繋がり過ぎる世界の倫理

インターネットによって我々はすごく簡単に人と繋がることが出来るようになったわけですが、繋がり過ぎて疲れてしまったという人の話もよく聞きます。facebook疲れなんて言葉もありますし、LINEの既読スルーを咎めるなんて話もありますね。

 

これまでの人類は人と繋がるのが難しい世界の中で生きて来たので、努力の方向性は基本的に人と繋がることに限定されていたわけですが、やはり適正量の繋がり具合というのはあるようで、自然にしていると繋がり過ぎてしまうのであれば、これからは人と距離を取ることを学ばなければならないのでしょう。

 

…ということは以前から考えていたのですが、これはもうちょっと応用範囲の広い話かなという気がしてきました。

 

例えば不倫をした人に対する怒りを表明する人達を見ると、私の感覚では「当事者が怒るのは分かるけど部外者の我々はほっといたらいいんじゃないの?怒る権利とかあるか?」という感じで、なんでそんなに怒るのかなーと思っていたのですが、よくよく考えてみると「酷い目にあった他者を見て、自分の事のように怒る」ってとても道徳的ですよね。そういう人が居るのは何も不思議じゃないし、むしろかつて規範とされるのはそのような考えだったと言えるでしょう。

 

つまり、現代の、インターネットがあって、さらにSNSがあって、皆が自由に全世界に向けて発言できる環境ではそういう「道徳的」な態度は不適応になってしまうけど(「炎上」と呼ばれたりして)、それは今が「繋がり過ぎの世界」だからなのであって、そうでない世界ではきっとそうあるべきだったんだと思います。

 

普遍的な倫理というものは存在しなくて、あくまで環境に対して倫理が決まるので、環境が変わると倫理も変わります。しかし、倫理を大事にしてきた人ほど、倫理が変更されることに耐えられない、なぜならその古い倫理がその人を作っているから…というような原理があるのかな、と思います。

 

とりあえず、ネット時代に適応した自分のような考え方は(本当に適応できてるのか知らんけど)、少し前の世代からすると全く当たり前でも道徳的でもないということ、だからそんなに簡単に理解できるはずだと思わないこと、を意識しておいた方が良いのかな、と思いました。