自由の制限

人は、自分が幸せになる方法を、きちんと選べるだろうか。

 

今の日本は、昔に比べると「結婚しない人」に優しくなったのではないかと思う。以前はもっと結婚しない人に圧力がかかっていた。今でも圧力はかかっているとは思うが、概ね減少傾向と言えると思う。これを「偏見がなくなって社会が良くなった」と単純に言えるだろうか。

 

我々の社会の仕組みは概ね、働かない人の社会保障を、働いている人によって支えるようになっている。仕組みとして、子供が減ると、少ない若者でたくさんの高齢者の面倒を見なくてはならない。ある程度人口がピラミッド型に近くないと、どんどん若者が苦しくなってしまう。これが今起きている事である。この仕組みでは、子供を産んで、さらに育てて労働者にまで持っていく事が推奨されている。結婚して子供を産んだ人は、それを育てきるまで、自分の事は出来ず、子供を必死に面倒を見て、またお金を捻出するため働き続けなければならない。結婚しなかったものは、自分の事をする時間が取れるし、働きも自分が生きていけるだけで良い。こういう現実が見えていて、人は結婚したいものだろうか。

 

そう考えると、皆が「結婚しない奴は人としてどうか」などという圧力をかける事には、実は意味がある。結婚して子供を産んでいない人は、社会への貢献度が低い事になるからだ。

 

もっと突き詰めて考えてみると、離婚をしないように圧力をかけることにも意味がある。子供を育てるという責任を簡単に放棄されては困るからだ。同性愛に嫌悪を示すのもそうだ。同性愛という愛の形はともかく、同性同士では子供を産めないのだから、子供を産むという貢献をすることができない。それを無条件に認めて良いのかという理屈が成り立つ。

 

もちろん、それを「偏見や周囲からの圧力」という形で実現しているのが正当なあり方だと言っている訳ではない。結婚した人への優遇策や、同じ事だが結婚しない人が損する制度を作って、その中で自由に選ぶ分には誰にも文句は言わせない、というようなやり方もできるはずだ。それでも不公平と言うかもしれないが、そうでないなら、子供を作って高齢者を支えなくてはならないという仕組み全体を見直さなければならないだろう。

 


 

話は変わって、就職活動についてだ。以前、なぜ就職活動がこれほど厳しくなってしまったのかについて触れた。その話をもう一度簡単にまとめてみる。

  1. リクルートなどの会社が多くのエントリーを出すよう煽る
  2. 皆が多くの会社にエントリーを出す
  3. 合計の採用数は変わらないのに、「落ちた」回数だけが膨れ上がる→つらい
  4. 採用する企業側も、応募の数が多過ぎるので、個々の応募者をじっくり見る事が出来ない
  5. 採用側は(リクルートの子会社が運営する)SPIなどの統一テストに頼る

 

リクルートの悪口は今回の本題ではないので、今回の話題に関係する部分を抜き出す。

  • a.皆が、より良い会社に就職しようと思って、多くの会社にエントリーを出す
  • b.すべての会社の倍率が上がり、皆が苦しむ

 

以上のようになる。さて、ここで「じゃあ多くの応募を出すのがいけないんだな」と思って、多くの応募を出さなかった人はどうなるかというと、恐らく多くの応募を出した人より望みの会社に入れる確率は下がるだろう。自分は損してもいいと達観している人がたくさん居れば良いが、なかなかそうはならないだろう。だからこれはみんなで足並みをそろえないと上手くいかない。とすると、これは個人の心がけでは実現できないので、なんらかの制度による制限をすることになる。

 

自分が最良の結果になる事を追求すると、皆が苦しむ。その皆には自分も含まれるので、自分が最良の結果にならないにしても、制限を受け入れた方が自分も楽になる可能性がある。しかし、では例えば「受けられるのは一人5社まで」などという仕組みに皆が納得するであろうか。どちらかというと、最近の社会は、こういう制限を取っ払い、自由化するのが良いとされて来ていると思う。

 

ここが今回の本題である。我々は、いつも自由化を望み、皆を幸せにするための制限に納得する事が出来ない。そして自分が望んだ自由によって苦しんでしまう。我々はこのことに無頓着なのではないだろうか。

 

野球のドラフト制度で高校生が自由に球団を選べないのはなぜか。高校受験をする時に先生が受かりそうな高校を受ける事を強制できなくなったのはなぜか。お見合いがなくなって恋愛結婚をするようになった結果どうなったか。詳しくは書かないが、どれも共通の問題だと思う。

 

私自身の思い出を振り返ってみると、高校受験の時に、あまり行く気の無い私立高校を滑り止めで受けて受かったのだが、それに受からなかった友人と話してとても悲しい気持ちになり、なぜ自分は行く気のない高校を受けてしまったのだろうと思った。その時の体験を引きずって、大学受験の時には滑り止めは一切受けなかった。ただ、それも上手く行ったから良かったようなもので、正しい判断だったかは私の預かり知らないところにあると思っている。

 


 

もちろん、全体の利益のために個人がいくら不利益を被って良いわけではない。個人を守るために人権という考えが生まれた。しかし、どうも我々はこの人権を万能のように思い過ぎなのではないだろうか?社会は社会全体の利益のために動いているのであって、そのために個人の権利を守った方が良いとなれば守るだけである。それを、無限に自分の好みの世界を提供してくれるもののように思っている人が多くないだろうか。

 

例を挙げると、生活保護があるのは、本当に困窮した人達はどんな犯罪をしてもおかしくない人達だからだ。その人達を守る事が、そういう犯罪を減らして、それが社会全体の利益になると思うから支給されるのである。支給される人のためだけにやっている訳ではないのである。

 


 

自分の自由を制限しているものは、多くの場合、皆が馬鹿だからあるわけではない。少なくとも制限されている人以外を守るためにあり、またそれは実は自分をも守っているものかもしれない。この事を頭の隅に入れておいた方が良い。

 

ただし、自分が不利益を被っていると主張してはいけないということではない。どんどん主張するべきだ。ただし、その分だけ、相手側の言い分を聞くべきだ。私が感じる問題は、そういう主張の際に相手を馬鹿だと決めつけている人が多い事である。相手を馬鹿だと言うことは、このケースにおいては、自分の利益を増やして他者の利益を減らすことに異論の挟む余地がないと言っていることになる。そんな態度をとってばかりいたら、まともな人が離れていくのは当然である。また、そういう自分勝手な人の話をまともな人が聞いてあげることは世のためにもその人のためにもならない。

 

「この偏見や圧力に意味がある」というのも、意味があるからそれでよいと言っているわけではない。しかし、偏見や圧力がなくなったら解決するわけではない問題について、偏見や圧力を用いないで済む正当な仕組みを用意せずに、それが解消されると考えるのは現実的ではないと考えている。

 


 

「多くの人は自分の幸せを自分では上手く選べない」という考えを突き詰めていくと、「賢い他者に管理された方が良い」とか「コンピュータが決める最適解に従う方が良い」という考えが出てきてしまう。こういう考えは、フィクションなどを見ても、常に否定されてきた*1。また、そう言われたら「馬鹿にするな」「お前が俺より賢いってどう決めるんだ」と言いたくなる話だとは思う。

 

しかし、本当にこれらが悪い考えなのか、私にはよく分からなくなっているし、実は自覚がないだけで今でも十分管理されているのではないか、とも思うのである。

*1:2015年7月29日追記:これは私の見識が無さ過ぎただけで、ロボット(人工知能)についての一番有名と言っても良い小説である「我はロボット」はこれとは真逆の結論を出していました。お恥ずかしい限りです。ただ、私がそう思うぐらい、その思想が理解されず、他のフィクションにも影響を及ぼせていないことの証左にはなるのかもしれません

教育と規格化の関係

多くの人は、勉強しない人に勉強させようとする。そのために「勉強するのは本人のため」と言うが、果たしてそれは本当だろうか。だとすればなぜ人は人に勉強しろと言うのだろうか。他の人が勉強しなければ、自分がそういう人を押しのけて好きに出来る可能性が上がって行くのではないか。人に勉強しろとなど言わない方がいいのではないか。じゃあ人に勉強しろと言う人はみんな馬鹿なのだろうか。

 

自分の受けた教育を批判する人がたくさん居る。「もっと個性を尊重すべきだ」と言う。自分は虐げられていたという気持ちがあるらしい。自分の望まない事をさせられた、自分の望む事をさせてもらえなかった、そういう気持ちを抱いている。そんな気がする。では個々人の興味ある事を勉強させられるようにしてあげればいいのだろうか。

 


 

さて、そもそもの話だが、教育はなんのためにするのだろうか。あるいは、国家が義務教育として教育を課している、それに投資しているのは何を狙ってのことだろうか。

 

今あるような学校制度は、産業革命に伴って出来たらしい。産業革命は、新たな仕事を生み出した。そのうちの代表的なものが、工場労働者である。それまでの多くの人の仕事は農業であった。生まれた地で暮らして、家族ぐるみで農業をしていた。農業をするのであれば、子供は大人のする仕事と同等とは言わないまでも、似たような事は幼い頃から出来たであろうから、子供はそのまま労働力だったはずだ。しかしそういう人達がすぐに工場労働者になるのは困難がある。工場労働者に求められるのは、決まり切った時間に皆が同じ行動をする事が出来る事である。命令をちゃんと聞いて、好き勝手な行動をしない人である必要もある。読み書きも出来た方が便利かもしれない。そういう要請に応えるべくして作られたのが、学校であるらしい。

 

学校に期待されていた役割は、工場のパーツとなる人間を生み出すことである。そう考えると、色んな事が見えてくる。工場では人間は規格化された方が有利である。現在、学校は画一的な人間を生み出すと批判されているが、それこそが学校の使命だったのである。今批判されているような事は、そもそもの目的には合っていたというか、目的そのものだったのだ。

 


 

さて、今は仕事が変化した。だから学校の目的や役割も変わってしかるべきだ。よし、「個性を尊重した教育に変えよう」となる…というのは、そんなに簡単な話だろうか。もう少し「人を規格化する」ということについて考えてみる。

 

例えば、選挙をするとする。20歳以上の人には平等に一人一票の権利が与えれているとする。どんな無学な人にでもである。ここで、文字の読み書きが出来ない人がいたとする。すると、今の選挙制度で一票を投じる事は出来るだろうか?これを解決するためには、顔写真とボタンを連動させたタッチパネルを用意するなどする必要がある*1。これにはただ候補者名を紙に書くのに比べて大きなコストがかかる。逆に言うと、みんなが読み書きが出来るという前提があれば、コストを削減できるのである。

 

学校の話に戻って考えてみると、みんなが時間を守って行動できるというのは、例えば会社にとって、非常にコストを削減する事が出来ると予想される。あるいは、みんなが共通の知識を持っているという保証があれば、それ以上の専門の事を話すならその保証されているラインから先を教えればいいと判断できる。これが人によってまちまちだったら、その人にあった研修をカスタマイズしなくてはならない。カスタマイズ出来たらそれはいいだろうが、それには当然コストがかかるわけである。

 

要するに「みんなが同じ事が出来る」というのは、重要なインフラ(社会基盤)なのである。それに比べて、「個性を尊重する」ということは、好きな事を好き放題勉強するという事で、これは「みんなにとってのコストの削減」という面では全然貢献しない。すると、そんなこと(個性を尊重する事)は勝手にやればよく、社会がコストをかけて面倒を見てやる必要はないのではないかという論理が成り立つ。その前提で、「みんなが『勉強しろ』とわざわざ言うのは何故か」という質問に戻ると、要は他人が馬鹿だと自分が不利益を被るからであろう。この意味では、勉強は自分のためにやるものではない。周りの人のためにやるものだ。新入社員を見て「ゆとり世代は常識がない」と言う年上の方を想像してみていただきたい。ゆとり世代があらゆる面で能力的に劣っているなんて事はあり得ないと思うが、常識、つまり皆が共通して習うはずの事、というものをきちんと学習した割合は恐らく下がっているであろう。その分だけ、新人教育にコストがかかる。

 


 

規格化によるコストダウンという考え方は、人間以外の方が普通に用いられる考えだ。機械の部品なんかでは当たり前の概念である。また、社会的な要素としても良くある事である。例えば携帯電話。私は長く携帯電話を持つ事を嫌がっていた人間なので良く分かるが、携帯電話を持っている人にとっては、携帯電話を持っていない人がいるという事が非常に非効率に感じるのである。向こうが待ち合わせに遅れる際に、私が携帯電話を持っていれば連絡出来たのに…という場面にあったことがある。「みんなが携帯電話を持っている前提」なら、それで良かったのである。そうしてどんどん私には「携帯電話を持っていないお前のせいで不便だ」という報告が届くようになり、私も携帯電話を持つようになったのである。別に今その事に腹が立っているとかいう訳ではない。人は時間に遅れて来る時に連絡すれば良くなったのである。これは堕落だろうか?ある面ではそうだ。だが、厳密に時間を守るというストレスを軽減する事が出来たとも言える。その分、心にゆとりが出来たかもしれない。

 

では教育は人を規格化することにばかり注力すればいいのだろうか。その方が社会のコストを下げるのは確かだろう。しかし、教育にはコストを下げる以外の貢献の可能性もある。教育を元にして、大きな成果を達成して利益をもたらせば、社会全体が上向きになるかもしれない。雇用を生み出したり、大量の税金を納めたりすることにもなるだろう。それがもし「個性を伸ばす」ことで得られるのであれば、皆に一様の事を叩きこむ事より得だということになるかもしれない。そして、今我々は、概ねそちらの方に舵を取ろうとしているのだろう。これは、多くの困った落ちこぼれを出す代わりに、少数でも天才が出てきた方が、社会全体として良いという判断をするということである。これは、今のこのインターネットなどによる、イノベーションを起こしやすい世界においては、恐らく適した戦略になるのだろう。この先の話は良くある話だと思うのでしないが、その場合は「失敗を許容する」ことが今よりもっと必要になるだろう。

 


 

「教育は人間を規格化することだ」というのは、恐らく昔は当たり前の事だったし、そこに悪いというニュアンスは無かった。しかし行き過ぎた規格化を問題視する声がアンチテーゼとして挙がった。我々は生まれた時からこのアンチテーゼしか聞いていないので、前提である「人間を規格化する事のメリット」を忘れがちなのだろう。また、皆が読み書きが出来るなど、実際に規格化され過ぎているので、その効果を実感しにくいのだろう。

 

その人が嫌がる事だろうが、人を規格化して同じ事をさせるのには、ちゃんと意味がある。自分が嫌だったからという理由だけでそれを悪いと言うのは早計であろう。しかし、それが今は意味を失っている可能性ももちろんあるし、もっといい方法があるからそれをしないという選択をする事も出来る。その選択の意味もまた知り、比較して考えるべきである。

効率化するという事は、あまり起きないことを無視する事だ

効率化するという事は、あまり起きないことを無視する事だ。

 

もう少し穏やかに言うと、良く起きる事とあまり起きない事が何かを調べて、良く起きることに特化させてあまり起きないことを軽視する事だ。

 

それはつまり、効率化するという事は軽視する部分が現れるということだ。それが「効率化にはリスクがある」ということである。そして我々は効率化を求められるがために、リスクだらけの世界を生きることになったのではないかと感じる。

 


 

この事は情報圧縮の話としては分かりやすい。例えばモールス信号では、Eに「・」とTに「-」とそれぞれ一文字の符号が割り当てられているが、これは英語におけるEとTの出現頻度が高いことに基づいている。最大は四文字で、例えばQは「--・-」だ。良く使うものを表す符号は短くしておくことで、伝えたい文章を送る時の全体の符号の長さを短く出来る。これがまさに効率化である。その代わり、あまり出てこない文字ばかり使う文を送りたい場合は、全ての語に同じ長さの符号を用いている状態より記述が長くなってしまう。これが効率化によるリスクである。(モールス信号でそうなるかは知らない。ならないかもしれないが一般的な話として流して欲しい)

 

この話を一般に適用して考えてみる。一般に「業務の効率化」と呼ばれている物は、大体この法則に当てはまっているのではないか。「マニュアル人間」という言葉がある。良く有るパターンへの対処法さえ学んだだけで、とりあえず仕事を進める事が出来るが、イレギュラーな事態については何もする事が出来ない人を指す言葉だ。しかしどんな事態でも対処できる人間などそんな簡単に育てられるわけがない訳で、例えばバイトを全てそんな労力をかけた人員にしてから配置する訳にはいかない。マニュアル人間で良い所はマニュアル人間に任せるのが効率化というものである。そこにリスクがあるのは言うまでもない。

 


 

我々が良くないことだと思っている事が、実は効率化と捉えられるケースも多い。例えば、人間の筋肉は使わないと衰えていくが、猫は運動していなくても衰えないようである。これは、人間がより優れた方式として、筋肉を衰えさせてエネルギー消費を抑えるという「効率化」システムを搭載しているからだと考えられる。

 

他にも、大人になると可聴周波数領域が狭まって行く(モスキートノイズが聴こえなくなる)のは、やはりそれが必要ないと判断(体が勝手に)して衰えて行くのだろう。また、それは必ずしもネガティブな作用ではなく、狭い領域内での音の判別能力は上昇して行くという話も聴いた事がある。

 

マナティーという、人魚のモデルにもなった海のほ乳類がいる。マナティーの歯は生きてる間中、新しく作られ続け、ベルトコンベアーのように奥から前へと移動する形で生え換わっていくらしい。それに比べ、人間は一生で一度生え換わるだけである。マナティーが羨ましいとも言えるが、それを実現するためにはもっともっとカルシウムを摂取する必要があるとも言える。人間よりマナティーの方が歯の削れて減る量が少ないから、栄養との兼ね合いのギリギリの判断で、一度だけ入れ替われば良い事にしたのだろう。ただし人間にとってはそれが、火を使う食べ方への変化や、急に伸びた寿命に対応しきれていないという事なのだろう。「人間50年」という織田信長の言うような寿命だったら、ちょうどいいぐらいだったのではないか。

 

この発想の元にあるのは「エネルギーは有限だ」という考えである。要するに、何かが良くなるためには、何かを犠牲にするしかないということである。もちろん、メタ能力を鍛えるなどして、見かけ上この問題をクリアしていく事は可能であると思う。しかし、有限なものは有限なままだという態度はそれはそれで大切なのだと思う。

 


 

激しい競争にさらされると、効率化を強いられる。そこには必ずリスクの増加がある。もちろん、リスクがあってはいけないという事ではない。確率を考えて、プラスとマイナスの合計の期待値が上回るようにするのが効率化である。よく成功者が言う「リスクをとれ」という言葉は、おそらくこの意味での効率化をしろということを指している(本人達も分かっていないのではないかと思ったりもするが)。しかし実際の所、「滅多に起きない」を「たまには起きる」ではなく、「起きない」と思ってやってしまっているものを効率化と呼んでいる事が多いのではないだろうか。その一つの象徴が原発だ。

 

そういう観点から、我々が「効率化」と呼んでいる事を、もう少し慎重に見直すべきだと思う。私としては「我々がコンピュータを使って仕事をしている」という事が生み出す効率化とリスクに興味を持っている。コンピュータを使って効率的な作業を出来るようにするために、我々が負ってしまっているリスクはなんなのかということだ。その話はまた別の機会にしたいと思う。

自分という観客

(旧ブログからの転載と若干の修正→ 旧記事)

 

「芸術は自己満足になってはいけない」「見てもらってナンボ」というような事を言う人は多いけど、私の感覚的には、芸術って自己満足をするためにというのが第一の目的なのではないか?と思っていた。多分これは「自己満足」という言葉の捉え方が違うせいで齟齬が生じているんだと思う。なのでそのことについて解説したい。

 

以下、私は音楽の事ぐらいしか分からないと思うので、基本は音楽の話として書くのでそのつもりでよろしく。


私は演奏をしようとするときに、出来れば「これまでこの世に無かったもの、その中で、自分にとって存在して欲しかったもの」を作り出そうと思っていて、それが芸術的態度だと思っている。それは、作曲やアレンジするというだけでなく、既存の曲を演奏する時でもそういう気持ちでやっている。いや、そうあるべきだと思っているだけで、なかなかそう出来ているわけではないけどね。でも、少なくとも、プロの演奏を出来るだけ真似して弾きたいと思うのではなく、どこか一点でも今まであった演奏(プロの演奏含む)を超えるべきだと思って演奏しようとしている。

 

もちろん、既存のものの真似をすることもあるけど、それは修練という気持ちでやっている。自分の感性を磨いて、自分が表現したいものを出す「いつかの本番」のために、それが必要だとも思っているけど、しょせん練習でしかないという意識である。あるいはそれは、自分で弾いてみるということで作品をより深く知るという「鑑賞」の一種と言ってもいいかもしれない。

 

「習字」と「書道」は何が違うのか?といういつもの例を挙げてみる。「習字」はお手本通りに書くという練習であり、「書道」は芸術であり表現だ。しかし、書道の前に習字をしないやつなんて話にならないだろう。基礎段階としては習字は必要だ。そして、習字も書道もそれぞれに単体で価値はある。というか、普通の人にとっては字を書くという行為は活字のようなきれいな字を書ける方が重要で、一つ一つの文字が心に訴えかけてくる必要はない。そういう意味では習字の方が一般的には価値が認められている。では習字と書道では習字の方が優れているのか?というと、そういう話ではなくて、勝負の土俵が違うのだ。


ここで「乙女の祈り」というピアノ曲の話をしよう。バダシェフスカというポーランド女性の作曲の曲で、多くの人に知られている曲だと思う。この曲のいうところの「祈り」とはなんなのかというと、素敵な(金持ちの)男性と結婚することである。どうもこの曲は結婚を夢見る女性の気持ちを描いたものらしい。いや、実はそれだけには留まらず、どうもこの曲はその結婚のための実用的な目的のために使われたらしい。つまり、この曲を弾けるということで「ピアノが弾ける上品な乙女」を演じることで、旦那様をゲットしようという目的の曲として流行したらしいのだ。

 

この曲のファンには申し訳ないが(いや、ある意味ではこの曲の凄さを表しているのだろうが)、この曲は非常に単調なモチーフを繰り返し、技巧的にも「上辺だけ着飾ったような曲」なのである。耳触りの良さに特化した曲と言ってもいいだろう。技術の割に凄い事やってるように聴こえるのである。繰り返すがそれ自体は悪い事ではない。ただ、実際音楽的にはスカスカの曲として批判されることもしばしばあるのである。

 

何が言いたいかと言うと、これは典型的な「お稽古事」としてのピアノ弾きの例だということである。そこには、曲に対する尊敬があるわけではない。弾いている自分を見てもらうことに主眼が置かれている。

 

私が所属しているサークルであるピアノ愛好会のコンサートを聴きに来る人は、よく「お稽古事」を求めてくる。技術的な不備についてや、解釈がおかしいとか、自分の基準で批判してくる人がたくさん居る。そういう人は自分がピアノを弾いていた時も、「お稽古事」としてやっていたのだろう。まあ、ピアノ愛好会の人がお稽古ごとのつもりでやっていることも多々あると思うが。


後でちゃんと繋がる自信がないが、また別の話をする。ある一つの曲を複数回聴いて、感動する時としない時があるということには同意がいただけると思う。録音物を自室で再生してイヤホンで聴いている場合などは、耳に届く部分までは同じものが出力されているはずだ。でもその曲の評価は聴く度に変わってしまう。それは、その時々に聴く自分の側が同一じゃないからだ。

 

芸術作品はそれ自体価値を持っているような気がするけど、実際はそれを観察する人がいないと価値を持ちようがない。まあ良く考えてみれば当たり前だし、他のものだって大体なんでもそうだ。目が見えなかったら文字に意味はない、とかそういうのと同じレベルの事だ。

 

実際、芸術作品の価値というか感動を与える度合いは、鑑賞側のコンディションに大きく左右されてしまう。それは、例えばその時の気分であったり、他の作業をしていて作品に集中できていないだとか、音楽が主体なのに視覚の情報処理に負荷がかかり過ぎて脳のリソースを割けないだとか(照明を消すと音楽が良く聴こえるそうですよ)。あるいは、そのジャンルへの親しみがなく聴き所が掴めないとか、そもそも歌詞が外国語で意味は分からないだとか、いくらでも条件は変わりうるわけである。

 

自分が同じ曲を続けて聴くのでも、一度も「同じコンディションで聴く」ことはありえない。何より曲は一度聴くと「一度も聴いたことがない曲」から「一回聴いたことがある曲」になってしまう。その何回目が自分にとって最高の感動を与えるかも未知数である。(楽曲の複雑さと繰り返し聴取における快感情の関係、というような研究もあるんですよ)

 

長々書いたが、言いたいことは、芸術はアウトプットするという作者の行為と、それに触れるという鑑賞者の行為の両方があって初めて意味を持つ。共同作業と言ってもいい。片方だけでは感動が生まれるはずがない。

 

コンサートホールやライブステージで音楽を聴いているときには、観客は具体的にも「協力」している関係になる。観客が好き勝手にうるさくしていたら観客自身も演奏者も演奏に集中できない。静かにしていることも協力だろう。もちろん、手拍子などで積極的に参加することもある。演奏者以外の「アウトプット側」のスタッフも、照明を調節して見るべきところに集中を促したりと、総合的に円滑な鑑賞を促していると言えるはずだ。ライブに行くのが好きな観客にしてみれば、横でノリノリになっているお客が居ることも自分が楽しむための重要なファクターなのだろうし。そういう意味でコンディションを整えるということをちゃんと意識してやるべきだ。


さて、冒頭の話に戻る。ここまでの話を普通にとらえると、「多くの人に聴いてもらわないと意味がない」というような話に聴こえるかもしれない。でも私の言いたいことはそうじゃない。もちろん、多くの人に聴いてもらえれば、聴く側の方で感動してくれる可能性は増えていく。しかしそれはしばしば「自分で自分の作ったものを良いと思っていようがいまいが、多くの人に受けさえすればいい」という考えになってしまう。それは一概に悪い事ではない。実際多くの人を笑顔にするのはそっちの方かもしれない。でもそれは芸術的態度ではない。習字の方が芸術より一般的にはウケるみたいなものである。

 

「まさに芸術」という言葉には、芸術というのは凄いものだみたいな意味が含まれてる気がするが、私の感覚的には芸術というのは態度であって、良し悪しの判断は含まない。大体の人は「上手い習字」の方が、「書道」なんかより良い物に見える。「芸術」なんてそんなもんだ。

 

プロであるということは、ウケる(稼ぐ)ことを目的にするということだ。だからプロのミュージシャンは芸術を目指す必要はない。ただ、プロの方が技量が高いがゆえに結果的に芸術活動が出来ているということが多いのはそれはそれで事実なので、稼げる程に凄いことが芸術だと見なされがちなのだ。

 

基本的にはアマチュアの方が純粋に芸術に邁進することが出来る。ウケる事を目指すということは、本当に自分のやりたいことをやる(欲しいものを作る)という気持ちを歪めてしまう。「聴いてもらわなければ意味がない」とことさらに言うのは、「自分で自分の作品を良いと思ってなくてもいい」という考えを推奨してしまう。これはある意味プロ意識に近い。

 

私は自分の演奏の録音を良く聴く。反省のためでもあるが、単純に自分にとっての鑑賞物なのである。私が自分のために欲しいから自分でアウトプットしたのだ。どれも完璧だなんて全く思わないが、自分にとっては価値のあるものであるし、そう思えないならそんなものを他人に聴かせようとしてはいけないという意識がある。そしてそれを「アマチュアの誇り」だと思っている。

 

私が私の曲(演奏)を聴くときには、私は観客である。アウトプットしたものは、アウトプットした瞬間から既に自分そのものではない。当然それを聴く自分のコンディションによって、良く感じたり悪く感じたりする。私という人格とは無関係にそれには価値が(多寡はともかく)あるのである。その意味において「聴いてもらわなければ意味がない」という時の、聴く側の存在は確実に担保されているのである。


まとめよう。

 

アウトプットした物そのものには、アウトプットした人とは独立した価値があると考えるのが、芸術的態度である。アウトプットした人自身の栄誉を高めようとすることは、芸術とは関係のない事である。

 

立場によっては、後者を推奨することはあり得る。プロだったらそれでお金を稼がなきゃいけないから、そういう要素も必要となるだろう。また、大学が学生にサークル活動をさせるなら、出来るだけ大学の名誉を高めるように活動して欲しいのかもしれない。それに迎合するべき時もあるだろう。でもそれは芸術活動として素晴らしい事かのように考えるのはやめてもらいたいのである。

 

「自己満足」だとしても、観客としての自分が満足できれば、それは芸術として成り立っている。しかし表現者として満足するだけではダメである。それは自分のポーズに満足することだからだ。

 

表現をしようとする人は、基本的に鑑賞だけする人より耳や感性が肥えている。だから、自分が満足できるものを作るのもより大変になる。その代わり自分が本気で満足できるものが出来たら、大抵の観客は称賛してくれるはずだ。そういう態度、つまり自惚れが芸術家には必要だと思う。

サービスの受給過剰としてのFacebook疲れ

twitterfacebookの違いはなんだろうと考えていて,ふと「Facebookにはサービス精神が足りないんじゃないか」と思いました.twitterには,面白いことを言おうという風潮が,少なくともfacebookよりはあります.facebookで投稿されている事は,正直に言って面白くもなんともない事がほとんどです.お前が何をしたかなんて事が面白い訳ないだろと思うわけです.その人に恋してるなら別ですが.そういう投稿に対して「いいね!」を付ける.facebookは大体そういう場なわけです.

 

でもそれ自体が悪いとは言えないと私は思います.例えば私が凄く面白い話をしたとする.それに「いいね!」が付くとする.それは,その話に価値があるからです.その話そのものに価値があるという事は,逆に考えると,私以外の誰がその話を提供しても,受け取る側にとっては変わらない事なわけです.そうした場合の「いいね!」は,私の人格への称賛と言えないのではないでしょうか.そう考えると,実は「何の価値も無い話をする」ことに「いいね!」をする事によってのみ,「人格そのもの」を好きであるという表明をすることが出来るわけです.そして,人間はある程度その要素が無いと生きていけないのだと感じます.ですから,そういうことをするのも悪くはないのだと思います.(この話も掘り下げたいのですが,今回の本題ではないのでこのぐらいにします)

 

しかし,実際のところ「Facebook疲れ」なんていう言葉を聞くぐらい,コミュニケーションにおけるストレスを私達は感じているわけです.で,その理由が「サービス精神が足らない」ということなのではないか,厳密に言うとタイトルに書いたように「サービスの受給過剰」にあるのではないか,というのが今回のお話です.

 

 


 

「サービス」とはなんでしょうか.これを「人を喜ばせたり,人の苦しみを軽減したりするもの」ととりあえずしておきましょう.Facebookの意味無し投稿は人を喜ばせるものではありませんが,「いいね!」をする事は人を喜ばせます.サービスを提供したのは「いいね!」をした人で,元記事を書いた人はサービスを受け取った人です.

 

ここで,提供する側が価値を生んでいて,受け取る側は何もしてないように見えるかもしれませんが,サービスは受け取る側が拒絶すると成立しないものでもあります.Facebookでは拒絶出来ない代わりに,受け取れない事については書かない事になっています.それが「いいね!」があって「死ねや!」が無い事の意味です.ですから,実は元記事を書いた人は「あげたい人からもらってあげた」とも言えます.「あげたい」ことと「もらいたい」ことが釣り合っているうちは「もらうばかり」であっても,悪い事ではないのです.

 

しかし,供給と受給が釣り合っていない場合はストレスが溜まります.サービスをお金で買う事もありますが,これは供給と受給に差がある状態,つまり,片方の欲求が大きくなってバランスが崩れて,その差をお金によって埋め合わせなくてはいけない状況と考える事が出来るでしょう.それ以外の場ではお金が絡まないので見えにくいだけで,私たちのする事は大体サービスです.普段人と会話する事でさえ,お互いの幸福に大きく寄与する「サービスの交換」なのです.

 

バランスが崩れる例として,私はプレゼントを受け取るのが苦手です.それを受け取ったとき,何かお返しをしなくてはいけないような気になります(しろよ,ってか).それは,サービスの供給と受給のバランスが崩れた状態と捉える事が出来ると思います.誕生日を祝われるのも苦手ですが,それも同じ事でしょう.

 

また,何はなくともプレゼントのような事をしたいと思っている人も居るという実感があります.そういう人は「あげたい」のです.人の欲求は「もらいたい」だけではないのです.私も,何かモノをあげたりは全然しませんが,こうしてわざわざ時間をかけて文章を書いて「教えてあげたい」と思ってたりするのです.それは自分勝手な欲求だとも思います.それと「プレゼントをあげたい」ということは,そんなに違わないでしょう.

 

『プレゼントって暴力だから あげるのも もらうのも 僕は苦手だな』というセリフが「ぼくだけが知っている」という私の好きな漫画で出てきます.まさに,とは思ったのですが,小学生のキャラクターが言うにしては賢過ぎだとも思います(^^;).

 

人を褒めるということにも,同じような事を感じます.人を褒め過ぎると,それを受け取れない時,相手は離れていってしまうのです.男女の関係でもそうでしょう.お互いの想いが釣り合っている時に人間関係は上手く行きます.片方だけではだめなのです.私なんかは人の好意を受け取るのが苦手だという意識があって,上手に好意を受け取れる人を見ると,それも一つの能力だなと感じます.

 

 


 

というわけで,タイトルに書いたように「Facebook疲れ」の正体は「サービスの受給過剰」なのではないかと考えたわけです.「いいね!」をあげたい人に比べて,もらいたい人が増え過ぎたのではないでしょうか.そういう人が増えたのか,意識が変化したのか分かりませんが.

 

このような構図が発生する理由はよく分かりませんが,これも「いいね!」があって「死ねや!」がないことによるのかもしれません.負の装置がないので健全な収支にならないというか.あるいは「あげる」じゃなくて「もらう」が行動として先に来るという方式によるものなのかもしれません.

 

また,受給過剰なら,供給する人の価値が相対的に上がるという予測から,自分が何か供給するのはチャンスかもしれません.ま,別にそう思ってこの文章を書いている訳じゃあありませんけどね.

冗談のコストは誰が払うのか

私は冗談を良く言うけど,必ずその冗談を冗談だと分かってくれない人がいる.そういう時に「冗談の分からない奴め」と心の中で思う事もないではないけど,それは言わないようにしている.冗談が分かってもらえなかったとしても,悪いのは冗談を言った自分だ,と思うようにしている.なぜなら「冗談の分からない方が悪い」という事にしてしまうと,どんな正当な批判もそれで否定出来てしまうからだ.

 

冗談には「嘘」が含まれる.自分が思っている事とは違う事を言うという意味で.嘘をついているのだから,誰かにとって不利益が生じたり,言った人が責められたりするのはある意味当たり前である.なぜそんなリスクを負ってまで冗談を言うのかと聞かれると,ちょっと答えに困ってしまう.もちろん,冗談が分かる人同士でそれを楽しむ利益はある.それがリスクを補って余りある魅力と考えられれば,冗談を言う理由はあるということになる.しかしここで利益を得る人と不利益を被る人は別の人だ.自分達が楽しむために,他の人を犠牲にしている.そう分かった上で,冗談を言う事は本当に自分の望む所なのだろうか?

 

一般的な冗談とは全然関係ないと思うかもしれないが,例として血液型性格分類について考えてみる.まず,血液型性格分類には根拠が無く,優位な差が実証された事もないとして話を進める.しかしそれを了解している人の中にも,初めて会った人に血液型を聞いたりする人はたくさん居るだろう.初対面の人とは,話のきっかけになりさえすれば話題は何でもいいという事はある.何か話しているうちにお互いに盛り上がれるポイントを見つければ良い.何かを話さない事には始まらないのだ.そういう状況で血液型の話はそれなりに機能するであろうと思う.頑なに「そんなの根拠ない」と言うのであれば,他のきっかけとして何かを自分が提供しなくちゃいけない.そうして,本人達も正しくないとは思いつつも,本人達の利益のために「嘘」を上手く使う.それは得してる人しか居ない嘘だとすれば,悪い事ではないと言えるかもしれない.

 

問題は,前提を共有していない人が混ざる場合である.「血液型性格診断は嘘っぱちだ」という前提でそれを「楽しい嘘」として話している人達と「血液型性格診断は正しい」と思っている人が一緒に話した場合,正しいと思っている人にとっては自説が間違いであると気付く場面が無い.元々どちらのバイアスも持っていない人にとっても「血液型性格診断は正しい」というバイアスを強化する方に働くであろう.これは「嘘を流布している」ことではないのか?血液型性格診断が飲み屋のネタでしかなかったならまだ良かったのだが,実際には明確に差別と呼べるような現状をも生み出してしまった.自分が差別していなくても,差別する人を生み出し,それによって皆が(自分も含めて)不利益を被る.そういう状況を見ても,まだ「楽しい嘘」をついていて良いのだろうか.

 

冗談は「楽しい嘘」のようなものだ(ちと乱暴な議論かもしれんが).であれば冗談が肯定されるのは,それが冗談だと分かる人しか居ない時だけではないだろうか.そして冗談が分からない人にとっては,冗談はプラスマイナスゼロどころか,マイナスになってしまう.そしてそれは巡り巡って自分にもマイナスをもたらす.そういう認識が居ると思うのだ.だからこそ,冗談だと分かってもらえなかった時は謙虚に対応しなくてはいけない.そう考えると,インターネットで冗談を言うというのは非常に難しい.冗談を受け取る人の中にその冗談が出てくる文脈を共有してない人が絶対に居るからだ.ある冗談が言っていい冗談かというのは閉じた場においてしか議論しようがない.そしてもちろんその場が変化すれば言っていい冗談も変化するのである.

 

ある意味冗談は「知性の証」である.しかしそれは「冗談が分かる人と分からない人を区別して,分からない人を馬鹿に出来るから」ではなく「人を不快にしないように場面を選んで冗談を言える」ということであって欲しい,と,そんな風な事を思うのである.もしかしたら,冗談を冗談だと分かってもらえなかった人がムキになるのも,自分の知性が足らなかった事に向き合わなくてはいけないからかもしれない.

 

(なお私が場面を選んで冗談を言えているかというと,全然出来てないと思う)

ポジショントークに良し悪しはあるか

世の中はポジショントークで出来てるんじゃないか、そんな事をちょっと前から考えていました。ここでいうポジショントークとは「自分の立場を強めるための発言」という意味としたいと思います。本来の意味は相場に関する専門用語のようです。

 

本来の意味でも私の言う意味でも、ポジショントークって悪い意味で使われる事が普通だと思います。でも、自分にとって自分が有利になるよう発言するというの は当然の行動とも言える訳で、むしろ全てはポジショントークだと思えば、ポジショントークは悪いとは言えなくなるんじゃないかと思います。少なくとも「それはポジショントークだ」という反論は反論の意味をなさなくなると思います。

 

それじゃあどんなポジショントークは嫌われて、どんなポジショントークは問題無いんだろう。そんなことを考えていたのでした。

 


 

ポジショントークをするというのは自然な事だと思うのです。誰しも自分の立場や、これまでの自分の人生を肯定したくなってしまうものです。例えば結婚して子供を産んだ女の人は、悪気なく「結婚して子供を産むのが女の幸せなのよ」なんて言ったりする。この発言は「自分はそれを手に入れた幸福な存在である」という事を他の人にもアピールしている事になるわけです。それが今回話題にしているポジショントークです。本人は本当にそう思っているのかもしれないし、あるいはそのために諦めてきた他の事がたくさんあるからこそ、自分に言い聞かせるように言っているのかもしれない。またこういう発言があると、子供を産めないであるとか、結婚しない女の人からも反発の声が上がったりしますよね。それは「自分がそれを手に入れてない不幸な存在だ」と言われている事になるのを嫌がるからで、ポジショントークへの反対という意味で、これもまた自分の立場を肯定するポジショントークとも言えそうです。

 

これは思考遊びみたいな話ですが、社会的に成功した人が「努力しろ」と言うのも、ポジショントークなんじゃないかと考えてみました。もし努力した人が成功するのであれば、みんなが努力するとそこから抜きんでるには自分はもっと努力しなくちゃいけません。周りの人が自分より努力しないでくれたおかげで自分が成功出来たのに、他の人に努力しろと言うのはどういうことなのでしょう?それはつまり「自分は成功したという事は、他の人より努力したんだ(だから偉い)」という事を言っているに過ぎないのだと思います。逆に言うと、努力というのは「成功したときに、していたと見なされるもの」なのです。そういう意味で「努力すると成功する」は常に正しいのです。似たような例として、「問題解決能力」というのは、問題を解決できた時に有ったことになる能力、なんてのもあります。

 

よく「頭の良い人」が、「なんで世の中こんな馬鹿ばっかりなんだ。みんなもっと賢くなれよ」って言ったり思ったりすると思います。でも周りの人が自分より馬鹿で居てくれるから、自分は賢いという実感が得られているのです。賢い人は周りの人が馬鹿である事に感謝しても良いぐらいです(笑)。せめて賢いあなたは周りの馬鹿のためにしてあげられる事を考えたらどうですか。

 


 

ところで、自分の立場を弱めると分からずにポジショントークをしてしまうというケースも多く見かけます。先述の「結婚して子供を産む、のでない」女の人の中にも、自分がその立場で無いのに、「それが幸せというものだ」なんて言うケースがたくさんあるのではないでしょうか。それは親にそう言われたとか、世間がそういうプレッシャーをかけてくるとかで、本気でそう思いこんでいるのだと思います。まあそういうケースが多いと言う事は、本人もそれを望んでいるケースが多いという事なのかもしれませんが…それにしてもそんな生き方は辛そうですね。

 

他の例を出します。今は「見た目がきれい(カッコイイ)なのは偉い」という事は不文律みたいになってると思います。それは本能のままだと普通そう思うんだろうなという意味で別に不自然だとは思わないのですが、以前はもっと「人間は中身が大事」みたいなことを言っていた時代があったような気がします。これは私はもしかしたら「大人」のポジショントークだったんじゃないかと考えてみました。人間、若い方が見た目はきれいでかっこいいわけです。でもその若い人の方が偉いってことにしてると大人が威厳を保てないから、「見た目なんて大した要素じゃない、大事なのは中身だよ」って言ってたんじゃないでしょうか*1。そしてそれはまあまあ受け入れられてたんじゃないかと思うのです。時間経過で衰えていく要素より、伸ばしていける(衰える事もありますがw)要素をありがたがる方が、人生に希望が持てませんかね?だからそれは生き易くするための知恵だったんじゃないかなーなんて思うのです。と思うのですが、それを最近は歳を取っても「どう若く有り続けるか」に執着してる人ばかり見て、なんだかなーなんて思うのです。そんな風に思ってたら歳をとるのって辛いばっかじゃないですかね。まあ、それも色んな要因から「大人」になる事のメリットがなくなっているという事なのかもしれませんけど。

 

ちょっと変な話を先にしましたが、容姿についての普通の話としては、容姿に自信の無い人が「世の中は容姿だ」って言っちゃってるようなケースを良く見ます。それはポジショントークにやられてるように見えます。まあ「世の中は容姿じゃない!」って容姿が悪い人が言うと負け惜しみみたいに見えるというのはあると思いますがw、そりゃそういう勢力が圧力をかけてきてるからで、本気で闘わないと解消しないのです。本気で闘いましょう。つまり容姿以外の何かで「オオッ」っと思わせるだけの何かをやりながらじゃないといかんでしょうねー。圧力かけてきてるのが「容姿のいい人」なのか、「容姿を良くするための商品を売っている企業」(服、化粧品とか)なのかは分かりませんけど。

 

あと、しつこいですが容姿ネタをもう一つ。私は人の事を「ブス」とか言う男(女もだけど)はかなりアウトじゃないかと思うんですけど、「ブスじゃない女」からすると、ブスを虐げる男はポジショントーク仲間として仲良くなれる事もあるのかなーなんて思います。似たような話として、アイドルオタクが(一般的にはキモイとされながらも)意外に容姿のいい女の人を妻にする、なんて話をたまに聞くんですが、それもアイドルオタクは「容姿を高評価」する存在なわけで、「容姿が売り」(逆に言うと他に売りが無いという自覚がある)女の人にとっては自分の価値を認めてくれる人なわけで、なんとなく納得できる面があるなーなんて思っているのでした。

 

最後の例は、私が良くないなーと思うけど他の人があんまり問題にしてると感じてない気がする例です。学者が自分の学問を大事だって言うケースです。例えば漫画「もやしもん」(あんまり読んでないけど)の中で、「農学は至高の学問だ」って言い張る農学者が出てきます。私は「あんたが農学に魅力を感じているのは構わないけど、なぜ他の学者が自分のやっている学問に同じように魅力を感じていると想像できないのか?」と思ってしまいます。まったく同じ例として、最近ちょっと話題になった「統計学が最強の学問である」っていう本も私は気に障りました。

 

これらはもちろんポジショントークですが、これまで見てきたポジショントークと何が違うのでしょう?それは話者が「学者」であるという点です。学者は賢い事が仕事なのですから、自分の言ってる事がポジショントークであるという事にもっと自覚的であるべきです。もし全ての学問を誰より習熟してから言ってるなら文句はありませんが…そんな人間はこんな専門分化が進んだ時代に存在できないでしょう。

 

極端な話、美人が「美しさが大事」って言おうと、スポーツマンが「スポーツは大事」って言おうと、つまりはポジショントークをしようと構わないと思うのです。彼らは賢さで売っているわけではないのですから。しかし学者は「勉強が大事」って言う事には慎重になるべきだ、と思うのです。…うーん、しかしこれは私の立場が学者寄りだから、学者に厳しいだけなのかもしれませんけどね。

 


 

さて、ここらで話をまとめようと思います。良いポジショントークと悪いポジショントークがあるのかなあ、なんて考えてきたわけですが、私は途中いくつか仮説を立てていました。

 

1.は、まあそういう世界で生きてる人がたくさん居るという話で(笑)、もちろん良くは無いですね。でも、「いじめ」と「正義の鉄槌」の違いは本質的には同意する人が多いかどうかによって決まるみたいに考えることも出来ますし、忘れてはいけない考え方だと思います。

2.は、自分の事ばかり考えるんじゃなくて、他人の事を考えたものであればいい、というような案でしたが、自分を苦しめているようなポジショントークをする事も肯定することになってしまいます。そんなのは良くないですよね。

 

ということでどうしたもんかと思っていたのですが、例を挙げつつもう少し考えてみたところ、どうも発言の内容そのものではなく、他人の言というものへの接し方の問題なのかなあと思ってきました。ということで以下のように考えるのはどうでしょうか。

 

 

特に聞く側については、注意すべき人は凄く多いのではないかなと思います。もちろん「他人は全て敵」というような単純な話ではなくて、自分が何かを話すとすれば相手にとって益があると思っているように、相手も自分に対して良かれと思って話しているという事は忘れてはいけませんけどね。

 

自分の言っていることがポジショントークであることに自覚的であるかということは、多様な考え方を認められる、あるいは想像できるという事だと思います。その方が良いと思いますが、出来なくても聞く側が気に食わない時に聞き流してくれれば問題ないような気もします。逆に言うと、そうならなそうな時には役立つのではないかと思います。

 

他人の事を「かわいそうだ」とか「そんな人生でいいのか」とか「もったいない」とか言う人はたくさん居ます。そういう人達は多分むしろ自分の人生にあまり自信が無いのだと思います。自分の人生感にみんなが納得してくれれば、自分は勝者として扱われて、他の人は敗者になる。そういうポジショントークをしている事がほとんどだと思います。自分が幸せなら他人がどうであろうと構わないではないですか。自覚はあるのかないのか分かりませんが、むしろ自分に「今までの人生はこれで良かったんだ」と言い聞かせているのではないかと思ってしまいます。

 

幸せってのは好きとか嫌いとかと一緒で他のものからは導かれない根源的な感覚ですから、他人がなんと言おうと自分の幸せを決められるのは自分だけです。他人の言葉で自分が貶められたような気持ちになる人は、(SNSなどを離れてw)自分の気持ちを聞いてあげられる時間や環境を持てるようにするといいのではないでしょうか。


*1:その考えが「自然」でないからこそ、声高に叫ばれるのでしょう。自然なのは容姿がいいのを偉いとする方です。そして「自然だから正しい」は必ずしも成り立ちません