「努力して問題を解決する」ことと「努力して実力を高めてその実力で問題を解決する」ことの違い

すごく微妙な話なんですが、「努力して問題を解決する」ということと、「努力して実力を高めてその実力で問題を解決する」ということの違いについて最近よく考えます。

 

武井壮(タレント・十種競技の選手)がこんなことを言っていました。「色んなスポーツ選手がいて、各専門では自分はトップの人には敵わないけど、各専門の人はそれに特化した体になっているので、他のことにはむしろ向いていない体になってしまっている。自分が目指しているのは、全てのスポーツがかなりのレベルで出来るようになることだ」と。そして、それを達成する方法として、「自分の身体を思い通りに動かせる、という基礎的なことを完璧にすること。そのために必要な筋肉と、身体のコントロールの精度を高めること」というようなことを言っていました。

 

これ、私もピアノ奏者として、すごく思い当たる節があります。私はかつて、難しい曲をなんとか弾けるようにと、自分の身の丈に合わない難曲を選んで挑戦して、長い時間をかけてなんとかモノにする、ということを繰り返していたのです(と言っても、一曲ごとに長い時間がかかるので、数曲だけですが)。しかし、これをしていても、あまり本当の実力(漠然としたのものですが)が付いてないような気がして、あまりそういうやり方をしなくなって、理論の勉強やコード弾きの練習、リズムの練習、そして何より色んな曲を弾くこと、などに切り替えて行ったのでした。

 

私は幼い頃はピアノを習っていましたけど、それもあまりちゃんと取り組んでいたわけではないし、小学生のうちで止めてしまったので、基本的なピアノ能力はあまり高くありませんでした。そういう状況で大学に入学するわけですが、大学のピアノサークルでは、コンサートでババーンとかっこいい曲を弾いて称賛を浴びたい、というモチベーションがありました。だから「弾けたらかっこいい」というレベルの曲を選んで、一発逆転を狙って、そればかり弾いてなんとか形にする、という道を選んだわけです。いやこれは、そういう態度は良くなかったという話ではなくて、その時に取る選択肢としてはなかなか賢かったのではないかと思います。実際、コンサートではそれなりの演奏をすることができて、称賛を得るという目標自体は達成できましたしね。

 

しかし、これはやはり長くピアノを続けていくための方法としては良くなかったのではないかと思います。たとえて言うなら、受験勉強を暗記やパターン認識で乗り切るようなものです。確かに、似たような問題をたくさん解いていくと、センター試験ぐらいまでのテストの点は取れるようになっていくけども、応用問題には対応できないし、学習の喜びからは離れていってしまう。学習の喜びから離れてしまうと、ハードルを乗り越えた後は全然勉強する気が無くなってしまいます。そういう学習法は、短期間で成果を出すには優れているけど、長期的には悪影響があるわけです。

 

しかしあんまり成果が出ないというのもモチベーションが上がらないので、場当たり的なピアノ練習でとりあえず成果を出して、対外的にはそれなりに実力を見せつけられるようにしておいてから、真の実力になるような訓練をしていくという戦略は、そんなに意識してやったわけではなかったのですが、今考えると理想的な流れだったのでは、とも思います。まあ、最初から実力が付くようにやっておいたらその方が良かったのかもしれませんが、それは後になって気付いたのだからしょうがないのです。

 

さて、ここで少し見方を変えますが、その「短期的に成果を上げるための方法」は、問題が難しくなってしまうと「ものすごく多くの努力を必要とする非効率な方法」になってしまって、普通は破綻します。しかし、それが原理的には破綻しているにも関わらず、「強い意志」などによってその「ものすごく多くの努力」を実際にやれてしまう場合があり、そういうときに大きな不幸が訪れるのではないか、という気がするのです。

 

私はここ数年ずっと、講演の録音から文字起こしをして更に文章まとめをするという仕事を続けているのですが、これにものすごく長い時間がかかっていました。実際のところ、やった仕事の評判はとても良くて、いつも褒められてはいたのですが、あまりにも時間がかかっていて、休日は全部潰れるし、他の事が出来なくてまずいなと思うようになっていました。しかし、せっかく褒められているのにクオリティを落とすのも忍びないなあ、と思ってなかなか舵が切れずにいたのです。

 

ここで、効率の悪いやり方でも、時間をかければうまく出来てしまって、そして褒められてしまうという場合、やり方を根本的に変えるという選択をしにくい、という問題が見て取れます。これは、褒められたりやりがいがあったりする場合に起きやすい問題だと思われて、小中学校の教員や、看護師、介護士など、激務だけどやりがいがある仕事で良く起きている問題のように思います。実際、私の講演録まとめは少しぐらいクオリティを落としても問題ない仕事ですが(と言ったら怒られるかもしれないけど)、人命に関わるような仕事では、そう簡単にクオリティを落とすという選択肢が取れないのは仕方ないことでしょう。

 

しかし、私のやっている講演録を作る仕事は、自分の能力さえ上がれば、もっと楽に、もっと良いものが出来てもおかしくない仕事だと思うわけです。一般的には「クオリティとスピードは反比例の関係にある」という法則があると言えると思いますが、それは同一能力の中での話であって、そもそも能力が上がればクオリティもスピードも向上するはずなわけです。そして、これまでの自分の取り組み方が、目の前の課題に対して場当たり的で、時間を湯水のように使い過ぎで、能力を高めることに真面目に向き合っていなかったのではないか、と思ったのです。

 

効率の悪いやり方をしていたら全く成果が出ない仕事なら、むしろ効率化への意識が働くのですが、時間をかければある程度の成果が出せてしまう場合に、苦しいままずっと同じことを続けてしまう、という事態が発生するのではないかと思います。苦しさを脱することを真剣に考えなくてはいけないのではないか、と思うようになったのです。

 

難しいのは、同じ仕事をしていても、その人が「毎回の仕事をこなしているだけ」なのか「仕事を通じて実力をつけている」のかはというのは、なかなか自覚しにくいし外からも見えにくいという事です。ピアノ演奏はまさにそうなのですが、難しい曲に挑戦する中で、自然と応用力のある実力を身に付けられる人も居ます。自分だって少しは身に付いたと思います。しかし、間違ったやり方で、とにかくある一曲に自分の身体をフィットさせただけ、という場合も往々にしてあります。自然に基礎力を身に付けられる人からすると、「実践から学べばいいじゃん」と思うのだと思うのですが、しかし受験のテストのように、同じ点数を取っていても全く中身は別物、ということが起きているのです。

 

ちなみに、ピアノでは練習曲の意義というのがよく取り沙汰されるのですが、私は上記のような話から、一定の意義があるのではないかと感じています。練習曲というのは課題が限定された曲です。課題が限定されていると何が良いかというと、間違った時に間違っていることが分かるという事です。色々な要素が複雑に絡み合っている課題では、上手く行かなかった時に何が原因なのかを判断することが自他共に難しくなります。単純な課題であれば、間違っていることが良く見えます。私はあまり詳しくありませんが、絵を描くことの最初の基本は、直線が引けること、らしいです。要するに、直線が引けるという事は自分の手を精密にコントロールできるということなのでしょう。それがちゃんとしていないと、他のもっと複雑な技術が上手く出来ない時に、何が原因なのかを特定できなくなってしまいます。そうすると、上達も遅くなってしまうことでしょう。

 

私は何年か前に、「楽譜に書いてある曲を体に覚え込ませるように弾いても、音楽が分かったような気がしない」と感じて、コード弾きなどもっと別の方向に舵を切りました。しかし、世間的には楽譜に書いてある曲を体に覚え込ませるようにして弾くというのは、「正しい」方法として理解されているような気がします。実際確かに、それが一番効率よく、人前で披露できる演目を用意する方法なのではないかと思います。しかしそれゆえ、その方法の問題点というのが指摘されないのではないか、ということも感じています。指導者さえ、そういう方法を標準として学んできてしまっていたりして…(そういうやり方がそれほど悪いと言いたいわけでもないのですが)。

 

人工知能が東大に入学できるか、ということに挑戦してた研究者がいて、その研究の中で、多くの生徒がそもそも問題の内容を理解しないままパターン認識だけで問題を解いていることが明らかになったらしいのですが、そういう風に、「間違った方法のまま異常なほどの努力して、ある程度の成果が出てしまっている」ことって、意外に多いのではないか、と感じるようになったのです。

 

機械学習の文脈で言うと、確かに今はそういうパターン認識の方法の延長で精度が出るようになったけど、それは人間より圧倒的に計算力を使うことができるコンピュータに適した戦略であって、人間がその方法で問題を解くのはやはり推奨できないのではないか、というようなことが言えると思います。

 

成果が出てしまうからこそ、努力をやめられない。頑張ることしか方法を知らない、という人って、結構多いのではないか、という気がするのです。そして、そういう人は、いつか限界が来て潰れてしまうのではないか、という心配もしています。

 

そしてとりあえず、実力が付いていることの一つの目安は、「同じクオリティのものが短い時間で出来るようになる」か「同じ時間の中で高いクオリティのものが出来るようになるか」ではないかと思います。こう書くと当たり前ですが、「より長い時間をかけてクオリティが高くなった」は、実力が向上したわけではない、と考えると、そういうことって結構多いと思うのではないかと思います。

 

どうでしょう。「努力して問題を解決する」ということと、「努力して実力を高めてその実力で問題を解決する」ということの違いについて、理解が深まったでしょうか。