第一次世界大戦に学ぶ「専門性の向上による組織の硬直化」

 今回はオリジナルの話ではなくて、「無形化世界の力学と戦略」(長沼伸一郎)という(PDFで買った)本の中での、第一次世界大戦についての解説から一部を切り取った話になります。

 

正直この本を読むまで、第一次世界大戦がどういうものなのかさっぱり分かっていなかったのですが、読んだら随分見通し良く分かりました。ただ、それを全部説明するのは無理なので、ここではテーマを絞ってお届けします。

 

そのテーマは「専門性の向上による組織の硬直化」です。

 


 

第一次世界大戦の頃の戦争では、鉄道による人や物資の輸送網を確保すること(兵站)が最重要の位置を占めていた。第一次世界大戦の発端にも鉄道が関係している。鉄道網の敷かれている範囲の拡大はそのまま勢力圏の拡大を意味していた。そういう背景もあって、その頃ドイツは「3B政策」という政策を実行しようとしていた(この名前は当時のドイツで使われたものではなく、後からそう呼ばれるようになっただけらしいが)。3Bというのは、ベルリン、ビザンティウムバグダッドのことで、ベルリンはドイツの首都、ビザンティウムはトルコのイスタンブールの旧名であり、地中海と黒海の間の首根っこ、バグダッドはイランの首都でペルシャ湾にも近い。どこも重要な拠点である。

 

この3B政策は、イギリスの3C政策(これも鉄道の政策)と対置してそれらが対立していたと取り上げられることも多いが、第一次世界大戦の直接の引き金となったのは、イギリスというよりはロシアとの関係である。ロシアは、地中海側の海の出口を求めていた。ドイツの鉄道の計画と、ロシアの海運の計画が交差する場所こそが、第一次世界大戦の引き金になったバルカン半島ということになる。

 

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バルカン半島をめぐる情勢

(図1、無形化世界の力学と戦略、第三部 P70)

 

バルカン半島の国々は、ドイツとロシアの代理戦争をやらされていた。大戦の直接の引き金と言われるサラエボ事件は、セルビア人の青年がオーストリアの皇太子を暗殺したという事件だが、これは、ロシアがスラブ系であるセルビアを支援していたということによる。ドイツとオーストリアは同盟関係にあるので、かくしてロシアへの攻撃の理由が手に入ったという状況になる。

 

先ほど言った通り、ドイツにとってメインの敵はロシアであった。しかし、ロシアというのはあまりにも広いので、ナポレオンが手こずったように、攻めても攻めても戦線が後退するだけで、いつ終わるとも分からない戦争になってしまうことが想像される。そのときに、後方を他の国に攻められたら悪夢の二面戦争に突入することになってしまうということで、後方の憂いを先に断つことが優先された結果、ドイツはまずフランスを倒してしまい、その後余裕を持ってロシアと戦うという戦略を取ろうとした。そのためにドイツはフランスを倒すための大作戦(シェリーフェン作戦)を実行し、あと一歩でパリが陥落するかというところまで追い詰めるのだが、結局これは防がれてしまった。つまり、恐れていた二面戦争に実際に突入してしまったのである。

 

というわけで、第一次世界大戦についての外観を確認しておくと、この戦争のメインプレイヤーはドイツで、ドイツとフランスが戦うのがドイツにとって西側である「西部戦線」、ドイツとロシアが戦う東側が「東部戦線」ということになる。そしてこの二つの戦線が、特に西部戦線が完全なる膠着状態になり、ほとんど戦線が動かない状態が続いた。なお、今回は詳しく取り上げないが、最終的にイギリスが参戦して海上封鎖を行うことによって、ドイツの食料が枯渇し、ドイツが内側から崩壊して終了、というのが大まかな流れである。

 

ちなみに、先ほどバルカン半島が火種だったという話を書いていたが、実際に戦争が始まってみるとその地域の人達はほとんど重要なプレイヤーとして動いていないというのも面白い。以上のように見るとその理由はそれなりにスッキリすると思われるが、これも要素を切り取って見ているという面はあり、歴史家にとっても第一次世界大戦の開始というのは謎の多いもののようである。

 


 

さて、激しく前置きが長くなったが、今回注目するのは膠着していた西部戦線である。そもそもなぜ戦線が膠着していたのかというと、この時に「機関銃+塹壕+鉄条網」という鉄壁の防衛スタイルが確立してしまい、それを突破する方法を双方が見出せなかったからである。このセットをここでは「機関銃陣地」と呼ぶが、これがドイツとフランスがにらみ合ったまま伸びに伸びて、ついには海岸線まで到達してしまった。この機関銃陣地に攻撃を仕掛けた場合、攻撃側が必ず敗退し、防御側が常に勝利した。

 

それでは「無意味な攻撃はやめよう」となったかというと、実はそうならず、フランス側もドイツ側も、「敵陣を破れないのは、兵隊の『突撃精神』が足らないからだ」と考える司令官が、兵隊へ執拗に突撃を要求し、無残な死体が量産される事態となってしまった。ついにはドイツは戦線を維持することだけを考えるようになり、フランスも兵士が上層部に反乱を起こし司令官を交代させて突撃は行われなくなるのだが、そうなるまでにおびただしい数の死者を出してしまったこともまた事実である。

 

ここで我々日本人は、やや意外の念を覚えるのではないだろうか。というのは、そうした「精神論による無理難題の克服」というのは、第二次世界大戦のときの日本軍および現在の日本の専売特許のように語られることが多いからである。そうした愚かさは我々日本人だけでなく、ヨーロッパ人にも十分あったのだということがここから見て取れる。ドヤ顔で「日本人はすぐ精神論に走る」などと言うセミナー講師に出会っても、これからは「それは日本人だけではなく、世界中広く見られる現象である」とやや引いた目で見ることが出来るだろう。

 

では、精神論に陥ってしまった原因を民族性に求められないとすれば、何に求めればいいのだろうか。

 

ここで、冒頭の鉄道の話に戻ってくる。鉄道がいかに戦争を変えたのかというのはそれ自体物凄く面白い話なのだが、そこまで話していると話が終わりそうにないのでまたの機会にすることにして、ここでは、鉄道が戦争を含む国家戦略の中核にあったことと、その鉄道を管理する能力が極めて専門的で難しいものだったことに着目する。

 

一般的に言って、専門家集団のやっていることを外部の人が評価することは難しい。外部の人から見ると専門家がやっていることは複雑過ぎて、何をやっているのか理解することが出来ないからである。そして、当時は軍が鉄道を管理していたわけで、それは結局「軍のやっていることに口出しにくい」雰囲気になっていたということである。つまり、政治家や世論が軍をコントロールすることが難しくなり、組織の硬直化を招くとともに、「軍部の暴走」が起きやすい状況を作ってしまっていた。

 

そして、そのことがまさに先に述べたような「突撃精神」のような悲劇を招いたと考えられるのである。言い換えると、おかしな考えを持つ人が出るのは仕方がないが、それを政治家なり市民なりが止めることができない状況になっていたということが本質的な問題だということである。

 

ここで改めて振り返ってみると、第一次世界大戦には、「英雄」として名を馳せた人というのは特に思い浮かばない。これもまた鉄道が戦略の中心にあったことと関連している。英雄が大胆な作戦を思い付いてそれを実行するには、その作戦を理解して実行する人達が必要である。しかし、鉄道網を敷くような超大規模事業を行うには、多くの人の同意が必要なので、その意志は最大公約数的にしかなり得ない。そのような状況下で「天才的な発想」というものを思いついたとしても、それを凡人である多くの人達が理解することは原理的に難しいため、予算が集まらずその計画は実行されないこととなる。したがって、天才の活躍の余地というのがなくなっていたのである。戦争の主役は、官僚組織のような集団に移っていたということになる。かくして第一次世界大戦は、華々しい英雄譚は鳴りを潜め、「顔の見えない戦争」となり、塹壕の中で名もなき兵士が無残に死んでいく戦争だというイメージが後世に残されることになった。

 

重要な点を再度確認しておくと、無駄死にすると分かっているのに突撃するという軍の暴走を止めることができなかったのは、要は軍に権限が集中ししていたからだし、それを止める政治的リーダーが居なかったということでもある。そしてその根本にあるのが専門家による専門知識の肥大化による硬直化であるということだ。

 

第一次世界大戦のときには鉄道がそうした硬直化を招いていたというだけで、要は大規模な予算を必要とするものが戦略のメインになった場合には同様に硬直化の危険があると言ってよい。その意味で、これはその後の世界にも一般に当てはまる法則であると言える。では、その後、常に組織というものは硬直化していったのかというと、続く第二次世界大戦は意外にもそうではなかった。

 

第二次世界大戦第一次世界大戦と違って、そこには確かに「顔の見える」人達がいるのである。そして、特に指導者を見てみると、チャーチルヒトラールーズベルトなど、やや独裁傾向のある、場合によっては危険な(もちろんヒトラーは実際に危険だったわけだが)指導者が活躍していたと言ってよい。こうした人物が指導者になれたということは、それを民衆が許容したということであるが、その理由は、これまで見てきたような第一次世界大戦の問題への反省からと考えられるのである。

 

つまり、専門分野の複雑化に伴う組織の硬直化という問題が直接解決されたわけではないのだが、より強権を発動する政治家を選んでバランスを取ったということになる。通常なら危険すぎるそうした人達が指導者になっていたのは、第一次世界大戦の時に、官僚的機構の鈍重さに危機感を抱いていたからで、確かにあの時には必要なことだったのだろう。ちなみに、第一次世界大戦時にフランスの首相だったクレマンソーは「戦争は軍人に任せておくには重要過ぎる」という言葉を残している。これも第一次世界大戦の悲惨な状況を理解するとその発言の意味が良く分かる。

 

そして、日本人にとって重要な点だが、この「官僚的機構の肥大化」「軍部の暴走」による失敗というのは、まさに日本が第二次世界大戦で経験した事である。これはまさに、日本が第一次世界大戦に参加していなかったため、高い授業料を払わずに済んでしまったからだと考えることが出来る。嫌な汗の出る話である。

 

ただ私としては、そうした「専門家の権限肥大による硬直化」といった現象は日本固有の問題ではないということが分かって、であればそれほど悲観することは無いとか、解決不可能な問題ではないと思えたという意味で、この整理は希望の湧くものであった。

 


 

以上で今回の話は終わりだが、第一次世界大戦について理解することは、その後の情勢を理解するうえでもかなり重要ではないかという印象を持った。もちろん、特に他の歴史的事件、例えば第二次世界大戦よりより第一次が特に重要ということはないのだが。しかし、日本も戦った第二次世界大戦に比べて、第一次世界大戦について語れる日本人というのはかなり少ないのではないかと想像される。

 

例えば、普通に日本人として暮らしていると、ドイツにはヒトラーというとんでもない独裁者がいてそいつが悪かったから第二次世界大戦(のヨーロッパ局面)が起きたみたいな理解になりがちだが、その要因は明らかに第一次世界大戦の戦後処理にある。パリ講和会議において連合国がドイツにふっかけた賠償金が大きすぎて、ドイツは「まともな方法」では、自国を立て直すことは出来なくなっていたのである。ヒトラーおよびナチスが台頭したのはそうした無茶な制裁に対する復讐心によるものであり、ほとんど第一次世界大戦戦勝国の罪と言ってもいいレベルである。

 

ちなみに、この賠償金額に反対していた連合国側の人は居なかったのかというと、ちゃんと居たのだ。それが当時イギリスの大蔵省に居たケインズである。ケインズというのは、もちろんケインズ経済学で知られるあのケインズである。ケインズはイギリス代表として講和会議に参加して反対を表明したがそれを通すことはできず、結果的に代表を辞任している。賠償を求める戦勝国の民意には勝てなかったのである。しかし、私的はこれを聞いて「さすがはケインズさんは偉大だな」との思いを新たにした。

 

さらに見ていくと、第二次世界大戦後に日本がそれほどの賠償金を課せられなかった背景には、この時にドイツを追い詰めすぎてもう一度戦争を仕掛けられてしまったことの反省が大いにあったようだ。こんなところにも、「ヨーロッパ人には第一次世界大戦の教訓が生きている」と見ることが出来よう。

 

さらにさらに、現状で北朝鮮がミサイルを日本の方に打っても世界各国が北朝鮮をいじめてくれないのはなぜか?というのも、あまり追い詰めすぎると「ドイツや日本みたいに決死の反撃をしてくる」可能性があるということをみんな理解しているということなのだろう。

 

また、戦争の話ではないが、安倍政権が当初「今大事なのは決断することだ」とアピールしていたことが思い出される。たしかに安倍政権は、良くも悪くも「決断する」という印象を受ける。そして確かに、その前の政権が長らく何も決断できない状態が続いていたという印象も強い。もちろん、悪い決断をするぐらいなら保留にしておいた方が嬉しいことも多いのだが、安倍政権が選ばれたのは、複雑化しすぎて硬直化した世界で何かを行うためには、強権を持つ人をトップに据えるしかないという民衆の選択があったということなのかもしれない。

バランスをとるとは自分の嫌いなことをすることだ

「何事もバランスが大事」「過ぎたるは及ばざるがごとし」みたいなことって、それだけ聞くと「そうだよね~」って思うと思うんですが、それこそ「言うは易し行うは難し」みたいなものだと思うんですよ。

 

この前の渋谷のハロウィンの騒動とか見ると、私個人がああいうウェイな人達が好きかというと好きではないんですが、多分あの人たちは、私には足りないものを持ってるんだろうな、という気がするんです。参考にすべきものがあるんだろうなというか。それは例えば、人に迷惑をかけてでも自分が幸せになろうとする態度、とかです。

 

仮に私が「人に迷惑をかけてでも自分が幸せになろうとするのは良くない」という信念を持っているとします。信念を持っているぐらいだから、そういう考えは良いと思っていることでしょう。では、良いと思っていることは、どこまでも前に進めてしまっていいのでしょうか?おそらく、ある一定以上になると、自分の労力ばかり増えて、別に他人にとっては変わらない、という状態になってしまうでしょう。そうなったら、少しは揺り戻すのが正しいと思います。

 

でも、「信念を持って進んでいる方向から揺り戻す」って、当事者からすると、「自分の嫌いな人がやってるようなことをやる」になるわけですよ。自分が嫌っていたものに自分がなる、正しいと思って進んでいた方向とは逆方向に進む、そんなことは耐えられない、だから出来ない、ということになりがちなんだと思うんです。「バランスを取る」というのは、そういう理由で難しいのではないかなと思います。

 

「本当に困るのは自分を正義だと思っている人だよね」という話がありますが、それは「信念を持って進んでいる方向から揺り戻せない」ということに当たるのではないでしょうか。この言葉を、他人を批判する言葉としてではなく、自分を戒める言葉として使うのならば、「信念なんかいつでも放り出せる」人間になる必要があるのかもしれないなと思います。

 

そういう意味では、自分の嫌いな人には、自分が上手く生きるためのヒントがあるのではないかと思います。反面教師としてではなく、正しく教師としてです。普段は必要ないですが、自分が行き過ぎてしまった時のヒントとして。

個性は尊重することに価値がある

突然ですが、私は女性の生足を見ると性欲が高まります。では、女性の生足が好きか?というと、それはちょっと微妙な問題です。性欲を開放して良い状況でならもちろん好きですが、性欲を開放してはいけない状況で生足を見せられると、性欲が行き場所に困るからです。要するに、街中で見せられると、どちらかというと困ります。

 

でも、別に生足に限らないんですが、なんらかの格好をしている女性は、別に私の性欲を高めて危険な状態にするためにやってるわけじゃなくて、その格好がしたいからやってるわけじゃないですか。それを、私が困るからという理由でやめさせるのは横暴だと思うんですね。だから、私の方で何とか対処して、その格好をしてもいい世界を維持した方が良いかなと思うのです。

 

だから私の方でも、街中で生足を見るという事を楽しめるように自分を変えちゃえば、私も楽しいし、女性も好きな格好が出来て、Win-Winなんだろうなと思うんです。できれば「ナイスセクシー!」「イエァ!サンキュー!」みたいなやり取りが許されるようになるとなおいいですね。逆に、見て楽しんでたら「うわっ見てる、キモ!」とか言われるとなるなら、さすがの私も「そりゃ横暴じゃねえかよ!こっちゃ我慢してんだよ!」ってキレると思います。

 


 

「個性を尊重せよ」という言葉が、要請があります。現代の我々がしつこく言われる言葉です。私は、個性を尊重するという事はとても尊いことだと思っています。しかし逆に言うと、当たり前のことだとは思っていないのです。個性を尊重するという事は難しく、それゆえそれをすることが大変に価値があると思っています。したがって、「自分の個性を相手に認めさせること」を、「相手に大きな価値を払わせる」ことだと認識しています。それはちっとも尊いことだとは思っていません。

 

「相手の個性を尊重する」ということは、「自分の個性を制限する」ということです。それでもなお、相手の個性を尊重するから、個性を尊重することには価値があるのではないでしょうか。強制的に個性を尊重させられるのは、我慢させられるということです。しかし、いちいち我慢していると思わないために、自分の意志で自分を変えることが尊いのではないでしょうか。

 

よりよい社会を目指して、私は街中で見る生足を喜べる人間に、自分を変えていくのです。それでも個人的には、普段はロングスカートを履いている女性が好きというのは、あまり変わらないと思います。

 

ジョン・ケージの「4分33秒」を聴いて

(以前書いたものに加筆修正しました)

2014年2月15日の筑波大学ピアノ愛好会卒業コンサートで、ジョン・ケージの「4分33秒」が演奏されました。それを聴いて、思ったことをまとめておこうと思います。


 

ご存知かと思いますが、この「4分33秒」という曲は、その時間(4分33秒の間)「何の音楽も奏でない」という曲です。言わば曲であって曲でないという、極めて変な曲です。その解釈についてはこれまで色々と物議を醸してきましたし、ネタ的に扱われることも多い曲です。「ピアノは弾いたことないけど、4分33秒なら自分でも弾ける」なんて言われたりして。

 

しかし、実際に聴いてみて、私は「なるほど」と思い、一つの解釈に達しました。もちろん、芸術作品というものは、受け取った人が感じたことが優先されるべきだとも思うので、定まった解釈を決めること自体が野暮だとも言えて、今から私が言うことも、単なる私の一意見として聞いてもらえればいいと思います。ただ、私的には思っていたより明確な意味を感じたので、みんなが言うほど難しいことじゃないんじゃない?という気持ちもあってこれを書いています。

 

演奏の様子を振り返ると、こんな感じになります。 

演奏が始まりました。何も弾かないのに演奏が始まるというのも妙な話ですが、演者は鍵盤のフタを開け閉めして楽章が始まったことを示しました。驚いたことに、その直後から、音が聴こえたのです。もちろんピアノの音ではありません。聴こえたのは会場の空調の音です。この空調の音は、演者が交代している曲の間の時間も、他の演者が弾いている時も変わらず鳴っていたはずなのに、その間は聴こえなかった音なのです。さらにその後には、会場にいる人が出す、服のこすれる音、息の音も聴こえてきました。これらももちろん、さっきまでもあったのに聴こえなかった音だったのです。それが、演奏が始まったら聴こえるようになったのでした。

 

どうでしょう、お分かりいただけたでしょうか。つまり、ごく簡単に言えば、この4分33秒という曲は会場の音を聴く曲ということになります。Wikipediaにも、会場の音を聞く曲だと書いてあるので、これは割と一般的な解釈でもあるのだと思います。しかし、それだけでは何が面白いのか良く分からない人も居ると思いますので、会場の音を聴くということはどういうことか、もう少し深めて考えてみましょう。

 

会場の音を聴くということは、会場の音というものが存在しているということを知ることであり、それはつまり会場というものが存在しているということを知ることです。会場にあるのは、ホールそのものや、そこに来ているお客さんです。それらの存在を「演奏」として提示されて初めて気付くことが出来たのです。さらに言えば、その存在は、お客さんが「演奏が始まったので真剣に聴く体勢なった」ことによって初めて気付くことが出来たものなのです。演奏が始まって、世界には何も変化が起きていないにも関わらずそれまで聴こえなかった音が聴こえるということは、聴衆側が変化したということです。それは聴く人にとっては自分の存在に自覚的になるということでもあります。普段聴いている音楽も、演奏側だけではなく、聴く側のコンディションによって違って聴こえているはずだという事が分かるのです。そして究極的には、自分が聴いているから音楽があるのだ、ということが分かります。

 


 

突然ですが、絵画の技法である遠近法と比較してこのことを考えてみましょう。遠近法自体は皆さんご存知だと思います。近くのものを大きく、遠くのものを小さく描くことで、平面上に人間が視覚で見えているものを再現して表現する技法です。一応、単に距離に対して大きさに違いを付けるようなものは「素朴遠近法」などと言うらしく、ここで述べたい厳密な遠近法は「透視図法」などと言うようですが、ここではその厳密な方のものを遠近法と呼ぶことにしておきましょう。

 

さて、その遠近法は西洋のルネサンスの頃に出来たのですが、それまでの西洋の絵がどういうものだったかというと、大事なもの(神様とか)が上に大きく描かれて、些末なもの、良くないとされるものなどは下に小さく描かれるなど、必ずしも人の視覚を再現することを目的としたものではありませんでした。それに対して遠近法で描かれた絵は、まさしく人の視覚を再現したものになります。

 

遠近法で描かれた絵というのは、誰かが見た世界です。描かれた絵から逆算すれば、見ていた人がどこに居たのかということを割り出すことが出来ます(ただしもちろん、架空の世界の絵であれば、架空の世界の位置が分かるだけですが)。絵に見えている世界は、誰か一人の視点でしかなく、他の位置から見れば違うものが見えるはずです。こうした絵は、強烈に「見る者」の存在を意識させます。それに対して遠近法を使わない中世の絵は、誰が見ている世界なのかははっきりしません。そこに「見る者」はいないわけです。

 

「誰の視点なのか分からない絵」では、「見られるもの」と「見るもの」は分かれていません。しかし遠近法では、世界は見る者が居るからそのように見えるということ、そして別の人が見れば別のように見えるということが強調されます。これが「見られるもの」と「見るもの」が分かれた状態です。そして、この遠近法の出現は、まさに当時の人々の意識を反映していて、西洋風の「確立した自己」が出現したことの象徴として語られたりします。

 

(ちなみに、これを突き詰めて考えていくと、世界は人が見るから存在するのであるから、世界というのは見た人の数だけあって、何か一つ正しい世界というのがあるのではない、という考えになっていきます。そのような世界で人同士はどのように共通認識を得ることができるのか?ということが哲学上の問題になって、例えば「人の認識機構は大体共通しているから共通認識が得られる」という見解を示したのがカント、などとざっくり認識しておくと哲学の勉強に入る手掛かりになると思います)

 

さて、遠近法の話が長くなりましたが、この話が4分33秒の話に繋がっているのが分かりますでしょうか?私達は演奏を聴く時に、その演奏が良い演奏であるか悪い演奏であるかということを、普通は演奏者の奏でる音を聴いて判断しています。そのとき、聴く自分のコンデションのせいでその音楽が悪いものに聴こえているということはあまり意識されません。音楽はただ音楽として存在している、と感じているわけです。しかし、4分33秒の演奏が始まって、会場の音の聴こえ方が変わるという事は、強烈に「聴く自分」を意識させます。そしてそれは、普段聴いている音楽も、聴く側のコンディションによって変化しているのだ、ということを理解することに繋がるのです。もちろん、会場の音を演奏に適した状態にすることの重要さにも気づかされます。

 

Wikipediaを見ると、こんなことも書いてありました。「ケージは、この作品を気にいっている点として、演奏はいつでもできるのに、それは演奏されたときにしか生き始めないことをあげている」。これは頭で「無音の音楽」だと分かっていても、「実際に聴こえるものはそれとは差がある」ということにも対応しています。こうしたことからも、ジョン・ケージはこう言いたかったのではないでしょうか。「音楽というのは、音楽だけで存在しているのではなく、それを奏でる空間、そして聴衆があって成立しているのだ」と。「演奏するという事は演奏者一人で完結したものではないのだ」、と言ってもいいでしょうか。

 


 

ただ、この「演奏には聴衆が必要だ」というのは、誰もが認める立場だとは私は思っていません。このことは、同時代を生きたピアニストであるグレン・グールドを対比に出すと、よりはっきり理解できるのではないかと思います。グレン・グールドは、ある時から演奏会という形態を否定して、録音したものだけを世に出すようになりました。良い音楽を作るにあたって聴衆の存在など不要だ!と考えたのです。演奏会において演奏者と聴衆は対等ではなく、聴衆は演奏者が間違えたらそれを咎めようとしている失礼な存在だとまで言いました。

 

この二つの立場の対立は、現在まで脈々と続いています。そしてこれは、音楽の録音という形態が現れたことで明確に意識されるようになったのでしょう。私が見るところでは、音楽における最大の革新と言えるものは歴史上二回あり、一回目は楽譜が発明されたことで、二回目が録音が発明されたことです。つまりこの話は、録音が出てきて音楽の在り方が見直しを迫られた時に、二人の人間(もっとたくさん居るでしょうが)が異なる見解を提示した、と解釈することが出来るでしょう。

 

では皆さんはどちら派でしょうか。例えば、以下のそれぞれの立場について、皆さんはどのような見解を持っているでしょうか。

 

  • a.演奏はミスするか分からないから素晴らしい
  • b.確実にミスしていないものを届けることが出来るならその方が良い

 

  • a.CDの音楽はライブ演奏を疑似的に切り取ったもので本物ではない
  • b.CDを聴くのはライブに劣る行為ではなく一つの独立した音楽体験

 

  • a.音楽は人間が奏でるもの
  • b.音楽は機械が奏でても音楽

 

  • a.聴衆の反応が見られるのが演奏の醍醐味だ
  • b.どこかで誰かが聴いてくれていることさえ分かればそれでも十分嬉しい

 

  • a.音楽は多くの人が評価するものに価値がある
  • b.自分一人が納得できる音楽が作れれば多くの人が評価してくれなくてもよい

 

  • a.ライブで周りの人と一緒に盛り上がる方が音楽を最大限楽しめる
  • b.一人の世界に入り込んで集中した方が音楽を最大限楽しめる

 

  • a.音楽は演奏者の動きや人物のバックグラウンドを含めて楽しむもの
  • b.音楽は音を聴くのが純粋な態度でその他の要素は邪魔なもの

 

 

いかがでしょうか。なかなか境界線を引きにくいところもありますが、それぞれaがライブ派(ケージ派)、bが録音派(グールド派)、と考えられるのではないでしょうか。こうしていろいろ並べてみると、絶対こっちだ!というものと、どっちか迷う、というものがありますよね。つまり、全面的にどちらかに寄っている人はあまりいなくて、その間ぐらいというか、場合による、というぐらいに思っている人が多数派なのではないでしょうか。とは言ったものの、私はかなりbの録音派だと自分では思っています。が、その話はまた別の機会に述べたいと思います。

 

少し別の観点としては、音楽鑑賞において、演奏者の動きなどは純粋な音楽の要素ではないと考えたとしても、その純粋な音楽はありふれたものになってしまったせいで、わざわざ音楽鑑賞をするならライブのような音楽以外の要素があるものを望むようになった、と考えることも出来ます。アーティストがCDで稼ぐのではなく、まずYouTubeでタダで見せて人気になったらライブで稼ぐ、という形態へシフトしているのはご承知の通りです。それは「音楽がお金と交換されなくなった」ことではあるかもしれないですが、「音楽を純粋に聴かなくなった」とまでは言えないだろう、つまり音楽の価値(お金以外でも測れるとすれば)が減じたということではないだろう、と私は思います。

 

以上で話は終わりですが、ここで改めて、4分33秒を演奏してくれた後輩には本当に感謝したいと思います。これはまさにCDでは意味が無くて、演奏会で聴かないと得られない体験だったのですから。

 


 

(参考文献)

「はじめての構造主義

遠近法のあたりの話は、この本を参考にしました。

 

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 

 

「レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち」

私はまだ読んでないですが、以前の記事を書いた時に、この本にまさに同じようなことが書いてあるよ、と薦めてもらいました。 

レコードは風景をだいなしにする  ジョン・ケージと録音物たち

レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち

 

 

「努力して問題を解決する」ことと「努力して実力を高めてその実力で問題を解決する」ことの違い

すごく微妙な話なんですが、「努力して問題を解決する」ということと、「努力して実力を高めてその実力で問題を解決する」ということの違いについて最近よく考えます。

 

武井壮(タレント・十種競技の選手)がこんなことを言っていました。「色んなスポーツ選手がいて、各専門では自分はトップの人には敵わないけど、各専門の人はそれに特化した体になっているので、他のことにはむしろ向いていない体になってしまっている。自分が目指しているのは、全てのスポーツがかなりのレベルで出来るようになることだ」と。そして、それを達成する方法として、「自分の身体を思い通りに動かせる、という基礎的なことを完璧にすること。そのために必要な筋肉と、身体のコントロールの精度を高めること」というようなことを言っていました。

 

これ、私もピアノ奏者として、すごく思い当たる節があります。私はかつて、難しい曲をなんとか弾けるようにと、自分の身の丈に合わない難曲を選んで挑戦して、長い時間をかけてなんとかモノにする、ということを繰り返していたのです(と言っても、一曲ごとに長い時間がかかるので、数曲だけですが)。しかし、これをしていても、あまり本当の実力(漠然としたのものですが)が付いてないような気がして、あまりそういうやり方をしなくなって、理論の勉強やコード弾きの練習、リズムの練習、そして何より色んな曲を弾くこと、などに切り替えて行ったのでした。

 

私は幼い頃はピアノを習っていましたけど、それもあまりちゃんと取り組んでいたわけではないし、小学生のうちで止めてしまったので、基本的なピアノ能力はあまり高くありませんでした。そういう状況で大学に入学するわけですが、大学のピアノサークルでは、コンサートでババーンとかっこいい曲を弾いて称賛を浴びたい、というモチベーションがありました。だから「弾けたらかっこいい」というレベルの曲を選んで、一発逆転を狙って、そればかり弾いてなんとか形にする、という道を選んだわけです。いやこれは、そういう態度は良くなかったという話ではなくて、その時に取る選択肢としてはなかなか賢かったのではないかと思います。実際、コンサートではそれなりの演奏をすることができて、称賛を得るという目標自体は達成できましたしね。

 

しかし、これはやはり長くピアノを続けていくための方法としては良くなかったのではないかと思います。たとえて言うなら、受験勉強を暗記やパターン認識で乗り切るようなものです。確かに、似たような問題をたくさん解いていくと、センター試験ぐらいまでのテストの点は取れるようになっていくけども、応用問題には対応できないし、学習の喜びからは離れていってしまう。学習の喜びから離れてしまうと、ハードルを乗り越えた後は全然勉強する気が無くなってしまいます。そういう学習法は、短期間で成果を出すには優れているけど、長期的には悪影響があるわけです。

 

しかしあんまり成果が出ないというのもモチベーションが上がらないので、場当たり的なピアノ練習でとりあえず成果を出して、対外的にはそれなりに実力を見せつけられるようにしておいてから、真の実力になるような訓練をしていくという戦略は、そんなに意識してやったわけではなかったのですが、今考えると理想的な流れだったのでは、とも思います。まあ、最初から実力が付くようにやっておいたらその方が良かったのかもしれませんが、それは後になって気付いたのだからしょうがないのです。

 

さて、ここで少し見方を変えますが、その「短期的に成果を上げるための方法」は、問題が難しくなってしまうと「ものすごく多くの努力を必要とする非効率な方法」になってしまって、普通は破綻します。しかし、それが原理的には破綻しているにも関わらず、「強い意志」などによってその「ものすごく多くの努力」を実際にやれてしまう場合があり、そういうときに大きな不幸が訪れるのではないか、という気がするのです。

 

私はここ数年ずっと、講演の録音から文字起こしをして更に文章まとめをするという仕事を続けているのですが、これにものすごく長い時間がかかっていました。実際のところ、やった仕事の評判はとても良くて、いつも褒められてはいたのですが、あまりにも時間がかかっていて、休日は全部潰れるし、他の事が出来なくてまずいなと思うようになっていました。しかし、せっかく褒められているのにクオリティを落とすのも忍びないなあ、と思ってなかなか舵が切れずにいたのです。

 

ここで、効率の悪いやり方でも、時間をかければうまく出来てしまって、そして褒められてしまうという場合、やり方を根本的に変えるという選択をしにくい、という問題が見て取れます。これは、褒められたりやりがいがあったりする場合に起きやすい問題だと思われて、小中学校の教員や、看護師、介護士など、激務だけどやりがいがある仕事で良く起きている問題のように思います。実際、私の講演録まとめは少しぐらいクオリティを落としても問題ない仕事ですが(と言ったら怒られるかもしれないけど)、人命に関わるような仕事では、そう簡単にクオリティを落とすという選択肢が取れないのは仕方ないことでしょう。

 

しかし、私のやっている講演録を作る仕事は、自分の能力さえ上がれば、もっと楽に、もっと良いものが出来てもおかしくない仕事だと思うわけです。一般的には「クオリティとスピードは反比例の関係にある」という法則があると言えると思いますが、それは同一能力の中での話であって、そもそも能力が上がればクオリティもスピードも向上するはずなわけです。そして、これまでの自分の取り組み方が、目の前の課題に対して場当たり的で、時間を湯水のように使い過ぎで、能力を高めることに真面目に向き合っていなかったのではないか、と思ったのです。

 

効率の悪いやり方をしていたら全く成果が出ない仕事なら、むしろ効率化への意識が働くのですが、時間をかければある程度の成果が出せてしまう場合に、苦しいままずっと同じことを続けてしまう、という事態が発生するのではないかと思います。苦しさを脱することを真剣に考えなくてはいけないのではないか、と思うようになったのです。

 

難しいのは、同じ仕事をしていても、その人が「毎回の仕事をこなしているだけ」なのか「仕事を通じて実力をつけている」のかはというのは、なかなか自覚しにくいし外からも見えにくいという事です。ピアノ演奏はまさにそうなのですが、難しい曲に挑戦する中で、自然と応用力のある実力を身に付けられる人も居ます。自分だって少しは身に付いたと思います。しかし、間違ったやり方で、とにかくある一曲に自分の身体をフィットさせただけ、という場合も往々にしてあります。自然に基礎力を身に付けられる人からすると、「実践から学べばいいじゃん」と思うのだと思うのですが、しかし受験のテストのように、同じ点数を取っていても全く中身は別物、ということが起きているのです。

 

ちなみに、ピアノでは練習曲の意義というのがよく取り沙汰されるのですが、私は上記のような話から、一定の意義があるのではないかと感じています。練習曲というのは課題が限定された曲です。課題が限定されていると何が良いかというと、間違った時に間違っていることが分かるという事です。色々な要素が複雑に絡み合っている課題では、上手く行かなかった時に何が原因なのかを判断することが自他共に難しくなります。単純な課題であれば、間違っていることが良く見えます。私はあまり詳しくありませんが、絵を描くことの最初の基本は、直線が引けること、らしいです。要するに、直線が引けるという事は自分の手を精密にコントロールできるということなのでしょう。それがちゃんとしていないと、他のもっと複雑な技術が上手く出来ない時に、何が原因なのかを特定できなくなってしまいます。そうすると、上達も遅くなってしまうことでしょう。

 

私は何年か前に、「楽譜に書いてある曲を体に覚え込ませるように弾いても、音楽が分かったような気がしない」と感じて、コード弾きなどもっと別の方向に舵を切りました。しかし、世間的には楽譜に書いてある曲を体に覚え込ませるようにして弾くというのは、「正しい」方法として理解されているような気がします。実際確かに、それが一番効率よく、人前で披露できる演目を用意する方法なのではないかと思います。しかしそれゆえ、その方法の問題点というのが指摘されないのではないか、ということも感じています。指導者さえ、そういう方法を標準として学んできてしまっていたりして…(そういうやり方がそれほど悪いと言いたいわけでもないのですが)。

 

人工知能が東大に入学できるか、ということに挑戦してた研究者がいて、その研究の中で、多くの生徒がそもそも問題の内容を理解しないままパターン認識だけで問題を解いていることが明らかになったらしいのですが、そういう風に、「間違った方法のまま異常なほどの努力して、ある程度の成果が出てしまっている」ことって、意外に多いのではないか、と感じるようになったのです。

 

機械学習の文脈で言うと、確かに今はそういうパターン認識の方法の延長で精度が出るようになったけど、それは人間より圧倒的に計算力を使うことができるコンピュータに適した戦略であって、人間がその方法で問題を解くのはやはり推奨できないのではないか、というようなことが言えると思います。

 

成果が出てしまうからこそ、努力をやめられない。頑張ることしか方法を知らない、という人って、結構多いのではないか、という気がするのです。そして、そういう人は、いつか限界が来て潰れてしまうのではないか、という心配もしています。

 

そしてとりあえず、実力が付いていることの一つの目安は、「同じクオリティのものが短い時間で出来るようになる」か「同じ時間の中で高いクオリティのものが出来るようになるか」ではないかと思います。こう書くと当たり前ですが、「より長い時間をかけてクオリティが高くなった」は、実力が向上したわけではない、と考えると、そういうことって結構多いと思うのではないかと思います。

 

どうでしょう。「努力して問題を解決する」ということと、「努力して実力を高めてその実力で問題を解決する」ということの違いについて、理解が深まったでしょうか。

幸せになることに真剣になろう

最近自分は、幸せになることに昔より真剣になったと思う。以前は、自分が何か勉強したりして能力を高めることはしていても、それを本気で自分を幸せにするために使っていなかったような気がする。

 

例を挙げよう。私はとても痩せているので、身体が弱いというイメージを持たれがちなのだが、実際には、ここ最近は、一年半以上一度も風邪をひいていないという実績がある。大抵の人は一年に数回は風邪をひいていると思うので、これはかなり強い方だと自分では思ってる(もちろん、もっと強い人はいくらでもいるとは思うのだが)。これを達成するために、どういう時に風邪をひくかということを自分なりに真面目に検証して、風邪をひかないように振る舞っている。これは、高めた能力を自分を幸せにするために使えていると言えると思う。

 

そして、もう一点が重要なのだが、ちゃんと風邪をひいていないという実績があれば、他人がいくら私に「身体が弱い」というイメージを押し付けようとして来ても、跳ね返すことができる。…と言うと、「いや、いくら言ってもそういうイメージを持つ人は持つのでは?」と思うかもしれない。それは実際そうだ。しかし、私は少なくとも内心でそれを否定することができる。私は、自分より健康じゃない人が偉そうに私にお説教して来ても「フッ、ザコが何か言ってるよ」と思っている。これがとても大事だと思う。

 

多くの人はここで「自分はちゃんとしてるのにちゃんと評価されない」と怒りを抱いてしまうように思うが、これが良くない。私は能力を高めたのだから、それを幸せになるために真剣に使う。それは体調管理の能力だけではなく、精神の能力である。怒るのは損だ。私は悪くないのだから。私はいちいちそんなことで不幸になってはならない。だから、不幸にならないように精神をコントロールする。見る目のない馬鹿の言うことはいちいちに気にしなくて良い。それが幸せになる道だから、そう真剣に思い込もうとする。そして、それを実際に成し遂げることができるようになってきた。

 

もう一つ例を挙げる。ちょっと前に、電車の待ち列で、横から割り込まれた。一瞬注意しようかと思ったが、結局しなかった。私は一瞬怒りを抱いたが、こう考えた。「リスクを取って注意して世の中を良くしようとするか、気にしないかどっちかにしよう」「何も行動しないくせに、怒りだけ感じて良いことをしたように思うのは、最悪の卑怯者」。そう考えて、精神をコントロールして、気にしないことにした。そして、そのコントロールは数秒で完了した。自分でもコントロールできることに驚いたが、とにかくできた。それによって怒りを感じるという損を回避して、電車の中で好きな本を読んだり、楽しく過ごすことが出来た。

 

これは「出来もしないことを望まない方が良い」というような話でもあるのだが、そう言うと人によっては、不満を感じる気持ちが社会を良くする原動力になる、と思うかもしれない。しかし、別に不幸な気持ちがないと出来ないことが出来るようにならないなんてことはない。出来ないことは用意周到に準備して出来るようになれば良いし、楽しくやってた方が上手く行くことの方が多い。逆に、普段から不満を感じていると、既にフェアでない扱いを受けているという意識の反動から、相手にフェアでない要求をするようになってしまいがちである。そうなるとまた自分の扱いが悪くなり、余計に不満を募らせるようになる。(そういう傾向を証明する実証実験とかしたわけではないが)

 

私は何年か前に、ピアノをコードから弾けるようになりたいなあと思ったので、どういう準備をしたらいいか考えて、順にこなしていくことで、実際にかなり出来るようになったし、今も順調に推移している。ずっと考えていたのは、どうしたら楽しく続けられるかな、ということだった。楽しくないと続かないので、練習自体を楽しくすることばかり考えていた。成果が目に見えて出ていれば、ちょっと苦労があってもそれ以上の見返りが予測できるようになるので、地道な努力もしやすくなる。…この真剣さを、本業の方でもっと発揮しないといかんなと思うのだが。

 

周りの人とも仲良くしようとしている。普段接する人と仲良くできたら、普段が楽しいので、幸せである。上機嫌にしていると周りの人もストレスが少ないので、周りの人にとっても良い。「上機嫌な人を見るとムカつく」というような人は幸せになる道が存在していない悪循環に陥っているので、考え直した方が良いし、そういう人に合わせる必要は全くない。

 

こういうのが、私の言う、幸せになるために真剣であるということである。正直なところ、まだまだ、わざわざ自分を不幸にしていることがたくさんあると思っている。例えば、私はもっとちゃんと仕事した方が結局幸せになると思っているので、そういうのは反省して今後は改善して行きたい。幸せを追求するという事は刹那的になるという事は意味しなくて、むしろ逆だと思う。

 


 

…というようなことをわざわざ書いたのは、どうも、賢くなったはずなのに、それを自分を幸せにすることに使えてない人がたくさんいるような気がしているからである。そしてそれはかなりの部分が「学問のせい」な気がしていて、私も人に教える側として自分にも責任があることだと思っているからなのだ。

 

サークルの後輩が、「大学で勉強したおかげで、点字ブロックに自転車が止まっていると、怒りを抱けるようになった」というようなことをツイートしていた。私はこういうのはとても危険だと思う。怒るだけではまだ自分が損をしているだけだからだ。「解決しなくちゃな」と思うのはまだいい。しかし別に怒る必要はない。怒ったって問題は解決しない。粛々と解決策を考えて実行すればいいだけだ。しかし学者が提示するような問題は、実際には、問題に気付くようになったのに、自分には解決できない、ということがほとんどだ。そして、怒るだけで(あるいは何が悪いか指摘しただけで)何か良いことをした気になってしまう人を量産してしまっているように思う。というか、学者自体がそういう存在になっていることがかなりある。

 

これは、かなり際どい話だが一応言っておくと、セクハラの問題にもそういう所がある。よく「昔は普通だと思っていたことが、『それはセクハラだ』ってみんなに言われて、許せなくなった」という話を聞く。これは、「それはセクハラだ」と言った人が、不幸ではなかった人を不幸にしていると私は思う。もちろん、「それはセクハラだ」と言った側にも言い分があることは分かるが、そういう人にこそ、自分が本当に幸せになるために真剣に行動しているか、ということを一度真剣に考えてみて欲しいと思う。

 

それはさておき、世の中の厳しい問題に取り組むには、その厳しさに見合った精神のコントロール力を身に付けて、自分が不幸にならないように気をつけないといけない。しかし実際には、精神のコントロールの方は全然教えないで、問題ばかり見せてしまう。これではみんなが暗い気持ちになるのは当然だろう。自分の手に負えない問題は気にしなくても良い、ということをもっと強調しなくてはならないと思う。自分の手に負えるようになるように自分を進歩させるのは良いことだが、手に負えない問題にただ立ち向かうのは辛いだけである。

 

勉強して、他人の愚かさを指摘できるようになっただけでは、愚かだと指摘された人の分、世の不幸の合計が増えているだけである。そういうのは別に賢くなっていない。賢いというのは、まず自分を幸せに出来ること、そして、余力で他の人を幸せに出来ることだ、と私は思っている。そして、自分の力を幸せになることに真剣に注げば、多くの人は(少なくとも私の周りにいる人位の能力がある人なら)それが達成できるぐらいの能力は持っているのではないかと思う。

単一スキルの成長は対数関数的だが、総合力の成長は指数関数的になる

単一スキルの成長曲線は対数関数的になるが、総合力は指数関数的になる、というようなイメージがある。

 

例えば走る速さみたいなものは、まさしく対数関数的になる。つまり、だんだん成長が緩やかになっていく。普段全く走っていない人は、少し練習するとすぐ速くなるが、ずっと極めている人は、ほんの少しの伸びを得るために膨大なトレーニングが必要になる。

 

ところが、例えば知識というのは、組み合わせで価値が出て来るので、勉強すればするほど、一つの事を勉強した事で分かることの量が増えて行くという実感がある。もちろん、組み合わせることが出来なければそうはならないのだが、組み合わせが出来るとすれば、それは指数関数的に成長することになる。

 

運動能力は対数関数的に成長して、知識能力は指数関数的に成長する、という面は確かに少しはあるけれども、そこは本質ではなくて、冒頭に言ったように、単一スキルであるか、総合スキルであるか、という違いなのだと思う。それは、スキルの組み合わせが出来るかどうか、という違いである。

 

100mを走る速さで考えてみると、世界最速の人に比べて、何もトレーニングしてない私でも半分ぐらいのスピードでは走ることが出来る。しかし、頭の良さとか、問題解決能力、みたいなものを考えると、世界最高の人に比べて、一万の一とか一憶分の一ぐらいしか賢くないのではないか、と思う(もはや差があり過ぎて良く分からない)。最近、サイバーダインの山海先生の講演とか聞いて、本当にそんな気持ちになった。

 


 

つまり、大きな能力を得るには、スキルを組み合わせることが大事だ、という話なのだが、逆に言うと、スキルの組み合わせが出来る「勝負事」では、差が付きすぎてゲームとして面白くならない、という話と捉えることもできる。

 

スポーツみたいなものは、世の中の「勝負」の代表かというとそうではなく、そういうゲームは、ゲームとして面白くなるように工夫がされている特殊なものである。端的に言うと、あまり差が付きすぎてしまうとゲームとして面白くならないので、僅差になるように設計されている。「なんでもあり」の勝負では差が付きすぎて面白くならないので、ルールによって出来ることを制限して差を縮めることで、面白い勝負ができるようになっているのである。

 

これもまた逆に言うと、世で我々が意識して「勝負事」だと思って見ているものは、そういう特殊なゲームであることが多いので、そういうものが勝負の標準の姿だと思ってしまいがちなのだが、例えば普通の仕事などの「広い世界での勝負」は、総合力で勝負するフィールドであるので、スキルを組み合わせてボロ勝ちするという道があり得るのである。

 

これは、格差がなぜ生まれるか、という問いとも繋がっている。人が暴力での問題解決に頼っていたころは、人一人の力の差はせいぜい2~3倍ぐらいしかなかった。3対1で勝てる人というのはなかなかいないだろう。そういう意味で、暴力はかなり平等である。これが知識になると、1,000人いたって1人の天才に適わないというのは普通に起きてしまう。どうも、暴力が禁じられると、格差が広がるらしい。

 


 

それはともかくとして、まとめると、色々なことに少しずつ触れておく、というのは総合力を高める上で有効だ、という話ではあるのだが、スキルを組み合わせで使うことが出来ないとそれはあまり意味がない。というわけで、どうすれば組み合わせる事が出来るのか、と自分なりに考えて、私はある時期から世界史を勉強することにした。普段、色々な本を読んだりして色々な知識が入ってきても、それらに関連を見出せないと価値が生まれてこない。そこで、とりあえず世界史という「時間と空間すべて」を含む空間を手に入れれば、とりあえずその空間内に知識を位置づけることができるのではないか、と考えた。これは、まあ机上の空論ぽい話ではあるが、それなりに効果があった、と私は思っている。ただ、あまり深入りしすぎても他の事が出来ないので、ほどほどでいいのかなとも思っている。

 

ただ、私は無邪気に、色んな知識が繋がればいいと思っていたのだが、それには副作用もあった。何を見たり聞いたりしても、別のことが色々頭に浮かんでしまって、結果として集中力が落ちてしまったのである。広い視野を手に入れることと目の前のことに集中するのは、トレードオフの関係にあったらしい。しかしこれも、だからしょうがないと考えるのではなく、力を手に入れたらそれを制御する能力も身に付ける必要があるみたいなことだと考えて、集中する方法というのも考えていきたいと思っている。