完成度と減点法

日々食べたいものが思いつかなくて困っている私ですが、今日も昼に何を食べようか迷ってウロウロした挙句、なんとなく目に留まったロッテリアに行きました。そういえば最近行ってなかったなあと。

 

それで「絶品チーズバーガー」というのを頼んで食べたのですが、チープながら旨い、と思いました。確かに、別に感動するほど旨くはない。でもこれはこれで完成している、と思いました。

 

ところで、私は、中身が盛りだくさんで、とてもかぶりつけなくなってしまっている、いかにもオシャレなハンバーガーというものがとても嫌いです。お前、ハンバーガーの形しているメリットを消失しているじゃないか、と思うわけです。絶対きれいに食べられないし。

 

それに比べて、今日のロッテリアハンバーガーは圧倒的に食べやすい。パンとほとんど変わらない肉の堅さ、全くはみ出さない具、垂れない水分と、手で掴んで食べる食べ物としては最高の調整がなされています。実際、片手でも余裕で綺麗に食べられます。私はおかげでkindleで漫画を読みながら食事をすることが出来ました。それはそれで優雅な体験でした。

 

ここに、評価の観点として、「個々の要素はチープながら完成している」というものと、「個々の要素は高級だが完成度が低い」というものの、どちらが良いか、というものがあると思うのです。

 

料理というのは、まさにそういう議論をするのに適切な例と言えるでしょう。甘いものが好きだからと言って、砂糖を入れれば入れる程旨いわけではない。バランスというものがある。必ずしも高級なものを使えば旨いというわけではなくて、それを引き出す調理法を必要とする。ハンバーガーの中の肉だけを本格的にしてしまったら、歯ごたえがあり過ぎてパンと同じようには噛み切れなくなってしまうかもしれない。

 

つまり料理というのは、「全体としての完成度」と「個々の要素の良し悪しの足し合わせ」が同じはならないという特性を持っていて、全体としての完成度が重視されるジャンルである、と言えると思います。少なくとも私はそう思っているので、オシャレハンバーガーよりロッテリアハンバーガーの方が出来が良いと思っています。

 

しかし、世間ではオシャレハンバーガーの方が「いいもの」として認識されているような気がします。これを私は、現代はここで言う「完成度」が軽視されているからなのでは、と思うのです。言い換えると、個々の要素が良ければそれを褒めるという習慣が染みついてしまっているせいで、要素を盛ることばかり考えてしまっているというか。

 

ビデオゲームなんかが良い例で、一時期は、グラフィックが良くなるばかりでちっともゲームは面白くなってないと揶揄されていました。ゲームの良し悪しと言うのはかなり「完成度」によるもので、ぱっと見では評価が難しい。しかしグラフィックが良くなるというのは誰の目にも分かるから、ついついそこに力を入れてしまう。そういうことがずっと起きていたと思います。教訓としては、完成度というのはなかなか目に見えないものという事も言えるかもしれません。

 


 

少し話は飛ぶのですが、学業での成績評価について、以前から不思議だったことがありました。それは「減点法」と「加点法」という考え方です。私は、その違いが良く分かっていませんでした。例えば、課題の採点をする時に、何かが出来なかったら減点という基準にしても、何かが出来たら加点という基準にしても、全員に同じように基準を適用したら、最終的には相対評価をするだけであって、同じことの言い換えをしているようにしか思えませんでした。ただ、「減点」という言葉のイメージの悪さを嫌って、「加点」と言い換えてるんじゃないかと感じていました。

 

しかしここに、「完成度」という概念を導入すると、加点法と減点法が何を意味しているかがスッキリ解けることに気が付きました。

 

例えば、木工工作でゴミ箱を作るとする。ゴミ箱であるからには、ゴミ箱としての機能は最低限持っていないといけない。口が開いていて、勝手に倒れたりしない、バラバラになったりしない、ゴミ袋が釘に引っ掛かって破れたりしない、などなど、当たり前ですが、そういう機能は最低限満たしている必要がある。そういうものは、「完成形」として想定されるものに対して、減点方で採点するのが望ましい。

 

しかし、例えば作者の独創で、そのゴミ箱に素晴らしい絵が描いてあるとか、彫刻がしてあるとかで、美術的価値が生まれているとする。そういうものは「完成形」とは何の関係も無いから、減点法では単なる「マイナスがない」でしかない。したがって、そういう物を良しとして評価するには、加点法で採点するのが望ましい。しかしそれでも、ゴミ箱としての機能を満たしていないのであれば、それはゴミ箱としては失格と言わざるを得ない。ゴミ箱であることをやめて、単なるオブジェとしての価値を主張することになるでしょう。

 

つまり、完成度という観点で物事を見る場合は、減点法で見る方が望ましいのです。しかし前述したように、我々は加点法を素晴らしいもののように言い過ぎてきたような気がするのです。

 

何かの作品を作るには、色々なスキルが必要です。プログラミングなんかをやってみれば分かりますが、一つの成果物を作るためには、何か一つのパーツがかけても完成しない。そして、完成しないものには何の価値も無いのです。これは、音楽の製作などでもそうでしょう。どんなに理論を知っていても、作品を作らない人は永遠に評価されることはない。

 

確かに、皆と同じスキルを持っていることばかりが持て囃されて、人と違うスキルを持っている人が低評価になる社会では、同じような人間ばかりになってしまって、多様性が失われて閉塞に向かってしまうかもしれない。しかし、だからと言って本当に単一のスキルでは何の作品も作れなません。結局何かの作品に結び付くから、そのスキルも意味があるのです。

 

加点法は、その、何かのスキルを「スキルがあるのは良いことだよね」と推奨する方法です。その加点法を良いもののように言ってきた結果、アンバランスなスキルばかり持って、ろくに作品を完成させることが出来ない人を量産してしまったのではないか、という気がします。

 

というか、まあ私がそういうアンバランスな人だという反省がとてもあるという話なのです。

 

ただ、人の持っているスキルがアンバランスであっても、チームとしてうまく組み合わされば、いい作品を作れることはあるでしょうね。また、例えば作曲コンテストに応募してきた新人の曲を聴いた審査員が「光るものがある」とか言うのは、要素を評価しているのですが、完成度はこれから高められるからいいという判断をしているということでしょう。そういう事もあると思います。

 


 

ということで、ここまでの話をまとめると、

・「作品」は完成度からの減点法で評価すべきである

・「可能性」は個々の要素の加点法で評価すべきである

みたいなことが言えそうです。

 

そういう整理をしたので、これからは私は積極的に減点法で作品を評価していくぜ!と心に決めたのでした。

 

ちなみに、これも地味に「合成の誤謬」の話だったと思います。適用範囲が広いなあ。