第一次世界大戦に学ぶ「専門性の向上による組織の硬直化」

 今回はオリジナルの話ではなくて、「無形化世界の力学と戦略」(長沼伸一郎)という(PDFで買った)本の中での、第一次世界大戦についての解説から一部を切り取った話になります。

 

正直この本を読むまで、第一次世界大戦がどういうものなのかさっぱり分かっていなかったのですが、読んだら随分見通し良く分かりました。ただ、それを全部説明するのは無理なので、ここではテーマを絞ってお届けします。

 

そのテーマは「専門性の向上による組織の硬直化」です。

 


 

第一次世界大戦の頃の戦争では、鉄道による人や物資の輸送網を確保すること(兵站)が最重要の位置を占めていた。第一次世界大戦の発端にも鉄道が関係している。鉄道網の敷かれている範囲の拡大はそのまま勢力圏の拡大を意味していた。そういう背景もあって、その頃ドイツは「3B政策」という政策を実行しようとしていた(この名前は当時のドイツで使われたものではなく、後からそう呼ばれるようになっただけらしいが)。3Bというのは、ベルリン、ビザンティウムバグダッドのことで、ベルリンはドイツの首都、ビザンティウムはトルコのイスタンブールの旧名であり、地中海と黒海の間の首根っこ、バグダッドはイランの首都でペルシャ湾にも近い。どこも重要な拠点である。

 

この3B政策は、イギリスの3C政策(これも鉄道の政策)と対置してそれらが対立していたと取り上げられることも多いが、第一次世界大戦の直接の引き金となったのは、イギリスというよりはロシアとの関係である。ロシアは、地中海側の海の出口を求めていた。ドイツの鉄道の計画と、ロシアの海運の計画が交差する場所こそが、第一次世界大戦の引き金になったバルカン半島ということになる。

 

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バルカン半島をめぐる情勢

(図1、無形化世界の力学と戦略、第三部 P70)

 

バルカン半島の国々は、ドイツとロシアの代理戦争をやらされていた。大戦の直接の引き金と言われるサラエボ事件は、セルビア人の青年がオーストリアの皇太子を暗殺したという事件だが、これは、ロシアがスラブ系であるセルビアを支援していたということによる。ドイツとオーストリアは同盟関係にあるので、かくしてロシアへの攻撃の理由が手に入ったという状況になる。

 

先ほど言った通り、ドイツにとってメインの敵はロシアであった。しかし、ロシアというのはあまりにも広いので、ナポレオンが手こずったように、攻めても攻めても戦線が後退するだけで、いつ終わるとも分からない戦争になってしまうことが想像される。そのときに、後方を他の国に攻められたら悪夢の二面戦争に突入することになってしまうということで、後方の憂いを先に断つことが優先された結果、ドイツはまずフランスを倒してしまい、その後余裕を持ってロシアと戦うという戦略を取ろうとした。そのためにドイツはフランスを倒すための大作戦(シェリーフェン作戦)を実行し、あと一歩でパリが陥落するかというところまで追い詰めるのだが、結局これは防がれてしまった。つまり、恐れていた二面戦争に実際に突入してしまったのである。

 

というわけで、第一次世界大戦についての外観を確認しておくと、この戦争のメインプレイヤーはドイツで、ドイツとフランスが戦うのがドイツにとって西側である「西部戦線」、ドイツとロシアが戦う東側が「東部戦線」ということになる。そしてこの二つの戦線が、特に西部戦線が完全なる膠着状態になり、ほとんど戦線が動かない状態が続いた。なお、今回は詳しく取り上げないが、最終的にイギリスが参戦して海上封鎖を行うことによって、ドイツの食料が枯渇し、ドイツが内側から崩壊して終了、というのが大まかな流れである。

 

ちなみに、先ほどバルカン半島が火種だったという話を書いていたが、実際に戦争が始まってみるとその地域の人達はほとんど重要なプレイヤーとして動いていないというのも面白い。以上のように見るとその理由はそれなりにスッキリすると思われるが、これも要素を切り取って見ているという面はあり、歴史家にとっても第一次世界大戦の開始というのは謎の多いもののようである。

 


 

さて、激しく前置きが長くなったが、今回注目するのは膠着していた西部戦線である。そもそもなぜ戦線が膠着していたのかというと、この時に「機関銃+塹壕+鉄条網」という鉄壁の防衛スタイルが確立してしまい、それを突破する方法を双方が見出せなかったからである。このセットをここでは「機関銃陣地」と呼ぶが、これがドイツとフランスがにらみ合ったまま伸びに伸びて、ついには海岸線まで到達してしまった。この機関銃陣地に攻撃を仕掛けた場合、攻撃側が必ず敗退し、防御側が常に勝利した。

 

それでは「無意味な攻撃はやめよう」となったかというと、実はそうならず、フランス側もドイツ側も、「敵陣を破れないのは、兵隊の『突撃精神』が足らないからだ」と考える司令官が、兵隊へ執拗に突撃を要求し、無残な死体が量産される事態となってしまった。ついにはドイツは戦線を維持することだけを考えるようになり、フランスも兵士が上層部に反乱を起こし司令官を交代させて突撃は行われなくなるのだが、そうなるまでにおびただしい数の死者を出してしまったこともまた事実である。

 

ここで我々日本人は、やや意外の念を覚えるのではないだろうか。というのは、そうした「精神論による無理難題の克服」というのは、第二次世界大戦のときの日本軍および現在の日本の専売特許のように語られることが多いからである。そうした愚かさは我々日本人だけでなく、ヨーロッパ人にも十分あったのだということがここから見て取れる。ドヤ顔で「日本人はすぐ精神論に走る」などと言うセミナー講師に出会っても、これからは「それは日本人だけではなく、世界中広く見られる現象である」とやや引いた目で見ることが出来るだろう。

 

では、精神論に陥ってしまった原因を民族性に求められないとすれば、何に求めればいいのだろうか。

 

ここで、冒頭の鉄道の話に戻ってくる。鉄道がいかに戦争を変えたのかというのはそれ自体物凄く面白い話なのだが、そこまで話していると話が終わりそうにないのでまたの機会にすることにして、ここでは、鉄道が戦争を含む国家戦略の中核にあったことと、その鉄道を管理する能力が極めて専門的で難しいものだったことに着目する。

 

一般的に言って、専門家集団のやっていることを外部の人が評価することは難しい。外部の人から見ると専門家がやっていることは複雑過ぎて、何をやっているのか理解することが出来ないからである。そして、当時は軍が鉄道を管理していたわけで、それは結局「軍のやっていることに口出しにくい」雰囲気になっていたということである。つまり、政治家や世論が軍をコントロールすることが難しくなり、組織の硬直化を招くとともに、「軍部の暴走」が起きやすい状況を作ってしまっていた。

 

そして、そのことがまさに先に述べたような「突撃精神」のような悲劇を招いたと考えられるのである。言い換えると、おかしな考えを持つ人が出るのは仕方がないが、それを政治家なり市民なりが止めることができない状況になっていたということが本質的な問題だということである。

 

ここで改めて振り返ってみると、第一次世界大戦には、「英雄」として名を馳せた人というのは特に思い浮かばない。これもまた鉄道が戦略の中心にあったことと関連している。英雄が大胆な作戦を思い付いてそれを実行するには、その作戦を理解して実行する人達が必要である。しかし、鉄道網を敷くような超大規模事業を行うには、多くの人の同意が必要なので、その意志は最大公約数的にしかなり得ない。そのような状況下で「天才的な発想」というものを思いついたとしても、それを凡人である多くの人達が理解することは原理的に難しいため、予算が集まらずその計画は実行されないこととなる。したがって、天才の活躍の余地というのがなくなっていたのである。戦争の主役は、官僚組織のような集団に移っていたということになる。かくして第一次世界大戦は、華々しい英雄譚は鳴りを潜め、「顔の見えない戦争」となり、塹壕の中で名もなき兵士が無残に死んでいく戦争だというイメージが後世に残されることになった。

 

重要な点を再度確認しておくと、無駄死にすると分かっているのに突撃するという軍の暴走を止めることができなかったのは、要は軍に権限が集中ししていたからだし、それを止める政治的リーダーが居なかったということでもある。そしてその根本にあるのが専門家による専門知識の肥大化による硬直化であるということだ。

 

第一次世界大戦のときには鉄道がそうした硬直化を招いていたというだけで、要は大規模な予算を必要とするものが戦略のメインになった場合には同様に硬直化の危険があると言ってよい。その意味で、これはその後の世界にも一般に当てはまる法則であると言える。では、その後、常に組織というものは硬直化していったのかというと、続く第二次世界大戦は意外にもそうではなかった。

 

第二次世界大戦第一次世界大戦と違って、そこには確かに「顔の見える」人達がいるのである。そして、特に指導者を見てみると、チャーチルヒトラールーズベルトなど、やや独裁傾向のある、場合によっては危険な(もちろんヒトラーは実際に危険だったわけだが)指導者が活躍していたと言ってよい。こうした人物が指導者になれたということは、それを民衆が許容したということであるが、その理由は、これまで見てきたような第一次世界大戦の問題への反省からと考えられるのである。

 

つまり、専門分野の複雑化に伴う組織の硬直化という問題が直接解決されたわけではないのだが、より強権を発動する政治家を選んでバランスを取ったということになる。通常なら危険すぎるそうした人達が指導者になっていたのは、第一次世界大戦の時に、官僚的機構の鈍重さに危機感を抱いていたからで、確かにあの時には必要なことだったのだろう。ちなみに、第一次世界大戦時にフランスの首相だったクレマンソーは「戦争は軍人に任せておくには重要過ぎる」という言葉を残している。これも第一次世界大戦の悲惨な状況を理解するとその発言の意味が良く分かる。

 

そして、日本人にとって重要な点だが、この「官僚的機構の肥大化」「軍部の暴走」による失敗というのは、まさに日本が第二次世界大戦で経験した事である。これはまさに、日本が第一次世界大戦に参加していなかったため、高い授業料を払わずに済んでしまったからだと考えることが出来る。嫌な汗の出る話である。

 

ただ私としては、そうした「専門家の権限肥大による硬直化」といった現象は日本固有の問題ではないということが分かって、であればそれほど悲観することは無いとか、解決不可能な問題ではないと思えたという意味で、この整理は希望の湧くものであった。

 


 

以上で今回の話は終わりだが、第一次世界大戦について理解することは、その後の情勢を理解するうえでもかなり重要ではないかという印象を持った。もちろん、特に他の歴史的事件、例えば第二次世界大戦よりより第一次が特に重要ということはないのだが。しかし、日本も戦った第二次世界大戦に比べて、第一次世界大戦について語れる日本人というのはかなり少ないのではないかと想像される。

 

例えば、普通に日本人として暮らしていると、ドイツにはヒトラーというとんでもない独裁者がいてそいつが悪かったから第二次世界大戦(のヨーロッパ局面)が起きたみたいな理解になりがちだが、その要因は明らかに第一次世界大戦の戦後処理にある。パリ講和会議において連合国がドイツにふっかけた賠償金が大きすぎて、ドイツは「まともな方法」では、自国を立て直すことは出来なくなっていたのである。ヒトラーおよびナチスが台頭したのはそうした無茶な制裁に対する復讐心によるものであり、ほとんど第一次世界大戦戦勝国の罪と言ってもいいレベルである。

 

ちなみに、この賠償金額に反対していた連合国側の人は居なかったのかというと、ちゃんと居たのだ。それが当時イギリスの大蔵省に居たケインズである。ケインズというのは、もちろんケインズ経済学で知られるあのケインズである。ケインズはイギリス代表として講和会議に参加して反対を表明したがそれを通すことはできず、結果的に代表を辞任している。賠償を求める戦勝国の民意には勝てなかったのである。しかし、私的はこれを聞いて「さすがはケインズさんは偉大だな」との思いを新たにした。

 

さらに見ていくと、第二次世界大戦後に日本がそれほどの賠償金を課せられなかった背景には、この時にドイツを追い詰めすぎてもう一度戦争を仕掛けられてしまったことの反省が大いにあったようだ。こんなところにも、「ヨーロッパ人には第一次世界大戦の教訓が生きている」と見ることが出来よう。

 

さらにさらに、現状で北朝鮮がミサイルを日本の方に打っても世界各国が北朝鮮をいじめてくれないのはなぜか?というのも、あまり追い詰めすぎると「ドイツや日本みたいに決死の反撃をしてくる」可能性があるということをみんな理解しているということなのだろう。

 

また、戦争の話ではないが、安倍政権が当初「今大事なのは決断することだ」とアピールしていたことが思い出される。たしかに安倍政権は、良くも悪くも「決断する」という印象を受ける。そして確かに、その前の政権が長らく何も決断できない状態が続いていたという印象も強い。もちろん、悪い決断をするぐらいなら保留にしておいた方が嬉しいことも多いのだが、安倍政権が選ばれたのは、複雑化しすぎて硬直化した世界で何かを行うためには、強権を持つ人をトップに据えるしかないという民衆の選択があったということなのかもしれない。