完成度と減点法

日々食べたいものが思いつかなくて困っている私ですが、今日も昼に何を食べようか迷ってウロウロした挙句、なんとなく目に留まったロッテリアに行きました。そういえば最近行ってなかったなあと。

 

それで「絶品チーズバーガー」というのを頼んで食べたのですが、チープながら旨い、と思いました。確かに、別に感動するほど旨くはない。でもこれはこれで完成している、と思いました。

 

ところで、私は、中身が盛りだくさんで、とてもかぶりつけなくなってしまっている、いかにもオシャレなハンバーガーというものがとても嫌いです。お前、ハンバーガーの形しているメリットを消失しているじゃないか、と思うわけです。絶対きれいに食べられないし。

 

それに比べて、今日のロッテリアハンバーガーは圧倒的に食べやすい。パンとほとんど変わらない肉の堅さ、全くはみ出さない具、垂れない水分と、手で掴んで食べる食べ物としては最高の調整がなされています。実際、片手でも余裕で綺麗に食べられます。私はおかげでkindleで漫画を読みながら食事をすることが出来ました。それはそれで優雅な体験でした。

 

ここに、評価の観点として、「個々の要素はチープながら完成している」というものと、「個々の要素は高級だが完成度が低い」というものの、どちらが良いか、というものがあると思うのです。

 

料理というのは、まさにそういう議論をするのに適切な例と言えるでしょう。甘いものが好きだからと言って、砂糖を入れれば入れる程旨いわけではない。バランスというものがある。必ずしも高級なものを使えば旨いというわけではなくて、それを引き出す調理法を必要とする。ハンバーガーの中の肉だけを本格的にしてしまったら、歯ごたえがあり過ぎてパンと同じようには噛み切れなくなってしまうかもしれない。

 

つまり料理というのは、「全体としての完成度」と「個々の要素の良し悪しの足し合わせ」が同じはならないという特性を持っていて、全体としての完成度が重視されるジャンルである、と言えると思います。少なくとも私はそう思っているので、オシャレハンバーガーよりロッテリアハンバーガーの方が出来が良いと思っています。

 

しかし、世間ではオシャレハンバーガーの方が「いいもの」として認識されているような気がします。これを私は、現代はここで言う「完成度」が軽視されているからなのでは、と思うのです。言い換えると、個々の要素が良ければそれを褒めるという習慣が染みついてしまっているせいで、要素を盛ることばかり考えてしまっているというか。

 

ビデオゲームなんかが良い例で、一時期は、グラフィックが良くなるばかりでちっともゲームは面白くなってないと揶揄されていました。ゲームの良し悪しと言うのはかなり「完成度」によるもので、ぱっと見では評価が難しい。しかしグラフィックが良くなるというのは誰の目にも分かるから、ついついそこに力を入れてしまう。そういうことがずっと起きていたと思います。教訓としては、完成度というのはなかなか目に見えないものという事も言えるかもしれません。

 


 

少し話は飛ぶのですが、学業での成績評価について、以前から不思議だったことがありました。それは「減点法」と「加点法」という考え方です。私は、その違いが良く分かっていませんでした。例えば、課題の採点をする時に、何かが出来なかったら減点という基準にしても、何かが出来たら加点という基準にしても、全員に同じように基準を適用したら、最終的には相対評価をするだけであって、同じことの言い換えをしているようにしか思えませんでした。ただ、「減点」という言葉のイメージの悪さを嫌って、「加点」と言い換えてるんじゃないかと感じていました。

 

しかしここに、「完成度」という概念を導入すると、加点法と減点法が何を意味しているかがスッキリ解けることに気が付きました。

 

例えば、木工工作でゴミ箱を作るとする。ゴミ箱であるからには、ゴミ箱としての機能は最低限持っていないといけない。口が開いていて、勝手に倒れたりしない、バラバラになったりしない、ゴミ袋が釘に引っ掛かって破れたりしない、などなど、当たり前ですが、そういう機能は最低限満たしている必要がある。そういうものは、「完成形」として想定されるものに対して、減点方で採点するのが望ましい。

 

しかし、例えば作者の独創で、そのゴミ箱に素晴らしい絵が描いてあるとか、彫刻がしてあるとかで、美術的価値が生まれているとする。そういうものは「完成形」とは何の関係も無いから、減点法では単なる「マイナスがない」でしかない。したがって、そういう物を良しとして評価するには、加点法で採点するのが望ましい。しかしそれでも、ゴミ箱としての機能を満たしていないのであれば、それはゴミ箱としては失格と言わざるを得ない。ゴミ箱であることをやめて、単なるオブジェとしての価値を主張することになるでしょう。

 

つまり、完成度という観点で物事を見る場合は、減点法で見る方が望ましいのです。しかし前述したように、我々は加点法を素晴らしいもののように言い過ぎてきたような気がするのです。

 

何かの作品を作るには、色々なスキルが必要です。プログラミングなんかをやってみれば分かりますが、一つの成果物を作るためには、何か一つのパーツがかけても完成しない。そして、完成しないものには何の価値も無いのです。これは、音楽の製作などでもそうでしょう。どんなに理論を知っていても、作品を作らない人は永遠に評価されることはない。

 

確かに、皆と同じスキルを持っていることばかりが持て囃されて、人と違うスキルを持っている人が低評価になる社会では、同じような人間ばかりになってしまって、多様性が失われて閉塞に向かってしまうかもしれない。しかし、だからと言って本当に単一のスキルでは何の作品も作れなません。結局何かの作品に結び付くから、そのスキルも意味があるのです。

 

加点法は、その、何かのスキルを「スキルがあるのは良いことだよね」と推奨する方法です。その加点法を良いもののように言ってきた結果、アンバランスなスキルばかり持って、ろくに作品を完成させることが出来ない人を量産してしまったのではないか、という気がします。

 

というか、まあ私がそういうアンバランスな人だという反省がとてもあるという話なのです。

 

ただ、人の持っているスキルがアンバランスであっても、チームとしてうまく組み合わされば、いい作品を作れることはあるでしょうね。また、例えば作曲コンテストに応募してきた新人の曲を聴いた審査員が「光るものがある」とか言うのは、要素を評価しているのですが、完成度はこれから高められるからいいという判断をしているということでしょう。そういう事もあると思います。

 


 

ということで、ここまでの話をまとめると、

・「作品」は完成度からの減点法で評価すべきである

・「可能性」は個々の要素の加点法で評価すべきである

みたいなことが言えそうです。

 

そういう整理をしたので、これからは私は積極的に減点法で作品を評価していくぜ!と心に決めたのでした。

 

ちなみに、これも地味に「合成の誤謬」の話だったと思います。適用範囲が広いなあ。

皆さんは私の力を授けて良い人間なのか

これは自分の持ってる授業で、毎回一個ずつエッセイを書いて配っていたものの、最終回で配ったものです。偉そうなことを書いて恥ずかしくもあるのですが、ずっと問題意識として持っていたことなので、皆さんにも見てもらいたいと思っているので、公開します。

 


外を一人で歩いている時に筋骨隆々の強そうな人とすれ違う状況を想像すると、危険を感じることがあると思う。しかし、もし筋骨隆々な人が知り合いで、一緒に歩いてくれているのであれば危険から守ってもらえるわけで、むしろ安心すると思う。自分にとっての味方が大きな力を持っていることは自分にとって望ましく、自分にとっての敵が大きな力を持っていることは望ましくない。自分は自分の味方なので、力を付けることは自分にとっては望ましいが、みんなが力を付けることは必ずしも自分にとっては望ましくない。

 

さて、今のは物理的な力の話だったが、知もまた力だ。いやむしろ現代では、知の方が筋肉よりはよほど大きな力であることが多い。しかも、現代では物理的な暴力はかなり制限されているが、知による暴力はあまり制限されていないし、そもそも不利益を押し付けられているということに気付くことにも知が必要だったりする。例えば、医者という専門家が言うことを、多くの非専門家である患者が検証するということは事実上不可能に近い。そんなわけで、知の力もまた、味方が持つ分には望ましいが、敵が持つのは望ましくないということになる。

 

さてここでもう一歩踏み込んで考えて欲しい。あなたが力を持つことは周りの人にとって良いことなのだろうか?あなたが周りの人の味方であればあなたが力をつけることは周囲の人にとって望ましいことになるし、あなたが周りの人の敵であれば、あなたは力をつければつけるほど周囲の人から疎まれることになる。このことを少し言い方を変えて言ってみよう。あなたが周囲の人を見下すために賢くなっているならばそれは嫌われて当然で、あなたが賢くなって周囲の人を助けられるからこそ、賢いことが好かれることに繋がるのではないか?ぶっちゃけて言えばこれは私の過去の思い出そのものであって、私は周囲の人を見下していたことで嫌われていて、自分の力を人のために使うようになってからは劇的に人間関係が改善して行ったのだった。

 

私は皆さんに授業を通して知という力を授けている。しかし皆さんが、与えられた力を、自分のためばかりに使うのではなく世の中をより良くするために使ってくれるのかということを、私は確認していない。逆に学生側の視点としては、この先生は話を聞くに値する人間であるか?ということは…ある程度判断しているような気がするが、それにしても、授業で会うだけでは判断が難しいというのが実情なのではないかと思う。お互い「入試を通ってきてるんだから大丈夫か」「大学が先生に据えてるんだから大丈夫か」と、大学という組織に頼って、お互いを信用している。一応言っておくと、試験での不正行為等は、その信頼への背信行為だからこそ厳しく罰せられる。能力がないことより、力をつけてそれを使って目指すところが間違っているということの方がより重大な問題だということである。

 

昔の人は丁稚奉公という形で、職人の家に寝泊まりをして技術を学んだのだが、最初は雑用ばかりで技術を教えてもらえないことが多くあったようだ。似たような例として、テニス部に入部した人が最初は球拾いばかりさせられる、というようなものをイメージするといいかもしれない。それは、技術を学ぶ前に、技術を学んだ人がどのような生き方をしているかを一緒に暮らすことで学ぶという意義があったのだろうし、教える方も、技術を正しい目的で使ってくれるかを判断してから教えていたのだと考えることもできる。

 

しかしもちろん教わりたい人から見ればそんなのは非効率だと思うわけで、どんどん「早く教えてよ」という要望に応えるようになっていった。しかし例えば柔道で投げ技をやる前に受け身を徹底的にやるみたいなことはある程度は必要なことだったのではないか?これは、力を得る前に、力に振り回されて大惨事にならないように防衛策を学んでおくということに相当するだろう。教えて欲しい側が早く力が欲しいと言ったとしても、それに応えないという態度も時には必要なのではないだろうか?

 

今、知というものは多くがオープンになっている。インターネットでも図書館でも、知識は勝手に一人で学ぶことが出来るわけで、知の力を手に入れるのに誰かから人格のチェックを受けるという世界ではない。これはもちろん学ぶということについての格差が解消されているという意味では良いことだ。だがしかし、目的が正しくない人にも力を与えてしまうという意味では危険なことでもある。

 

ではなぜ知というものは無頓着にオープンになって行ったのだろうか。色々理由は考えられるが、ここでは、近代という時代が、民主主義や資本主義を採用していたからということを挙げておく。こうした仕組みが作る社会というのは、実はあまり倫理について個々人が考える必要がない社会だったのだ。この時代における主要な関心事は経済活動だったわけだが、資本主義の経済というのは「個々人が自分の利益を最大化するように振る舞えば、『神の見えざる手』が働いて、結果として全体としても良くなる」ということを前提としていた。これはつまり、合成の誤謬が起きない前提で考えていて、その前提だとすると、個々人はただ自分の力を伸ばすことを考えていればよかったのだ。民主主義も同様で、各個人が自分で良いと思うことは何かと考えて、平等に投票すれば、全体として良い結果になるという考えに基づいていた。これも合成の誤謬が起きないことが前提にある。

 

しかしこれは段々とその限界が明らかになって行った。ほとんどの人は経済活動において、消費者であると同時に生産者でもある。つまり商品にお金を払う側であると同時に、商品を売ってお金を受け取る側でもある。したがって、みんなが出来るだけ安いものを買うことを目指すと、確かに効率の良い企業が残って効率の悪い企業は淘汰されていくのかもしれないが、それで淘汰されるのは生産者としての自分である。効率の悪い、つまり気楽な仕事は存在しなくなり、厳しい労働だけが生き残っていく。そうした状況をブラック労働と言ったりもするが、ブラック労働が蔓延するのは、消費者としての利益を優先しすぎた結果である。個人には自分の行為が自分を幸せにするか見通せなかった、と言ってもいい。

 

「段々と分かってきた」と言ったが、実際には、昔から日本には「金は天下の回り物」なんて言葉もあるように、そうした仕組みについての理解はある程度進んでいたはずだ。したがって、ある一時期だけそれが忘れられていたのだ。そしてそれは、例外的に、皆が伸びたら全体も伸びるという合成の誤謬が起きない時代が存在したということで、それが明治維新から高度経済成長期の間だったのだろう。そしてそれはかなりの程度、外国に先んじることで貿易で得をすることが出来たということに依存していて、外国が追い付いてくるに従ってその効果を失っていったと考えられる。「資本主義は資本主義でない他者を必要とする」という言葉があるのだが、資本主義は経済を超加速させるシステムで、それによって他者に先んじるから利益が得られるので、皆が資本主義になって一緒に全力で走るようになると、苦しいばかりでそのメリットが失われてしまう、しかしだからと言って自分だけ走るのをやめる訳にもいかない…というような大枠のイメージを描くことが出来るだろう。

 

さて、今は結局、地球の環境がボトルネックになって成長が頭打ちになったことで合成の誤謬が起きるようになり、各個人が自分の利益を追求していればいいという時代は終わろうとしているのではないかと思う。それによって、我々が学び力を付けるということが、果たして社会全体を良くすることに繋がっているのか?ということを考える必要が出て来ていると私は思う。私はそんなことばかり考えていて自分のことが疎かになってしまった感があるので、皆さんもまず自分が生きていけるのかを考えてもらえばいいのだが、余力があったら、自分のしていることが世の中全体にとっていいことなのかも考えるようにして欲しい。

 

皆さんは、私が授けた力を、世の中を良くするために使ってくれますか?

差別されたくないことと、差別をなくしたいことは対立する

「差別されたくないことと、差別をなくしたいことは対立する」ということについて。

 

「差別をやめよう」という言葉には、どうやら二つの意味がある。一つは「差別すること自体をやめよう」という意味で、もう一つは「差別はあってもいいが、(自分やその他の具体的な誰かを)その対象にするのはやめよう」という意味だ。

 

この二つの関係は、対症療法と根治療法の関係に似ていると思う。

 

ある症状に対して対症療法と根治療法があるとして、その二つはしばしば相反する手法となる。なぜなら、症状というのはなんらかの原因に対する身体のSOSであることが多いので、症状を抑えるということはそのSOSを無視して、原因を放置することに繋がりがちだからだ。その場合、放っておかれた原因は悪化して、いつかは対症療法ではしのぎ切れなくなるかもしれない。そんなわけで、「対症療法が根治を遠ざける」というのは割と普遍的な法則だと思われる。

 

しかしこのことは、しばしば困った事態を引き起こす。対症療法と根治療法は一見すると正反対の方法に見えるので、対症療法を薦めている人と根治療法を薦めている人がいるとして、その人達が自分の薦めている治療法が対症療法であるか根治療法であるかを意識していないと、相手は全く間違った治療法を提案しているように見えてしまう。そうなったら、相手の手法を阻止しようとするだろう。そうして、対症療法を薦める人と根治療法を薦める人とで、議論が食い違うようになってしまう。

 

それと同じことが、差別についても起きているのだと思う。

 


 

人と話していると、「自分の好きなものが相手に否定されて嫌だった」という話題によく遭遇する。twitterでも、「自分の好きなもののをしたら知らないって言われたので、絶対自分の方が正しいと思うので、知ってる人RTお願いします」というようなツイートがよくRTで流れてくる。RTでよく流れてくることからも分かるように、こうした言い方は一種のウケるテンプレみたいになっている。ここには「正常(マジョリティ)なのは相手の方で異常(マイノリティ)なのは自分の方だ」と言われて辛かったので「正常なのは自分の方で異常なのは相手の方だ」と認めて欲しい、という心の動きがある。

 

しかし、自分が異常者扱いされるのを回避するために相手を異常者扱いしてしまったら、それは結局差別を解消するという点では進歩がない。自分やその仲間は否定されるのを逃れられるかもしれないが、新たな被差別者を生んでしまっているという意味では収支はトントンだろう。

 

これは多くの人にとっては聞きたくもない嫌な話かもしれないが、自分の正しさを多くの他者が支持してくれないと安心できない人というのは、自分がマジョリティ側に入れないと不安な人で、それは意識としてはマイノリティは排斥されて当然だと思っているという、潜在的にマイノリティを排斥する側の人間なのだと思う。そうではなくて、差別を根本的になくすには、そもそも何が好きでも嫌いでも正常だとか異常だとか思わないようにならないといけない。

 

ただし、上記の例でも分かるように、差別するということは、周りの人と団結することを促す手段であるし、それによって自己肯定感も得られていい気分にもなれるという結果も生む。そういう手段を手放すのは容易なことではない。それを安易だと批判したところで、損をするぐらいならその方法を取らない、という選択をするのは自然だと思われる。

 

例えば私達は、どんな時でも客観的な評価をしてくれる友人が欲しいだろうか。無条件に自分を肯定してくれる友人の方が欲しくないだろうか。どんな時でも客観的な評価をしてくれる友人は、そもそも友人なのだろうか。敵でも味方でもない人間は、つまり他人ではないだろうか。差別しない人間になるということは、そういう人間になるということだ。

 

逆に言えば、人と仲良くするということは差別そのものである。教育界隈では、学校の(学級の)「みんな仲良くしましょう」という圧力こそがいじめを生んでいるのだとよく指摘される。いじめを減らすには、他者に対して無関心になる必要があるのだ。それを分からずに、仲が悪いのだから仲を良くするようにしようと考えてしまうと、状況は悪化してしまう。

 

差別のない世界というのは、そのような寂しい世界だ。しかし、そういう世界で楽しく生きる方法もなくはない。例えば、自分で自分を肯定し続けることができれば、他者が何を言ってきても楽しく過ごすことが出来る。あるいは、ただひたすら他者にとって有益な存在であり続ければ、他者はその人をひいきしなくても好きになれるので、人に好かれることもできる。しかし、そのような生き方は大変であるし、全員が出来るわけではない。言い換えると、差別を無くすには、全員が全員にとって有益な存在になる必要がある。西洋の近代的な「個人」というのは、そういう世界を望んだ人達が考えた概念だったのかもしれない。…そして私は、この考えには無理があったのだと考えている。

 


 

話が大きくなってしまった。冒頭の話に戻ってまとめてみよう。

 

差別されて、「自分は差別されるべき存在ではない」と主張するのは、対症療法であり、差別そのものを無くすどころか実際は助長している。差別を根治するには、他者による無条件な肯定の無い世界で楽しく生きるだけの能力が要求される。そもそも自己肯定感が低いから周囲の承認を必要としているのであるから、対症療法が必要な人にそのような生き方を薦めても、多くの人は耐えられないだろう。

 

あまりスッキリした整理にはならなかった気がするが、対症療法と根治療法が対立しており、全く正反対のアドバイスが投げかけられがちである、という構図が生まれていることは言えるのではないかと思う。

 

話がややこしくなったのは、差別には「不治の病」という条件が入っていたからだろう。癌の治療薬が正常な細胞にもダメージを与えるように、差別をなくそうとすることは、私達から活力を奪ってしまう。そのような問題に対しては「今は対症療法をするしかないけど、できれば根治療法に移りたいね」という話すら成り立たない。騙し騙し、病と共存する覚悟で付き合っていくしかないということなのだろう。

 


 

さて、なんでこんな話を熱心にしているのかというと、この「対症療法と根治療法は正反対になりがち」という法則が、いろんな問題を解き明かすカギになると思ったからだ。

 

私の見るところでは、世の中的に「専門家同士の言うことなのに正反対のことを言っていてどっちが正しいか分からない」という事態が頻発していて、みんな判断に困っている。そういう場合に、「こっちは対症療法に必要な話をしていて、こっちは根治療法に必要な話をしているのでは?」という物差しを当ててみると、スッキリ理解できるケースが多くあるように思うのだ。

 

例えば、「うつになる人は真面目な人」と言われることがある。これは、うつになった人を慰めて落ち着かせる効果があるが、一方で、真面目であるということを良いことだと思い込んでいると、うつになることは正しかったのだと思わせて、うつから抜け出す気持ちすら削いでしまう可能性がある。こういう言葉は、対症療法的に用いられるべきで、用法用量を守って使わなくてはならない、というような議論が出来るようになる。もちろん逆のことも言えて、今その時を乗り切る余裕がない人に、根治の方法ばかり薦めるというのも残酷だ、という議論が出来るだろう。

 

こういう「意見が対立しがちなパターン」というのはいくつかあると思うが、その一つとして、使いこなせるようになる価値があると思ったのだ。

 

最後に余談として、対症療法と根治療法が一致するケースについて。

 

当たり前だが、対症療法と根治療法はいつも相反するわけではない。例えば、人間にとって「痛み」というのは対症療法がそのまま根治療法になることがある。痛みというのは基本的には危険を知らせるシグナルであり、安易に消してしまうのは危険だと思うだろう。しかし一部の慢性痛は「痛み自体がトリガーになって痛みを引き起こす」という人体のバグみたいな仕組みによって起こるらしく、そういうケースでは対症療法的に痛みを和らげることで、慢性痛も和らぐらしい。これをもう少し一般化すると、依存症のようなスパイラル構造(正のフィードバック構造)が出来てしまっている場合では、対症療法が根治療法と一致する、というようなことが言えるだろう。

 

 


(2018/04/18 追記)

「対症療法と根治療法が対立する場合って具体的にはどういうものなのか良く分からない」とのコメントをfacebookの方でいただいたので、例を考えてみました。

・教育

手取足取り教えると短期的には強いけど、荒波に放り込まれたような人の方が長期的には深みが出て来る

 

・(教育の具体的な例として)高校の体育会な感じの吹奏楽

コンクールで勝つために短期的に成果が出る方法ばかりに特化してしまって、音楽を生涯楽しむ人を育てにくくなってしまう(偏見だったらすいません(笑))

 

・(逆に教育の抽象的な例として)効率化と視野

何かを効率化して早く出来るようになるということは視野を狭めることで、現状を疑うことを難しくする(イノベーションが阻害される)。逆に視野を広げすぎると目の前のことに手が付かなくなる

 

・関税とか補助金とか

特定の産業を守る目的で有利な環境を作り出してしまうと、甘えてしまって(あるいは優遇される対象として相応しい状態を維持しようとするために)長期的には時代遅れになってしまう

 

・自己の確立

自己への承認を満たすために、他者からの承認がなくて当然だと気付くことで、自分で自分を承認できるようになるのだが、他者からの承認を得続けることが出来てしまうとそれが難しくなる

 

・「対症療法と根治療法」なので、まさにそれにあたる身体の反応色々

  • 風邪の時に解熱するとウイルスが倒せないので治りが遅くなる
  • シャンプーは皮膚の油を落とすが油を落とし過ぎると身体が足らないと判断して多く分泌するようになる
  • 高血圧の人の降圧剤とか、糖尿病の人のインスリン注射とかは対症療法でしかないのに、持続的に用いる前提になっててヤバイ…と私が読むような本には書いてあるんですが、ほんとのとこどうなんでしょう
  • 寝る前に時計の音が気になってしまうように、刺激が少なすぎると感度が上がってしまって体感の音量が大きくなってしまう。逆に少しの音、カフェの環境音などがあると落ち着く。刺激の適切な量という意味で、これの同様の例がいろいろあるかも?

 思いつく限り挙げてみたんですが、こんなんでどうでしょう?

アナログ時計はいつデジタル時計になったのか

「アナログ時計はいつデジタル時計になったのか」と言われたら、普通は「そうだよね確かにアナログ時計の後にデジタル時計は発明されたよね~」と思うことだろう。それは確かにそうなのだが、今から話すのはその話ではない。実は、我々がアナログ時計と呼んでいるものは、実は情報学的にはデジタル時計なのだ。だから、もっと根源的な意味で、アナログだったものがいつデジタルになったかという話をしたいと思う。

 

ここでひとまず、アナログ情報とデジタル情報の違いを確認しておこう。アナログな情報というのは、連続な情報のことで、細かく見ていけば無限の情報量を引き出すことが出来るもののことだ。それに対してデジタルな情報とは、そうしたアナログの情報をある閾値で上か下か分けてしまって、持っている情報の量を確定させたもののことだ。エタノールを使った温度計をイメージしてみよう。エタノールの温度計は、無限に細かく見ていけば、実際には目盛りにピッタリは一致していないはずである。その状態はアナログ情報だ。それを人間が、どこかの目盛りに一番近いと判断して、その目盛りの値を読み取って、「36.2℃」などと決めれば、それはデジタル情報になっている。デジタル情報であるということは、人間の観察が入った後の情報だと考えることができる。

 

我々が「アナログ時計」と呼んでいる時計について考えてみると、あの時計は秒針が「カチッカチッ」っと、ある秒とある秒の間の状態を持たずに動いている。したがって例えば、アナログ時計で0.1秒といった1秒より細かい時間を測ることは出来ない。デジタル時計ではどうかというと、もし時間の最小単位が0.1秒だったとすれば0.1秒は測ることが出来るが、だとしてもそれより細かい0.01秒は測ることは出来ない。そういう意味では、この二つは細かさが違うだけで、どちらもデジタル時計なわけだ。

 

では本当のアナログ時計とはどんなものかというと、例えば日時計は本当のアナログ時計だ。見た目は一般的なアナログ時計とほとんど同じだが、それとは違って、間の状態を見ようと思えば見ようとしただけ持っているからだ。

 

さて、では冒頭の疑問に戻って、アナログ情報がデジタル情報になった瞬間について考えてみよう。原理が分かりやすいものとして、クォーツ時計で考えてみる。クォーツ時計とは、水晶を使った時計だ。水晶振動子と呼ばれる素子があって、これに電気を流すと一定速度で規則正しく振動する。ちなみに一秒間に32,768回振動するらしい。それをカウントして、32,768回振動するごとに一秒に換算して秒針を動かせば、時計として使えることになるというわけだ。

 

しかしこう考えるといつアナログ情報がデジタル情報に変わったのかは良く分からない。電気を流された水晶は、最初から「 32768分の1秒」というデジタル情報を作り出しているような気がする。自然現象が最初からデジタル情報を作り出しているなら、人間が観察するからデジタル情報になるという原則に反するではないか?

 

でもそうではない。こう考えてみよう。「もともと『振動』などという現象は存在していない」のだと。電気を流した時に、水晶はただ「動く」のであり、その動きが人間には同じ動きを繰り返しているように見えたので、それを人間が「振動」と呼ぶことにしたのだ。このとき、元々の動き自体は、無限に細かく見て行けば毎回ほんの少しずつは違うものになっているはずだが、その細かな差異は無視して同じ動きだと見なすことで、「振動」が「1回、2回」とカウントできるようになったのだ。

 

人間が何かを何かだと「見なす」ところが、アナログ情報がデジタル情報になるところなのだ。

繋がり過ぎる世界の倫理

インターネットによって我々はすごく簡単に人と繋がることが出来るようになったわけですが、繋がり過ぎて疲れてしまったという人の話もよく聞きます。facebook疲れなんて言葉もありますし、LINEの既読スルーを咎めるなんて話もありますね。

 

これまでの人類は人と繋がるのが難しい世界の中で生きて来たので、努力の方向性は基本的に人と繋がることに限定されていたわけですが、やはり適正量の繋がり具合というのはあるようで、自然にしていると繋がり過ぎてしまうのであれば、これからは人と距離を取ることを学ばなければならないのでしょう。

 

…ということは以前から考えていたのですが、これはもうちょっと応用範囲の広い話かなという気がしてきました。

 

例えば不倫をした人に対する怒りを表明する人達を見ると、私の感覚では「当事者が怒るのは分かるけど部外者の我々はほっといたらいいんじゃないの?怒る権利とかあるか?」という感じで、なんでそんなに怒るのかなーと思っていたのですが、よくよく考えてみると「酷い目にあった他者を見て、自分の事のように怒る」ってとても道徳的ですよね。そういう人が居るのは何も不思議じゃないし、むしろかつて規範とされるのはそのような考えだったと言えるでしょう。

 

つまり、現代の、インターネットがあって、さらにSNSがあって、皆が自由に全世界に向けて発言できる環境ではそういう「道徳的」な態度は不適応になってしまうけど(「炎上」と呼ばれたりして)、それは今が「繋がり過ぎの世界」だからなのであって、そうでない世界ではきっとそうあるべきだったんだと思います。

 

普遍的な倫理というものは存在しなくて、あくまで環境に対して倫理が決まるので、環境が変わると倫理も変わります。しかし、倫理を大事にしてきた人ほど、倫理が変更されることに耐えられない、なぜならその古い倫理がその人を作っているから…というような原理があるのかな、と思います。

 

とりあえず、ネット時代に適応した自分のような考え方は(本当に適応できてるのか知らんけど)、少し前の世代からすると全く当たり前でも道徳的でもないということ、だからそんなに簡単に理解できるはずだと思わないこと、を意識しておいた方が良いのかな、と思いました。

日常を音楽の本番にしたい(ピアノ弾き向け)

音楽における「本番」がコンサートに偏り過ぎてはいないか

私は長くピアノを弾き続けていますが、ここ5年ぐらいはコンサートには出ていません。ピアノを弾く人には、コンサート(あるいはコンクール)に出演するという目標を立てて、それに向けて練習するという取り組み方をしている人が多いのですが、私はそうではないということになります。

 

それはなぜかと考えると、私自身が、他人の演奏をコンサートで聴くということにあまり価値を感じていないからだと思います。このご時世、CDなりYouTubeなりで物凄く上手い演奏をいくらでも聴くことが出来るわけで、それより劣る演奏をわざわざ聴きに行くということにあまり意味を感じないのです。したがって同様に、私がコンサートに出たとしても特に社会的な価値はない、と考えています。

 

 もっと言ってしまえば、演奏者が「自分がハレの舞台で活躍している」という実感を得るために、お客さんに「来てもらっている」という感覚になっていることが結構多いんじゃないかと思うのです。しかし今はどの創作分野でも「クリエイター余り・消費者不足」の状態です。そういう状況で本当に必要なのは発表する方ではなくて、発表を見て聴いてそれを称賛する人の方です。そう思うので、私は自分が積極的に称賛される方に回りたいとは思えないのです。

 

しかし、たとえ社会的な価値がなくたって、自分がピアノを弾いて楽しかったらそれは何物にも勝る価値ではないか、とも思っています。実際私は家で一人で楽しくピアノを弾いています。

 

ただ、一人でも楽しいというだけで、別に一人の方がいいと言ってるわけではありません。横で親しい人が聴いてくれたらいいなとは思いますし、音楽に詳しい人とあーだこーだいいながら弾けたら楽しいなと思います。あまりやったことないですが、セッションのようなことが出来たらそれもいいでしょうね。

 

ここで思うのは、音楽ってもともとプレイヤー同士で楽しむのが基本であって、コンサートのように演奏者と観客が完全に分かれているものって、むしろ特殊な形態なのではないか、ということです。それが現代の、特にピアノ界隈では、あまりにも「コンサートという本番」のために「その他すべてが『練習』になっている」印象を受けるのです。

 

そうではなくて、一人で弾いて自分が楽しむ、あるいは仲間と弾いて音楽を作り上げることを楽しむ、という日常の音楽こそが「本番」である、という意識転換は出来ないものでしょうか。

 

グランドピアノは日常の音楽には適さない

音楽の本番がコンサートに偏り過ぎていると思うことの一つの例が、家にグランドピアノを置きたいという人がたくさんいることです。私は家にグランドピアノを置くというのはかなり狂気に近いことだと感じています。もし私がグランドピアノを軽く買えるお金を持っていても、今だったら電子ピアノを買うと思います。

 

グランドピアノを家に置くのの何がおかしいかというと、グランドピアノは大きなホールに行き渡るだけの音量が出せる楽器なので、そんなものを家で鳴らしたら音が大きすぎるということです。

 

うるさいから近所迷惑だという話でもありますが、弾いている自分が聴くという目的でもそんな音量は欲しくないです。自分の家の中で電子ピアノで弾くときにも、音量は最大まで上げません。そんなに大きな音はそもそも聴きたくないからです。

 

実際、ピアノの弾き過ぎで耳を傷める人というのもいますし、耳栓をして弾いていてるピアニストもいます(具体的にはスティーブン・オズボーン)。ホールでお客さんが聴くには必要な音量であっても、演奏者にとって望ましい音量とは言えないわけです。

 

 

それでもなお多くの人が自宅にグランドピアノを置こうとするのは、コンサート本番に使うのがグランドピアノなので、その感覚に近いもので練習したいと思うからでしょう。まさにこの制約こそが、音楽文化に非常に大きな影響を与えていると感じています。

 

この話は、例えばピアニストの内田光子さんも以下のインタビュー動画で指摘しています。

 

www.youtube.com

(5:14~) 


インタビュアー「ドビュッシーは別種のピアノを使っていたの?」


内田「ええ ずっと軽い楽器をね!
特に現代のコンサート用のピアノは大きな問題を抱えています
私たちが弾くのは こんなにも長く大きな楽器で
必要に迫られて重いアクションになっています
ホールは より大きくなり 大きい音が要求され そのために
昔よりも ずっと重い楽器でなくてはならない
鍵盤ひとつをみても
ドビュッシー時代とはさほど変化していませんが
ショパンの時代と比べると大きな違いがある
ショパンの楽器…例えばエラール プレイエルなどは
実に鍵盤が浅くて とても軽く
私自身 試してみましたが
エチュードを弾くと実に美しい音がでるんです
でも この楽器などは多分ほぼ2倍位重いのではないかしら
ドビュッシー自身が弾いていたものよりね」

 

Debussy 12 Etudes : interview Mitsuko Uchida part1 (Germany) 日本語字幕付

 ここでは、音量と関連して、鍵盤の重さについての話も出て来ています。ピアノは電気など他の動力による音量の増幅はしていない楽器なわけですから、大きな音が出るということはそれだけ大きなエネルギーを人間が使っているということです。

 

コンサートホールに響き渡る音量を出すグランドピアノを弾くためにはそれだけ大きなエネルギーを使って(具体的には重い鍵盤のピアノを)弾く必要があります。そして、コンサートホールで弾くことが本番である限りはそれと同等のピアノに慣れておかなくてはならないわけです。家で弾くならもっと小さい音量のピアノでいいはずなのですが、本番と違うピアノに慣れておくわけにはいかないという事情がそれを許さないのです。

 

ショパンなどはコンサートホールよりはサロンのような(比較的)狭い場所で弾くのを好んだと言いますし、上のインタビューにもあるようにそうした場所にふさわしいもっと軽い鍵盤のピアノを弾いていたようです。今あるピアノリサイタルの姿を築き上げたのはリストで、その後はどんどんピアノはホール向きに進化していくわけですが、もっと家庭向けに進化したバージョンがあっても良かったのではないかと思うのです。

 

というかまあアップライトピアノや電子ピアノは家庭向けに進化したピアノですね。しかしアップライトピアノも電子ピアノも、グランドピアノを目標にしてそれに近づくことを目指しているからこそ、グランドピアノの下位互換として認識されているというのが現状だと思います。しかしこれらも、コンサートで弾くことが本番ではないと思えば、そうした認識も変わっていくと思いますし、またグランドピアノを目指すことをやめれば、より普段使いに適したものが生まれてくるのではないかと思います。…ただ、もしかしたら、そうして進化したものは既にピアノとは呼ばれない、別の存在になっているのかもしれません。

 

日常を本番にするには

では具体的にはどうすれば、コンサートではなく日常を音楽の本番にすることが出来るのでしょうか。

 

ここで私たちがどういう時に「練習している」と感じているのかと考えてみると、曲をまだきちんと弾けない状態であると感じている時だと思います。つまり、取り組んでいる曲に対して自分の実力がまだ及んでいない状態の時に「練習している」と感じるのだと思います。そして(やや飛躍があるかもしれませんが)練習であると感じているということは、「本番ではない」と感じているということなのだと思います。

 

つまり現状は多くの場合、「本番に対して練習の割合が大きい」という状態になっていて、これをどうにかして本番の割合を大きくしたいわけです。

 

単純に「実力に対して弾こうとしている曲が難しい」ということが問題なのであれば、身の丈に合った簡単な曲を弾けばいいということになるでしょう。ただ、難しいほど良い曲というわけではないにしろ、良い曲は結構難しいことが多いので、現在の自分では弾けない難しい曲をなんとかして弾く、ということに長い時間を費やしている人は多いと思います。というか私がまさにそうでした。そして、それも別に悪いことではないと思っています。憧れの曲に必死で食らいついていくのは基本的に楽しいことですからね。そういう気持ちだけでは続けられなくなってからどうするかという話なのかもしれません。

 

しかし根本的な問題は少し違うところにあると思っていて、それは結局ピアノを弾く人は、楽器と自分の表現したいことが繋がっていなくて、自動機械のようにピアノを弾いているために、応用が全然効かず、好きなように弾くことが出来ない、というようなことだと思っています。

 

例えば伴奏として打楽器を演奏することを考えると、まず簡単に演奏できる基本のリズムパターンがあって、上級者はそれをさらにカッコよく複雑にして演奏しているということが想像できます。ということは、最低限曲として成立するという弾き方と、もっと本格的な弾き方が連続的に繋がっていて、その間を自由に決められるということだと思うのです。

 

これが出来るためには、ただ一つの動きを身体に覚え込ませるのではダメで、音符のうちのどれがどのような役割を担っているかを知る必要があります。それは言い換えると音楽理論の知識ということになると思いますし、実際に音楽理論を学ぶことでそういうことが分かるようにもなるとは思いますが、必ずしも座学として勉強しなくてはいけないとは思っていません。

 

例えばフォルクローレサークルの知り合いの話を聞くと、大学から演奏を始めたにもかかわらず、4年で卒業する時には、みんなでセッションをやろうとなったらその場ですぐ入れる曲は100曲ぐらいあると言っていました。要はそういう風に音楽に接してきたかどうかだと思うのです。

 

なお私自身は座学が性に合ってる面もあって、座学が効率的に感じるからという理由で結構理論の勉強をしていたりしますが、それもまあ本人次第だと思います。

 

私にはこのような問題意識がずっと前からあったので、ここ何年か、リードシートという、コードとメロディーだけが書かれたJ-POPなどの楽譜から、自分で伴奏を作りながら弾くという練習をしてきて、それが最近は結構出来るようになって、ようやくなんとなく楽器と親しくなれたような気がしています。

 

例えば部屋で弾いていて、楽譜をパラパラめくりながら「この曲なんだっけ、弾いてみよう。(その場で弾く)…あーいい曲だなあ」というようなことが出来たりするし、弟が部屋に来た時に「この特撮の曲がさー」とか言いながら弾いたりということが出来るようになったのです。こういうことが昔からやりたかったんです!

 

もちろん楽譜に書かれた曲を弾くのであれば、初見能力が非常に高ければ、素晴らしい曲に触れる機会が増えて、どんどん楽しい思いが出来るでしょう。こちらも私は長年ないがしろにしてきたので、最近反省して少しずつですが改善できないかと取り組んでいる所です。

 

別に皆が私のようになるべきだとは思っていないのですが、もしかしたら多くのピアノ弾きはコンサートという形態から離れた方が音楽を楽しむことが出来るかもしれない、ということを一度考えてみてはいかがでしょうかというお話でした。

 

(以上で本題は終わりで以下は付録)  

付録

細幅鍵盤ピアノとコンクール

普通の楽器というのは自分で持ち歩けるので、本番でも普段自分が使っている楽器を使うことが出来ますが、ピアノは持ち運ぶのが大変難しい楽器なので、会場に据え付けられているものを使うことが一般的です。これは、自分用にカスタマイズされたピアノを使うのが困難であることを意味しています。

 

しかしピアノは万人が平等に使いやすい楽器とは程遠い楽器です。手が小さい人にとっては鍵盤の間隔が広すぎて、演奏が困難になってしまうことが良くあります。日本人としては10度が届かない人が多いことがよく話題になりますが、それ以前に女の人では8度が届かない人もまま見られます。そして8度つまりオクターブが届かないと、この楽器の魅力を引き出すのはかなり難しくなります。

 

そうした要望に応えて、最近では手の小さい人向けに細幅鍵盤ピアノというのも出て来ているみたいです。しかしこれも、コンサートホールにある本番のピアノが変わらないのでは結局意味がないということになってしまいます。いや、もしコンサートが本番なら、ですが。

 

しかし最近はこうした状況に対して、細幅鍵盤が選べるタイプのコンクールも出て来ているようです。コンクールに出るようなガチ勢の人達は、そうした「本番」の場が変わらないとなかなか細幅鍵盤を選ぼうという気になれないと思うので、少しずつですがそういう動きがあるのは喜ばしいことだと思います。

 

コンサートと演奏の価値を決める要素について

コンサートでクラシックを弾くことには社会的な価値はないという話をしましたが、もちろんこれは「私程度の能力の人が演奏することには社会的な価値はない」という話であって、価値がある人はコンサートに出たらいいし、私だってそういう上手い人の演奏を聴きに行きたいことはあります。

 

つまり私にとってはコンサートというのは「とびきりのごちそう」であればよくて、それは常食しなくてもいいものです。むしろ疲れるから常食はしたくないと感じているかもしれません。

 

ピアノ特有の事情もあると思っています。例えば私は和太鼓が好きなのですが、和太鼓はCDで聴いても私にとっては全く楽しくなくて、生演奏で身体にビンビンと振動を受けることや、太鼓を打っている姿というビジュアルも込みで楽しんでいるからです。オーケストラも同様に生じゃないと楽しみにくいものかもしれません。ごちそう感もありますし。それに対して、私はピアノはCDの音だけで十分満足できます。十分満足できるというか、むしろその方が好きかもしれません。

 

ちなみに、演奏する曲目によって要求される演奏能力は変化します。クラシックは一番競争が激しい分野なので、プロや音大卒生などという上位互換がいくらでもいるので、自分が演奏する価値は限りなく低くなります。それに対して、自編曲の曲などは、一応唯一無二のものなので、ニッチな需要に応えるという形で、演奏能力はそれほどなくても価値を感じてもらうことが出来ます。

 

他にも、演奏者への興味から演奏を聴きたいという場合には、演奏の上手い下手に関わらず演奏を聴くことに価値を感じることはあります。知り合いの演奏を聴きに行くというのはこれですね。別にそういう聴き方を馬鹿にしているわけではなくて、これはこれで楽しいものだとは私も思います。ただし、演奏にその人の性格が表れると感じて楽しめるのは一般的な感覚からするとかなり上手くなってからなので、下手な演奏ではそれを楽しむことが難しいため、結局「上手くなくても楽しめる」とまではいかないという問題もあります。

 

過去記事

人はなぜハゲるのか

「人はなぜハゲるのか?」と研究室で後輩たちが話していたので、私がその場で考えて答えたのは、こんな話だった。

 

 

大阪大学の近藤滋先生がネットで公開していたコラムに、シマウマがなぜ縞模様を持っているのか、ということに関する解説があった。ちなみに今はこの話はブルーバックスの「波紋と螺旋とフィボナッチ」という本に掲載されてWeb上からは無くなっている。 

波紋と螺旋とフィボナッチ

波紋と螺旋とフィボナッチ

 

  

シマウマがシマシマなのは、特にメリットがあるからそうなっているわけではない。言ってしまえば、特に理由はないということだ。我々はすぐ生命の仕組みには何か機能的な理由があると考えてしまうが、進化というのは機能を獲得するために能動的に起こるわけではない(そういうことがあるという研究報告も最近割と見かけるようになったが)。ただ、ランダムに変化が起きて、環境の中でその性質が適応的であれば残る、という順番で考えるのが基本的には正しい。つまり、シマウマがシマシマなのは、シマシマであることが「生き残れないほど致命的なデメリットではなかった」ということだ。

  

そうは言っても、シマシマ模様が形成される仕組みに自体には疑問が残る。シマシマというのはいかにも特殊な模様で、このようなものが理由なく発生するというのは受け入れがたい。しかし、意外にも、このようなパターンは単純な仕組みから発生するという。

 

その仕組みとはどういうものかということの詳細を話すと長くなるので(とても面白いのでぜひ本を読むなりして欲しいのだが)、結論を簡単に書くと、動物にとってメリットがあるのは目立ち過ぎない色になることであって、それは明るい色素と暗い色素を細かいパターン(交互にするとか)で並べてその中間色を得ることによって実現しているため、そのパターンの繰り返しの大きさ決めるパラメータが変化することで、縞模様が出現してしまうということらしい。

 

つまり、中間色になるための仕組みが誤作動することで、縞模様という望んでいない目立つパターンが表れてしまっているが、それで絶滅するほどのデメリットにはならなかったのでそのパターンが残ってしまっている、ということのようだ。

 

 

さて、ようやく冒頭のハゲの話に戻るが、恐らくハゲの起こる仕組みもこれと同じで、「絶妙なバランスの上に成り立っている状況においてバランスを少し崩すと目に見える状態変化として表れる」というのがハゲという現象の正体なのだと思う。

  

考えてみると、人間の体毛の生え方というのは他の動物と比べても異例であろう。体毛は全身にはほとんどなく、しかし頭や陰部など限定的な場所にだけは残っている。これがもし全身に体毛がある生き物だったら、少しぐらい「毛薄」で生まれてきても、「毛薄」と認識されるだけで、「毛が生えている所と毛が生えていない領域に目に見える変化が現れる」ことは少ないはずだ(いや、知らないけど円形脱毛とかはありそうだけど、加齢で自然に前線が後退するわけではなさそうな気がする)

  

「髪と髭の境界ってどこにあるんだろう?」と思ったことのある人も居ると思うのだが、もちろんそこに本質的な境界などはなく、分かれて登場するから別物であるかのように感じているだけなのだろう。したがって、頭髪の生えている領域に明確な輪郭があるというのも幻想なのだろう。人によって頭髪の輪郭線に差があるのは、それだけギリギリのバランスでこの輪郭線を保っているということだろう。

  

したがって、そのバランスは安定的ではなく、少しの変化に対して大きな影響を受ける。そしてしかも、その変化が生存にそれほど大きな影響がないからこそ、その性質は残っているのだろう。

  

ということで、その場で話したことは以上。

 

 

余談だが、最近日本人女性の巨乳化が進んでいるらしい。その理由は基本的には食生活の変化として説明されているようだが、それが貧乳の人が子孫を残せず絶滅していっているということではないといいなあ、それも他人事としては面白いけど、と思っている。