日常を音楽の本番にしたい(ピアノ弾き向け)

音楽における「本番」がコンサートに偏り過ぎてはいないか

私は長くピアノを弾き続けていますが、ここ5年ぐらいはコンサートには出ていません。ピアノを弾く人には、コンサート(あるいはコンクール)に出演するという目標を立てて、それに向けて練習するという取り組み方をしている人が多いのですが、私はそうではないということになります。

 

それはなぜかと考えると、私自身が、他人の演奏をコンサートで聴くということにあまり価値を感じていないからだと思います。このご時世、CDなりYouTubeなりで物凄く上手い演奏をいくらでも聴くことが出来るわけで、それより劣る演奏をわざわざ聴きに行くということにあまり意味を感じないのです。したがって同様に、私がコンサートに出たとしても特に社会的な価値はない、と考えています。

 

 もっと言ってしまえば、演奏者が「自分がハレの舞台で活躍している」という実感を得るために、お客さんに「来てもらっている」という感覚になっていることが結構多いんじゃないかと思うのです。しかし今はどの創作分野でも「クリエイター余り・消費者不足」の状態です。そういう状況で本当に必要なのは発表する方ではなくて、発表を見て聴いてそれを称賛する人の方です。そう思うので、私は自分が積極的に称賛される方に回りたいとは思えないのです。

 

しかし、たとえ社会的な価値がなくたって、自分がピアノを弾いて楽しかったらそれは何物にも勝る価値ではないか、とも思っています。実際私は家で一人で楽しくピアノを弾いています。

 

ただ、一人でも楽しいというだけで、別に一人の方がいいと言ってるわけではありません。横で親しい人が聴いてくれたらいいなとは思いますし、音楽に詳しい人とあーだこーだいいながら弾けたら楽しいなと思います。あまりやったことないですが、セッションのようなことが出来たらそれもいいでしょうね。

 

ここで思うのは、音楽ってもともとプレイヤー同士で楽しむのが基本であって、コンサートのように演奏者と観客が完全に分かれているものって、むしろ特殊な形態なのではないか、ということです。それが現代の、特にピアノ界隈では、あまりにも「コンサートという本番」のために「その他すべてが『練習』になっている」印象を受けるのです。

 

そうではなくて、一人で弾いて自分が楽しむ、あるいは仲間と弾いて音楽を作り上げることを楽しむ、という日常の音楽こそが「本番」である、という意識転換は出来ないものでしょうか。

 

グランドピアノは日常の音楽には適さない

音楽の本番がコンサートに偏り過ぎていると思うことの一つの例が、家にグランドピアノを置きたいという人がたくさんいることです。私は家にグランドピアノを置くというのはかなり狂気に近いことだと感じています。もし私がグランドピアノを軽く買えるお金を持っていても、今だったら電子ピアノを買うと思います。

 

グランドピアノを家に置くのの何がおかしいかというと、グランドピアノは大きなホールに行き渡るだけの音量が出せる楽器なので、そんなものを家で鳴らしたら音が大きすぎるということです。

 

うるさいから近所迷惑だという話でもありますが、弾いている自分が聴くという目的でもそんな音量は欲しくないです。自分の家の中で電子ピアノで弾くときにも、音量は最大まで上げません。そんなに大きな音はそもそも聴きたくないからです。

 

実際、ピアノの弾き過ぎで耳を傷める人というのもいますし、耳栓をして弾いていてるピアニストもいます(具体的にはスティーブン・オズボーン)。ホールでお客さんが聴くには必要な音量であっても、演奏者にとって望ましい音量とは言えないわけです。

 

 

それでもなお多くの人が自宅にグランドピアノを置こうとするのは、コンサート本番に使うのがグランドピアノなので、その感覚に近いもので練習したいと思うからでしょう。まさにこの制約こそが、音楽文化に非常に大きな影響を与えていると感じています。

 

この話は、例えばピアニストの内田光子さんも以下のインタビュー動画で指摘しています。

 

www.youtube.com

(5:14~) 


インタビュアー「ドビュッシーは別種のピアノを使っていたの?」


内田「ええ ずっと軽い楽器をね!
特に現代のコンサート用のピアノは大きな問題を抱えています
私たちが弾くのは こんなにも長く大きな楽器で
必要に迫られて重いアクションになっています
ホールは より大きくなり 大きい音が要求され そのために
昔よりも ずっと重い楽器でなくてはならない
鍵盤ひとつをみても
ドビュッシー時代とはさほど変化していませんが
ショパンの時代と比べると大きな違いがある
ショパンの楽器…例えばエラール プレイエルなどは
実に鍵盤が浅くて とても軽く
私自身 試してみましたが
エチュードを弾くと実に美しい音がでるんです
でも この楽器などは多分ほぼ2倍位重いのではないかしら
ドビュッシー自身が弾いていたものよりね」

 

Debussy 12 Etudes : interview Mitsuko Uchida part1 (Germany) 日本語字幕付

 ここでは、音量と関連して、鍵盤の重さについての話も出て来ています。ピアノは電気など他の動力による音量の増幅はしていない楽器なわけですから、大きな音が出るということはそれだけ大きなエネルギーを人間が使っているということです。

 

コンサートホールに響き渡る音量を出すグランドピアノを弾くためにはそれだけ大きなエネルギーを使って(具体的には重い鍵盤のピアノを)弾く必要があります。そして、コンサートホールで弾くことが本番である限りはそれと同等のピアノに慣れておかなくてはならないわけです。家で弾くならもっと小さい音量のピアノでいいはずなのですが、本番と違うピアノに慣れておくわけにはいかないという事情がそれを許さないのです。

 

ショパンなどはコンサートホールよりはサロンのような(比較的)狭い場所で弾くのを好んだと言いますし、上のインタビューにもあるようにそうした場所にふさわしいもっと軽い鍵盤のピアノを弾いていたようです。今あるピアノリサイタルの姿を築き上げたのはリストで、その後はどんどんピアノはホール向きに進化していくわけですが、もっと家庭向けに進化したバージョンがあっても良かったのではないかと思うのです。

 

というかまあアップライトピアノや電子ピアノは家庭向けに進化したピアノですね。しかしアップライトピアノも電子ピアノも、グランドピアノを目標にしてそれに近づくことを目指しているからこそ、グランドピアノの下位互換として認識されているというのが現状だと思います。しかしこれらも、コンサートで弾くことが本番ではないと思えば、そうした認識も変わっていくと思いますし、またグランドピアノを目指すことをやめれば、より普段使いに適したものが生まれてくるのではないかと思います。…ただ、もしかしたら、そうして進化したものは既にピアノとは呼ばれない、別の存在になっているのかもしれません。

 

日常を本番にするには

では具体的にはどうすれば、コンサートではなく日常を音楽の本番にすることが出来るのでしょうか。

 

ここで私たちがどういう時に「練習している」と感じているのかと考えてみると、曲をまだきちんと弾けない状態であると感じている時だと思います。つまり、取り組んでいる曲に対して自分の実力がまだ及んでいない状態の時に「練習している」と感じるのだと思います。そして(やや飛躍があるかもしれませんが)練習であると感じているということは、「本番ではない」と感じているということなのだと思います。

 

つまり現状は多くの場合、「本番に対して練習の割合が大きい」という状態になっていて、これをどうにかして本番の割合を大きくしたいわけです。

 

単純に「実力に対して弾こうとしている曲が難しい」ということが問題なのであれば、身の丈に合った簡単な曲を弾けばいいということになるでしょう。ただ、難しいほど良い曲というわけではないにしろ、良い曲は結構難しいことが多いので、現在の自分では弾けない難しい曲をなんとかして弾く、ということに長い時間を費やしている人は多いと思います。というか私がまさにそうでした。そして、それも別に悪いことではないと思っています。憧れの曲に必死で食らいついていくのは基本的に楽しいことですからね。そういう気持ちだけでは続けられなくなってからどうするかという話なのかもしれません。

 

しかし根本的な問題は少し違うところにあると思っていて、それは結局ピアノを弾く人は、楽器と自分の表現したいことが繋がっていなくて、自動機械のようにピアノを弾いているために、応用が全然効かず、好きなように弾くことが出来ない、というようなことだと思っています。

 

例えば伴奏として打楽器を演奏することを考えると、まず簡単に演奏できる基本のリズムパターンがあって、上級者はそれをさらにカッコよく複雑にして演奏しているということが想像できます。ということは、最低限曲として成立するという弾き方と、もっと本格的な弾き方が連続的に繋がっていて、その間を自由に決められるということだと思うのです。

 

これが出来るためには、ただ一つの動きを身体に覚え込ませるのではダメで、音符のうちのどれがどのような役割を担っているかを知る必要があります。それは言い換えると音楽理論の知識ということになると思いますし、実際に音楽理論を学ぶことでそういうことが分かるようにもなるとは思いますが、必ずしも座学として勉強しなくてはいけないとは思っていません。

 

例えばフォルクローレサークルの知り合いの話を聞くと、大学から演奏を始めたにもかかわらず、4年で卒業する時には、みんなでセッションをやろうとなったらその場ですぐ入れる曲は100曲ぐらいあると言っていました。要はそういう風に音楽に接してきたかどうかだと思うのです。

 

なお私自身は座学が性に合ってる面もあって、座学が効率的に感じるからという理由で結構理論の勉強をしていたりしますが、それもまあ本人次第だと思います。

 

私にはこのような問題意識がずっと前からあったので、ここ何年か、リードシートという、コードとメロディーだけが書かれたJ-POPなどの楽譜から、自分で伴奏を作りながら弾くという練習をしてきて、それが最近は結構出来るようになって、ようやくなんとなく楽器と親しくなれたような気がしています。

 

例えば部屋で弾いていて、楽譜をパラパラめくりながら「この曲なんだっけ、弾いてみよう。(その場で弾く)…あーいい曲だなあ」というようなことが出来たりするし、弟が部屋に来た時に「この特撮の曲がさー」とか言いながら弾いたりということが出来るようになったのです。こういうことが昔からやりたかったんです!

 

もちろん楽譜に書かれた曲を弾くのであれば、初見能力が非常に高ければ、素晴らしい曲に触れる機会が増えて、どんどん楽しい思いが出来るでしょう。こちらも私は長年ないがしろにしてきたので、最近反省して少しずつですが改善できないかと取り組んでいる所です。

 

別に皆が私のようになるべきだとは思っていないのですが、もしかしたら多くのピアノ弾きはコンサートという形態から離れた方が音楽を楽しむことが出来るかもしれない、ということを一度考えてみてはいかがでしょうかというお話でした。

 

(以上で本題は終わりで以下は付録)  

付録

細幅鍵盤ピアノとコンクール

普通の楽器というのは自分で持ち歩けるので、本番でも普段自分が使っている楽器を使うことが出来ますが、ピアノは持ち運ぶのが大変難しい楽器なので、会場に据え付けられているものを使うことが一般的です。これは、自分用にカスタマイズされたピアノを使うのが困難であることを意味しています。

 

しかしピアノは万人が平等に使いやすい楽器とは程遠い楽器です。手が小さい人にとっては鍵盤の間隔が広すぎて、演奏が困難になってしまうことが良くあります。日本人としては10度が届かない人が多いことがよく話題になりますが、それ以前に女の人では8度が届かない人もまま見られます。そして8度つまりオクターブが届かないと、この楽器の魅力を引き出すのはかなり難しくなります。

 

そうした要望に応えて、最近では手の小さい人向けに細幅鍵盤ピアノというのも出て来ているみたいです。しかしこれも、コンサートホールにある本番のピアノが変わらないのでは結局意味がないということになってしまいます。いや、もしコンサートが本番なら、ですが。

 

しかし最近はこうした状況に対して、細幅鍵盤が選べるタイプのコンクールも出て来ているようです。コンクールに出るようなガチ勢の人達は、そうした「本番」の場が変わらないとなかなか細幅鍵盤を選ぼうという気になれないと思うので、少しずつですがそういう動きがあるのは喜ばしいことだと思います。

 

コンサートと演奏の価値を決める要素について

コンサートでクラシックを弾くことには社会的な価値はないという話をしましたが、もちろんこれは「私程度の能力の人が演奏することには社会的な価値はない」という話であって、価値がある人はコンサートに出たらいいし、私だってそういう上手い人の演奏を聴きに行きたいことはあります。

 

つまり私にとってはコンサートというのは「とびきりのごちそう」であればよくて、それは常食しなくてもいいものです。むしろ疲れるから常食はしたくないと感じているかもしれません。

 

ピアノ特有の事情もあると思っています。例えば私は和太鼓が好きなのですが、和太鼓はCDで聴いても私にとっては全く楽しくなくて、生演奏で身体にビンビンと振動を受けることや、太鼓を打っている姿というビジュアルも込みで楽しんでいるからです。オーケストラも同様に生じゃないと楽しみにくいものかもしれません。ごちそう感もありますし。それに対して、私はピアノはCDの音だけで十分満足できます。十分満足できるというか、むしろその方が好きかもしれません。

 

ちなみに、演奏する曲目によって要求される演奏能力は変化します。クラシックは一番競争が激しい分野なので、プロや音大卒生などという上位互換がいくらでもいるので、自分が演奏する価値は限りなく低くなります。それに対して、自編曲の曲などは、一応唯一無二のものなので、ニッチな需要に応えるという形で、演奏能力はそれほどなくても価値を感じてもらうことが出来ます。

 

他にも、演奏者への興味から演奏を聴きたいという場合には、演奏の上手い下手に関わらず演奏を聴くことに価値を感じることはあります。知り合いの演奏を聴きに行くというのはこれですね。別にそういう聴き方を馬鹿にしているわけではなくて、これはこれで楽しいものだとは私も思います。ただし、演奏にその人の性格が表れると感じて楽しめるのは一般的な感覚からするとかなり上手くなってからなので、下手な演奏ではそれを楽しむことが難しいため、結局「上手くなくても楽しめる」とまではいかないという問題もあります。

 

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