すべての人を罪人に出来るルールは諸刃の剣である

その昔、ヨーロッパで魔女狩りという風習があった。ざっくりと解説すると、今起きている社会の問題は人間に紛れている魔女が起こしているから、その魔女を見つけ出して殺さねばならない、というような風習である。その際、疑いをかけられた人が魔女なのかどうかを判定するために、「魔女裁判」と呼ばれる取り調べが行われていた(後世の人がそう呼んだだけかもしれない)。その方法は色々あったようだが、特に私の印象に残っているのは以下の方法である。「体を縛って川に投げ込み、浮かんできたら魔女で、沈んだら魔女ではない」。当然この方法では、浮かんだら殺されるし、沈んだらそのまま死ぬので、疑いをかけられた時点でその人は死ぬしかない。このような理不尽な裁判が行われたらしく、転じて、現代でもこのような一方的な処罰のことを魔女狩りと呼ぶことがある。

 

魔女狩りが行われている世界に住んでいる状況を想像すると、やはり酷く恐ろしい。いつ自分が魔女だと言われるか分からないし(ちなみに、魔”女”狩りだからといって、女ばかり殺された訳ではないようである。魔術が使えるんだから男にも化けられるという事だろうか)、一度やり玉に挙げられたらもう助かる見込みがない。そういう世界では、目立たぬよう、角(かど)を立てぬよう、おびえながら生きることになりそうだ。

 

では魔女裁判は具体的には何がおかしいのだろうか。それはもちろん、自分が魔女ではなかった場合に処罰を免れる可能性がないことである(そもそも魔女であることが悪いことなのかはよく分からないが、ここではそのことは忘れておこう)。これを防ぐために、近代法には基本原則として「無罪の推定」という仕組みが組み込まれている。「無罪の推定」は「誰でも裁判で有罪が確定するまでは無罪と見なされるので処罰(不利益)を与えてはいけない」ということと「その人が有罪であることを証明する責任は告発した側にある」ということだとしておこう。

 

「無罪の推定」によって「あいつはなんか怪しいよな」という理由だけでは人を処罰できなくなる。これによって、みんなが気楽に生きられるようになる。しかし、この原則は裁判所ではともかく、一般にはすぐ破られる。人は「なんだか怪しいからあいつを排除したい」と思うのが普通なのである。それがなぜかと言われると、人間ってのはそういうものだとしか言いようがないところがあるのだが、逆に、人間ってのはそういうものだからこそ、自然に任せていると皆がどんどん生き辛くなってしまうので、長年(千年単位)の議論の末に「無罪の推定のような仕組みを入れておいた方がいい」というところにたどり着いたのだと考えるといいと思う。直観に反するからこそ必要なものの一例だ。

 

さて、具体例としてセクハラについて考えてみよう。セクハラという概念が生まれたのは、これまで男性が女性の嫌がることを多々してきたことへの対処であるわけで、それ自体は良い変化だと思う。ハラスメントの概念の画期的な所は、「受け取る側が嫌だと思ったらハラスメント」と定義したことである。普通、ある行為の良し悪しは行為者側に依存する。それを、行為を受け取る側から論じられるようにしたのだ。それによって、「問題ないと思う人もいるかもしれないけど本人にとっては嫌な事」について、嫌だと表明できるようになった。しかし、セクハラだと表明して、もしそれで弁明の余地無しに相手に処罰が与えられてしまったら、それは魔女狩りと同じだ。さらに、表明しただけで処罰が与えられるとなると、それ自体が重い意味を持つようになり、女の人も表明しにくくなって損をしてしまう。それを防ぐには「嫌だと表明すること」と「相手が悪い」ということは別だと考える必要がある。

 

相手の言い分に依らず人を罰することが出来る仕組みは、それがいかに自分に都合が良く思えても、同じことが自分にも適用される危険性を常に考慮しなくてはならない。