ポジショントークに良し悪しはあるか

世の中はポジショントークで出来てるんじゃないか、そんな事をちょっと前から考えていました。ここでいうポジショントークとは「自分の立場を強めるための発言」という意味としたいと思います。本来の意味は相場に関する専門用語のようです。

 

本来の意味でも私の言う意味でも、ポジショントークって悪い意味で使われる事が普通だと思います。でも、自分にとって自分が有利になるよう発言するというの は当然の行動とも言える訳で、むしろ全てはポジショントークだと思えば、ポジショントークは悪いとは言えなくなるんじゃないかと思います。少なくとも「それはポジショントークだ」という反論は反論の意味をなさなくなると思います。

 

それじゃあどんなポジショントークは嫌われて、どんなポジショントークは問題無いんだろう。そんなことを考えていたのでした。

 


 

ポジショントークをするというのは自然な事だと思うのです。誰しも自分の立場や、これまでの自分の人生を肯定したくなってしまうものです。例えば結婚して子供を産んだ女の人は、悪気なく「結婚して子供を産むのが女の幸せなのよ」なんて言ったりする。この発言は「自分はそれを手に入れた幸福な存在である」という事を他の人にもアピールしている事になるわけです。それが今回話題にしているポジショントークです。本人は本当にそう思っているのかもしれないし、あるいはそのために諦めてきた他の事がたくさんあるからこそ、自分に言い聞かせるように言っているのかもしれない。またこういう発言があると、子供を産めないであるとか、結婚しない女の人からも反発の声が上がったりしますよね。それは「自分がそれを手に入れてない不幸な存在だ」と言われている事になるのを嫌がるからで、ポジショントークへの反対という意味で、これもまた自分の立場を肯定するポジショントークとも言えそうです。

 

これは思考遊びみたいな話ですが、社会的に成功した人が「努力しろ」と言うのも、ポジショントークなんじゃないかと考えてみました。もし努力した人が成功するのであれば、みんなが努力するとそこから抜きんでるには自分はもっと努力しなくちゃいけません。周りの人が自分より努力しないでくれたおかげで自分が成功出来たのに、他の人に努力しろと言うのはどういうことなのでしょう?それはつまり「自分は成功したという事は、他の人より努力したんだ(だから偉い)」という事を言っているに過ぎないのだと思います。逆に言うと、努力というのは「成功したときに、していたと見なされるもの」なのです。そういう意味で「努力すると成功する」は常に正しいのです。似たような例として、「問題解決能力」というのは、問題を解決できた時に有ったことになる能力、なんてのもあります。

 

よく「頭の良い人」が、「なんで世の中こんな馬鹿ばっかりなんだ。みんなもっと賢くなれよ」って言ったり思ったりすると思います。でも周りの人が自分より馬鹿で居てくれるから、自分は賢いという実感が得られているのです。賢い人は周りの人が馬鹿である事に感謝しても良いぐらいです(笑)。せめて賢いあなたは周りの馬鹿のためにしてあげられる事を考えたらどうですか。

 


 

ところで、自分の立場を弱めると分からずにポジショントークをしてしまうというケースも多く見かけます。先述の「結婚して子供を産む、のでない」女の人の中にも、自分がその立場で無いのに、「それが幸せというものだ」なんて言うケースがたくさんあるのではないでしょうか。それは親にそう言われたとか、世間がそういうプレッシャーをかけてくるとかで、本気でそう思いこんでいるのだと思います。まあそういうケースが多いと言う事は、本人もそれを望んでいるケースが多いという事なのかもしれませんが…それにしてもそんな生き方は辛そうですね。

 

他の例を出します。今は「見た目がきれい(カッコイイ)なのは偉い」という事は不文律みたいになってると思います。それは本能のままだと普通そう思うんだろうなという意味で別に不自然だとは思わないのですが、以前はもっと「人間は中身が大事」みたいなことを言っていた時代があったような気がします。これは私はもしかしたら「大人」のポジショントークだったんじゃないかと考えてみました。人間、若い方が見た目はきれいでかっこいいわけです。でもその若い人の方が偉いってことにしてると大人が威厳を保てないから、「見た目なんて大した要素じゃない、大事なのは中身だよ」って言ってたんじゃないでしょうか*1。そしてそれはまあまあ受け入れられてたんじゃないかと思うのです。時間経過で衰えていく要素より、伸ばしていける(衰える事もありますがw)要素をありがたがる方が、人生に希望が持てませんかね?だからそれは生き易くするための知恵だったんじゃないかなーなんて思うのです。と思うのですが、それを最近は歳を取っても「どう若く有り続けるか」に執着してる人ばかり見て、なんだかなーなんて思うのです。そんな風に思ってたら歳をとるのって辛いばっかじゃないですかね。まあ、それも色んな要因から「大人」になる事のメリットがなくなっているという事なのかもしれませんけど。

 

ちょっと変な話を先にしましたが、容姿についての普通の話としては、容姿に自信の無い人が「世の中は容姿だ」って言っちゃってるようなケースを良く見ます。それはポジショントークにやられてるように見えます。まあ「世の中は容姿じゃない!」って容姿が悪い人が言うと負け惜しみみたいに見えるというのはあると思いますがw、そりゃそういう勢力が圧力をかけてきてるからで、本気で闘わないと解消しないのです。本気で闘いましょう。つまり容姿以外の何かで「オオッ」っと思わせるだけの何かをやりながらじゃないといかんでしょうねー。圧力かけてきてるのが「容姿のいい人」なのか、「容姿を良くするための商品を売っている企業」(服、化粧品とか)なのかは分かりませんけど。

 

あと、しつこいですが容姿ネタをもう一つ。私は人の事を「ブス」とか言う男(女もだけど)はかなりアウトじゃないかと思うんですけど、「ブスじゃない女」からすると、ブスを虐げる男はポジショントーク仲間として仲良くなれる事もあるのかなーなんて思います。似たような話として、アイドルオタクが(一般的にはキモイとされながらも)意外に容姿のいい女の人を妻にする、なんて話をたまに聞くんですが、それもアイドルオタクは「容姿を高評価」する存在なわけで、「容姿が売り」(逆に言うと他に売りが無いという自覚がある)女の人にとっては自分の価値を認めてくれる人なわけで、なんとなく納得できる面があるなーなんて思っているのでした。

 

最後の例は、私が良くないなーと思うけど他の人があんまり問題にしてると感じてない気がする例です。学者が自分の学問を大事だって言うケースです。例えば漫画「もやしもん」(あんまり読んでないけど)の中で、「農学は至高の学問だ」って言い張る農学者が出てきます。私は「あんたが農学に魅力を感じているのは構わないけど、なぜ他の学者が自分のやっている学問に同じように魅力を感じていると想像できないのか?」と思ってしまいます。まったく同じ例として、最近ちょっと話題になった「統計学が最強の学問である」っていう本も私は気に障りました。

 

これらはもちろんポジショントークですが、これまで見てきたポジショントークと何が違うのでしょう?それは話者が「学者」であるという点です。学者は賢い事が仕事なのですから、自分の言ってる事がポジショントークであるという事にもっと自覚的であるべきです。もし全ての学問を誰より習熟してから言ってるなら文句はありませんが…そんな人間はこんな専門分化が進んだ時代に存在できないでしょう。

 

極端な話、美人が「美しさが大事」って言おうと、スポーツマンが「スポーツは大事」って言おうと、つまりはポジショントークをしようと構わないと思うのです。彼らは賢さで売っているわけではないのですから。しかし学者は「勉強が大事」って言う事には慎重になるべきだ、と思うのです。…うーん、しかしこれは私の立場が学者寄りだから、学者に厳しいだけなのかもしれませんけどね。

 


 

さて、ここらで話をまとめようと思います。良いポジショントークと悪いポジショントークがあるのかなあ、なんて考えてきたわけですが、私は途中いくつか仮説を立てていました。

 

1.は、まあそういう世界で生きてる人がたくさん居るという話で(笑)、もちろん良くは無いですね。でも、「いじめ」と「正義の鉄槌」の違いは本質的には同意する人が多いかどうかによって決まるみたいに考えることも出来ますし、忘れてはいけない考え方だと思います。

2.は、自分の事ばかり考えるんじゃなくて、他人の事を考えたものであればいい、というような案でしたが、自分を苦しめているようなポジショントークをする事も肯定することになってしまいます。そんなのは良くないですよね。

 

ということでどうしたもんかと思っていたのですが、例を挙げつつもう少し考えてみたところ、どうも発言の内容そのものではなく、他人の言というものへの接し方の問題なのかなあと思ってきました。ということで以下のように考えるのはどうでしょうか。

 

 

特に聞く側については、注意すべき人は凄く多いのではないかなと思います。もちろん「他人は全て敵」というような単純な話ではなくて、自分が何かを話すとすれば相手にとって益があると思っているように、相手も自分に対して良かれと思って話しているという事は忘れてはいけませんけどね。

 

自分の言っていることがポジショントークであることに自覚的であるかということは、多様な考え方を認められる、あるいは想像できるという事だと思います。その方が良いと思いますが、出来なくても聞く側が気に食わない時に聞き流してくれれば問題ないような気もします。逆に言うと、そうならなそうな時には役立つのではないかと思います。

 

他人の事を「かわいそうだ」とか「そんな人生でいいのか」とか「もったいない」とか言う人はたくさん居ます。そういう人達は多分むしろ自分の人生にあまり自信が無いのだと思います。自分の人生感にみんなが納得してくれれば、自分は勝者として扱われて、他の人は敗者になる。そういうポジショントークをしている事がほとんどだと思います。自分が幸せなら他人がどうであろうと構わないではないですか。自覚はあるのかないのか分かりませんが、むしろ自分に「今までの人生はこれで良かったんだ」と言い聞かせているのではないかと思ってしまいます。

 

幸せってのは好きとか嫌いとかと一緒で他のものからは導かれない根源的な感覚ですから、他人がなんと言おうと自分の幸せを決められるのは自分だけです。他人の言葉で自分が貶められたような気持ちになる人は、(SNSなどを離れてw)自分の気持ちを聞いてあげられる時間や環境を持てるようにするといいのではないでしょうか。


*1:その考えが「自然」でないからこそ、声高に叫ばれるのでしょう。自然なのは容姿がいいのを偉いとする方です。そして「自然だから正しい」は必ずしも成り立ちません