと、差別をなくしたいことは対立する

「差別されたくないことと、差別をなくしたいことは対立する」ということについて。

 

「差別をやめよう」という言葉には、どうやら二つの意味がある。一つは「差別すること自体をやめよう」という意味で、もう一つは「差別はあってもいいが、(自分やその他の具体的な誰かを)その対象にするのはやめよう」という意味だ。

 

この二つの関係は、対症療法と根治療法の関係に似ていると思う。

 

ある症状に対して対症療法と根治療法があるとして、その二つはしばしば相反する手法となる。なぜなら、症状というのはなんらかの原因に対する身体のSOSであることが多いので、症状を抑えるということはそのSOSを無視して、原因を放置することに繋がりがちだからだ。その場合、放っておかれた原因は悪化して、いつかは対症療法ではしのぎ切れなくなるかもしれない。そんなわけで、「対症療法が根治を遠ざける」というのは割と普遍的な法則だと思われる。

 

しかしこのことは、しばしば困った事態を引き起こす。対症療法と根治療法は一見すると正反対の方法に見えるので、対症療法を薦めている人と根治療法を薦めている人がいるとして、その人達が自分の薦めている治療法が対症療法であるか根治療法であるかを意識していないと、相手は全く間違った治療法を提案しているように見えてしまう。そうなったら、相手の手法を阻止しようとするだろう。そうして、対症療法を薦める人と根治療法を薦める人とで、議論が食い違うようになってしまう。

 

それと同じことが、差別についても起きているのだと思う。

 


 

人と話していると、「自分の好きなものが相手に否定されて嫌だった」という話題によく遭遇する。twitterでも、「自分の好きなものの話をしたら知らないって言われたので、絶対自分の方が正しいと思うので、知ってる人RTお願いします」というようなツイートがよくRTで流れてくる。RTでよく流れてくることからも分かるように、こうした言い方は一種のウケるテンプレみたいになっている。ここには「正常(マジョリティ)なのは相手の方で異常(マイノリティ)なのは自分の方だ」と言われて辛かったので「正常なのは自分の方で異常なのは相手の方だ」と認めて欲しい、という心の動きがある。

 

しかし、自分が異常者扱いされるのを回避するために相手を異常者扱いしてしまったら、それは結局差別を解消するという点では進歩がない。自分やその仲間は否定されるのを逃れられるかもしれないが、新たな被差別者を生んでしまっているという意味では収支はトントンだろう。

 

これは多くの人にとっては聞きたくもない嫌な話かもしれないが、自分の正しさを多くの他者が支持してくれないと安心できない人というのは、自分がマジョリティ側に入れないと不安な人で、それは意識としてはマイノリティは排斥されて当然だと思っているという、潜在的にマイノリティを排斥する側の人間なのだと思う。そうではなくて、差別を根本的になくすには、そもそも何が好きでも嫌いでも正常だとか異常だとか思わないようにならないといけない。

 

ただし、上記の例でも分かるように、差別するということは、周りの人と団結することを促す手段であるし、それによって自己肯定感も得られていい気分にもなれるという結果も生む。そういう手段を手放すのは容易なことではない。それを安易だと批判したところで、損をするぐらいならその方法を取らない、という選択をするのは自然だと思われる。

 

例えば私達は、どんな時でも客観的な評価をしてくれる友人が欲しいだろうか。無条件に自分を肯定してくれる友人の方が欲しくないだろうか。どんな時でも客観的な評価をしてくれる友人は、そもそも友人なのだろうか。敵でも味方でもない人間は、つまり他人ではないだろうか。差別しない人間になるということは、そういう人間になるということだ。

 

逆に言えば、人と仲良くするということは差別そのものである。教育界隈では、学校の(学級の)「みんな仲良くしましょう」という圧力こそがいじめを生んでいるのだとよく指摘される。いじめを減らすには、他者に対して無関心になる必要があるのだ。それを分からずに、仲が悪いのだから仲を良くするようにしようと考えてしまうと、状況は悪化してしまう。

 

差別のない世界というのは、そのような寂しい世界だ。しかし、そういう世界で楽しく生きる方法もなくはない。例えば、自分で自分を肯定し続けることができれば、他者が何を言ってきても楽しく過ごすことが出来る。あるいは、ただひたすら他者にとって有益な存在であり続ければ、他者はその人をひいきしなくても好きになれるので、人に好かれることもできる。しかし、そのような生き方は大変であるし、全員が出来るわけではない。言い換えると、差別を無くすには、全員が全員にとって有益な存在になる必要がある。西洋の近代的な「個人」というのは、そういう世界を望んだ人達が考えた概念だったのかもしれない。…そして私は、この考えには無理があったのだと考えている。

 


 

話が大きくなってしまった。冒頭の話に戻ってまとめてみよう。

 

差別されて、「自分は差別されるべき存在ではない」と主張するのは、対症療法であり、差別そのものを無くすどころか実際は助長している。差別を根治するには、他者による無条件な肯定の無い世界で楽しく生きるだけの能力が要求される。そもそも自己肯定感が低いから周囲の承認を必要としているのであるから、対症療法が必要な人にそのような生き方を薦めても、多くの人は耐えられないだろう。

 

あまりスッキリした整理にはならなかった気がするが、対症療法と根治療法が対立しており、全く正反対のアドバイスが投げかけられがちである、という構図が生まれていることは言えるのではないかと思う。

 

話がややこしくなったのは、差別には「不治の病」という条件が入っていたからだろう。癌の治療薬が正常な細胞にもダメージを与えるように、差別をなくそうとすることは、私達から活力を奪ってしまう。そのような問題に対しては「今は対症療法をするしかないけど、できれば根治療法に移りたいね」という話すら成り立たない。騙し騙し、病と共存する覚悟で付き合っていくしかないということなのだろう。

 


 

さて、なんでこんな話を熱心にしているのかというと、この「対症療法と根治療法は正反対になりがち」という法則が、いろんな問題を解き明かすカギになると思ったからだ。

 

私の見るところでは、世の中的に「専門家同士の言うことなのに正反対のことを言っていてどっちが正しいか分からない」という事態が頻発していて、みんな判断に困っている。そういう場合に、「こっちは対症療法に必要な話をしていて、こっちは根治療法に必要な話をしているのでは?」という物差しを当ててみると、スッキリ理解できるケースが多くあるように思うのだ。

 

例えば、「うつになる人は真面目な人」と言われることがある。これは、うつになった人を慰めて落ち着かせる効果があるが、一方で、真面目であるということを良いことだと思い込んでいると、うつになることは正しかったのだと思わせて、うつから抜け出す気持ちすら削いでしまう可能性がある。こういう言葉は、対症療法的に用いられるべきで、用法用量を守って使わなくてはならない、というような議論が出来るようになる。もちろん逆のことも言えて、今その時を乗り切る余裕がない人に、根治の方法ばかり薦めるというのも残酷だ、という議論が出来るだろう。

 

こういう「意見が対立しがちなパターン」というのはいくつかあると思うが、その一つとして、使いこなせるようになる価値があると思ったのだ。

 

最後に余談として、対症療法と根治療法が一致するケースについて。

 

当たり前だが、対症療法と根治療法はいつも相反するわけではない。例えば、人間にとって「痛み」というのは対症療法がそのまま根治療法になることがある。痛みというのは基本的には危険を知らせるシグナルであり、安易に消してしまうのは危険だと思うだろう。しかし一部の慢性痛は「痛み自体がトリガーになって痛みを引き起こす」という人体のバグみたいな仕組みによって起こるらしく、そういうケースでは対症療法的に痛みを和らげることで、慢性痛も和らぐらしい。これをもう少し一般化すると、依存症のようなスパイラル構造(正のフィードバック構造)が出来てしまっている場合では、対症療法が根治療法と一致する、というようなことが言えるだろう。

 

 


(2018/04/18 追記)

「対症療法と根治療法が対立する場合って具体的にはどういうものなのか良く分からない」とのコメントをfacebookの方でいただいたので、例を考えてみました。

・教育

手取足取り教えると短期的には強いけど、荒波に放り込まれたような人の方が長期的には深みが出て来る

 

・(教育の具体的な例として)高校の体育会な感じの吹奏楽

コンクールで勝つために短期的に成果が出る方法ばかりに特化してしまって、音楽を生涯楽しむ人を育てにくくなってしまう(偏見だったらすいません(笑))

 

・(逆に教育の抽象的な例として)効率化と視野

何かを効率化して早く出来るようになるということは視野を狭めることで、現状を疑うことを難しくする(イノベーションが阻害される)。逆に視野を広げすぎると目の前のことに手が付かなくなる

 

・関税とか補助金とか

特定の産業を守る目的で有利な環境を作り出してしまうと、甘えてしまって(あるいは優遇される対象として相応しい状態を維持しようとするために)長期的には時代遅れになってしまう

 

・自己の確立

自己への承認を満たすために、他者からの承認がなくて当然だと気付くことで、自分で自分を承認できるようになるのだが、他者からの承認を得続けることが出来てしまうとそれが難しくなる

 

・「対症療法と根治療法」なので、まさにそれにあたる身体の反応色々

  • 風邪の時に解熱するとウイルスが倒せないので治りが遅くなる
  • シャンプーは皮膚の油を落とすが油を落とし過ぎると身体が足らないと判断して多く分泌するようになる
  • 高血圧の人の降圧剤とか、糖尿病の人のインスリン注射とかは対症療法でしかないのに、持続的に用いる前提になっててヤバイ…と私が読むような本には書いてあるんですが、ほんとのとこどうなんでしょう
  • 寝る前に時計の音が気になってしまうように、刺激が少なすぎると感度が上がってしまって体感の音量が大きくなってしまう。逆に少しの音、カフェの環境音などがあると落ち着く。刺激の適切な量という意味で、これの同様の例がいろいろあるかも?

 思いつく限り挙げてみたんですが、こんなんでどうでしょう?