コンピュータに支配されるということは道具に支配されることの一種である

(以前書いた、「コンピュータに支配されるという事」のリメイク)

 


「コンピュータ(人工知能orロボット)の人類への反乱」というテーマは、古くからSFではよく扱われてきた。そして現在、人工知能の研究の盛り上がりもあり、本当にそれが起きるのではないかと大きな議論になっている。「人工知能に自我が生まれて人間を殺し始める」というシナリオについては、私見では全然心配しなくてよいと思っているが、その説明は今回はしない。しかし、殺されるのではないにしても、コンピュータに支配されるということは起こるし、今も起きているのではないかと思っている。

 

突然だが、次の二つの文を見て欲しい。

 

  • それでは、■■時■0分に■■駅改札でお待ちしています。よろしくお願いします。
  • それでは■19時30分に岩槻駅改札でお待ちし■います。よ■■くお願いしま■。

 

この二つの文は、同じ文を、同じ文字数だけ■で伏せたものである。見比べると、上の文では待ち合わせに失敗すると思われるが、下の文では問題ないはずである。このように見ると、同じ一文字でも情報量が多い場所と少ない場所がある事が分かる。さらに、伏せられても理解できる部分は、例えばパソコンや携帯で「よろ」まで打てば、変換候補として「よろしくお願いします。」まで出してくれるような部分である。伏せられても理解できるということは予測が出来るということであり、予測が出来るということがエントロピーが低いということである。変換候補をコンピュータが出してくれるということは、コンピュータが予測(一種の知能的なことを)して、文字入力を助けてくれているということになる。

 

定型文の変換候補を使わないにしても、キーボードで文字を打っていると、こういう挨拶のような部分はスムーズに打てる。私にとってはペンで書くより速く書ける。しかし例えば「祐太」という名前を打とうとすると、「優大」「雄太」「勇太」「佑太」…と、同じ読みの漢字がたくさん出てきてしまって、明らかに一文字当たりの時間が多くかかる。これをペンで書くことを考えてみると、脳に浮かんだ図形をダイレクトに書けばいいわけで、挨拶の部分を書くのと名前の部分を書くのでは時間的にほとんど変わらないはずである。ここで、コンピュータで書くのとペンで書くのとでは、得意なことが違うことが分かる。そしておそらくそのことは、我々が書く文章にも影響を与える。得意なことはよくするようになって、苦手なことはあまりしなくなるからだ。

 

例えばパソコンを使って文章を書いていると、ペンで書くなら使わない漢字も使うので、漢字が多くなる。漢字が思い出せなくても変換候補として見せてくれるし、また画数の多い字をペンで書くのは大変だが、コンピュータでは何の苦労もないからだ。また例えば、少し砕けた言い方として「来(く)りゃいいんだけど」と書こうとしたとする。これをコンピュータは「来」とは変換してくれないので、ついつい「来ればいいんだけど」と打ち直してしまう。すると次第に、言葉遣いが綺麗になっていってしまう(規格化される)。おそらく方言を使う人も、標準語にどんどん引っ張られていくだろう。

 

これはつまり、我々の文化の方向性が、コンピュータ、すなわち使っている道具に引っ張られているということである。そして道具に合わせて人間側が変化することが、ある意味「道具に人間が支配される」ということなのである。この意味でのコンピュータによる人間の支配は日々強まっている。ただし、これはまさに「効率化」でもあるので、良いか悪いかは慎重に議論していくべきだろう。

 


なお、そもそも我々の使っている「言語」こそが、思考を支配している「道具」なのだろうとも考えることが出来る。こうした考えについての有名な研究に「サピア=ウォーフの仮説」というものがある。色々批判もある考えなのだが、興味がある人はチェックしてみるといいと思う。