ゲド戦記(1〜3巻)
古典の名作と言われるのは出来る限り読んでおきたいよなーという気持ちで、3大ファンタジーの一つと言われるゲド戦記の小説版を読んでみたのですが、かなり面白くて個人的にはお気に入りのシリーズとなりました。
ゲド戦記と言えばジブリの映画がつまらないことで有名ですが(?)、宮崎駿は元々ゲド戦記の原作が大好きだったらしくて、息子の吾郎が映画を作ることになったときに作者のル=グウィンに会って、いかに吾郎が原作の素晴らしさを理解していないかを雄弁に語ったとかいうさすが宮崎駿だなっていう畜生エピソードがあるそうです。それはさておき。
ゲド戦記は6巻まで出ているのですが、3巻までで一旦ひと区切りしたと思ったら、30年以上経ってから4巻が出てみんなびっくりしたとかなんとか。私は今のところ3巻まで読みました。4巻以降はなんか急に現実に引き戻されるような辛さがあるらしいですが、まあそれはそれで楽しみです。
- 作者: アーシュラ・K.ル=グウィン,ルース・ロビンス,Ursula K. Le Guin,清水真砂子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/01/16
- メディア: 単行本
- 購入: 6人 クリック: 27回
- この商品を含むブログ (29件) を見る
1巻の「影との戦い」は、主人公のゲドがまだ若くて、自らの才能と向き合う話。2巻はゲドがかなり名声を得た後の話で、女性の自立の話(作者のル=グウィンは女性)。3巻はゲドが大賢人としてトップまで上り詰めた状態で、死に向き合うお話。かな。
一応映画に出て来るアレンは3巻の登場人物なので、映画版は3巻を元にしていると言えそうですが、何もかもが違うので特に関係はないと思った方がよさそうです。そもそも舞台設定からして、アースシーっていう海がメインで島が連なっているポリネシア地方みたいな世界なので、船で移動する場面がすごく多いんだけど、そんなイメージ映画でゼロですよね。私は小説版を読みながら、ゼルダの伝説風のタクトを思い出しました。多分参考にしてるんだろうなあと(もちろんゼルダがゲド戦記を)。
ゲド戦記の世界では、本名はバレると相手に好き放題されちゃうので、普段は通名を使っているという設定になっています。「ゲド」は本当の名前で、普段は「ハイタカ」っていう名前を通名にしています。こういうモチーフは他の作品でも結構出て来るし、例えば我々がインターネットを使う時にハンドルネームを使って、本名がバレると嫌がらせされたりして危険(笑)みたいな現状にも似てる気がして、このあたりの設定に私は一番興味があったんだけど、それに関して特に目立った示唆は得られませんでした。ただし、物語上はすごく有効に機能はしていて、友人のカラスノエンドウが本名を明かすシーンには感動しました。
深みのある作品だと思うけど、作中の雰囲気自体は結構地味で、名作だぞーって子供に読ませようとすると子供は退屈しちゃうかもしれない。私はハリーポッターって倫理観があんまり好きになれないんだけど、やっぱり子供が楽しめるという意味では結構レベル高い作品なのかもとか思い直したりしました。
読んだ後にジワジワきて、なんとなく読み返したくなります。うーむさすが名作や、と思いました。オススメです。
日常を音楽の本番にしたい(ピアノ弾き向け)
音楽における「本番」がコンサートに偏り過ぎてはいないか
私は長くピアノを弾き続けていますが、ここ5年ぐらいはコンサートには出ていません。ピアノを弾く人には、コンサート(あるいはコンクール)に出演するという目標を立てて、それに向けて練習するという取り組み方をしている人が多いのですが、私はそうではないということになります。
それはなぜかと考えると、私自身が、他人の演奏をコンサートで聴くということにあまり価値を感じていないからだと思います。このご時世、CDなりYouTubeなりで物凄く上手い演奏をいくらでも聴くことが出来るわけで、それより劣る演奏をわざわざ聴きに行くということにあまり意味を感じないのです。したがって同様に、私がコンサートに出たとしても特に社会的な価値はない、と考えています。
もっと言ってしまえば、演奏者が「自分がハレの舞台で活躍している」という実感を得るために、お客さんに「来てもらっている」という感覚になっていることが結構多いんじゃないかと思うのです。しかし今はどの創作分野でも「クリエイター余り・消費者不足」の状態です。そういう状況で本当に必要なのは発表する方ではなくて、発表を見て聴いてそれを称賛する人の方です。そう思うので、私は自分が積極的に称賛される方に回りたいとは思えないのです。
しかし、たとえ社会的な価値がなくたって、自分がピアノを弾いて楽しかったらそれは何物にも勝る価値ではないか、とも思っています。実際私は家で一人で楽しくピアノを弾いています。
ただ、一人でも楽しいというだけで、別に一人の方がいいと言ってるわけではありません。横で親しい人が聴いてくれたらいいなとは思いますし、音楽に詳しい人とあーだこーだいいながら弾けたら楽しいなと思います。あまりやったことないですが、セッションのようなことが出来たらそれもいいでしょうね。
ここで思うのは、音楽ってもともとプレイヤー同士で楽しむのが基本であって、コンサートのように演奏者と観客が完全に分かれているものって、むしろ特殊な形態なのではないか、ということです。それが現代の、特にピアノ界隈では、あまりにも「コンサートという本番」のために「その他すべてが『練習』になっている」印象を受けるのです。
そうではなくて、一人で弾いて自分が楽しむ、あるいは仲間と弾いて音楽を作り上げることを楽しむ、という日常の音楽こそが「本番」である、という意識転換は出来ないものでしょうか。
グランドピアノは日常の音楽には適さない
音楽の本番がコンサートに偏り過ぎていると思うことの一つの例が、家にグランドピアノを置きたいという人がたくさんいることです。私は家にグランドピアノを置くというのはかなり狂気に近いことだと感じています。もし私がグランドピアノを軽く買えるお金を持っていても、今だったら電子ピアノを買うと思います。
グランドピアノを家に置くのの何がおかしいかというと、グランドピアノは大きなホールに行き渡るだけの音量が出せる楽器なので、そんなものを家で鳴らしたら音が大きすぎるということです。
うるさいから近所迷惑だという話でもありますが、弾いている自分が聴くという目的でもそんな音量は欲しくないです。自分の家の中で電子ピアノで弾くときにも、音量は最大まで上げません。そんなに大きな音はそもそも聴きたくないからです。
実際、ピアノの弾き過ぎで耳を傷める人というのもいますし、耳栓をして弾いていてるピアニストもいます(具体的にはスティーブン・オズボーン)。ホールでお客さんが聴くには必要な音量であっても、演奏者にとって望ましい音量とは言えないわけです。
それでもなお多くの人が自宅にグランドピアノを置こうとするのは、コンサート本番に使うのがグランドピアノなので、その感覚に近いもので練習したいと思うからでしょう。まさにこの制約こそが、音楽文化に非常に大きな影響を与えていると感じています。
この話は、例えばピアニストの内田光子さんも以下のインタビュー動画で指摘しています。
(5:14~)
インタビュアー「ドビュッシーは別種のピアノを使っていたの?」
内田「ええ ずっと軽い楽器をね!
特に現代のコンサート用のピアノは大きな問題を抱えています
私たちが弾くのは こんなにも長く大きな楽器で
必要に迫られて重いアクションになっています
ホールは より大きくなり 大きい音が要求され そのために
昔よりも ずっと重い楽器でなくてはならない
鍵盤ひとつをみても
ドビュッシー時代とはさほど変化していませんが
ショパンの時代と比べると大きな違いがある
ショパンの楽器…例えばエラール プレイエルなどは
実に鍵盤が浅くて とても軽く
私自身 試してみましたが
エチュードを弾くと実に美しい音がでるんです
でも この楽器などは多分ほぼ2倍位重いのではないかしら
ドビュッシー自身が弾いていたものよりね」
Debussy 12 Etudes : interview Mitsuko Uchida part1 (Germany) 日本語字幕付
ここでは、音量と関連して、鍵盤の重さについての話も出て来ています。ピアノは電気など他の動力による音量の増幅はしていない楽器なわけですから、大きな音が出るということはそれだけ大きなエネルギーを人間が使っているということです。
コンサートホールに響き渡る音量を出すグランドピアノを弾くためにはそれだけ大きなエネルギーを使って(具体的には重い鍵盤のピアノを)弾く必要があります。そして、コンサートホールで弾くことが本番である限りはそれと同等のピアノに慣れておかなくてはならないわけです。家で弾くならもっと小さい音量のピアノでいいはずなのですが、本番と違うピアノに慣れておくわけにはいかないという事情がそれを許さないのです。
ショパンなどはコンサートホールよりはサロンのような(比較的)狭い場所で弾くのを好んだと言いますし、上のインタビューにもあるようにそうした場所にふさわしいもっと軽い鍵盤のピアノを弾いていたようです。今あるピアノリサイタルの姿を築き上げたのはリストで、その後はどんどんピアノはホール向きに進化していくわけですが、もっと家庭向けに進化したバージョンがあっても良かったのではないかと思うのです。
というかまあアップライトピアノや電子ピアノは家庭向けに進化したピアノですね。しかしアップライトピアノも電子ピアノも、グランドピアノを目標にしてそれに近づくことを目指しているからこそ、グランドピアノの下位互換として認識されているというのが現状だと思います。しかしこれらも、コンサートで弾くことが本番ではないと思えば、そうした認識も変わっていくと思いますし、またグランドピアノを目指すことをやめれば、より普段使いに適したものが生まれてくるのではないかと思います。…ただ、もしかしたら、そうして進化したものは既にピアノとは呼ばれない、別の存在になっているのかもしれません。
日常を本番にするには
では具体的にはどうすれば、コンサートではなく日常を音楽の本番にすることが出来るのでしょうか。
ここで私たちがどういう時に「練習している」と感じているのかと考えてみると、曲をまだきちんと弾けない状態であると感じている時だと思います。つまり、取り組んでいる曲に対して自分の実力がまだ及んでいない状態の時に「練習している」と感じるのだと思います。そして(やや飛躍があるかもしれませんが)練習であると感じているということは、「本番ではない」と感じているということなのだと思います。
つまり現状は多くの場合、「本番に対して練習の割合が大きい」という状態になっていて、これをどうにかして本番の割合を大きくしたいわけです。
単純に「実力に対して弾こうとしている曲が難しい」ということが問題なのであれば、身の丈に合った簡単な曲を弾けばいいということになるでしょう。ただ、難しいほど良い曲というわけではないにしろ、良い曲は結構難しいことが多いので、現在の自分では弾けない難しい曲をなんとかして弾く、ということに長い時間を費やしている人は多いと思います。というか私がまさにそうでした。そして、それも別に悪いことではないと思っています。憧れの曲に必死で食らいついていくのは基本的に楽しいことですからね。そういう気持ちだけでは続けられなくなってからどうするかという話なのかもしれません。
しかし根本的な問題は少し違うところにあると思っていて、それは結局ピアノを弾く人は、楽器と自分の表現したいことが繋がっていなくて、自動機械のようにピアノを弾いているために、応用が全然効かず、好きなように弾くことが出来ない、というようなことだと思っています。
例えば伴奏として打楽器を演奏することを考えると、まず簡単に演奏できる基本のリズムパターンがあって、上級者はそれをさらにカッコよく複雑にして演奏しているということが想像できます。ということは、最低限曲として成立するという弾き方と、もっと本格的な弾き方が連続的に繋がっていて、その間を自由に決められるということだと思うのです。
これが出来るためには、ただ一つの動きを身体に覚え込ませるのではダメで、音符のうちのどれがどのような役割を担っているかを知る必要があります。それは言い換えると音楽理論の知識ということになると思いますし、実際に音楽理論を学ぶことでそういうことが分かるようにもなるとは思いますが、必ずしも座学として勉強しなくてはいけないとは思っていません。
例えばフォルクローレサークルの知り合いの話を聞くと、大学から演奏を始めたにもかかわらず、4年で卒業する時には、みんなでセッションをやろうとなったらその場ですぐ入れる曲は100曲ぐらいあると言っていました。要はそういう風に音楽に接してきたかどうかだと思うのです。
なお私自身は座学が性に合ってる面もあって、座学が効率的に感じるからという理由で結構理論の勉強をしていたりしますが、それもまあ本人次第だと思います。
私にはこのような問題意識がずっと前からあったので、ここ何年か、リードシートという、コードとメロディーだけが書かれたJ-POPなどの楽譜から、自分で伴奏を作りながら弾くという練習をしてきて、それが最近は結構出来るようになって、ようやくなんとなく楽器と親しくなれたような気がしています。
例えば部屋で弾いていて、楽譜をパラパラめくりながら「この曲なんだっけ、弾いてみよう。(その場で弾く)…あーいい曲だなあ」というようなことが出来たりするし、弟が部屋に来た時に「この特撮の曲がさー」とか言いながら弾いたりということが出来るようになったのです。こういうことが昔からやりたかったんです!
もちろん楽譜に書かれた曲を弾くのであれば、初見能力が非常に高ければ、素晴らしい曲に触れる機会が増えて、どんどん楽しい思いが出来るでしょう。こちらも私は長年ないがしろにしてきたので、最近反省して少しずつですが改善できないかと取り組んでいる所です。
別に皆が私のようになるべきだとは思っていないのですが、もしかしたら多くのピアノ弾きはコンサートという形態から離れた方が音楽を楽しむことが出来るかもしれない、ということを一度考えてみてはいかがでしょうかというお話でした。
(以上で本題は終わりで以下は付録)
付録
細幅鍵盤ピアノとコンクール
普通の楽器というのは自分で持ち歩けるので、本番でも普段自分が使っている楽器を使うことが出来ますが、ピアノは持ち運ぶのが大変難しい楽器なので、会場に据え付けられているものを使うことが一般的です。これは、自分用にカスタマイズされたピアノを使うのが困難であることを意味しています。
しかしピアノは万人が平等に使いやすい楽器とは程遠い楽器です。手が小さい人にとっては鍵盤の間隔が広すぎて、演奏が困難になってしまうことが良くあります。日本人としては10度が届かない人が多いことがよく話題になりますが、それ以前に女の人では8度が届かない人もまま見られます。そして8度つまりオクターブが届かないと、この楽器の魅力を引き出すのはかなり難しくなります。
そうした要望に応えて、最近では手の小さい人向けに細幅鍵盤ピアノというのも出て来ているみたいです。しかしこれも、コンサートホールにある本番のピアノが変わらないのでは結局意味がないということになってしまいます。いや、もしコンサートが本番なら、ですが。
しかし最近はこうした状況に対して、細幅鍵盤が選べるタイプのコンクールも出て来ているようです。コンクールに出るようなガチ勢の人達は、そうした「本番」の場が変わらないとなかなか細幅鍵盤を選ぼうという気になれないと思うので、少しずつですがそういう動きがあるのは喜ばしいことだと思います。
コンサートと演奏の価値を決める要素について
コンサートでクラシックを弾くことには社会的な価値はないという話をしましたが、もちろんこれは「私程度の能力の人が演奏することには社会的な価値はない」という話であって、価値がある人はコンサートに出たらいいし、私だってそういう上手い人の演奏を聴きに行きたいことはあります。
つまり私にとってはコンサートというのは「とびきりのごちそう」であればよくて、それは常食しなくてもいいものです。むしろ疲れるから常食はしたくないと感じているかもしれません。
ピアノ特有の事情もあると思っています。例えば私は和太鼓が好きなのですが、和太鼓はCDで聴いても私にとっては全く楽しくなくて、生演奏で身体にビンビンと振動を受けることや、太鼓を打っている姿というビジュアルも込みで楽しんでいるからです。オーケストラも同様に生じゃないと楽しみにくいものかもしれません。ごちそう感もありますし。それに対して、私はピアノはCDの音だけで十分満足できます。十分満足できるというか、むしろその方が好きかもしれません。
ちなみに、演奏する曲目によって要求される演奏能力は変化します。クラシックは一番競争が激しい分野なので、プロや音大卒生などという上位互換がいくらでもいるので、自分が演奏する価値は限りなく低くなります。それに対して、自編曲の曲などは、一応唯一無二のものなので、ニッチな需要に応えるという形で、演奏能力はそれほどなくても価値を感じてもらうことが出来ます。
他にも、演奏者への興味から演奏を聴きたいという場合には、演奏の上手い下手に関わらず演奏を聴くことに価値を感じることはあります。知り合いの演奏を聴きに行くというのはこれですね。別にそういう聴き方を馬鹿にしているわけではなくて、これはこれで楽しいものだとは私も思います。ただし、演奏にその人の性格が表れると感じて楽しめるのは一般的な感覚からするとかなり上手くなってからなので、下手な演奏ではそれを楽しむことが難しいため、結局「上手くなくても楽しめる」とまではいかないという問題もあります。
過去記事
人はなぜハゲるのか
「人はなぜハゲるのか?」と研究室で後輩たちが話していたので、私がその場で考えて答えたのは、こんな話だった。
大阪大学の近藤滋先生がネットで公開していたコラムに、シマウマがなぜ縞模様を持っているのか、ということに関する解説があった。ちなみに今はこの話はブルーバックスの「波紋と螺旋とフィボナッチ」という本に掲載されてWeb上からは無くなっている。
シマウマがシマシマなのは、特にメリットがあるからそうなっているわけではない。言ってしまえば、特に理由はないということだ。我々はすぐ生命の仕組みには何か機能的な理由があると考えてしまうが、進化というのは機能を獲得するために能動的に起こるわけではない(そういうことがあるという研究報告も最近割と見かけるようになったが)。ただ、ランダムに変化が起きて、環境の中でその性質が適応的であれば残る、という順番で考えるのが基本的には正しい。つまり、シマウマがシマシマなのは、シマシマであることが「生き残れないほど致命的なデメリットではなかった」ということだ。
そうは言っても、シマシマ模様が形成される仕組みに自体には疑問が残る。シマシマというのはいかにも特殊な模様で、このようなものが理由なく発生するというのは受け入れがたい。しかし、意外にも、このようなパターンは単純な仕組みから発生するという。
その仕組みとはどういうものかということの詳細を話すと長くなるので(とても面白いのでぜひ本を読むなりして欲しいのだが)、結論を簡単に書くと、動物にとってメリットがあるのは目立ち過ぎない色になることであって、それは明るい色素と暗い色素を細かいパターン(交互にするとか)で並べてその中間色を得ることによって実現しているため、そのパターンの繰り返しの大きさ決めるパラメータが変化することで、縞模様が出現してしまうということらしい。
つまり、中間色になるための仕組みが誤作動することで、縞模様という望んでいない目立つパターンが表れてしまっているが、それで絶滅するほどのデメリットにはならなかったのでそのパターンが残ってしまっている、ということのようだ。
さて、ようやく冒頭のハゲの話に戻るが、恐らくハゲの起こる仕組みもこれと同じで、「絶妙なバランスの上に成り立っている状況においてバランスを少し崩すと目に見える状態変化として表れる」というのがハゲという現象の正体なのだと思う。
考えてみると、人間の体毛の生え方というのは他の動物と比べても異例であろう。体毛は全身にはほとんどなく、しかし頭や陰部など限定的な場所にだけは残っている。これがもし全身に体毛がある生き物だったら、少しぐらい「毛薄」で生まれてきても、「毛薄」と認識されるだけで、「毛が生えている所と毛が生えていない領域に目に見える変化が現れる」ことは少ないはずだ(いや、知らないけど円形脱毛とかはありそうだけど、加齢で自然に前線が後退するわけではなさそうな気がする)。
「髪と髭の境界ってどこにあるんだろう?」と思ったことのある人も居ると思うのだが、もちろんそこに本質的な境界などはなく、分かれて登場するから別物であるかのように感じているだけなのだろう。したがって、頭髪の生えている領域に明確な輪郭があるというのも幻想なのだろう。人によって頭髪の輪郭線に差があるのは、それだけギリギリのバランスでこの輪郭線を保っているということだろう。
したがって、そのバランスは安定的ではなく、少しの変化に対して大きな影響を受ける。そしてしかも、その変化が生存にそれほど大きな影響がないからこそ、その性質は残っているのだろう。
ということで、その場で話したことは以上。
余談だが、最近日本人女性の巨乳化が進んでいるらしい。その理由は基本的には食生活の変化として説明されているようだが、それが貧乳の人が子孫を残せず絶滅していっているということではないといいなあ、それも他人事としては面白いけど、と思っている。
ドレスコードのある店は客の代わりに店が差別をしている
子供の頃は分からなかった、ドレスコードというものについて。
子供の頃、ちゃんとした服装をしていないと入れない店というのは、漫画の中でしか知りませんでした。そしてそういう店が出て来る話ではいつも「服装で人を差別する悪い店が反省する」というお話になっていたので、私は「そうか服装で人を差別する店は悪い店なんだな」と思っていました。そしてそれが転じて、私自身も、別にどんな服装で店に行こうが恥じることはない、というような気持ちを持つようになっていました。
しかし、お店にだってドレスコードを指定しているのにはそれなりに理由があるわけで、ただ馬鹿で差別主義者だからではないわけですね。当たり前ですけど。その当たり前のことが長く分からなかったなあと思うのでわざわざこうして書いているのですが。
ではその理由は何かということなんですが、お店がドレスコードを指定するのは、お客に「特別な体験」を売りたいからで、そこに服装がちゃんとしていない人が混ざると、その体験の価値が壊れてしまうからなんですね。
「よーし今日は奮発して良い店に行ってリッチな気分を味わおう!」と思って出かけた人達にとって、みすぼらしい人達が同じ店にいると、彼らがいくらお金を払っていたとしても、「ああ、奮発したのにあの人達と同じなのか…」という気持ちになって、体験に満足できなくなってしまう。それを防ぐために、店はドレスコードを設けるわけですね。
まあそれって結局差別といえば差別なんですけど、本当に差別しているのはみすぼらしい人を見て幻滅するお客さんであって、店はお客さんの代わりに「きちんと差別してあげる」ことによって、体験の価値を守っているのだということです。
同様に、会員制の店というのも、店の主人が変な人を入会させずはじいてくれるので、その空間に変な人が来ない、ということに価値があるわけですね。これは、「お金だけが判断基準ではない」世界を作り出していることになるわけです。これが「お金以外に価値を置いているからステキ」なのか、「成金に厳しくせっかく人生で成功したと思ったら既得権益者につまはじきにされる」なのか、まあその両面があるということですね。
まあ私はそんな世界には基本的に縁がないわけですが、自分の教訓としては、自分がちゃんとした服装をするのは、自分のためではなくて、他のお客さんのためなんだな、ということでした。そしてそれはもしかすると、お店だけではなく、普段接する人に対しても意識するべきことなのかもしれません。
明日死ぬなら和解がしたい
北朝鮮やアメリカのこともあって、物騒な状況だと思うんです。そういう「いつ死んでもおかしくない」という状況になった時に私が考えるのは、「明日死ぬとしたら何をしようか」ということです。
私はあまり我慢せず生きているので、基本的にそんなに悔いはありません。普段からやりたいことをやっているつもりです。例えば連休があったとしても、私は旅行になんて出かけたりはしません。そんなことは私のやりたいことではないからです。私のやりたいことは、ゲームをしたり、ピアノを弾いたり、本を読んだり、自分の考えをまとめたり(研究もこれに入るかなあ)、友達に会って話したりすることです。そのどれも普段やっていることです。
ですから、明日死ぬとしても、大体いつもやっていることをやっていればいいと思うのですが、それでも、この機会ならではの、死ぬまでにやっておきたいことというのはあります。それは「わだかまりが残っている人と和解すること」です。
でも、わだかまりを解消するのって、言い出す勇気とか度胸とかがあればいいってもんじゃないと思うんですよね。相手ありきの事だから。もし自分が謝って解決するぐらいなら、それ(謝罪)ぐらいわだかまりが発生した時点でやってたわけです。というか別に当時謝ってないわけでもないわけです。
なぜそう言うかというと、私は昔はそういうことが分からかったからです。というか実際に謝りたくなった人に突然連絡して謝ったりしたこともありました。でもそれって、自分がスッキリしたいだけで、相手が受け入れられるかどうかなんてお構いなしだったんだなっていう反省をしています。相手にしてみれば、そのわだかまりを解消する権利をなぜお前が持ってると思うんだ、という感じだったんだろうなあと思います。
そうして今晩も私は「明日死ぬかもしれないから和解しない?」というメッセージを送らずに眠るのでした。
カラオケ記録2017/8/6
カラオケ行ってきたー。
今日のカラオケで初挑戦は「Hustle Muscle」(河野陽吾/キン肉マンⅡ世OP)と「アラジン」(水曜日のカンパネラ)でした。どっちもまあまあかなー。アラジンは裏声で歌いました。
あ、ClariSのreunionも初めてか。そしてこっちはオク下で歌ったんだけど、ややイマイチでしたね。なんか、可愛くないのよね(当たり前だ)。
曲目
白波トップウォーター | サカナクション | su |
---|---|---|
今夜月の見える丘に | B'z | ai |
雨音はショパンの調べ | 松任谷由実 | ir |
Hustle Muscle | 河野陽吾 | su |
Supernova | 9mm Parabellum Bullet | ai |
ボーリング | 高橋優 | ir |
この傘をたためば | 槇原敬之 | su |
San Sebastian | Sonata Arctica | ai |
僕がいる場所 | 乃木坂46 | ir |
モラトリアム | レミオロメン | su |
予襲復襲 | マキシマムザホルモン | ai |
裸足で行かざるを得ない | eastern youth | ir |
片道キャッチボール | MOSAIC.WAV | su |
ロックンロールは鳴りやまないっ | 神聖かまってちゃん | ai |
夢で逢えたら | 銀杏BOYZ | ir |
スカイフィッシュ | ノリアキ | su |
トレモロ | RADWIMPS | ai |
きらきら武士 feat.Deyonna | レキシ | ir |
ユリイカ | サカナクション | su |
鬱くしき人々のうた | マキシマムザホルモン | ai |
海と宝石 | 中島みゆき | ir |
アラジン | 水曜日のカンパネラ | su |
HONEY? | 天野月 | ai |
デリヘル呼んだら君が来た | ナナホシ管弦楽団 feat.初音ミク・IA | ir |
ドーナツホール | ハチ/米津玄師 | su |
ハイコートポロロッカ | ゼッケン屋 | ai |
ゆらゆら帝国で考え中 | ゆらゆら帝国 | ir |
ロビンソン | スピッツ | su |
EX妖魔疾走【百鬼夜行の大行進】 | 石鹸屋 | ai |
サイレントマジョリティ― | 欅坂46 | ir |
輝きは君の中に | 鈴木結女 | su |
真っ赤な空を見ただろうか | BUMP OF CHICKEN | ai |
月の爆撃機 | THE BLUE HEARTS | ir |
reunion | ClariS | su |
ある証明 | ACIDMAN | ai |
私は面白い絶対面白いたぶん | 大森靖子 | ir |
はじまりの歌 | 大橋卓弥 | su |
世界はまわると言うけれど | GARNET CROW | ai |
Poupee De Cire Poupee De Son [夢見るシャンソン人形] | Fracne Gall | ir |
どんなときも。 | 槇原敬之 | su |
ONE | B'z | ai |
光のロック | サンボマスター | ir |
エンドレス | サカナクション | su |
グッドバイ | toe | ai |
今日の私はキゲンがいい | HALCALI | ir |
勇気100% | 光GENJI | su |
Pride | Nothing's Carved In Stone | ai |
セシル | 浅香唯 | ir |
2次元銀河 | WEAVER | su |
安眠棒 | ZAZEN BOYS | ai |