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自分自身に飽きる事の効果

小学生ぐらいの頃,日記を書けって言われましたか?夏休みの宿題とか.私はそんなに書いた覚えは無いのですが,とにかく当時は全然面白いこと書けませんでした.でもその後は私は高校の途中ぐらいからWebページを作って,その後もブログで長いこと日記みたいなものを書き続けています.今は主にtwitterになっちゃってますけど.

小学生の当時には誰もそんなこと教えてくれなかったんですけど,自分で色々書いてみて後々考えてみると,日記を書くことには以下の二つの効果(少なくとも片方)があるのではないかと思うのです.

1.日記に書けるようなイベントを自発的に起こす事
2.同じ様な日々の中に面白味を見出す事

このどちらかをすれば,日記を書き続ける事が出来ます.もちろんその両方をする事も出来るのですが,この二つって方向性が正反対ですよね.なので片方の能力がもう片方の能力を強化するのではなく,むしろ弱める効果があるような気がするのです.

先に言っておくと,私は2のような,内向きな努力が好きだっていう話です.


ちょっと違う話かもしれませんが,例えばこんな話を良く聞きます.自分が偏差値的に高い大学に入ったとすると,自分はその中では凡人になってしまう.その大学に入ったという価値は,外部に出た時に顕著に発揮される.それはもちろん正しいのですが,同時に「その中ですら凡人でありたくない」という気持ちを突き詰めていく事も出来る.ということは成功体験の数と実力は必ずしも比例せず,むしろ反比例するかもしれません(それは極論なので,そんな事は一概には言えないと思ってますよ,一応)(成功体験があることと,それに満足して成長しなくなる事は別ですよね.成功体験があった方が努力したくなる事も多い).

そう言えば,私の居るピアノ愛好会というサークルは,そういう意味での内向きなコミュニティの典型だと思います.「外に出しても恥ずかしくない実力」という意味では,割と多くの人が持っているのに,飛び切り上手い人が居るのでそれを実感しにくい.だからみんな自分独自の道を模索し始める.もちろん,私はまさにその典型なんですけどね.ただ,その傾向が行き過ぎているとも感じていて,実際もっといろんな場での発表の場があれば,実力的に不安のある人も出演する喜びを感じられるんじゃないかと思ってるんですけども.


もう少し本題に近い所に踏み込んだ例を出します.何かを自分が考えて思いついたとする.その話を聞いてくれる人が居なかったら,その話はもう自分は知っているのだから,思いついた時は面白いと思っても,しだいに新鮮味を失っていきます.その話を聞いてくれる人が居ればその人に話して楽しんでもらう事が出来る.しかしいつも同じ人にしか会わないのであれば,次に会う時は別の話題を用意しなきゃいけません.それが,色んな人に会っていれば,同じ話を何度もしていられる.もちろん,人に会って楽しいという事が「悪い」なんてことは言えないでしょう.私もそう思っているわけではありません.でも「色んな人に会って色んな考えを聞くのが,考えを深めるのには良い」と一概には言えないと思うのです.

人に会って話をすれば,当然それまでに考えたことと違った意見も聞けるでしょうが,同じ意見もたくさん聞くことになるでしょう.自分で整理した方が「この意見はもう考えたから,それとは違う意見を考える」ということを自発的に行う事が出来るかもしれない…もしそれを望むのであれば…と思うのです.


冒頭の日記の話とも関係あるんですが,そういう風に考えを深めるときに,文章に書くということはかなり重要だと思っています(なので今日もこうして書いているのです).なぜなら,先ほど「自分が考えた事はしだいに新鮮味を失っていく」と書きましたが,実際には結構忘れていってしまうからです.それは,新鮮味が復活するという意味ではなんら悪い事ではないというか,むしろ良い事なのかもしれませんが,考えを深めるにあたってはやり直しになってしまうので非効率なのです.(これは研究での事として強く感じます…)

なお,もちろん,アウトプット(まさに「自分の外に出す」という感覚)する事で,構成を持ってまとめるために色々考える効果もありますし,書いたものを後で見直すと客観的に見る事が出来るという利点もありますね.私は最近はさらにtwitterbotを使って,後々まとめたい事に関係があるツイートをリマインダとしてランダムで吐かせるようにしています.


そういう意味で,私はどうも物凄く「自分自身に飽きて」いるんじゃないかと思うんです.それどころか,飽きるように自分を追い込んでいるのかもしれません.そしてなんでそんなことをするかというと,それが自分の原動力だと分かっているからなのかもしれません.

しかし私がそういう人間であるならばこそ,私自身が飽きていようとも,意識的に同じ話を色んなところでするぐらいがちょうどいいということになるのかもしれませんね.