皆さんは私の力を授けて良い人間なのか

これは自分の持ってる授業で、毎回一個ずつエッセイを書いて配っていたものの、最終回で配ったものです。偉そうなことを書いて恥ずかしくもあるのですが、ずっと問題意識として持っていたことなので、皆さんにも見てもらいたいと思っているので、公開します。

 


外を一人で歩いている時に筋骨隆々の強そうな人とすれ違う状況を想像すると、危険を感じることがあると思う。しかし、もし筋骨隆々な人が知り合いで、一緒に歩いてくれているのであれば危険から守ってもらえるわけで、むしろ安心すると思う。自分にとっての味方が大きな力を持っていることは自分にとって望ましく、自分にとっての敵が大きな力を持っていることは望ましくない。自分は自分の味方なので、力を付けることは自分にとっては望ましいが、みんなが力を付けることは必ずしも自分にとっては望ましくない。

 

さて、今のは物理的な力の話だったが、知もまた力だ。いやむしろ現代では、知の方が筋肉よりはよほど大きな力であることが多い。しかも、現代では物理的な暴力はかなり制限されているが、知による暴力はあまり制限されていないし、そもそも不利益を押し付けられているということに気付くことにも知が必要だったりする。例えば、医者という専門家が言うことを、多くの非専門家である患者が検証するということは事実上不可能に近い。そんなわけで、知の力もまた、味方が持つ分には望ましいが、敵が持つのは望ましくないということになる。

 

さてここでもう一歩踏み込んで考えて欲しい。あなたが力を持つことは周りの人にとって良いことなのだろうか?あなたが周りの人の味方であればあなたが力をつけることは周囲の人にとって望ましいことになるし、あなたが周りの人の敵であれば、あなたは力をつければつけるほど周囲の人から疎まれることになる。このことを少し言い方を変えて言ってみよう。あなたが周囲の人を見下すために賢くなっているならばそれは嫌われて当然で、あなたが賢くなって周囲の人を助けられるからこそ、賢いことが好かれることに繋がるのではないか?ぶっちゃけて言えばこれは私の過去の思い出そのものであって、私は周囲の人を見下していたことで嫌われていて、自分の力を人のために使うようになってからは劇的に人間関係が改善して行ったのだった。

 

私は皆さんに授業を通して知という力を授けている。しかし皆さんが、与えられた力を、自分のためばかりに使うのではなく世の中をより良くするために使ってくれるのかということを、私は確認していない。逆に学生側の視点としては、この先生は話を聞くに値する人間であるか?ということは…ある程度判断しているような気がするが、それにしても、授業で会うだけでは判断が難しいというのが実情なのではないかと思う。お互い「入試を通ってきてるんだから大丈夫か」「大学が先生に据えてるんだから大丈夫か」と、大学という組織に頼って、お互いを信用している。一応言っておくと、試験での不正行為等は、その信頼への背信行為だからこそ厳しく罰せられる。能力がないことより、力をつけてそれを使って目指すところが間違っているということの方がより重大な問題だということである。

 

昔の人は丁稚奉公という形で、職人の家に寝泊まりをして技術を学んだのだが、最初は雑用ばかりで技術を教えてもらえないことが多くあったようだ。似たような例として、テニス部に入部した人が最初は球拾いばかりさせられる、というようなものをイメージするといいかもしれない。それは、技術を学ぶ前に、技術を学んだ人がどのような生き方をしているかを一緒に暮らすことで学ぶという意義があったのだろうし、教える方も、技術を正しい目的で使ってくれるかを判断してから教えていたのだと考えることもできる。

 

しかしもちろん教わりたい人から見ればそんなのは非効率だと思うわけで、どんどん「早く教えてよ」という要望に応えるようになっていった。しかし例えば柔道で投げ技をやる前に受け身を徹底的にやるみたいなことはある程度は必要なことだったのではないか?これは、力を得る前に、力に振り回されて大惨事にならないように防衛策を学んでおくということに相当するだろう。教えて欲しい側が早く力が欲しいと言ったとしても、それに応えないという態度も時には必要なのではないだろうか?

 

今、知というものは多くがオープンになっている。インターネットでも図書館でも、知識は勝手に一人で学ぶことが出来るわけで、知の力を手に入れるのに誰かから人格のチェックを受けるという世界ではない。これはもちろん学ぶということについての格差が解消されているという意味では良いことだ。だがしかし、目的が正しくない人にも力を与えてしまうという意味では危険なことでもある。

 

ではなぜ知というものは無頓着にオープンになって行ったのだろうか。色々理由は考えられるが、ここでは、近代という時代が、民主主義や資本主義を採用していたからということを挙げておく。こうした仕組みが作る社会というのは、実はあまり倫理について個々人が考える必要がない社会だったのだ。この時代における主要な関心事は経済活動だったわけだが、資本主義の経済というのは「個々人が自分の利益を最大化するように振る舞えば、『神の見えざる手』が働いて、結果として全体としても良くなる」ということを前提としていた。これはつまり、合成の誤謬が起きない前提で考えていて、その前提だとすると、個々人はただ自分の力を伸ばすことを考えていればよかったのだ。民主主義も同様で、各個人が自分で良いと思うことは何かと考えて、平等に投票すれば、全体として良い結果になるという考えに基づいていた。これも合成の誤謬が起きないことが前提にある。

 

しかしこれは段々とその限界が明らかになって行った。ほとんどの人は経済活動において、消費者であると同時に生産者でもある。つまり商品にお金を払う側であると同時に、商品を売ってお金を受け取る側でもある。したがって、みんなが出来るだけ安いものを買うことを目指すと、確かに効率の良い企業が残って効率の悪い企業は淘汰されていくのかもしれないが、それで淘汰されるのは生産者としての自分である。効率の悪い、つまり気楽な仕事は存在しなくなり、厳しい労働だけが生き残っていく。そうした状況をブラック労働と言ったりもするが、ブラック労働が蔓延するのは、消費者としての利益を優先しすぎた結果である。個人には自分の行為が自分を幸せにするか見通せなかった、と言ってもいい。

 

「段々と分かってきた」と言ったが、実際には、昔から日本には「金は天下の回り物」なんて言葉もあるように、そうした仕組みについての理解はある程度進んでいたはずだ。したがって、ある一時期だけそれが忘れられていたのだ。そしてそれは、例外的に、皆が伸びたら全体も伸びるという合成の誤謬が起きない時代が存在したということで、それが明治維新から高度経済成長期の間だったのだろう。そしてそれはかなりの程度、外国に先んじることで貿易で得をすることが出来たということに依存していて、外国が追い付いてくるに従ってその効果を失っていったと考えられる。「資本主義は資本主義でない他者を必要とする」という言葉があるのだが、資本主義は経済を超加速させるシステムで、それによって他者に先んじるから利益が得られるので、皆が資本主義になって一緒に全力で走るようになると、苦しいばかりでそのメリットが失われてしまう、しかしだからと言って自分だけ走るのをやめる訳にもいかない…というような大枠のイメージを描くことが出来るだろう。

 

さて、今は結局、地球の環境がボトルネックになって成長が頭打ちになったことで合成の誤謬が起きるようになり、各個人が自分の利益を追求していればいいという時代は終わろうとしているのではないかと思う。それによって、我々が学び力を付けるということが、果たして社会全体を良くすることに繋がっているのか?ということを考える必要が出て来ていると私は思う。私はそんなことばかり考えていて自分のことが疎かになってしまった感があるので、皆さんもまず自分が生きていけるのかを考えてもらえばいいのだが、余力があったら、自分のしていることが世の中全体にとっていいことなのかも考えるようにして欲しい。

 

皆さんは、私が授けた力を、世の中を良くするために使ってくれますか?