筋トレで一度太らないと筋肉が付かないのはなぜか?

鍛えることで成長する場合と潰れる場合の違いはどこにあるか

 

2年前に一度ぎっくり腰になってから、何か対処しなくてはいけないかなと考えていて、最近(元文章を書いたのは2019/2/27でした)ついに筋トレを始めました。第一の目的はぎっくり腰の予防なのですが、他にも、昔からお尻の肉が無さ過ぎて堅い椅子に座るとお尻が痛くなる(最悪坐骨のところから血が出る)ので、お尻を分厚く出来ないかとも考えていました。そのため、両方に効果がありそうなスクワットから始めました。あと体幹を鍛えるための「プランク」というやつもやってます。日々の生活の中でも、エスカレーターを使っていた場面で出来るだけ階段を使うなど、運動量をやや増やすようにしました。そして、私はとても痩せているので、筋肉量を増やして体重そのものも増量させたいと考えていました。

 

それで少しやってみてどうなったかというと、体重は全く変わらないか、むしろわずかですが痩せました(苦笑)。よく考えれば当たり前なのですが、みんながダイエットと称してやっていることをやるわけですから、基本的にはエネルギー消費が増えて痩せるわけですね。もちろん、自分としては普段よりちょっと多めに食べようとはしたのですが、それと消費量が拮抗していて、体重を増やすには至らなかったようです。

 

そこで、筋トレに詳しい人に相談してみたのですが、筋トレの理論的には、筋肉を付けるには一度脂肪を付けるなどして太らないといけないそうです。身体の中にエネルギーを一度蓄えて、筋肉に変換するための元になるものを作っておいた状態で運動することで筋肉が増えるようです。確かに、身体にエネルギーが無い時に運動したら、筋肉を分解してエネルギーにするしかない気がしますし、その通りな気がしました。私は人類の健康ギリギリぐらいの痩せ具合で生きてるので(ちなみに、身長184cm、体重55kg)、筋肉に変換するための余剰がないんでしょう。相談した彼曰く、プロテインの中でも、「ウェイトゲイナー(Weight Gainer)」という、体重増加のためのタイプがあるので、それがオススメですよということだったので、買ってみることにしました。今日届くらしいです。楽しみです。

 

さて、その話はともかくとして、「筋肉を増やすには一度脂肪を付けなくてはならない」という話が、なんとなくですがとても面白い気がしました。しかしそれがどう面白いのかということが自分でも良く分からなかったので、そのことについて最近考えていたのでした。

 

例えば教育などの文脈でも、「人を過酷な状況に置く」ということで、「成長する」こともあれば「潰れる」こともある、というのは皆さんも実感としてあると思います。そして、どういう場合には成長して、どういう場合には潰れるのか、ということはあまりきちんと理論化されていないように思います。筋トレも基本的には「自分を過酷な状況に置く」わけですが、それが「(筋肉が)成長する」に繋がるには、「身体にエネルギーの蓄えがある状態にする」という条件があるという事になります。これはきちんと理論化できているわけで、とても進んでいる事例なのではないかと思うわけです。したがって、筋トレについて考えることで、他のことにもヒントが得られるのではないか、という気がするのです。

 

ただし、単純に成長一般に一般化すれば良いという話でもないでしょう。それが他の例にも当てはまるかというのはまた別問題です(なぜなら一般化や具体化には解釈が伴うので、そのやり方は一意に定まるわけではないので)。しかし重要なのは「きちんと理論化する」「上手く行かなければ誤りだと認める」という態度なのかなと思うのです。そういうものが、他の「教育一般」には欠けていることが多い気がするのです。…現代教育の悪口は今日の本題ではないですが。

 

人体の体温調節に見る「身体の意思」

 

上記の問題を考えるにためのヒントになりそうな現象として、突拍子もない例だと思われるかもしれませんが、ここでは人体の体温調節について考えてみます。

 

昔から、寒い時に「せっかく身体に脂肪があるのだから、これを自分の意志で今熱源として使ってしまうことにすれば、寒さがしのげるはずではないのか?それを強制的に行う方法はないのか?」ということが気になっていました。現代人の我々は、食料が食べられないという危機的状況にはないので、身体に蓄えておく量は最小限でいいはずですから、蓄積してるエネルギーのほとんどを使ってしまって大丈夫なはずでしょう。私がまさにいい例で、限界ギリギリまで痩せていても、大きな病気とかをしない限りは、特に問題なく過ごせるわけです。

 

そういうことを考えていたのですが、身体というのはそう簡単に思い通りにはならないのかなあ、と半ば諦めていました。しかし、少し前に「痛覚のふしぎ 脳で感知する痛みのメカニズム」という本を読んで、「もしかしてそういうこともある程度できるのではないか」と思うようなヒントを得ました。その本は痛覚についての本ですが、神経一般についても書いてあって、暑さ寒さを感じる神経の話のところに何気なく書いてあったことが、私の常識を覆す話だったのです。

 

それは(今手元に本がないので正確ではないですが)「人体は寒さを感じると手足など末端の血流を減らして体温が奪われるのを防ぐ」という文章でした。体表面の温度と外気の温度に差があるほど熱が奪われてしまうので、その差を小さくすることで熱を奪われることを防いで、臓器など大切な部分の熱が奪われないようにしているということらしいです。

 

これが常識を覆す話だと感じたという事は、私はそうではない理解をしていたという事になるのですが、では私はどう理解していたかというと、人体というのは「身体を温めようとしている」が、「寒さに負けて温めきれない」ので、手足が冷たくなってしまうのだと思っていたのです。でも、この説明によるとそうではないのです。

 

ところで、皆さんは「体幹を温めると全身が温まる」という話を聞いたことがないでしょうか。例えば、マフラーをすると体感でかなり温かくなるというのは実感があると思いますし、腹巻をすると冷えにいい、みたいな話も良く聞くと思います。私はこれを「体幹を温めることで、そこの血液が温まって、その血液が身体を巡ることによって他の場所も温まる」みたいなイメージで捉えていました。しかし、上記の説明を聞いて、それは少し違うのではないかと思うようになりました。

 

推測ですがおそらく、正しいメカニズムはこうなのです。我々が寒さを感じると、身体はエネルギーの不足を心配して、末端の血流を減らそうとします。それは臓器などの大切な部分の温度を下げないためです。ところが、体幹、すなわち臓器などがある部分を温めることで、そこに熱が十分あれば、身体は余剰分を末端に回しても問題無いと判断して、手足などの末端に熱を供給するようになって、結果として全身が温まるのです。

 

これは、単なる解釈の違いと言ってしまえばそうだとは思います。「体幹を温めれば全身が温まる」というノウハウだけ知っていれば、普通の人にとっては十分でしょう。しかしそれでもこの発想の転換には大きな意味があると思うのです。

 

私が最初に想像した通り、人体はやろうと思えば身体を温められるだけのエネルギーを蓄えてはいるのです。しかし、それは「あえてしていない」のです。「やろうとしているのだけど上手く出来ない」ではないのです。

 

例えば、お酒を飲むと身体が温まりますよね。私は、お酒を飲んだ夏の日に雨を浴びてしまったことがあって、結果どうなったかというと、体温が奪われてしまってガタガタと震えることになりました。夏の日にですよ?つまり、体表面に冷たいものが当たったら、体表面の温度を下げないと体温が奪われて危険なのです。お酒はその「体温調節機能」をおかしくしてしまうのでそういうことが起こるのであって、正常な状態というのはそのコントロールが効く状態のことを指すわけです。だから、寒い時に手足が冷たくなるのは、(限度を超えなければ)正常なわけです。

 

そういう順序から想像すると、「寒さに強くなりたいから寒い環境に身を置く」みたいなことをするとどうなるかというと、おそらくですが、より基本の体温を下げる方向に身体が適応するのではないでしょうか。もし「いつも手足が温かい状態に保てるようになりたい」という目標でそういう「訓練」をしてしまうと、「いつも手足が冷たい」(が、意識としては気にならない)状態になるという正反対の結果を招くのではないでしょうか。このメカニズムの理解が正しいかは分からないのですが、メカニズムの理解が間違っていると「訓練」が意図せぬ結果を招く、という事自体は言えると思います。

 

なお、医学的な話については専門ではないので話半分に聞いて欲しくて、この話も推測ですが、たぶん免疫等の都合的には体温は高い方が都合がよくて、出来れば高くしたいところを、体温を奪われ過ぎないように調節しないといけない、というせめぎ合いの中で環境に合った状態が選ばれるのではないかと思います。風邪で熱が出るのはウイルスと戦うためであって、安易に解熱すると風邪が長引くという話からも、基本的に体温が高いことは悪いことではないということが伺えます。熱が出るのは、温存していた兵力を一気に投入している状態なわけですね。ただし他の条件として、たんぱく質が変質するほど体温を高くしてはいけないという話はありますし、他にもあるのだろうとは思いますが。

 

さて、大事だと思う所を再確認すると、こういうことです。手足が冷えてしまうことを、「身体はいつも手足を温めようと頑張っているが、強大な寒さには負けてしまう」と捉えている状態と言うのは、「身体の意思」を誤解している状態です。ここで例えば、「身体を寒さの過酷な状況に置けば強くなって解決する」などと思ってしまうと、それは「頭の意思」と「身体の意思」が反対方向を向いている状態になってしまいます。しかし実際にはこのケースでは(仮に私の考えが正しいとすればですが)、「身体の意思」は「末端を冷やそう」なのです。したがって、身体の意思を頭の意思が素直に聞いて対処すると、「体幹に熱が足らないのが不安なら、体幹を温めればよい」になるのです。頭の意思と身体の意思が一致することで、無理なく身体に指令を送ることができるという事です。

 

なお、頭の意思と身体の意思が一致することの重要性というのは、鬱に関する話題の中でも良く聞きます。「身体の意思を無視して頭の意思を無理矢理通していると、あるときから身体が反逆して言うことを聞かなくなる」そうです。そういう面からも、「身体の意思」に耳を傾けることの重要性を感じるのです。

 

冒頭の話に戻ると、私は、「身体に好き放題エネルギーを消費させてでも身体をあっためるスイッチみたいなものがあったらいいな」と思っていたわけですが、(何の手間も要らないというわけではないですが)それに近いもの(体幹を温めればよい)が手に入ったわけです。これは凄いことではないでしょうか。凄いというか、「そういうものがある」という発想を得ること自体が凄く有益に思えるのです。

 

「身体の意思」が分かると筋トレもそれ以外も上手く行く

 

これを筋トレの話にも応用してみましょう。「一度体脂肪を増やしてからでないと筋肉は付かない」ということを、単純に現象として説明すると、「体内に余剰エネルギーがある状態だとエネルギーが筋肉に変換されやすい」ということになります。これを、身体の意思という面からとらえるとどうなるか。

 

まず、生物として考えると、筋肉というのは付けば付くほどいいというものではなくて、筋肉が増えると消費エネルギーが増えるので、食料の少ない状況では不利になります。したがって、人間には「使わない筋肉を減らす」機能が付いているわけです。「減ってしまう」ではなく、「積極的に減らそうとしている」のです。他の動物を見ると、ネコなどは運動しなくても筋肉が衰えることはないようです。クマなども、物凄く強いですが、あれは別にトレーニングして強くなったわけではないでしょう。「ネコやクマには筋肉を減らす機能がついてない(というか、筋肉を減らすと死に直結するのでしないようにしている)」のではないでしょうか。人間に「筋肉量の調節機能が付いている」のであって、「人間は劣っているから放っておくと筋肉が衰えてしまう」ではないのです。

 

そういう発想から考えると、今自分の身体に脂肪などのエネルギーの蓄えがないのに、筋肉を増やしたら、ただでさえ少ないエネルギーがさらに足らなくなって、破滅一直線になってしまいます。したがって、身体は、いくら運動をしても「筋肉を付けない」という選択をするしかないのでしょう。つまりこれが、冒頭の問いの「一度太らないと筋肉が付かないのはなぜか」の答えではないか、と思われるのです。

 

もちろん現代に生きる私たちは、お腹が空いたらいつでも食料を供給できるような環境に居るので、大昔のように食料不足の危機におびえているわけではないので、できればその事情を身体にも理解して欲しいのですが、身体というのはそう簡単に変化するものではないようで、1万年前ぐらいの生活の記憶を引きずっているようです。人類の文化的な変化が急激すぎて、進化での適応はそんな速い環境の変化には対応していないのでしょう。(もちろん、急速に対応しているものもあるのだろうとは思いますが)

 

そうした事情で、「身体の意思」はしばしば大昔の記憶に基づいて判断をしていて、現代に生きる我々の「頭の意思」の常識では面食らうことも多いのですが、そうした身体の意思というか事情を読み取ってあげることで、身体が頭の(自分の)味方になっていくのではないかと思うのです。

 

そして筋トレをすることで、そういう「身体の意思」に対する理解を深められたらいいな、と考えているという事なのでした。

 


(参考)