繋がり過ぎる世界の倫理

インターネットによって我々はすごく簡単に人と繋がることが出来るようになったわけですが、繋がり過ぎて疲れてしまったという人の話もよく聞きます。facebook疲れなんて言葉もありますし、LINEの既読スルーを咎めるなんて話もありますね。

 

これまでの人類は人と繋がるのが難しい世界の中で生きて来たので、努力の方向性は基本的に人と繋がることに限定されていたわけですが、やはり適正量の繋がり具合というのはあるようで、自然にしていると繋がり過ぎてしまうのであれば、これからは人と距離を取ることを学ばなければならないのでしょう。

 

…ということは以前から考えていたのですが、これはもうちょっと応用範囲の広い話かなという気がしてきました。

 

例えば不倫をした人に対する怒りを表明する人達を見ると、私の感覚では「当事者が怒るのは分かるけど部外者の我々はほっといたらいいんじゃないの?怒る権利とかあるか?」という感じで、なんでそんなに怒るのかなーと思っていたのですが、よくよく考えてみると「酷い目にあった他者を見て、自分の事のように怒る」ってとても道徳的ですよね。そういう人が居るのは何も不思議じゃないし、むしろかつて規範とされるのはそのような考えだったと言えるでしょう。

 

つまり、現代の、インターネットがあって、さらにSNSがあって、皆が自由に全世界に向けて発言できる環境ではそういう「道徳的」な態度は不適応になってしまうけど(「炎上」と呼ばれたりして)、それは今が「繋がり過ぎの世界」だからなのであって、そうでない世界ではきっとそうあるべきだったんだと思います。

 

普遍的な倫理というものは存在しなくて、あくまで環境に対して倫理が決まるので、環境が変わると倫理も変わります。しかし、倫理を大事にしてきた人ほど、倫理が変更されることに耐えられない、なぜならその古い倫理がその人を作っているから…というような原理があるのかな、と思います。

 

とりあえず、ネット時代に適応した自分のような考え方は(本当に適応できてるのか知らんけど)、少し前の世代からすると全く当たり前でも道徳的でもないということ、だからそんなに簡単に理解できるはずだと思わないこと、を意識しておいた方が良いのかな、と思いました。

日常を音楽の本番にしたい(ピアノ弾き向け)

音楽における「本番」がコンサートに偏り過ぎてはいないか

私は長くピアノを弾き続けていますが、ここ5年ぐらいはコンサートには出ていません。ピアノを弾く人には、コンサート(あるいはコンクール)に出演するという目標を立てて、それに向けて練習するという取り組み方をしている人が多いのですが、私はそうではないということになります。

 

それはなぜかと考えると、私自身が、他人の演奏をコンサートで聴くということにあまり価値を感じていないからだと思います。このご時世、CDなりYouTubeなりで物凄く上手い演奏をいくらでも聴くことが出来るわけで、それより劣る演奏をわざわざ聴きに行くということにあまり意味を感じないのです。したがって同様に、私がコンサートに出たとしても特に社会的な価値はない、と考えています。

 

 もっと言ってしまえば、演奏者が「自分がハレの舞台で活躍している」という実感を得るために、お客さんに「来てもらっている」という感覚になっていることが結構多いんじゃないかと思うのです。しかし今はどの創作分野でも「クリエイター余り・消費者不足」の状態です。そういう状況で本当に必要なのは発表する方ではなくて、発表を見て聴いてそれを称賛する人の方です。そう思うので、私は自分が積極的に称賛される方に回りたいとは思えないのです。

 

しかし、たとえ社会的な価値がなくたって、自分がピアノを弾いて楽しかったらそれは何物にも勝る価値ではないか、とも思っています。実際私は家で一人で楽しくピアノを弾いています。

 

ただ、一人でも楽しいというだけで、別に一人の方がいいと言ってるわけではありません。横で親しい人が聴いてくれたらいいなとは思いますし、音楽に詳しい人とあーだこーだいいながら弾けたら楽しいなと思います。あまりやったことないですが、セッションのようなことが出来たらそれもいいでしょうね。

 

ここで思うのは、音楽ってもともとプレイヤー同士で楽しむのが基本であって、コンサートのように演奏者と観客が完全に分かれているものって、むしろ特殊な形態なのではないか、ということです。それが現代の、特にピアノ界隈では、あまりにも「コンサートという本番」のために「その他すべてが『練習』になっている」印象を受けるのです。

 

そうではなくて、一人で弾いて自分が楽しむ、あるいは仲間と弾いて音楽を作り上げることを楽しむ、という日常の音楽こそが「本番」である、という意識転換は出来ないものでしょうか。

 

グランドピアノは日常の音楽には適さない

音楽の本番がコンサートに偏り過ぎていると思うことの一つの例が、家にグランドピアノを置きたいという人がたくさんいることです。私は家にグランドピアノを置くというのはかなり狂気に近いことだと感じています。もし私がグランドピアノを軽く買えるお金を持っていても、今だったら電子ピアノを買うと思います。

 

グランドピアノを家に置くのの何がおかしいかというと、グランドピアノは大きなホールに行き渡るだけの音量が出せる楽器なので、そんなものを家で鳴らしたら音が大きすぎるということです。

 

うるさいから近所迷惑だという話でもありますが、弾いている自分が聴くという目的でもそんな音量は欲しくないです。自分の家の中で電子ピアノで弾くときにも、音量は最大まで上げません。そんなに大きな音はそもそも聴きたくないからです。

 

実際、ピアノの弾き過ぎで耳を傷める人というのもいますし、耳栓をして弾いていてるピアニストもいます(具体的にはスティーブン・オズボーン)。ホールでお客さんが聴くには必要な音量であっても、演奏者にとって望ましい音量とは言えないわけです。

 

 

それでもなお多くの人が自宅にグランドピアノを置こうとするのは、コンサート本番に使うのがグランドピアノなので、その感覚に近いもので練習したいと思うからでしょう。まさにこの制約こそが、音楽文化に非常に大きな影響を与えていると感じています。

 

この話は、例えばピアニストの内田光子さんも以下のインタビュー動画で指摘しています。

 

www.youtube.com

(5:14~) 


インタビュアー「ドビュッシーは別種のピアノを使っていたの?」


内田「ええ ずっと軽い楽器をね!
特に現代のコンサート用のピアノは大きな問題を抱えています
私たちが弾くのは こんなにも長く大きな楽器で
必要に迫られて重いアクションになっています
ホールは より大きくなり 大きい音が要求され そのために
昔よりも ずっと重い楽器でなくてはならない
鍵盤ひとつをみても
ドビュッシー時代とはさほど変化していませんが
ショパンの時代と比べると大きな違いがある
ショパンの楽器…例えばエラール プレイエルなどは
実に鍵盤が浅くて とても軽く
私自身 試してみましたが
エチュードを弾くと実に美しい音がでるんです
でも この楽器などは多分ほぼ2倍位重いのではないかしら
ドビュッシー自身が弾いていたものよりね」

 

Debussy 12 Etudes : interview Mitsuko Uchida part1 (Germany) 日本語字幕付

 ここでは、音量と関連して、鍵盤の重さについての話も出て来ています。ピアノは電気など他の動力による音量の増幅はしていない楽器なわけですから、大きな音が出るということはそれだけ大きなエネルギーを人間が使っているということです。

 

コンサートホールに響き渡る音量を出すグランドピアノを弾くためにはそれだけ大きなエネルギーを使って(具体的には重い鍵盤のピアノを)弾く必要があります。そして、コンサートホールで弾くことが本番である限りはそれと同等のピアノに慣れておかなくてはならないわけです。家で弾くならもっと小さい音量のピアノでいいはずなのですが、本番と違うピアノに慣れておくわけにはいかないという事情がそれを許さないのです。

 

ショパンなどはコンサートホールよりはサロンのような(比較的)狭い場所で弾くのを好んだと言いますし、上のインタビューにもあるようにそうした場所にふさわしいもっと軽い鍵盤のピアノを弾いていたようです。今あるピアノリサイタルの姿を築き上げたのはリストで、その後はどんどんピアノはホール向きに進化していくわけですが、もっと家庭向けに進化したバージョンがあっても良かったのではないかと思うのです。

 

というかまあアップライトピアノや電子ピアノは家庭向けに進化したピアノですね。しかしアップライトピアノも電子ピアノも、グランドピアノを目標にしてそれに近づくことを目指しているからこそ、グランドピアノの下位互換として認識されているというのが現状だと思います。しかしこれらも、コンサートで弾くことが本番ではないと思えば、そうした認識も変わっていくと思いますし、またグランドピアノを目指すことをやめれば、より普段使いに適したものが生まれてくるのではないかと思います。…ただ、もしかしたら、そうして進化したものは既にピアノとは呼ばれない、別の存在になっているのかもしれません。

 

日常を本番にするには

では具体的にはどうすれば、コンサートではなく日常を音楽の本番にすることが出来るのでしょうか。

 

ここで私たちがどういう時に「練習している」と感じているのかと考えてみると、曲をまだきちんと弾けない状態であると感じている時だと思います。つまり、取り組んでいる曲に対して自分の実力がまだ及んでいない状態の時に「練習している」と感じるのだと思います。そして(やや飛躍があるかもしれませんが)練習であると感じているということは、「本番ではない」と感じているということなのだと思います。

 

つまり現状は多くの場合、「本番に対して練習の割合が大きい」という状態になっていて、これをどうにかして本番の割合を大きくしたいわけです。

 

単純に「実力に対して弾こうとしている曲が難しい」ということが問題なのであれば、身の丈に合った簡単な曲を弾けばいいということになるでしょう。ただ、難しいほど良い曲というわけではないにしろ、良い曲は結構難しいことが多いので、現在の自分では弾けない難しい曲をなんとかして弾く、ということに長い時間を費やしている人は多いと思います。というか私がまさにそうでした。そして、それも別に悪いことではないと思っています。憧れの曲に必死で食らいついていくのは基本的に楽しいことですからね。そういう気持ちだけでは続けられなくなってからどうするかという話なのかもしれません。

 

しかし根本的な問題は少し違うところにあると思っていて、それは結局ピアノを弾く人は、楽器と自分の表現したいことが繋がっていなくて、自動機械のようにピアノを弾いているために、応用が全然効かず、好きなように弾くことが出来ない、というようなことだと思っています。

 

例えば伴奏として打楽器を演奏することを考えると、まず簡単に演奏できる基本のリズムパターンがあって、上級者はそれをさらにカッコよく複雑にして演奏しているということが想像できます。ということは、最低限曲として成立するという弾き方と、もっと本格的な弾き方が連続的に繋がっていて、その間を自由に決められるということだと思うのです。

 

これが出来るためには、ただ一つの動きを身体に覚え込ませるのではダメで、音符のうちのどれがどのような役割を担っているかを知る必要があります。それは言い換えると音楽理論の知識ということになると思いますし、実際に音楽理論を学ぶことでそういうことが分かるようにもなるとは思いますが、必ずしも座学として勉強しなくてはいけないとは思っていません。

 

例えばフォルクローレサークルの知り合いの話を聞くと、大学から演奏を始めたにもかかわらず、4年で卒業する時には、みんなでセッションをやろうとなったらその場ですぐ入れる曲は100曲ぐらいあると言っていました。要はそういう風に音楽に接してきたかどうかだと思うのです。

 

なお私自身は座学が性に合ってる面もあって、座学が効率的に感じるからという理由で結構理論の勉強をしていたりしますが、それもまあ本人次第だと思います。

 

私にはこのような問題意識がずっと前からあったので、ここ何年か、リードシートという、コードとメロディーだけが書かれたJ-POPなどの楽譜から、自分で伴奏を作りながら弾くという練習をしてきて、それが最近は結構出来るようになって、ようやくなんとなく楽器と親しくなれたような気がしています。

 

例えば部屋で弾いていて、楽譜をパラパラめくりながら「この曲なんだっけ、弾いてみよう。(その場で弾く)…あーいい曲だなあ」というようなことが出来たりするし、弟が部屋に来た時に「この特撮の曲がさー」とか言いながら弾いたりということが出来るようになったのです。こういうことが昔からやりたかったんです!

 

もちろん楽譜に書かれた曲を弾くのであれば、初見能力が非常に高ければ、素晴らしい曲に触れる機会が増えて、どんどん楽しい思いが出来るでしょう。こちらも私は長年ないがしろにしてきたので、最近反省して少しずつですが改善できないかと取り組んでいる所です。

 

別に皆が私のようになるべきだとは思っていないのですが、もしかしたら多くのピアノ弾きはコンサートという形態から離れた方が音楽を楽しむことが出来るかもしれない、ということを一度考えてみてはいかがでしょうかというお話でした。

 

(以上で本題は終わりで以下は付録)  

付録

細幅鍵盤ピアノとコンクール

普通の楽器というのは自分で持ち歩けるので、本番でも普段自分が使っている楽器を使うことが出来ますが、ピアノは持ち運ぶのが大変難しい楽器なので、会場に据え付けられているものを使うことが一般的です。これは、自分用にカスタマイズされたピアノを使うのが困難であることを意味しています。

 

しかしピアノは万人が平等に使いやすい楽器とは程遠い楽器です。手が小さい人にとっては鍵盤の間隔が広すぎて、演奏が困難になってしまうことが良くあります。日本人としては10度が届かない人が多いことがよく話題になりますが、それ以前に女の人では8度が届かない人もまま見られます。そして8度つまりオクターブが届かないと、この楽器の魅力を引き出すのはかなり難しくなります。

 

そうした要望に応えて、最近では手の小さい人向けに細幅鍵盤ピアノというのも出て来ているみたいです。しかしこれも、コンサートホールにある本番のピアノが変わらないのでは結局意味がないということになってしまいます。いや、もしコンサートが本番なら、ですが。

 

しかし最近はこうした状況に対して、細幅鍵盤が選べるタイプのコンクールも出て来ているようです。コンクールに出るようなガチ勢の人達は、そうした「本番」の場が変わらないとなかなか細幅鍵盤を選ぼうという気になれないと思うので、少しずつですがそういう動きがあるのは喜ばしいことだと思います。

 

コンサートと演奏の価値を決める要素について

コンサートでクラシックを弾くことには社会的な価値はないという話をしましたが、もちろんこれは「私程度の能力の人が演奏することには社会的な価値はない」という話であって、価値がある人はコンサートに出たらいいし、私だってそういう上手い人の演奏を聴きに行きたいことはあります。

 

つまり私にとってはコンサートというのは「とびきりのごちそう」であればよくて、それは常食しなくてもいいものです。むしろ疲れるから常食はしたくないと感じているかもしれません。

 

ピアノ特有の事情もあると思っています。例えば私は和太鼓が好きなのですが、和太鼓はCDで聴いても私にとっては全く楽しくなくて、生演奏で身体にビンビンと振動を受けることや、太鼓を打っている姿というビジュアルも込みで楽しんでいるからです。オーケストラも同様に生じゃないと楽しみにくいものかもしれません。ごちそう感もありますし。それに対して、私はピアノはCDの音だけで十分満足できます。十分満足できるというか、むしろその方が好きかもしれません。

 

ちなみに、演奏する曲目によって要求される演奏能力は変化します。クラシックは一番競争が激しい分野なので、プロや音大卒生などという上位互換がいくらでもいるので、自分が演奏する価値は限りなく低くなります。それに対して、自編曲の曲などは、一応唯一無二のものなので、ニッチな需要に応えるという形で、演奏能力はそれほどなくても価値を感じてもらうことが出来ます。

 

他にも、演奏者への興味から演奏を聴きたいという場合には、演奏の上手い下手に関わらず演奏を聴くことに価値を感じることはあります。知り合いの演奏を聴きに行くというのはこれですね。別にそういう聴き方を馬鹿にしているわけではなくて、これはこれで楽しいものだとは私も思います。ただし、演奏にその人の性格が表れると感じて楽しめるのは一般的な感覚からするとかなり上手くなってからなので、下手な演奏ではそれを楽しむことが難しいため、結局「上手くなくても楽しめる」とまではいかないという問題もあります。

 

過去記事

人はなぜハゲるのか

「人はなぜハゲるのか?」と研究室で後輩たちが話していたので、私がその場で考えて答えたのは、こんな話だった。

 

 

大阪大学の近藤滋先生がネットで公開していたコラムに、シマウマがなぜ縞模様を持っているのか、ということに関する解説があった。ちなみに今はこの話はブルーバックスの「波紋と螺旋とフィボナッチ」という本に掲載されてWeb上からは無くなっている。 

波紋と螺旋とフィボナッチ

波紋と螺旋とフィボナッチ

 

  

シマウマがシマシマなのは、特にメリットがあるからそうなっているわけではない。言ってしまえば、特に理由はないということだ。我々はすぐ生命の仕組みには何か機能的な理由があると考えてしまうが、進化というのは機能を獲得するために能動的に起こるわけではない(そういうことがあるという研究報告も最近割と見かけるようになったが)。ただ、ランダムに変化が起きて、環境の中でその性質が適応的であれば残る、という順番で考えるのが基本的には正しい。つまり、シマウマがシマシマなのは、シマシマであることが「生き残れないほど致命的なデメリットではなかった」ということだ。

  

そうは言っても、シマシマ模様が形成される仕組みに自体には疑問が残る。シマシマというのはいかにも特殊な模様で、このようなものが理由なく発生するというのは受け入れがたい。しかし、意外にも、このようなパターンは単純な仕組みから発生するという。

 

その仕組みとはどういうものかということの詳細を話すと長くなるので(とても面白いのでぜひ本を読むなりして欲しいのだが)、結論を簡単に書くと、動物にとってメリットがあるのは目立ち過ぎない色になることであって、それは明るい色素と暗い色素を細かいパターン(交互にするとか)で並べてその中間色を得ることによって実現しているため、そのパターンの繰り返しの大きさ決めるパラメータが変化することで、縞模様が出現してしまうということらしい。

 

つまり、中間色になるための仕組みが誤作動することで、縞模様という望んでいない目立つパターンが表れてしまっているが、それで絶滅するほどのデメリットにはならなかったのでそのパターンが残ってしまっている、ということのようだ。

 

 

さて、ようやく冒頭のハゲの話に戻るが、恐らくハゲの起こる仕組みもこれと同じで、「絶妙なバランスの上に成り立っている状況においてバランスを少し崩すと目に見える状態変化として表れる」というのがハゲという現象の正体なのだと思う。

  

考えてみると、人間の体毛の生え方というのは他の動物と比べても異例であろう。体毛は全身にはほとんどなく、しかし頭や陰部など限定的な場所にだけは残っている。これがもし全身に体毛がある生き物だったら、少しぐらい「毛薄」で生まれてきても、「毛薄」と認識されるだけで、「毛が生えている所と毛が生えていない領域に目に見える変化が現れる」ことは少ないはずだ(いや、知らないけど円形脱毛とかはありそうだけど、加齢で自然に前線が後退するわけではなさそうな気がする)

  

「髪と髭の境界ってどこにあるんだろう?」と思ったことのある人も居ると思うのだが、もちろんそこに本質的な境界などはなく、分かれて登場するから別物であるかのように感じているだけなのだろう。したがって、頭髪の生えている領域に明確な輪郭があるというのも幻想なのだろう。人によって頭髪の輪郭線に差があるのは、それだけギリギリのバランスでこの輪郭線を保っているということだろう。

  

したがって、そのバランスは安定的ではなく、少しの変化に対して大きな影響を受ける。そしてしかも、その変化が生存にそれほど大きな影響がないからこそ、その性質は残っているのだろう。

  

ということで、その場で話したことは以上。

 

 

余談だが、最近日本人女性の巨乳化が進んでいるらしい。その理由は基本的には食生活の変化として説明されているようだが、それが貧乳の人が子孫を残せず絶滅していっているということではないといいなあ、それも他人事としては面白いけど、と思っている。

ドレスコードのある店は客の代わりに店が差別をしている

子供の頃は分からなかった、ドレスコードというものについて。

 

子供の頃、ちゃんとした服装をしていないと入れない店というのは、漫画の中でしか知りませんでした。そしてそういう店が出て来る話ではいつも「服装で人を差別する悪い店が反省する」というお話になっていたので、私は「そうか服装で人を差別する店は悪い店なんだな」と思っていました。そしてそれが転じて、私自身も、別にどんな服装で店に行こうが恥じることはない、というような気持ちを持つようになっていました。

 

しかし、お店にだってドレスコードを指定しているのにはそれなりに理由があるわけで、ただ馬鹿で差別主義者だからではないわけですね。当たり前ですけど。その当たり前のことが長く分からなかったなあと思うのでわざわざこうして書いているのですが。

 

ではその理由は何かということなんですが、お店がドレスコードを指定するのは、お客に「特別な体験」を売りたいからで、そこに服装がちゃんとしていない人が混ざると、その体験の価値が壊れてしまうからなんですね。

 

「よーし今日は奮発して良い店に行ってリッチな気分を味わおう!」と思って出かけた人達にとって、みすぼらしい人達が同じ店にいると、彼らがいくらお金を払っていたとしても、「ああ、奮発したのにあの人達と同じなのか…」という気持ちになって、体験に満足できなくなってしまう。それを防ぐために、店はドレスコードを設けるわけですね。

 

まあそれって結局差別といえば差別なんですけど、本当に差別しているのはみすぼらしい人を見て幻滅するお客さんであって、店はお客さんの代わりに「きちんと差別してあげる」ことによって、体験の価値を守っているのだということです。

 

同様に、会員制の店というのも、店の主人が変な人を入会させずはじいてくれるので、その空間に変な人が来ない、ということに価値があるわけですね。これは、「お金だけが判断基準ではない」世界を作り出していることになるわけです。これが「お金以外に価値を置いているからステキ」なのか、「成金に厳しくせっかく人生で成功したと思ったら既得権益者につまはじきにされる」なのか、まあその両面があるということですね。

 

まあ私はそんな世界には基本的に縁がないわけですが、自分の教訓としては、自分がちゃんとした服装をするのは、自分のためではなくて、他のお客さんのためなんだな、ということでした。そしてそれはもしかすると、お店だけではなく、普段接する人に対しても意識するべきことなのかもしれません。

人間とコンピュータが意思疎通できるとはどういうことか

2016年10月21日に、情報サービス産業協会(JISA)というところが主催するJDMF(JISA Digital Masters Forum)2016というイベントで講演をしました。そこで話したのがこの話…というわけではないのですが、講演の一部を切り取って詳しく解説を書いて協会の会誌に寄稿しました。その文章を掲載しています。

 

コンピュータの力を借りられる人と借りられない人の格差問題

いささか身に余るテーマのような気はするが、人間とコンピュータはどのような関係を持つべきかということを論じてみたい。これを読む方にとって新鮮な話と感じていただければ幸いである。その割にまたその話かと言われる気もするが、将棋や囲碁人工知能が人間に勝ったという話から始める。

 

コンピュータと人間が対峙している場面だけを見れば、確かにコンピュータは人間に勝った。しかしここで視点を変えて、これを人間同士の戦いとして見てみよう。すなわちこの戦いを、人工知能を開発した人間とプロ棋士との戦いだと考えるのである。プロ棋士が持っている将棋の力を100とすると、人工知能の開発者は30も持っていないのではないかと思われるが、勝ったのは人工知能の開発者である。ではその差を埋めたのは何かと考えると、それはコンピュータの力ということになる。つまり人工知能がプロ棋士に勝ったということを人間同士の戦いという視点から見ると、現代では、そこそこの将棋力とコンピュータを自在に操る能力を併せ持った人が、将棋だけを極めたプロ棋士より合計の力が大きくなったのだと解釈することが出来るわけである。

 

将棋や囲碁は閉じたルールの中のゲームであって、またそもそも娯楽であるから、ルールでコンピュータの使用を禁止してしまえば人間同士が競う場が乱されることもない。しかし、その他の場、例えばビジネスの現場ではコンピュータを使ってはいけないというルールはないのだから、このことが意味することはより大きなものとなる。つまり、コンピュータを自在に扱う能力を持つ者は、コンピュータの力を借りることができるので、それが出来ない者に対して圧倒的な優位に立つことが出来るのである。この視点から、近年よく話題になっている「人工知能が人間の職を奪う」という問題を捉え直してみると、人工知能を導入して既存の労働者を追い出す人をコンピュータを使う側だと考えれば、これはコンピュータを使える側とコンピュータを使えない側の格差が広がる問題ということになる。

 

コンピュータを使えると一口に言っても、これには色んなレベルがある。キーボードやマウスなどの入力デバイスを使えるというレベルもあるし、メールやSNSを使えるというレベルもある。そして最終的には、プログラミングが出来るレベルということになるだろう。プログラミングが出来るということがそれまでのレベルと何が違うかと考えると、コンピュータに自分の要望を細かく伝えることが出来るということではないだろうか。既存のソフトでは誰かが用意してくれた機能しか使うことが出来ないが、プログラミングをする人は自分の欲しい機能を表現してコンピュータに伝えているわけである。そもそもプログラミング「言語」というところからしても、これは人間とコンピュータの意思疎通のためのものと言ってもいいのではないか。振り返ってみると、コンピュータで出来ることのそれぞれのレベルも、意思疎通の精緻さのレベルとして捉えられるのではないかと思われる。

 

さて、この話は、コンピュータと意思疎通出来る人と出来ない人の格差が広がるという話としても解釈出来るが、逆に言えば、人間とコンピュータの意思疎通の方法をより簡単なものに出来れば、格差を解消することが出来るかもしれない、という話としても解釈出来るわけである。あるいは、コンピュータに人間の望みを伝える能力を向上させることが、コンピュータを使う人間の、あるいは人類全体の能力を向上させる鍵だという話としても捉えることが出来る。

 

人間とコンピュータの意思疎通という観点から見る人工知能技術の歴史

以上の話を踏まえたうえで、人間とコンピュータの意思疎通という観点から、人工知能技術の歴史を振り返ってみたい。良く言われる通り、現在の人工知能ブームは3回目のもので、それはつまり過去2回のブームは終焉を迎えたということである。では、過去のブームで解決できなかった問題はなんだったのか。それは、人間は自分のしていることを全て記述することは出来ないという問題である。これをコンピュータと人間の意思疎通の問題として見れば、コンピュータに人間がやっていることを説明しようとして失敗したということである。

 

過去の人工知能ブームでは、人間が持つ知識を、「どういう場面ではどういう判断をするか」というルールとして全て書き出そうとした。ここでは、ルールを人間が伝えるという形でコンピュータと意志疎通を図ろうとしたのである。このようにして作られるシステムをエキスパートシステムと言う。しかしこの方法は、医療など限られた分野である程度の成功を収めたものの、ほとんどのケースでは上手くいかなかった。なぜなら、必要なルールがそもそも膨大で、またルール同士が矛盾しないように設計しなければならないが、そのためには無限に例外を考慮しなければならなかったからである。このことを表す身近な例として法律を挙げることが出来る。我々の法律というものは、あれだけ複雑でありながら執行するには人間による解釈を必要とする。これは記述された言葉だけでは全てのケースを網羅することは出来ないと考えられているからである。

 

エキスパートシステムの路線が一度頓挫した後の、つまり今回の人工知能ブームの主役になっている手法は機械学習である。機械学習とは、データを与えて、そのデータの背後に潜んでいる知識を自動的にコンピュータに獲得させる技術の総称である。上記のエキスパートシステムとの比較で言えば、「人間はこういう場面でこう判断した」という結果だけを与えて、ルールに当たる部分をコンピュータに自動的に獲得してもらおうということである。このことをコンピュータと人間の意思疎通という観点から見ると、人間が手取り足取り教えてあげなくてもコンピュータに人間のして欲しいことを伝えることが出来るようになったということであり、これは今までならプログラミングに相当していた部分を代替する技術だと言うことが出来る。現状でプログラミングの全く出来ない人が人工知能技術を使えるとは言い難いが、少なくとも意思疎通の困難さを緩和する方向の流れだと見ることは出来るはずである。

 

ただし、ルールを記述することとデータを用意することで、データを用意することの方が楽だと一概に言うことは出来ない。ルールを記述するにはより専門性が求められるが、データを用意するには収集する手間や正解不正解のラベルを付ける手間がかかるからである。ルールを人間が記述する量と必要なデータ数は一般にトレードオフの関係になるため、機械学習の手法の中にもルール記述に相当する部分は依然として残っている。機械学習の手法として知られているものはたくさんあるが、それらの違いはルール記述とデータ数の比重の置き方の違いだと考えるとすっきり整理出来ると思われる。機械学習の手法の中で現在最も注目されているディープラーニングは、ルール記述とデータ数のバランスで言えば、ルール記述をほとんど行わなくてよい代わりに大量のデータを必要とする手法だと説明することが出来る。振り返って考えてみると、エキスパートシステムを作るのにはデータは必要ないが、しかしこれは一種の錯覚であって、コンピュータがデータを処理する代わりに人間が事前に処理しているからルール記述が可能になっているわけである。

 

ディープラーニングの達成したことは人間とコンピュータの意思疎通という観点からは更に興味深い点がある。これを理解するには、今までルールと呼んでいたものをもう少し細かく分けて論じる必要がある。ルールは実際には特徴とその組み合わせから出来ている。特徴というのはデータの属性のことで、例えばある一人の人間のデータの中の、身長や体重といったような、何らかの意味が見出された、分析の基礎となる変数である。ルールを記述する時は、人手でやるにせよ機械にやらせるにせよ、この特徴同士の組み合わせとして記述するわけである。人手で記述するのであれば、特徴の中で何が重要なのかを自分で記述することになるし、機械学習では、どの特徴が重要なのかを自動的に導き出させることになる。特徴に何を採用するかは基本的に自由であるので、身長や体重のようなプリミティブな(基礎的な)ものと同時に、それを組み合わせたBMIのような複合的な指標を採用してもよい。課題に対して何が重要な変数かということが最初から分かっていれば、それを選んでおけば良い性能が出ることになる。そして、この重要な特徴というものを自動で導き出すことに成功したのがディープラーニングなのである。ディープラーニングが特徴表現学習と呼ばれるゆえんである。ただし、ディープラーニングで導かれる特徴というのは、プリミティブな特徴から作られた新たな複合的な特徴という形になる。ここでエキスパートシステムの話を思い出すと、人間が記述出来ることには限界があるということであった。ディープラーニングが導き出す特徴というのは、まだ人間が意味付け出来ていない特徴であり、それはつまり人間の記述能力を越えるものである。このことによって、人間の記述能力に制限されるボトルネックを突破する手法だと考えられているのである。

 

しかし、人間に理解できない特徴によってルールを表現するということは、人間とコンピュータの意思疎通という観点からすると後退しているようにも思われる。コンピュータの下した判断に対して、どのような根拠でその判断を下したのかということを確認しようとしても、コンピュータのする説明を人間は理解することが出来ないわけである。そうなると、この仕組みを適用可能な範囲はかなり限定されるのではあるまいか。筆者も少ないながらデータ分析の仕事をしたことがあるが、同様の問題意識を持っている方が多かったように思う。実験段階で上手くいくことが分かっていても、それをリリースした実際の場面で上手くいくのかということを判断するには、なぜその結果になるのかについて納得感のある説明をして欲しいという要望がある。これは、クライアントにも求められることが多いし、それ以前に自社の上司に求められることが多いようである。

 

さて、では根拠が示せるような手法はないのかということになると思うが、JDMF2016で講演されていた日立の矢野氏の研究も、産総研の本村氏の研究も、そして僭越ながら筆者の研究もそのような手法を目指したものである。是非そのような観点で彼らの研究を見直していただきたいと思う。根拠を示すためのポイントは、特徴として人間が理解出来るものをまず選んで、その組み合わせでルールを表現するということである。採用した特徴のうち何が重要かを自動的に判断させるわけだが、事前に特徴を厳選するのには専門性が求められる代わりに、特徴をたくさん採用した場合には組み合わせが膨大になって計算時間が長くなる。したがって、そのバランスの取り方や計算時間の圧縮方法が研究対象となる。こうした知見に普遍性が見い出せれば、課題ごとに特徴と目標さえ選んでやれば様々なケースに対応出来る汎用の仕組みとなる。そうなれば、コンピュータと人間の意思疎通のうちの、今までプログラミングが担当していた部分のほとんどをコンピュータに任せることが出来るだろう。彼らと呼び方が一致しているか分からないのだが、筆者はこの手法を「メタシステムからの動的システム構成」という名前で呼んでいる。なお、この手法では特徴を人間の理解出来る特徴に限定する以上、人間の記述能力の限界に縛られるという点でディープラーニングに敵わない面がある可能性は否定できない。このことは、この手法では特徴を「選択」するが、ディープラーニングでは特徴を「生成」するという違いとして整理出来ると思われる。

 

「人間vsコンピュータ」と「人間+コンピュータ」を分けるもの

さて、この文章は人間とコンピュータはどのような関係を持つべきかを論じようとしていたのであった。しかしその話をまとめる前に、一つ問いかけをしてみたい。それは、「我々人間が欲しいのは結果なのか理由なのか」ということである。

 

エキスパートシステムを作るためにルールを書き出していた頃、研究者達は知能とは何かということを必死で考えていた。その営みは、良い人工知能を作るということ以上に、自分達人間のしている活動を解明したいという欲求に基づいていたのではないだろうか。しかし、その問題は難し過ぎて手に負えなかった。そしてその後機械学習の手法が広まるにつれ、研究者達の興味は仕組みより結果に移っていった。そもそも人間の意思決定の仕組みすら解明されていないのだから、他者の意思決定の理由が分からないのと同様に、機械のことも分からなくて良いというのは割り切りとしては正しいと思われる。ただ、こうして人工知能技術が社会に出て行き、専門家でない人に触れるフェーズになった際の反応を見るに、どうも専門家の方が理由を軽視し過ぎていたのではないかと筆者には感じられる。他者の意思決定の仕組みが本当には分からなくても、言葉を交わせば人間は共感出来るというところまで、自分達の都合で割り切ってしまっていたのではないか。

 

ただし前途が暗いというわけではない。機械学習の手法は、良い結果を出した時の内部構造という形で間接的に理由を説明してくれている。これを読み取ることが出来れば、人間が自分達のことを知るための知識としても、エキスパートシステムの時代以上の成果になるだろう。また、そうやって人間側の表現力を高めて行くということが、コンピュータに伝える要望を精緻化していくことにも繋がり、それはまた、よりコンピュータの助けが得られることに繋がっていくと思われる。

 

まとめると、人工知能およびそれを用いたデータ分析の分野には、理由は分からなくても結果が良ければよいという態度と、理由が分からないものはダメだという二つの態度が考えられる。ここで、人間の記述力の限界という原理から言って、理由は分からなくてもよいという態度の方がその時々で達成出来るものは大きなものになると思われる。ただし、理由を得るということも一つの成果として考えられ、それによって人間の能力が向上する分を勘案すると、長期的には後者の態度の方が大きな成果をもたらすのではないか、ということである。

 

そして、いささか強引な議論のような気もするが、将来的に、コンピュータが人間を単に置き換えるものになるか、人間と手を取り合えるものになるかということは、案外こうした態度の違いが分岐点になるのではないかと、今の筆者には考えられるのである。

すべての人を罪人に出来るルールは諸刃の剣である

その昔、ヨーロッパで魔女狩りという風習があった。ざっくりと解説すると、今起きている社会の問題は人間に紛れている魔女が起こしているから、その魔女を見つけ出して殺さねばならない、というような風習である。その際、疑いをかけられた人が魔女なのかどうかを判定するために、「魔女裁判」と呼ばれる取り調べが行われていた(後世の人がそう呼んだだけかもしれない)。その方法は色々あったようだが、特に私の印象に残っているのは以下の方法である。「体を縛って川に投げ込み、浮かんできたら魔女で、沈んだら魔女ではない」。当然この方法では、浮かんだら殺されるし、沈んだらそのまま死ぬので、疑いをかけられた時点でその人は死ぬしかない。このような理不尽な裁判が行われたらしく、転じて、現代でもこのような一方的な処罰のことを魔女狩りと呼ぶことがある。

 

魔女狩りが行われている世界に住んでいる状況を想像すると、やはり酷く恐ろしい。いつ自分が魔女だと言われるか分からないし(ちなみに、魔”女”狩りだからといって、女ばかり殺された訳ではないようである。魔術が使えるんだから男にも化けられるという事だろうか)、一度やり玉に挙げられたらもう助かる見込みがない。そういう世界では、目立たぬよう、角(かど)を立てぬよう、おびえながら生きることになりそうだ。

 

では魔女裁判は具体的には何がおかしいのだろうか。それはもちろん、自分が魔女ではなかった場合に処罰を免れる可能性がないことである(そもそも魔女であることが悪いことなのかはよく分からないが、ここではそのことは忘れておこう)。これを防ぐために、近代法には基本原則として「無罪の推定」という仕組みが組み込まれている。「無罪の推定」は「誰でも裁判で有罪が確定するまでは無罪と見なされるので処罰(不利益)を与えてはいけない」ということと「その人が有罪であることを証明する責任は告発した側にある」ということだとしておこう。

 

「無罪の推定」によって「あいつはなんか怪しいよな」という理由だけでは人を処罰できなくなる。これによって、みんなが気楽に生きられるようになる。しかし、この原則は裁判所ではともかく、一般にはすぐ破られる。人は「なんだか怪しいからあいつを排除したい」と思うのが普通なのである。それがなぜかと言われると、人間ってのはそういうものだとしか言いようがないところがあるのだが、逆に、人間ってのはそういうものだからこそ、自然に任せていると皆がどんどん生き辛くなってしまうので、長年(千年単位)の議論の末に「無罪の推定のような仕組みを入れておいた方がいい」というところにたどり着いたのだと考えるといいと思う。直観に反するからこそ必要なものの一例だ。

 

さて、具体例としてセクハラについて考えてみよう。セクハラという概念が生まれたのは、これまで男性が女性の嫌がることを多々してきたことへの対処であるわけで、それ自体は良い変化だと思う。ハラスメントの概念の画期的な所は、「受け取る側が嫌だと思ったらハラスメント」と定義したことである。普通、ある行為の良し悪しは行為者側に依存する。それを、行為を受け取る側から論じられるようにしたのだ。それによって、「問題ないと思う人もいるかもしれないけど本人にとっては嫌な事」について、嫌だと表明できるようになった。しかし、セクハラだと表明して、もしそれで弁明の余地無しに相手に処罰が与えられてしまったら、それは魔女狩りと同じだ。さらに、表明しただけで処罰が与えられるとなると、それ自体が重い意味を持つようになり、女の人も表明しにくくなって損をしてしまう。それを防ぐには「嫌だと表明すること」と「相手が悪い」ということは別だと考える必要がある。

 

相手の言い分に依らず人を罰することが出来る仕組みは、それがいかに自分に都合が良く思えても、同じことが自分にも適用される危険性を常に考慮しなくてはならない。

人工知能が罪を犯せるようになるには(リメイク)

以前書いたもののリメイク。そんなに変わってません。

 


 

現在、ロボット(人工知能)がもし事故を起こしたらその責任は誰が取るのか?ということが大きな議論の的になっている。多くの場面で自律型のロボットが導入される未来を想像すると、ロボットがいずれ重大な事故を起こすのは明白な事だろう。もちろん人間だって事故は起こすので、ロボットの方が事故を起こす確率が少ない可能性はあるし、だからこそ人工知能は注目されている。最近では自動運転自動車などがまさにそうだろう。しかしそうだとしても、事故の責任をロボットを製造した者が全て負うのであれば、製造会社はすぐ倒産してしまうだろう。

 

果たして、人工知能が問題を起こした場合、その責任は誰に求めたらよいのだろうか。…いや、この言い方はあまり適切ではないかもしれない。それはどこかに答えがあるような話ではなく、我々が考えて、どうするか決めていくことなのだから。

 


 

突飛に思われるだろうが、「自律」というテーマに関連するものとして、「少年法」について考えてみよう。少年が起こした犯罪が取り上げられる度に「少年法を改正して子供も罰するようにしろ!」という議論が持ち上がる。皆がこうした話にどれぐらい賛同しているのか分からないが、私は少年を大人と同じように裁かないことにはそれなりに理由があると思っている。子供の刑を軽減する理由としてよく言われるのは「責任能力の有無」というものだ。

 

責任能力が無いというのはどういう状態だろうか。極端な例で考えてみると、赤ん坊の隣にナイフを置いて赤ん坊が怪我をしたとすれば、赤ん坊に責任があると言う人は居ないだろう。それはナイフを赤ん坊の隣に置いた人が悪いとするしかない。そうした状態が「赤ん坊には責任能力が無い」ということである。もちろん、人はそのうち赤ん坊では無くなり、自分のしたことに責任能力があると見なされるようになる。それが実際にはいつなのかというのが、「少年法の適用年齢を何歳までにするのか」という議論だ。しかし、それが何歳になるにしても、人には自分のしたことに責任が取れない場合があることには変わりがない事には注目しておいて欲しい。

 

責任が取れるというのはどういう状態かと言うと、それは一般的には「自由意志」があるかどうかということになっている。ここでいう自由意志というのは、ある問題が起きたとして、その問題の直接の原因を作ったのがその人であり、その人さえ悪さをしなければ問題が起きなかったとみなせることだと考えると良いのではないかと思う。

 

別の言い方をすれば、責任があると見なせる事というのは、その人がそれをやめようと思えばやめられることでなくてはならない。そのためには、取りうる選択肢の中に問題を起こさないものが含まれていないといけない。例えばコンビニ店員が強盗にナイフを突きつけられてお金か商品を渡せと脅されたとすれば、その人はハズレの選択肢しか持っていない。店員が問題を起こしたとしても、その意思決定をしているのはあくまで強盗である。このように、選択肢があってもそれが合理的でなければ、自由とは言わない。問題を回避できる選択肢を持っていた強盗の方に責任があると見なされるのである。

 

そう言うと、やはり中学生などが犯罪をするのは、本人達がやらなければ問題は起きないのだから、本人達の自由意志によるもので本人達に責任がある、と思うかもしれない。しかし「本人達にもどうにもならずそれが起きている」という可能性をもう少し考えて欲しいのだ。

 

私達は、環境の中で生きて、環境に適応して生きている。我々が自分の実力だと思っている事の多くも、環境の恩恵に過ぎなかったりする。例えば親の年収と子の学力には正の相関があることが良く知られている。貧困の中にいる人には貧困から抜け出す選択肢がそもそも与えられていないのかもしれない。

 

社会の仕組みが犯罪を起こしているなら、社会の仕組みを改善しないと同じ問題が繰り返し起こる。犯罪者一人を裁いて済ますことは、社会の改善をせずに済ますことになる。しかし社会の改善には多大なコストがかかるのが常なので、わずかな犯罪者を出さないようにするためのコストとして割に合わないと判断されれば、犯罪がただ一人のせいで起きていると見なして、その一人を裁くのは合理的な判断ということになるのだろう。

 

少年法が少年を保護するのは、環境が強く影響する(とされる)子供については、本人ではなく親やその他周囲の環境が問題を起こしていると見なしていることになる。そして少年法の適用年齢を引き下げるという事は、我々全体が、社会の改善の努力を(あるいは、社会の改善にかけるコストをやむなく)減らすという事を意味しているわけだ。問題を起こす人が減ればその他の人に取っても安全に暮らせるメリットがあるので、そういうことも込みでコストについて考える必要があるだろう。

 


 

さて、ようやく人工知能の話だ。人工知能が問題を起こした場合にだれが責任を取るのかという問題について、現実的な案としては、自動車社会のように保険をかける事が当たり前の仕組みにして、皆で損害に対する補償を分担するという話があるらしい。ここから私がする話はもっと未来の架空の話なので、眉に唾を付けながら読んで欲しい。

 

ロボットが反乱を起こさないにしても、ロボットが人間のパートナーのようになることはあるだろう。ロボットと人間が対等な関係に近づいていくと、ロボットは人間に「人権をよこせ」と主張してくるかもしれない。いや、ロボットが主張しなくても、人間の側がロボットに与えようとするかもしれない。今でも、ペットに人権を与えようとしている人が居ることを考えると、これはそう突飛な考えとも思えない。人類は歴史上「人間」の範囲を拡大し続けてきた。そう言われてピンと来ないならば、白人が黒人を人間だと見なしていなかった歴史を思い出すと良いかと思う。あるいは「女性」もそうだろう。

 

「ロボットに人権を与える」というのは、なんだかロボットのくせに生意気な気がする。しかし、人権とは少し違うかもしれないが、これを「人間扱いする」ということだと考えると、これは少年法の文脈で言うところの、少年が大人になる程度の事なのかもしれないと考えることが出来ないだろうか。

 

ロボットが問題を起こした時に、ロボットに「人格」が認められ、自律的に判断したことだとするならば、ロボットの製造者ではなく、そのロボット自身を裁けばよいことになるのではないか。そしてこれは、製造者にとっては、責任を回避するための手段となるのではないか。そう考えると、ロボットは人間の意に反して人間と対等になろうとするのではなく、人間の望みによって対等に近づいていくのではないだろうか。

 

人工知能が罪を犯せるようになるには、人工知能を作る人間ではなく、人工知能自身に判断の自由がなければならない。しかしそれはどこまで行っても、社会がどう見なすかということでしかないのだ。それは人間の場合でも同じである。そもそも、自由という概念自体が、個人に責任を取らせるためにあると考えることも出来る。すると果たして、自由があるのが幸せなのか、無いのが幸せなのか。その答えもまた、我々が考えて決めていくしかない。

 


 

人工知能について語るときには、多くの人はそれが「人間のような知能を持つ」ものだと解釈する。しかし、我々は「人間」や「人間の知能」について本当は良く知らないのである。逆に言えば、人工知能について考えるということは、人間について考えることなのである。