幸せになることに真剣になろう

最近自分は、幸せになることに昔より真剣になったと思う。以前は、自分が何か勉強したりして能力を高めることはしていても、それを本気で自分を幸せにするために使っていなかったような気がする。

 

例を挙げよう。私はとても痩せているので、身体が弱いというイメージを持たれがちなのだが、実際には、ここ最近は、一年半以上一度も風邪をひいていないという実績がある。大抵の人は一年に数回は風邪をひいていると思うので、これはかなり強い方だと自分では思ってる(もちろん、もっと強い人はいくらでもいるとは思うのだが)。これを達成するために、どういう時に風邪をひくかということを自分なりに真面目に検証して、風邪をひかないように振る舞っている。これは、高めた能力を自分を幸せにするために使えていると言えると思う。

 

そして、もう一点が重要なのだが、ちゃんと風邪をひいていないという実績があれば、他人がいくら私に「身体が弱い」というイメージを押し付けようとして来ても、跳ね返すことができる。…と言うと、「いや、いくら言ってもそういうイメージを持つ人は持つのでは?」と思うかもしれない。それは実際そうだ。しかし、私は少なくとも内心でそれを否定することができる。私は、自分より健康じゃない人が偉そうに私にお説教して来ても「フッ、ザコが何か言ってるよ」と思っている。これがとても大事だと思う。

 

多くの人はここで「自分はちゃんとしてるのにちゃんと評価されない」と怒りを抱いてしまうように思うが、これが良くない。私は能力を高めたのだから、それを幸せになるために真剣に使う。それは体調管理の能力だけではなく、精神の能力である。怒るのは損だ。私は悪くないのだから。私はいちいちそんなことで不幸になってはならない。だから、不幸にならないように精神をコントロールする。見る目のない馬鹿の言うことはいちいちに気にしなくて良い。それが幸せになる道だから、そう真剣に思い込もうとする。そして、それを実際に成し遂げることができるようになってきた。

 

もう一つ例を挙げる。ちょっと前に、電車の待ち列で、横から割り込まれた。一瞬注意しようかと思ったが、結局しなかった。私は一瞬怒りを抱いたが、こう考えた。「リスクを取って注意して世の中を良くしようとするか、気にしないかどっちかにしよう」「何も行動しないくせに、怒りだけ感じて良いことをしたように思うのは、最悪の卑怯者」。そう考えて、精神をコントロールして、気にしないことにした。そして、そのコントロールは数秒で完了した。自分でもコントロールできることに驚いたが、とにかくできた。それによって怒りを感じるという損を回避して、電車の中で好きな本を読んだり、楽しく過ごすことが出来た。

 

これは「出来もしないことを望まない方が良い」というような話でもあるのだが、そう言うと人によっては、不満を感じる気持ちが社会を良くする原動力になる、と思うかもしれない。しかし、別に不幸な気持ちがないと出来ないことが出来るようにならないなんてことはない。出来ないことは用意周到に準備して出来るようになれば良いし、楽しくやってた方が上手く行くことの方が多い。逆に、普段から不満を感じていると、既にフェアでない扱いを受けているという意識の反動から、相手にフェアでない要求をするようになってしまいがちである。そうなるとまた自分の扱いが悪くなり、余計に不満を募らせるようになる。(そういう傾向を証明する実証実験とかしたわけではないが)

 

私は何年か前に、ピアノをコードから弾けるようになりたいなあと思ったので、どういう準備をしたらいいか考えて、順にこなしていくことで、実際にかなり出来るようになったし、今も順調に推移している。ずっと考えていたのは、どうしたら楽しく続けられるかな、ということだった。楽しくないと続かないので、練習自体を楽しくすることばかり考えていた。成果が目に見えて出ていれば、ちょっと苦労があってもそれ以上の見返りが予測できるようになるので、地道な努力もしやすくなる。…この真剣さを、本業の方でもっと発揮しないといかんなと思うのだが。

 

周りの人とも仲良くしようとしている。普段接する人と仲良くできたら、普段が楽しいので、幸せである。上機嫌にしていると周りの人もストレスが少ないので、周りの人にとっても良い。「上機嫌な人を見るとムカつく」というような人は幸せになる道が存在していない悪循環に陥っているので、考え直した方が良いし、そういう人に合わせる必要は全くない。

 

こういうのが、私の言う、幸せになるために真剣であるということである。正直なところ、まだまだ、わざわざ自分を不幸にしていることがたくさんあると思っている。例えば、私はもっとちゃんと仕事した方が結局幸せになると思っているので、そういうのは反省して今後は改善して行きたい。幸せを追求するという事は刹那的になるという事は意味しなくて、むしろ逆だと思う。

 


 

…というようなことをわざわざ書いたのは、どうも、賢くなったはずなのに、それを自分を幸せにすることに使えてない人がたくさんいるような気がしているからである。そしてそれはかなりの部分が「学問のせい」な気がしていて、私も人に教える側として自分にも責任があることだと思っているからなのだ。

 

サークルの後輩が、「大学で勉強したおかげで、点字ブロックに自転車が止まっていると、怒りを抱けるようになった」というようなことをツイートしていた。私はこういうのはとても危険だと思う。怒るだけではまだ自分が損をしているだけだからだ。「解決しなくちゃな」と思うのはまだいい。しかし別に怒る必要はない。怒ったって問題は解決しない。粛々と解決策を考えて実行すればいいだけだ。しかし学者が提示するような問題は、実際には、問題に気付くようになったのに、自分には解決できない、ということがほとんどだ。そして、怒るだけで(あるいは何が悪いか指摘しただけで)何か良いことをした気になってしまう人を量産してしまっているように思う。というか、学者自体がそういう存在になっていることがかなりある。

 

これは、かなり際どい話だが一応言っておくと、セクハラの問題にもそういう所がある。よく「昔は普通だと思っていたことが、『それはセクハラだ』ってみんなに言われて、許せなくなった」という話を聞く。これは、「それはセクハラだ」と言った人が、不幸ではなかった人を不幸にしていると私は思う。もちろん、「それはセクハラだ」と言った側にも言い分があることは分かるが、そういう人にこそ、自分が本当に幸せになるために真剣に行動しているか、ということを一度真剣に考えてみて欲しいと思う。

 

それはさておき、世の中の厳しい問題に取り組むには、その厳しさに見合った精神のコントロール力を身に付けて、自分が不幸にならないように気をつけないといけない。しかし実際には、精神のコントロールの方は全然教えないで、問題ばかり見せてしまう。これではみんなが暗い気持ちになるのは当然だろう。自分の手に負えない問題は気にしなくても良い、ということをもっと強調しなくてはならないと思う。自分の手に負えるようになるように自分を進歩させるのは良いことだが、手に負えない問題にただ立ち向かうのは辛いだけである。

 

勉強して、他人の愚かさを指摘できるようになっただけでは、愚かだと指摘された人の分、世の不幸の合計が増えているだけである。そういうのは別に賢くなっていない。賢いというのは、まず自分を幸せに出来ること、そして、余力で他の人を幸せに出来ることだ、と私は思っている。そして、自分の力を幸せになることに真剣に注げば、多くの人は(少なくとも私の周りにいる人位の能力がある人なら)それが達成できるぐらいの能力は持っているのではないかと思う。