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デマがなくならないのはそれを望む人が居るからだ

(facebookに書いていた過去記事の転載)

 

血液型性格分類がいくら「科学的根拠がない」と言われてもそれを使う人がなくならないのは、それが面白いからではなかろうか。「血液型で性格が分かる」のが嘘で「血液型では性格は分からない」が真実だとすると、真実は全然面白くない。何しろなんの情報量もない。厳密には、血液型で性格が分かるのが当たり前だと思っている人からすると、分からないという真実は情報量があるとも言えるのだが。

 

すると「デマの方が真実より面白いからデマはなくならない」と言いたくなるが、それはちょっと言い過ぎて、おそらく「真実より面白いデマはなくならない」ぐらいのことなのだろう。つまらないデマは、ちゃんと消えていっているのだと思う。

 

こういうことを言うと「血液型性格分類みたいなデマを肯定するのは許せない」と言う人が居るかもしれないが(否定するのを許せないという人も居るかもしれない?そっちの方が多い?)、私がしているのは「デマの内容そのもの肯定する」ことではなくて「デマを信じてしまう人が居るということを肯定する」ということである。私が彼らにどういう印象を抱いているかに関わらず事実としてはそういう人達は居るのであり、否定できる事ではない。そしてそういう人達が特別馬鹿なのではなく、自分も時と場合によっては同じことをしているということを見つけていくのが、人間について考えていくための第一歩だと私は考えている。

 

例えば自分が治癒の困難な病気にかかっているとする。現代の医学の定説では、その病気はもう治らないと言われた。そんな中で「現代の医者は頭が固いので認めたがらないが、実際にはこの方法で治る」と提案されたら、その方法を試したいと思うのではないだろうか。これがデマだったとして、デマを受け入れてしまうのは、そのデマこそがその人を救うものだからだ。真実が自分を救ってくれない者にとっては、嘘にすがるしかないのだ。自分がその立場になって、藁にもすがる思いでデマに乗っからないと言い切れるだろうか?

 

またこんな例はどうだろう。何か輝かしい成果を上げて有名になった人はよく、みんなの前で「やれば出来る」「諦めなければ道は開ける」などと言う。しかし、その言葉は正しいだろうか?「正しいか・正しくないか」で考えれば、正しくないであろう。「やっても出来ない」ことは必ずある。では正しく言い直すとどうなるかというと、「やって出来る時と出来ない時がある」のような話になる。これは正しいが、こんな話をありがたがって聞く人は居ない。大多数の人は正しくない方の「やれば出来る」を心に残す。

 

このような人達(私達の事だ)は馬鹿なのかと言われれば、ある程度そうだとは思う。しかし、それが直した方が良い馬鹿なのかは、正直なところ分からない。例えば、世界中で色々悲惨なこと(貧困とか飢餓とか、日本では放射能の事とか…)が起きているのにも関わらず、テレビではどうでもいいニュースばかりやっている。それをけしからんと言うことも出来るが、では毎日毎日そういった暗いニュースを報道されて、果たして私は耐えられるのかと言うと全くもって自信がない。例えば私は、東日本大震災の時にテレビを見ていて、これからどうなってしまうのかと気が滅入ってしまっていた。報道機関が「明るいニュースを届けたい」と思うということは、ありのままの真実を映すことではないため望ましくない気がするが、私はその考えに乗っかってしまいたいと思ってしまう。

 

一応教訓として、「人は受け取りたい情報を優先して受け取り、都合の悪い事は無視する」ということは言える。それをしないようになるには、そうしないようにと思うのではなく、そうしている自分に自覚的になることが必要だ。そういう感覚を磨いていくのが、学問的な訓練というものだと思う。ただ、学問的な正しさと、人間の幸福は必ずしも一致しないということも言えるのではないかと思う。…「必ずしも一致しない」じゃ、情報量ないかなあ。