教育と規格化の関係

多くの人は、勉強しない人に勉強させようとする。そのために「勉強するのは本人のため」と言うが、果たしてそれは本当だろうか。だとすればなぜ人は人に勉強しろと言うのだろうか。他の人が勉強しなければ、自分がそういう人を押しのけて好きに出来る可能性が上がって行くのではないか。人に勉強しろとなど言わない方がいいのではないか。じゃあ人に勉強しろと言う人はみんな馬鹿なのだろうか。

 

自分の受けた教育を批判する人がたくさん居る。「もっと個性を尊重すべきだ」と言う。自分は虐げられていたという気持ちがあるらしい。自分の望まない事をさせられた、自分の望む事をさせてもらえなかった、そういう気持ちを抱いている。そんな気がする。では個々人の興味ある事を勉強させられるようにしてあげればいいのだろうか。

 


 

さて、そもそもの話だが、教育はなんのためにするのだろうか。あるいは、国家が義務教育として教育を課している、それに投資しているのは何を狙ってのことだろうか。

 

今あるような学校制度は、産業革命に伴って出来たらしい。産業革命は、新たな仕事を生み出した。そのうちの代表的なものが、工場労働者である。それまでの多くの人の仕事は農業であった。生まれた地で暮らして、家族ぐるみで農業をしていた。農業をするのであれば、子供は大人のする仕事と同等とは言わないまでも、似たような事は幼い頃から出来たであろうから、子供はそのまま労働力だったはずだ。しかしそういう人達がすぐに工場労働者になるのは困難がある。工場労働者に求められるのは、決まり切った時間に皆が同じ行動をする事が出来る事である。命令をちゃんと聞いて、好き勝手な行動をしない人である必要もある。読み書きも出来た方が便利かもしれない。そういう要請に応えるべくして作られたのが、学校であるらしい。

 

学校に期待されていた役割は、工場のパーツとなる人間を生み出すことである。そう考えると、色んな事が見えてくる。工場では人間は規格化された方が有利である。現在、学校は画一的な人間を生み出すと批判されているが、それこそが学校の使命だったのである。今批判されているような事は、そもそもの目的には合っていたというか、目的そのものだったのだ。

 


 

さて、今は仕事が変化した。だから学校の目的や役割も変わってしかるべきだ。よし、「個性を尊重した教育に変えよう」となる…というのは、そんなに簡単な話だろうか。もう少し「人を規格化する」ということについて考えてみる。

 

例えば、選挙をするとする。20歳以上の人には平等に一人一票の権利が与えれているとする。どんな無学な人にでもである。ここで、文字の読み書きが出来ない人がいたとする。すると、今の選挙制度で一票を投じる事は出来るだろうか?これを解決するためには、顔写真とボタンを連動させたタッチパネルを用意するなどする必要がある*1。これにはただ候補者名を紙に書くのに比べて大きなコストがかかる。逆に言うと、みんなが読み書きが出来るという前提があれば、コストを削減できるのである。

 

学校の話に戻って考えてみると、みんなが時間を守って行動できるというのは、例えば会社にとって、非常にコストを削減する事が出来ると予想される。あるいは、みんなが共通の知識を持っているという保証があれば、それ以上の専門の事を話すならその保証されているラインから先を教えればいいと判断できる。これが人によってまちまちだったら、その人にあった研修をカスタマイズしなくてはならない。カスタマイズ出来たらそれはいいだろうが、それには当然コストがかかるわけである。

 

要するに「みんなが同じ事が出来る」というのは、重要なインフラ(社会基盤)なのである。それに比べて、「個性を尊重する」ということは、好きな事を好き放題勉強するという事で、これは「みんなにとってのコストの削減」という面では全然貢献しない。すると、そんなこと(個性を尊重する事)は勝手にやればよく、社会がコストをかけて面倒を見てやる必要はないのではないかという論理が成り立つ。その前提で、「みんなが『勉強しろ』とわざわざ言うのは何故か」という質問に戻ると、要は他人が馬鹿だと自分が不利益を被るからであろう。この意味では、勉強は自分のためにやるものではない。周りの人のためにやるものだ。新入社員を見て「ゆとり世代は常識がない」と言う年上の方を想像してみていただきたい。ゆとり世代があらゆる面で能力的に劣っているなんて事はあり得ないと思うが、常識、つまり皆が共通して習うはずの事、というものをきちんと学習した割合は恐らく下がっているであろう。その分だけ、新人教育にコストがかかる。

 


 

規格化によるコストダウンという考え方は、人間以外の方が普通に用いられる考えだ。機械の部品なんかでは当たり前の概念である。また、社会的な要素としても良くある事である。例えば携帯電話。私は長く携帯電話を持つ事を嫌がっていた人間なので良く分かるが、携帯電話を持っている人にとっては、携帯電話を持っていない人がいるという事が非常に非効率に感じるのである。向こうが待ち合わせに遅れる際に、私が携帯電話を持っていれば連絡出来たのに…という場面にあったことがある。「みんなが携帯電話を持っている前提」なら、それで良かったのである。そうしてどんどん私には「携帯電話を持っていないお前のせいで不便だ」という報告が届くようになり、私も携帯電話を持つようになったのである。別に今その事に腹が立っているとかいう訳ではない。人は時間に遅れて来る時に連絡すれば良くなったのである。これは堕落だろうか?ある面ではそうだ。だが、厳密に時間を守るというストレスを軽減する事が出来たとも言える。その分、心にゆとりが出来たかもしれない。

 

では教育は人を規格化することにばかり注力すればいいのだろうか。その方が社会のコストを下げるのは確かだろう。しかし、教育にはコストを下げる以外の貢献の可能性もある。教育を元にして、大きな成果を達成して利益をもたらせば、社会全体が上向きになるかもしれない。雇用を生み出したり、大量の税金を納めたりすることにもなるだろう。それがもし「個性を伸ばす」ことで得られるのであれば、皆に一様の事を叩きこむ事より得だということになるかもしれない。そして、今我々は、概ねそちらの方に舵を取ろうとしているのだろう。これは、多くの困った落ちこぼれを出す代わりに、少数でも天才が出てきた方が、社会全体として良いという判断をするということである。これは、今のこのインターネットなどによる、イノベーションを起こしやすい世界においては、恐らく適した戦略になるのだろう。この先の話は良くある話だと思うのでしないが、その場合は「失敗を許容する」ことが今よりもっと必要になるだろう。

 


 

「教育は人間を規格化することだ」というのは、恐らく昔は当たり前の事だったし、そこに悪いというニュアンスは無かった。しかし行き過ぎた規格化を問題視する声がアンチテーゼとして挙がった。我々は生まれた時からこのアンチテーゼしか聞いていないので、前提である「人間を規格化する事のメリット」を忘れがちなのだろう。また、皆が読み書きが出来るなど、実際に規格化され過ぎているので、その効果を実感しにくいのだろう。

 

その人が嫌がる事だろうが、人を規格化して同じ事をさせるのには、ちゃんと意味がある。自分が嫌だったからという理由だけでそれを悪いと言うのは早計であろう。しかし、それが今は意味を失っている可能性ももちろんあるし、もっといい方法があるからそれをしないという選択をする事も出来る。その選択の意味もまた知り、比較して考えるべきである。