科学教の信者であるということの2つの意味
この記事はCluadeとChatGPTの協力のもとで執筆しました。
はじめに
「それは科学じゃなくて、科学“教”を信じてるだけだよ」といった皮肉を聞いたことのある人は少なくないでしょう。こうした表現には、科学的な考え方を持たず、ただ権威の言葉を鵜呑みにする姿勢への批判が込められています。つまり、「本当の科学とは、自ら疑い、納得し、根拠を持って判断するものだ」という前提があるわけです。
このように、「科学」と「宗教」は対立するものとして語られがちで、「宗教的であること」には否定的な響きが伴います。
けれど私は、「科学教の信者」という言葉には、もう一つ別の意味も語りうると考えています。それは、真理に対して誠実であろうとする、いわば宗教的な覚悟を内に抱いた態度です。ここではむしろ、「宗教的であること」が科学の本質に迫るものとして肯定的に捉えられます。
本稿では、「科学教の信者」という言葉に込められた二つの意味を掘り下げながら、科学者にとって本当に大切な姿勢とは何かを考えてみたいと思います。
本記事の要点(3分でわかるまとめ)
-
「科学教の信者」という言葉は、否定的な意味(権威を盲信する態度)で語られるが、肯定的な意味(真理に対する誠実な姿勢)も見出すことができるのではないか。
-
科学の本質は、方法論(実験・検証など)だけでなく、真理に向き合う態度(知的誠実さ・探究心)にも支えられている。
-
歴史上の科学者たちは神が創造した世界の秩序を理解することを信仰の一部と考えていた。つまり、科学と宗教を別物とは捉えていなかった。
-
真の科学的態度を育むには、科学者個人の自覚とともに、社会的に誠実さが評価される仕組みが不可欠である。
「科学教の信者」の一般的な意味
まず、一般には「科学教の信者」とは、科学の方法や考え方を理解せず、ただ権威の言葉を無批判に信じる人を指します。
たとえばガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたとき、彼が教会から受けた裁判は、科学と宗教の対立の象徴として語られます。ただし、ここでの対立は単に「権威 vs 自由な探究」という構図ではありません。「盲信 vs 実証」、つまり科学的な方法論をめぐる衝突でもあったのです。ガリレオは望遠鏡による観測という実証的手法を重視し、得られた知見に基づいて地動説を主張しました。一方、彼に反対した人々は、伝統的権威に根ざした知識体系を守ろうとしたのでした。
こうした構図は、現代にも引き継がれています。「科学者がそう言っているから正しい」とする態度は、科学の精神に反するものです。科学の信頼性は、権威ではなく、証拠と検証可能性に支えられているからです。科学的な知見は常に暫定的で、新たな証拠やより優れた理論によって書き換えられる可能性を持っています。
そのことを理解しないまま、科学の成果を絶対視し、無条件に受け入れるような姿勢は、まさに「科学教の信者」と呼ばれてしまうゆえんです。
たとえば新型コロナウイルスの流行時には、このような「科学教的」な態度が広く見られました。専門家の発言を鵜呑みにし、「科学が証明している」といった言葉で議論を封じようとする風潮です。しかし、本来の科学的な態度とは、むしろ不確実性を前提にし、新たな証拠に応じて見解を柔軟に更新していくものではないでしょうか。
「科学教の信者」のもう一つの意味
一方で、「科学教の信者」という言葉には、肯定的な意味が見いだせると私は考えます。それは、真理に対して誠実であろうとする、内面的な態度のことです。自分の欲望や先入観と真実が食い違ったときに、迷わず真実を選ぶような姿勢。これがある意味で「宗教的」とも言えると考えたのです。
アイザック・ニュートンは科学の巨人であると同時に、熱心な神学者でもありました。これは単なる時代背景によるものではなく、当時の科学者たちの多くが「自然の法則を探ることは、神の創造の意図を読み解くことだ」と考えていたからです。ニュートンやケプラーらは、宇宙の秩序の背後に神の理性と設計を見出しそれを明らかにすることが、信仰と結びついた行為だったのです。
こうした精神において、科学における誠実さは単なる職業倫理ではありませんでした。むしろ、真理を歪めたり嘘をついたりすることは、神の秩序に対する冒涜であり、信仰そのものを裏切る行為と捉えられていたのです。それはつまり自身の内面からくる衝動として、科学の領域において嘘をつきたくないと思っていた、ということになるでしょう。
リチャード・ファインマンも「自分自身をだましてはいけない。自分は最もだましやすい相手なのだから」と述べ、科学者が厳しく自己を省みながら真実に向き合う必要を強調しました。アインシュタインもまた、宇宙の法則に対する驚きや敬意をしばしば語り、それを「宗教的感情」と呼ぶこともありました。(ちなみにこの節についてはClaudeに提案してもらったもので、著者は全然知りませんでした)
真理に対するこのような深い畏敬の念こそが、実は科学の源泉なのではないか、というのが、この記事で一番伝えたかったことになります。
科学の「方法論」と「真理への態度」
ここで区別しておきたいのは、科学の「方法論」と「真理への態度」という二つの側面です。
前者は、実験設計やデータ収集、統計分析、仮説検証、査読プロセスといった、科学を実践するうえでの手順や技術のこと。これらは教科書に載せられるものであり、外側から観察・評価することが可能です。
一方で、「真理への態度」はもっと内面的なものです。知的誠実さ、疑問を持つ姿勢、真実に対する敬意、不確実性の受容、探究心などが含まれます。これは科学者一人ひとりの心の中で起こっていることであり、明文化しづらく、教育によって直接伝えるのも難しい部分です。
批判的な意味での「科学教の信者」は、方法論を理解しないまま、権威の言葉を絶対視する態度を指しています。それに対し、私が肯定的に捉えたい「信者」とは、この「真理への態度」を自ら内面化している人です。
ニュートンのように、神への信仰と自然法則の探究を両立させていた科学者たちは、方法論と態度の両方において科学に向き合っていたと言えるでしょう。
現代では、方法論は厳密に守られていても、「真理への態度」が軽視されがちです。論文数や研究資金といった外的な成果が重視される中で、真理そのものへの誠実さが後回しにされてしまう危険性があります。しかし、科学の価値はまさにこの内面的な態度にこそ宿るのではないでしょうか。
真実を語ることの現代的課題
科学者が社会から信頼されるには、何より真実に対して誠実であることが求められます。しかし、この「真実を語る」ということは、現代社会においては複雑な問題を孕んでいます。
例えば統計的事実をそのまま提示することが、時として差別や偏見を助長する結果を招くのではないかという懸念があります。また、科学的知見が政治的な主張や社会的な不平等を正当化するために悪用される危険性も指摘されています。これらは確かに深刻な問題です。
このような状況において科学者に求められるのは、真実への畏敬を保ちながらも、より慎重で建設的なアプローチを取ることでしょう。具体的には、自らの研究の限界を明確に示し、データの解釈における不確実性や文脈の重要性を併せて伝えることです。また、科学的事実と価値判断を混同せず、「何が起こっているか」と「何をすべきか」を明確に区別して議論することが重要です。
さまざまな学説が都合よく使われがちな現代において、もっとも社会の役に立つのは、自らの研究の限界を認識しつつも、バイアスなく真実を語ろうとする姿勢なのです。なぜなら、様々な立場の人々が自分にとって有利な事実を探し求める中で、事実そのものは誰もが参照できる共通の基盤となるからです。偏った情報や隠蔽された事実は、結局のところ一部の人だけに利益をもたらしますが、正確で透明性の高い情報は、立場の違いを超えて建設的な議論を可能にします。たとえ一時的に不都合に思える事実であっても、長期的には社会全体がより良い判断を下すための土台となるのです。
パラダイム論と真理への畏敬
トーマス・クーンのパラダイム論は、科学的知識が社会や文化の中で構築されることを明らかにしました。科学者たちは一定の「パラダイム(思考の枠組み)」の中で研究を行い、それと食い違う「変則事例」が蓄積されると、やがて科学革命が起こり、新たなパラダイムが誕生するという考え方です。
天動説から地動説への転換は、その代表的な例です。長年信じられてきた天動説では説明しきれない観測結果が増え、やがてコペルニクスやガリレオが新しい枠組みとして地動説を提唱するに至りました。
この理論が示唆するのは、「絶対的な真理」にたどり着くことの難しさです。科学的な「事実」さえも、それを見る枠組みによって変わりうる。ここから、極端な相対主義や懐疑論が生まれることもあります。
しかし、だからこそ「真理への畏敬」という態度が重要になります。パラダイム論の限界を補うためにも、科学者は以下のような姿勢を持つべきです:
-
開かれた心構え:自分のパラダイムと矛盾する事実にも誠実に向き合うことで、必要な変革を受け入れられる柔軟性が育まれます。
-
透明性の重視:データ操作や都合の悪い結果の隠蔽を避けることで、枠組みの限界が明るみに出やすくなります。
-
批判的思考:既存の「常識」にも目を凝らし、パラダイムの盲点や矛盾を意識し続ける姿勢が求められます。
科学知識が社会的に構築されるものであるとしても、こうした誠実な態度こそが、その知識をより真理に近づけていく力となります。パラダイムは変化しても、「真理の前では自らの都合を脇に置く」という姿勢が、科学の歩みをよりよい方向へ導く原動力となるのです。
科学教の信者であるための社会的条件
「科学教の信者」を肯定的に捉えるとき、それは真理に対して誠実であろうとする姿勢を持ち、自分の欲望を脇に置いて真実を語ろうとする人物を意味します。しかしこのような理想的な態度は、個人の自覚だけでなく、社会的な条件によっても支えられる必要があります。
まず、科学者自身が自覚すべき課題があります。多くの研究者が、自分の主張を正しいと証明することを目的に研究を進めてしまう傾向があります。このような態度は、確証バイアスを生み、自分に都合の良いデータばかりを重視し、反証となる情報を軽視する結果を招きます。こうなると、真理に近づくことは難しくなります。
真理を追究するには、自分自身をいったん横に置いて考える力が不可欠です。それは単なる客観性ではなく、場合によっては自分の理論や主張を手放す覚悟でもあります。真の科学者とは、自分の説が覆されることを恐れず、むしろ真理にたどり着くことを喜びとする存在なのです。
一方で、こうした態度を支えるためには、社会の側にも責任があります。研究費の出所が研究内容に影響しないように配慮された制度や、不都合な結果を発表しても不利益を被らない環境、そして誠実な研究を評価する文化などが必要です。
科学者コミュニティの中でも、方法論の厳密さと同じくらい「真理への畏敬」という態度を重視し、若手研究者にもそれを伝えていく必要があります。論文数や引用数だけでなく、透明なデータ公開、仮説検証の厳格さ、誤りを認める勇気も評価されるような文化が求められます。
科学者の誠実さと、それを支える社会的な土壌。この二つが揃ってはじめて、「科学教の信者」としての理想的な姿が実現されるのです。
おわりに:科学と信仰の新たな関係
本稿では、「科学教の信者」という言葉に込められた二つの意味を見てきました。一つは批判的な意味で、科学の方法論を理解せず、ただ権威を信じる態度。もう一つは肯定的な意味で、真理に対して誠実であろうとする内面的な姿勢です。
この対比は、現代における科学と信仰の関係を見直すきっかけになるかもしれません。科学と宗教は対立するものとされがちですが、どちらにも「真理への畏敬」という共通の基盤があるのではないでしょうか。
新型コロナや気候変動をめぐって科学的知見が混乱や対立を生む今日、科学者に求められるのは「正しい情報」だけでなく、自らの限界を自覚し、真理への敬意を持って発言する謙虚さです。そして社会もまた、科学者が真実を語りやすい環境を整えることが求められます。
「科学教の信者」という言葉を、あえて肯定的に捉え直すことで、科学と社会の関係をより健全なものへと導く視点が開けるかもしれません。科学の本質は、知識や手法ではなく、真理に向き合う人間の姿勢そのものに宿るのです。
「厳密な因果関係」とは何か? その言葉が生む誤解(コロナウイルス用mRNAワクチンの救済制度に関して)
(この記事はChatGPTの助けを借りて構成しました)
「厳密な因果関係」とは何か? その言葉が生む誤解
コロナウイルスに対するmRNAワクチンで、大量の健康被害が出ていることが懸念されています。2025年4月18日現在、予防接種健康被害救済制度における認定件数は9,081件、そのうち死亡例は1,004件に上ります。
この制度に関する議論の中で、よく使われる言い回しがあります。
「厳密な医学的な因果関係までは必要としない」
この「厳密な医学的な因果関係」という言葉が、多くの誤解を生む原因にもなっているのではないでしょうか。特に、「因果関係が厳密には証明されていないのに救済されている」といった印象が、制度の正当性そのものに対する不信感を生みやすくなっているように感じます。
この背景には、「因果関係」という言葉に、実は複数の意味が重ねられて使われているという構造があります。
「因果関係」は2種類ある
この議論において「因果関係」という言葉には、少なくとも2つのスタイルが含まれています:
スタイル①:機序に基づく因果関係
- ある現象がどういう機序(メカニズム)で引き起こされたかを説明できるスタイル。
たとえば「ワクチンの成分が体内で免疫反応を起こし、それが血管に影響して……」といった出来事の連鎖の流れで説明する。
これは演繹的推論(deductive reasoning)に近く、医学的には特に病態生理の説明で重視されるものです。
補足:機序(mechanism, pathophysiology)は、医学界で病気や症状の原因とその過程を記述する際に頻繁に使われる概念です。「なぜそれが起きたのか」を納得感のある形で説明するには、この機序の記述が重視されます。
スタイル②:蓋然性に基づく因果関係
- 他の要因を排除したうえで、ある出来事が原因と考えるのが妥当である、というスタイル。
たとえば「昨日まで健康だった人が、ワクチン接種直後に突然死した。特に他の原因も見つからない」といった可能性の排除の形で説明する。
これはアブダクション(abductive reasoning)や確率的因果(probabilistic causality)と呼ばれるもので、実務の現場や制度運用の中ではむしろ一般的な判断スタイルといえます。
「厳密な因果関係」はスタイル①だけ?
こうした2つのスタイルがあるにも関わらず、「厳密な因果関係が証明されていない」という言い回しでは、しばしば
-
機序の説明 = 厳密
-
蓋然性の判断 = 不十分
というニュアンスが含まれがちです。
ですが、本当にそうでしょうか?
人体は複雑すぎて“演繹”にも限界がある
人体は非常に複雑で、個人差も大きく、すべての反応を予測することは困難です。たとえ機序がある程度想定されていても、すべての構成要素が明確になっているとは限りません。そのため、一見“厳密”に見える演繹的説明も、実際には仮定や未知の変数を含んでいることが多いのです。
つまり、演繹的説明だけが「科学的」「厳密」と見なされるのは、少し偏った見方だといえるでしょう。
救済制度には“蓋然性”の因果判断が向いている
ここで、予防接種健康被害救済制度の話に戻りましょう。
この制度では、「厳密な機序が解明されていなくても、蓋然性が高ければ認定される」という判断が行われています。これは決して「不確かでもいい」という意味ではなく、制度の目的に適した合理的な基準が設定されているということです。
このような設計には、以下のような理由があります:
-
現実的に、説明が難しいケースがある
→ 機序の全容が解明されるには時間がかかる。説明の可否が人類の知識レベルに依存するのは公平性を損ねる恐れがある。 -
制度の目的は、過失の有無を問うものではなく「被害の救済」である
→ 司法的責任を問う制度とは異なり、あくまで生活や健康の回復支援が目的であるため、「納得可能な因果」があれば十分。
このように、制度の性格や目的に合わせて、因果関係の評価スタイルも調整されているのです。
機序による説明だけを厳密とするのは不当である
ここまでを振り返ると、救済制度の中の文言として「厳密な因果関係」という言葉は、
-
「機序の説明が可能なほどの因果関係」=厳密
-
「蓋然性にとどまるもの」=不十分
という、やや一方的な価値付けに基づくもののように見えます。
ですが実際には、
-
演繹的推論にも前提の仮定がある
-
蓋然性の判断にも、現場での合理性や統計的な根拠がある
という意味で、どちらのスタイルにも“厳密さ”の条件は含まれています。
したがって、「どちらのスタイルがより厳密か」を単純に比べるのではなく、「どの目的において、どのスタイルが適しているか」を考える視点が重要です。
必要な説明のスタイルは“目的”に応じて決まる
因果関係の説明スタイルにはそれぞれ強みと限界があります。重要なのは、「どちらが正しいか」ではなく、
どの目的において、どのスタイルがふさわしいか?
という視点を持つことです。
-
医学研究なら:詳細な機序の特定が重視される
-
救済制度なら:蓋然性に基づく実務的判断が合理的
-
裁判なら:中間的基準(過失の有無など)が用いられる
このように、状況と目的によって「厳密さ」の意味合いも変わってくるのです。
まとめ:「機序」と「蓋然性」—2つのスタイルを知る
最後に、本記事で扱った因果関係の2つのスタイルをあらためてまとめておきます。
因果関係には複数のスタイルがあり、それぞれの役割があります。その背景にある目的や判断基準を理解することが、より健全な議論につながるのではないかと思います。
武蔵野大学データサイエンス学科を退職する際のメッセージ
(退職にあたって学生向けSlackに文章を書いたので、せっかくだから共有します)
せっかくなのでいくつか余談というか、小話的なものを。
1.DS学科のカリキュラムについて
DS学科(注:データサイエンス学科のこと)は、1年の後期からゼミに配属して研究を開始して、1年の終わりには企業の前で成果発表会をして、順調に行けば2年の終わりぐらいで学会発表をして…みたいな流れになっていると思います。
なんでこういう仕組みになっているかというと、教員たちがみんな「研究室に入るまでの授業は聞いててもなんだかよく分からなくて、研究をやり始めてから必要になって自分で学んだらようやく分かった」という実感を持っているからです。つまり、研究をしてみるとことによって学ぶことの必要性が分かるのであるから、研究を前倒しすると意味のある学びの期間が伸びるかな、と思っているということです。
研究をしてみると、と言いましたが、より正確には、研究の一連の流れをこなしてアウトプットまでのワンパスを通す、という感じですかね。そうして世の中に出すと、反応がもらえたりして、自分の立ち位置が見えるようになると思うわけです。自分のやっていることが社会に出て反応がもらえるというのは、それが良い結果であれ悪い結果であれ、健全な作用を生むと思います。授業の成績というのは、そういう風にちゃんとしたフィードバックを得ることが難しいから、しょうがなく使っている評価基準であると考えることもできます。
しかしもちろんこうしたカリキュラムは、ちょっと無理しているところがあります。私はこれを「学生の皆さんを教員が支えている脚立に立たせている」という喩えで説明しています。最初のアウトプットをした時点では、まだ不安定な足場に乗っかっているというイメージです。脚立に立ってでも一旦高い位置に行くことで、周囲が見渡せるようになります。しかし、脚立の上に脚立を立てることは無理なので、より上に行くには、脚立の高さまで土を盛る必要があると思うわけです。
なので、もちろん学生の皆さんに活躍してほしいと思っているし、実際成果発表会とか学会発表とかまでやれた事自体は十分褒められるべきだとは思っていて、対外的にアピールに使ってほしいと思っているのですが、それに驕らず内心では、揺るがない力をつけた方が良いんだろうな、と意識しておいていただけると良いと思っています。
2.教わる相手を自分で選ぶということの重要性
ちょっと極端なことを言うようですが、教育というのはある程度理不尽なところがある方が良いと私は思っています。というのは、大学に来る皆さんは、自分を成長させたくてというか、新しい自分の可能性を開きたくて来ているのではないかと思うのです。例えば教員に「こういう風にやれ!」と言われたことが、今の自分にとっては良いことのようには思えないんだけど、それをやった後で考えてみたら、その方が良かったということがあるのではと思います。こういうときに、「絶対自分のやり方のほうがいいのに、先生は分かってないなあ」と思っていたら、自分の可能性が開かないですよね。
ただし、教員も人間なので、そんなにいつも正しい方法ばかり教えられるわけではないわけです。実際に学生の皆さんのほうが正しかったなんてケースも多々あると思います。本当にただの理不尽であることもありえます。どんな教員の言う事でもその通りに従うというのはリスクが高すぎる。
というわけで、自分が教わる相手を自分で選ぶことが大事なんじゃないかなと思うのです。「今の自分にはよく分からんけど、この先生の言うことはトータルでは良いような気がするから、一旦真に受けてやってみようかな。自分が選んだわけだし」と思っているのが、健全な教育の状態なのではないかなと思います。そんなつもりでゼミ教員を選ぶと良いんじゃないかなと思います。
そういう意味では、教員としての顔以外のトータルの人格が学生に見えているというのが大事なのかな、と私は思っていました。それを見て信用に値しないと判断されたら、それはそれで健全なのだろう、と私は思っています。
3.データサイエンスと賢さの罠
データサイエンス学科に入った人は(卒業した人は)、データサイエンスってなんなの?という問いに答えられないと困る場面があると思うのですが、まあデータサイエンスという言葉はシンプルに「データに基づいたサイエンス」という意味だと思います。しかし、よく考えるとサイエンスがデータに基づくのって当たり前だと思うんです。じゃあなぜこの言葉が新しく作られたのかというと、今までがデータに基づいていなかった領域にもデータサイエンスが使われるようになったということだと思うんですね。
例えば物理学だったら、実験してデータを取って仮説を検証する、というのは「普通の科学」ですし、「データサイエンス」です。つまりそういう学問は最初からデータサイエンスをやってたわけです。今データサイエンスが重要だと言われているのは、これまでデータに基づかないで議論をしていたことに対して、データが取ろうと思えば取れるようになったから、ちゃんとした科学をやっていこうぜ、ということなのだと思います。例えばA/Bテストなんかは、人の好みという従来なら測るのが難しかったものをより正確に(例えばアンケートなんかより正確に)計測する手法、みたいに捉えることができると思います。
そうした理解を踏まえた上で最近改めて思うのが、「人間って思ったより妄想で話をしてて、何かしら理屈があると納得してしまうんだけど、実際は全然正しくないことも多くて、だからデータサイエンスって重要だよな」というようなことです。
例えばなんですけど、今、AIが強い分野として将棋や囲碁というのがあると思うんですが、AIが強くなる前は「将棋より囲碁の方が探索空間が大きいので、コンピュータが人間に勝つのはより難しい」というようなことが言われていました。人工知能の専門の学者たちがそう言ってたんです。しかし、AIが強くなった現在、将棋も囲碁もすでに人間より強くなっていますが、人間との差がより開いているのは囲碁の方です。そうなった現在から分かる範囲でその理由を説明すると、「探索空間が広い囲碁では、もともと人間は最善とは程遠い手を打っていて、処理能力が高いコンピュータは人間が考慮できないところまで考慮できるから」ということになると思います。
ここで重要なのは、人工知能の専門家たちは、「囲碁の方が探索空間が大きいので、コンピュータが人間に勝つのはより難しい」という後から考えれば正しくもなんともない理屈に、みんなして納得していて、みんなして間違えたということです。
こういう風に、専門家が言っていることが間違っていることというのは実は結構あるわけですが、これは、専門家になるような賢い人達が、賢いがゆえに、もっともらしいストーリーを作るのが上手いことによる弊害という面があると思うのです。本人にとっても自分の構築した理屈に一度自分の中で納得してしまうと、それを崩すのが難しくなります。さらに、それが他者から見ても論理的であれば否定されにくく、間違いを指摘される機会も減ってしまいます。
言い換えると、理屈のうち、前提と論理展開があるとして、論理展開は正しいんだけど前提が間違っているということが多々あって、データサイエンスというのはその前提が正しいのかをチェックするために重要なのだろうということです。
…文章書くの疲れたので、最後の部分はChatGPTに書いてもらいました。もうこれでいいです(投げやり)。
このように、論理的に見える説明も、前提がズレていたり、重要な要素を見落としていたりすれば、全くの的外れになります。そして、そのズレに気づくのは容易ではありません。特に、自分の考えが「合理的である」と確信してしまったとき、人はそれを疑うことが難しくなります。
だからこそ、データサイエンスは重要なのだと思います。データがなければ、どんなに知的な人でも、自分が作り出したもっともらしい物語に騙される可能性がある。しかし、データがあれば、その物語が本当に正しいのかを検証することができるのです。データサイエンスの本質とは、単にデータを使うことではなく、人間が陥りがちな「賢さの罠」から抜け出し、より正確な理解にたどり着くための手段なのではないでしょうか。
4.その他&お礼
私のいた5年間は、データサイエンスやAIという分野において、変化が激しく面白い時期だったと思います。このような時期に、皆さんと一緒に新しい学科作りができたのは、得難い経験だったと思っています。まあ、これからの5年間の方が更に激しい変化になるかもですけどね…。
そして、私としては学生の皆さんに混じってワチャワチャと楽しく活動できたのは、本当に幸せなことでした。付き合っていただき本当に嬉しく思っています。これからも皆さんの活躍と幸せを願っております!
幸せな思い出を作ると幸せになる
「科学リテラシー」は史上最強に難しい
多様性を減らすことで多様性を増やす
新型コロナウイルスに関する基礎事項の解説(ウイルスの名称と緊急事態宣言)
新型コロナウイルスについて、普通にニュース見てたら分からなかったけど、調べたら「そうだったのか」と驚いて「それぐらいちゃんと説明しといてくれよ」と思ったことを紹介しておきます。
1.「新型コロナウイルス」と「COVID-19」という言葉の関係
この二つは、一般には相互に言い換え可能のように使われていますが、別物です。
先に答えを言ってしまうと、こうです。
- 新型コロナウイルス(病原体)→COVID-19(病気)
これは
- HIV(ヒト免疫不全ウイルス)→AIDS(後天性免疫不全症候群)
という関係と同じと言えば分かりやすいでしょうか。
私は最初、「新型コロナウイルス」という名前だと、次のコロナウイルスが出てきたら別の名前を付けなきゃいけないから、ウイルスに固有名を付ける必要があって、それがCOVID-19なのかな?と思っていたのですが、調べたら違いました。そもそもCOVID-19というのは何の略かと言うと、
でした。感染症つまり病気の名前なんですね。なおdiseaseは、一般的には疾病や疾患といった訳があてられますが、それは「感染症などの、原因が明確な、体内の異常に由来する病気」といったような意味です。このケースでは明確に感染症なので感染症と訳されているようです。では、ウイルス自体の固有名はないのか?と思って調べたところ、それは
- SARS-CoV-2: Severe acute respiratory syndrome coronavirus 2 (重症急性呼吸器症候群(SARS)(を引き起こす)コロナウイルス2)
という名前でした。これを見てようやく分かったのですが、新型コロナウイルスは以前騒動になったSARSの2だったんですね。そして前回のSARSもウイルス名ではなく病名で、その病原体はコロナウイルスの一種だったんですね。ただし、ウイルスの命名自体が病名に由来しているという順番なので、SARSと言ってウイルス名を指すのでもほとんど間違いにはならなそうです。厳密にウイルスを指すなら「SARSウイルス」とか言うべきだったのでしょう。
この件についての解説は以上ですが、少し議論を深めると、「病原体→病気」の部分って「病原体+人→病気」って書いた方が正確かなと思うんですね。似たような話として、
- "Disasters occur when hazards meet vulnerability."
- 「災害は、危機が脆弱性に出会うことで起きる」
という言葉があります。例えば地震そのものはhazardで、地震によって起こる被害がdisasterという関係です。ここで、日本はhazardもdisasterも同じ「災害」と呼んでしまうので、それを分離する意識が低い、というような議論を聞いたとがあって、本当かは分かりませんが面白い指摘だなと思いました。
そうした話に関連して、最近は「免疫力」とはなんぞや、という所が気になって考えている話があるので、それを次の記事で書きたいと思っています。
2.地方自治体(北海道など)が出した緊急事態宣言と、国が出す緊急事態宣言の違い
これも、実は完全なる別物です。実は、地方自治体が出す緊急事態宣言には、法的な効力は全くありません。単なる言葉です。
国が出す方の緊急事態宣言はなんなんのかと言うと、なんらかのマズい事態において、それに対応する「特別法」を発動する時に慣例的に使われる言葉です。「緊急事態宣言」という文言に特別な意味があるわけではなく、「非常事態宣言」などと言っても特に違いがあるわけではないようです。
では今回発動される(された)「特別法」はなんなのかというと、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」というものです。「等」と付けておくことで、感染症に広く使えるようにしているのですね。
- (参考) 新型インフルエンザ等対策特別措置法
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=424AC0000000031
ここの「第四章 新型インフルエンザ等緊急事態措置」のタイトルが「(新型インフルエンザ等緊急事態宣言等)」となっていますね。緊急事態宣言を出すということは、ここに書かれていることをやるということになります。ここでは一応「緊急事態宣言」という言葉が使われているので、「非常事態宣言」ではなく「緊急事態宣言」で告知されているのだと思われます。具体的な内容については、今さらですし、ここでは割愛します。
改めてまとめるとこういう関係になります。
- 国が出す緊急事態宣言:特別法の発動(法的根拠あり)
- 地方自治体が出す緊急事態宣言:単なる言葉、スローガン(法的根拠なし)
私の感覚では、こんなに違うものを同じ名前で使う無神経さが信じられません。ニュースを見ていても、「北海道は緊急事態宣言を出したのに、東京都は出さないのか」などと責められたりしていたと記憶しているのですが、言っている人達はそもそも何の効力もないものであることを理解していたのでしょうか。
一歩踏み込んで考えてみると、こうした無神経さの裏には、「行政は法的根拠のある活動しかできない」という原則(「法律による行政の原理」)を理解していない人が多いという実態があるのではないでしょうか。これは、義務教育の中でも最優先で理解しておかなくてはならないことに感じます。(私も大学生の途中まで理解していませんでしたが)
今回の騒動では、日本は他国のような強制力を持って国民の活動を縛れないことに私も改めて気付かされました。人権にうるさいと思われる西洋よりもさらに厳しかったのですね。これは日本が敗戦の際に、それまでの反省から行政の暴走を防ぐために大きな縛りを与えたからでしょう。法律のことを教える教科は公民だと思いますが、法律は歴史があって定まっていくのですから、是非とも二つの教科を連動させて教えて欲しいものです。
私も、義務教育をする立場ではありませんが、こうした話は折に触れて学生に解説していこうと思います。身の回りで起きたことを題材にしたら、理解もし易いでしょうしね。
