単一スキルの成長は対数関数的だが、総合力の成長は指数関数的になる

単一スキルの成長曲線は対数関数的になるが、総合力は指数関数的になる、というようなイメージがある。

 

例えば走る速さみたいなものは、まさしく対数関数的になる。つまり、だんだん成長が緩やかになっていく。普段全く走っていない人は、少し練習するとすぐ速くなるが、ずっと極めている人は、ほんの少しの伸びを得るために膨大なトレーニングが必要になる。

 

ところが、例えば知識というのは、組み合わせで価値が出て来るので、勉強すればするほど、一つの事を勉強した事で分かることの量が増えて行くという実感がある。もちろん、組み合わせることが出来なければそうはならないのだが、組み合わせが出来るとすれば、それは指数関数的に成長することになる。

 

運動能力は対数関数的に成長して、知識能力は指数関数的に成長する、という面は確かに少しはあるけれども、そこは本質ではなくて、冒頭に言ったように、単一スキルであるか、総合スキルであるか、という違いなのだと思う。それは、スキルの組み合わせが出来るかどうか、という違いである。

 

100mを走る速さで考えてみると、世界最速の人に比べて、何もトレーニングしてない私でも半分ぐらいのスピードでは走ることが出来る。しかし、頭の良さとか、問題解決能力、みたいなものを考えると、世界最高の人に比べて、一万の一とか一憶分の一ぐらいしか賢くないのではないか、と思う(もはや差があり過ぎて良く分からない)。最近、サイバーダインの山海先生の講演とか聞いて、本当にそんな気持ちになった。

 


 

つまり、大きな能力を得るには、スキルを組み合わせることが大事だ、という話なのだが、逆に言うと、スキルの組み合わせが出来る「勝負事」では、差が付きすぎてゲームとして面白くならない、という話と捉えることもできる。

 

スポーツみたいなものは、世の中の「勝負」の代表かというとそうではなく、そういうゲームは、ゲームとして面白くなるように工夫がされている特殊なものである。端的に言うと、あまり差が付きすぎてしまうとゲームとして面白くならないので、僅差になるように設計されている。「なんでもあり」の勝負では差が付きすぎて面白くならないので、ルールによって出来ることを制限して差を縮めることで、面白い勝負ができるようになっているのである。

 

これもまた逆に言うと、世で我々が意識して「勝負事」だと思って見ているものは、そういう特殊なゲームであることが多いので、そういうものが勝負の標準の姿だと思ってしまいがちなのだが、例えば普通の仕事などの「広い世界での勝負」は、総合力で勝負するフィールドであるので、スキルを組み合わせてボロ勝ちするという道があり得るのである。

 

これは、格差がなぜ生まれるか、という問いとも繋がっている。人が暴力での問題解決に頼っていたころは、人一人の力の差はせいぜい2~3倍ぐらいしかなかった。3対1で勝てる人というのはなかなかいないだろう。そういう意味で、暴力はかなり平等である。これが知識になると、1,000人いたって1人の天才に適わないというのは普通に起きてしまう。どうも、暴力が禁じられると、格差が広がるらしい。

 


 

それはともかくとして、まとめると、色々なことに少しずつ触れておく、というのは総合力を高める上で有効だ、という話ではあるのだが、スキルを組み合わせで使うことが出来ないとそれはあまり意味がない。というわけで、どうすれば組み合わせる事が出来るのか、と自分なりに考えて、私はある時期から世界史を勉強することにした。普段、色々な本を読んだりして色々な知識が入ってきても、それらに関連を見出せないと価値が生まれてこない。そこで、とりあえず世界史という「時間と空間すべて」を含む空間を手に入れれば、とりあえずその空間内に知識を位置づけることができるのではないか、と考えた。これは、まあ机上の空論ぽい話ではあるが、それなりに効果があった、と私は思っている。ただ、あまり深入りしすぎても他の事が出来ないので、ほどほどでいいのかなとも思っている。

 

ただ、私は無邪気に、色んな知識が繋がればいいと思っていたのだが、それには副作用もあった。何を見たり聞いたりしても、別のことが色々頭に浮かんでしまって、結果として集中力が落ちてしまったのである。広い視野を手に入れることと目の前のことに集中するのは、トレードオフの関係にあったらしい。しかしこれも、だからしょうがないと考えるのではなく、力を手に入れたらそれを制御する能力も身に付ける必要があるみたいなことだと考えて、集中する方法というのも考えていきたいと思っている。