読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

冗談のコストは誰が払うのか

社会

私は冗談を良く言うけど,必ずその冗談を冗談だと分かってくれない人がいる.そういう時に「冗談の分からない奴め」と心の中で思う事もないではないけど,それは言わないようにしている.冗談が分かってもらえなかったとしても,悪いのは冗談を言った自分だ,と思うようにしている.なぜなら「冗談の分からない方が悪い」という事にしてしまうと,どんな正当な批判もそれで否定出来てしまうからだ.

 

冗談には「嘘」が含まれる.自分が思っている事とは違う事を言うという意味で.嘘をついているのだから,誰かにとって不利益が生じたり,言った人が責められたりするのはある意味当たり前である.なぜそんなリスクを負ってまで冗談を言うのかと聞かれると,ちょっと答えに困ってしまう.もちろん,冗談が分かる人同士でそれを楽しむ利益はある.それがリスクを補って余りある魅力と考えられれば,冗談を言う理由はあるということになる.しかしここで利益を得る人と不利益を被る人は別の人だ.自分達が楽しむために,他の人を犠牲にしている.そう分かった上で,冗談を言う事は本当に自分の望む所なのだろうか?

 

一般的な冗談とは全然関係ないと思うかもしれないが,例として血液型性格分類について考えてみる.まず,血液型性格分類には根拠が無く,優位な差が実証された事もないとして話を進める.しかしそれを了解している人の中にも,初めて会った人に血液型を聞いたりする人はたくさん居るだろう.初対面の人とは,話のきっかけになりさえすれば話題は何でもいいという事はある.何か話しているうちにお互いに盛り上がれるポイントを見つければ良い.何かを話さない事には始まらないのだ.そういう状況で血液型の話はそれなりに機能するであろうと思う.頑なに「そんなの根拠ない」と言うのであれば,他のきっかけとして何かを自分が提供しなくちゃいけない.そうして,本人達も正しくないとは思いつつも,本人達の利益のために「嘘」を上手く使う.それは得してる人しか居ない嘘だとすれば,悪い事ではないと言えるかもしれない.

 

問題は,前提を共有していない人が混ざる場合である.「血液型性格診断は嘘っぱちだ」という前提でそれを「楽しい嘘」として話している人達と「血液型性格診断は正しい」と思っている人が一緒に話した場合,正しいと思っている人にとっては自説が間違いであると気付く場面が無い.元々どちらのバイアスも持っていない人にとっても「血液型性格診断は正しい」というバイアスを強化する方に働くであろう.これは「嘘を流布している」ことではないのか?血液型性格診断が飲み屋のネタでしかなかったならまだ良かったのだが,実際には明確に差別と呼べるような現状をも生み出してしまった.自分が差別していなくても,差別する人を生み出し,それによって皆が(自分も含めて)不利益を被る.そういう状況を見ても,まだ「楽しい嘘」をついていて良いのだろうか.

 

冗談は「楽しい嘘」のようなものだ(ちと乱暴な議論かもしれんが).であれば冗談が肯定されるのは,それが冗談だと分かる人しか居ない時だけではないだろうか.そして冗談が分からない人にとっては,冗談はプラスマイナスゼロどころか,マイナスになってしまう.そしてそれは巡り巡って自分にもマイナスをもたらす.そういう認識が居ると思うのだ.だからこそ,冗談だと分かってもらえなかった時は謙虚に対応しなくてはいけない.そう考えると,インターネットで冗談を言うというのは非常に難しい.冗談を受け取る人の中にその冗談が出てくる文脈を共有してない人が絶対に居るからだ.ある冗談が言っていい冗談かというのは閉じた場においてしか議論しようがない.そしてもちろんその場が変化すれば言っていい冗談も変化するのである.

 

ある意味冗談は「知性の証」である.しかしそれは「冗談が分かる人と分からない人を区別して,分からない人を馬鹿に出来るから」ではなく「人を不快にしないように場面を選んで冗談を言える」ということであって欲しい,と,そんな風な事を思うのである.もしかしたら,冗談を冗談だと分かってもらえなかった人がムキになるのも,自分の知性が足らなかった事に向き合わなくてはいけないからかもしれない.

 

(なお私が場面を選んで冗談を言えているかというと,全然出来てないと思う)