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人間は因果関係を見出し過ぎる(リメイク)

過去に書いた記事、「人間は因果を見出し過ぎる」が、読み直したところ分かりにくかったので書き直しました。

 


「二度ある事は三度ある」という諺(ことわざ)と「三度目の正直」という二つの諺がある。諺とは「人生の教訓を短い言葉で表現したもの」なのだが、この二つの諺が両方正しいとすると矛盾するので、教訓にするにしても、どちらを信用すればいいのか分からない。ではこれらの諺が使われないかというとそんなことはなく、各々がその場その場で自分に都合の良い方を選んで使っている。こんなに明らかに矛盾している教訓をついつい口に出してしまうところからしても、どうも人間はこうした教訓を見出すのが好きらしい。

 

教訓を見出すということは、「こうなった場合はこうなる(ので、こうした方がよい)」という法則を見つけるということだ。この能力が無いと同じ失敗を何度も繰り返すことになるので、当然あった方が有利だ。おそらく、原初の社会からそういう能力を持った人間が生き残っていき、そういう性質が次第に強化されてきた結果、教訓を見出すのが好きな人間達(我々)が生まれたのだろう。

 

「ある事象Aが起きた」ことの後に「ある事象Bが起きた」際に、事象Aを事象Bが起きる原因と見なすことができる。こうした関係を因果関係と呼ぶ。因果関係を見出すと、事象Bを起こしたくない場合には事象Aを取り除くことで対処することができる。因果関係を見出すということは物事に理由を見出すということだ。当然この能力もあった方が有利なので、強化されてきている。

 

一応注意しておくと、この因果関係というのは、究極的には人間の頭の中だけに存在する概念である。「事象Aと事象Bはセットで起こる」ということは客観世界にある事実を人間が見つけているだけだが、そこに因果関係を見出すのは、世界に色があると人間が認識するのと同じで、人間側の作用である。人間の観察能力が有限である以上、見えていない原因が他にある可能性は常にあるわけだから、「これが原因だ」と言い切ることはできない。しかし、どうせ本当の原因は分からないと思えば、今その知識が有効に使えているならば本当の理由でなくても構わないとも言える。

 


冒頭の矛盾する二つの諺の例は、法則を見出す能力が起こした失敗と考えることができる。人間は教訓や理由を見出す能力は高いのだが、そうして見出した法則同士に矛盾があっても気付きにくい。血液型性格分類に根強い人気があるのも、人間が関係(法則)を見つけるのが好きだからと言えそうである。

 

関係を見出すどころか、元々なかったはずの理由を作り出してしまうこともある。「神様」や「悪魔」や「妖怪」なども、そうして生み出されたと考えることが出来る。例えば地震が起きたとして、昔の人には理由など分かるはずもない。しかし人間は問題が起きた時に理由を見出さないと不安になるように出来ているので、「神という存在がいてそれが怒った」というような説明を無理矢理生み出してしまう。元々は存在しなかった理由を作ってそれで何か分かったことになるのだろうか?と不思議に思うが、とにかく人間は理由さえ付けば納得してしまうのである。

 

錯視(錯覚)が起こるのも、法則を見出す作用と、その法則の不完全さによるものだ。人間の眼は2次元の情報しか取得することが出来ないが、それだけで3次元の世界を認識しなくてはならないので、「正しく見る」ということは本来不可能なのである。ではどうしているのかというと、「こういう風に見えている場合はこう認識する」という法則をたくさん持っていて、それに当てはめて分かったことにしているのである。そうした法則は「よくある状況」に合わせて作ってあるため、普段は上手く認識できるが、法則の想定から外れた状況では認識に失敗してしまう。例えば、人間は長らく太陽や月しか光源の無い世界で生きてきたので、「光源は上にある」という状況を想定しているため、光源が下にある場合は、物体の凹凸が反対に見えてしまったりする。(「Hollow Face 錯視」はその例)

 

人間の観察能力に限界があるのは視覚だけの話ではないので、人間が見出す法則はどれも不完全だ。法則を知識と言いかえると、人間の知識はいつも不完全だ。しかし錯視が「よくある状況を外れると問題が起きる」ということであるならば、「よくある状況を外れない範囲ではその知識は正しい」と言う事も出来る。

 

つまり、ある知識(法則)の正しさは、それが成り立つ状況(まさにこれが「文脈」である)とセットで語られるべきものなのだ。例えば「真面目に頑張った方がいいよ」というアドバイスは、ちゃらんぽらんな人に対しては良いアドバイスだが、既に真面目にやっている人に言えば鬱病になりかねない。ついつい真面目に頑張り過ぎてしまう人には「少し肩の力を抜けよ」と言うべきである。大抵の知識や教訓というのは、それが見出された状況における多数派に向けられたものであり、それを違う状況の人に同じように言うのでは余計にバランスを崩してしまう。「温故知新」という諺があるが、歴史に学ぶにしても、当時と今の状況の違いは考慮に入れなくてはならない。

 

ある知識が正しいか正しくないかを判断するためには、状況を絞り込む必要がある。状況を絞り込みさえすれば、見出せる知識はたくさんある。逆に、様々な状況においても常に成り立つような普遍的な法則を見つけることは難しい。冒頭の二つの諺が矛盾してしまったのは、二つの別の狭い世界の中ではそれぞれ正しかった知識が、広い世界では使えないものだったということを意味している。

 


さて、「人間は因果関係を見出し過ぎる」に話を戻そう。原初の時代の人類は因果関係を見出す能力を次第に強化していった。人類は生物としてはその頃から大きく変化していないので、その能力は今も本能として、言い方を変えれば直感として残されている。しかし、原初の時代の人類の生活は世代が変わってもほとんど変化しなかったのに対し、現代は自分が生きている間にすら生活が変化してしまう。影響し合う人の数も多様性も比較にならないぐらい増大している。つまり物凄く広い世界に生きるようになったのである。したがって直感が誤作動を起こし易くなっている。人間の直感は、昔から変わらないことや、身の回りの狭い範囲を最適化するには上手く働くが、現在問題になっているような地球規模の問題は能力の対象外なのだと思う。

 

「一を聞いて十を知る」という諺がある。頭の良い人を褒め称えるために使われる言葉なのだが、はたしてその知った十の事は正しいのだろうか。例えば医療現場で「一を聞いて」分かった気になって、「その他の九のこと」を勝手にやる人は大変危険ではないだろうか。つまり一を聞いて十を知ってしまうのは見方によっては失敗なのである。我々はついつい、過去に一回しかない事例が毎回起こるような気になったり、三人の人が言っているだけでみんなが言っているような気になったりしてしまう。より普遍的な知識を見出したり、多様な状況に対応したりするためには、その「因果を見出す」自分をぐっとこらえることが必要な場面が多くあるのだ。

 

しかし普遍的な知識しか使えないというのでは、解決できる問題は非常に狭くなってしまう。普遍的知見の代表である科学的知見は、ほとんどどのような状況でも成り立つがゆえに「正しい」とされる。しかし現実の問題を解決するには、それを絶対視するのではなく「どのような状況でも成り立つ知識」と「限定的な範囲で成り立つ知識」を、それぞれの限界を知りながら使うことが必要なのだろう。

 

直感がいつも正しければ学問など必要ないのだ。多くの人が直感で分かってしまう事を、本当は分かっていないのではないだろうかと考えるところに学問の価値があるのだ。