差別されたくないのか、差別をなくしたいのか

ツイートしたもののまとめ。


「対処療法と根治療法があるとして、対処療法によってむしろ根治が難しくなる時に、自分のやろうとしていることが対処療法であるか根治療法であるかを見定めないと議論のすれ違いが起きる」みたいな話をしようと思っている。


twitterを見ていると、自分の好きなものが否定されて嫌だった、という話題がたくさんRTされてくる。別にtwitterに限らずとも、人と話していてもそういう話題はたくさん出て来る。でも私はそういう話を聞いても「人に否定されたからって、それが何よ?人の好みは違うじゃん?」ぐらいに思っている。


もっと言うと、みんなが私の事を間違ってるって言ったって、私が自分で正しいと思ってたらそっちの方が多分正しいだろうと考えると思う。これは、そう思えるぐらいに、自分の支持者もそれなりにいるからそうできる、という面があるのは否定しないですが。味方ゼロだったらさすがに無理かも。


で、すごい嫌なこと言うけど、自分の正しさを多くの他者が支持してくれないと安心できない人というのは、自分がマジョリティ側に入れないと不安な人で、それは意識としてはマイノリティは排斥されて当然だと思っているという、潜在的にマイノリティを排斥する側の人間なのだと思う。


私は自分がマイノリティであることを怖がってなどいないし、人をマイノリティだからと馬鹿にする気持ちも無い。その二つは連動しているのだ。マイノリティであることはなんら悪いことではないと自分で思い込んでいれば、マイノリティに分類されることは怖くなくなる。


「差別は良くない」という言葉は二つの意味で使われている。一つは、差別すること自体が良くないという意味。もう一つは、(自分なり他者なりが)差別される対象になるのが良くない、という意味。


「自分の好みがマイナーである」と言われたくない、そしてそれをマイナーではないと証明しなくてはならない、というのは、マイノリティへの差別があること自体は肯定したうえで、自分はその対象ではないはずだと主張している。私はマイノリティへの差別自体を否定している。


そして、この二つの方法は、基本的に逆方向を向いており、同時に両方を行うことが出来ない。私のやろうとしていることは根治療法であり(望ましいかはまた別)、多くの人のやろうとしていることは対処療法で、対処療法が根治を難しくしているのだと思う。


若くして癌で亡くなった友人が居る。彼は、若かったこともあり、根治を目指した治療をし、最後には「根治にこだわり過ぎた。癌との共存を目指すべきだった」と言っていた。人にとって差別心を根治するというのは、それに近い、危険なことのような気がする。ということは心に留めておきたい。(終)


ちなみに、対処療法はいつも根治を妨げる、というわけではもちろんない。私が知る限りでは、対処療法が根治に繋がるっぽいものとして、「痛み」ってのがあるっぽい。


この本…詳しくは読んでも分かんなかったが、痛みそれ自体が刺激になって痛みを生むバグみたいなのが人体にあるらしいので、対処療法的に痛みを和らげると慢性痛もやわらぐとかそんな話だった気がする(違ったらゴメン)。


痛覚のふしぎ 脳で感知する痛みのメカニズム (ブルーバックス)
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