「自分の事が好きな人は嫌い」という感覚

なんとなくみんなと相容れないなあと思ってる事について話したいと思います.

私の知り合いには,食事に行って,その店の人と話をする人が居ます.私はそれが羨ましいと思うかと言うと全然羨ましくないんですけど,その知り合いの態度以上に,店の態度として客と楽しく話すのってが好みじゃないなあ,といつも思うのです.店はお金をもらって客にサービスを提供するのであれば,その話してる人にはサービスを多く提供していると思うので,不公平じゃないかと思うのです.

別に自分がサービスを多く得られないから憤っているというわけではありません.私にも,行くと,なぜだか知らないけど店員がサービスしてくれようとする店があったりします.なにも言ってないのにデザートにアイスを出してきたりとか….私はそれを,正直嫌だなと思っていました.その店の食事は好きだったのに,そういう要素のせいで行くのが億劫になっていました.

もちろん,話をするだけなら,それを望む人には提供して,望まない人には提供しない,というのは良いのかもしれません.でも世の中には常連になるとサービスの変わる店って結構あると思うのです.あるいは「店の人と仲良くなって得しちゃった」とか自慢げに言う人は多いと思います.

私は「ひいき」とか「不公平」そのものが良くないんじゃないかと思ってるんです.だから,自分が優遇されるということも良くないと思うようなのです.「ようなのです」というのは,私は別にそう思いたくてそう思っているのではなく,自然にしてるとそう感じるようなのです.昔からそうだったかは分かりませんが….


お金を取ってサービスを提供する場合と同列に考えていいのか分からないのですが,その他の場面でも同じような事を感じています.実に多くの人が,他人を「敵と味方」に分けていて,接し方を変えていると思います.味方だと思っている人の意見は,一見無茶苦茶でも出来るだけ読みとろうとしてあげて,敵の意見はちょっと聞いておかしかったらすぐに切り捨ててしまうというような….もちろん精神の衛生上,そうした方が良い場合があるのも分かるのですが,余力がある限り誰に対しても敬意を持って接するべきなのではといつも思ってしまうのです.

遠くの誰か,例えば政治家とかが馬鹿な事を言ったとする.私はそういうのを叩くのも最近は億劫なのです.そういう政治家より自分が賢いかは分からない.同じ立場だったら自分が同じ(あるいは別種の)過ちをしなかったとは思えないのです.同じように,私の周りの人達だったらもっと上手くやれたとも思っていません.自分が正すべきはまず自分であり,次に自分の周りの人達であり,少しずつ広げていくべきだと思っているのです.なお,別に厳しくすることだけじゃなくて,優しくするのもそうするべきじゃないかなと思います.


別の角度からの話ですが,例えば自分に好きなアーティストが居て,その人が私個人に注目してくれたら嬉しいだろうかというと,私は嬉しくないのです.私はそのアーティストが,自分なんかと次元が違う凄い人だから好きなのです.そういう人は,何者でもない私なんかに興味を示さないはずなのです.実際がどうなのかはともかく,少なくともそういう前提でファンに接しているアーティストに好感を持っているのです.「応援してください」なんて言うアーティスト(スポーツ選手とかもそうですね)は,私から見ると媚を売っているように見えます.いや,実際売ってる場合も多いでしょうし,ファンもそれでいいならいいんでしょうけどね.私は,ファンであるからこそ,ファンの方を向いたものなんかが欲しいのではなく,本人達が良いと思う道を突き進んで欲しくて,それに着いていきたいと思うのです.(その結果振り落とされることもあるでしょうが,それもまた本望ということです)


しかしその感覚はどうも行き過ぎじゃないかなあと思ってる節もあります.少なくとも他の人にもそうして欲しいとは全然思って無いのですが,自分の事としても,そういう考えを持つべき場面もあるとしても,そうでない場面もあるのではないかなと….でも個人的には,そういう「私の事なんか見てない」人と仲良くしたいなあと思っているというお話なのでした.