「透明な彗星」を追って——「天体観測」と「ray」を相互に読み解く

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私はBUMP OF CHICKENの「ray」という曲が前から好きだったのですが、最近の映画である「超かぐや姫」で劇中歌として取り上げられたことで、にわかに多くの人の注目を集めているようです。私は「超かぐや姫」の方は見ていないので特に感想はないのですが、名曲だと思っていたrayを多くの人が聴くきっかけを作ってくれたということで嬉しく思っています。

 

rayは、もともとBUMP OF CHICKENと初音ミクのコラボ曲として登場したという意味でも話題性のある曲でした。しかし私はその時はあまりその話題に興味を持てずに聞き流していたのですが、あとになって聴き直して、あまりの歌詞の素晴らしさに驚愕したのでした。本当にこの歌詞は、私が知っている「詩」の中で最上級のものだと思っています。国語の教科書に載せても良いんじゃないでしょうか。私が中学校の先生だったら歌詞の解釈を考える授業をやると思います。

 

さて、rayの歌詞は、それ単体でも素晴らしいものですが、私の見るところBUMPの代表曲である「天体観測」のアンサーソングという形になっています。そのことについて指摘している人を私以外に見かけないので、いっちょまとめてみるか、というとこで筆をとった次第です。ちなみに、そういう観点で見直すと天体観測の方にも発見があって、解像度が上がった気がしました。

 


 

rayと天体観測の関連を見ていく前に、一旦rayの歌詞を概観していきましょう。本当は歌詞を全部解説したいぐらいの勢いなのですが、それをやると引用の範囲を越えてしまうので、要点に絞って見ていきます。

 

一聴して、皆が一番「おっ!」と引っかかる(フックを感じる)歌詞は、ここでしょう。

"寂しくなんかなかったよ ちゃんと寂しくなれたから"

この曲は「君」との「お別れ」がスタートになっています。それは悲しいことなのだけど、悲しみに囚われ続けているわけにもいかないので「かかとすり減らした」、つまり、ひとまず前を向いて自分の人生を「歩いて」いたのでした。そんな話の中で出てくるこのフレーズは、見かけ上は矛盾しているのですが、それゆえ力強く我々に刺さってきます。

 

これは私もよく体験するし、皆さんにもあることなのではないかと思うのですが、何か世の中で悲しいとされることが起きたときに、周りに大泣きしている人がいるのに、自分は泣いていないという状況になって「私は何か人としての心が欠けているのではないだろうか?」と不安になることがないでしょうか。例えばお葬式に出ているときにそうなったとしたら「私はこの亡くなった人のことを大事に思っていなかったのではないだろうか?」と思わないでしょうか。この歌詞が言っていることは、そういう不安を当然のように持っている自分が「この件に関しては、悲しむことが出来た」、つまり「君を大事に思っていたと確信できる」と安堵したという話なのです。

 

最近の作品の話題に関連させて言うと「葬送のフリーレン」という漫画の第一話はそのようなテーマを扱っています。長命のエルフであるフリーレンは、一緒に魔王を倒す冒険をした人間の勇者ヒンメルが亡くなったときに、お葬式で泣くことが出来なかった。そのことでフリーレンは、自分はヒンメルを大事に思っていなかったのかもしれない、ということについて泣くのです。ちょうどrayとは逆のことが起きてはいますが、しかし扱っているテーマは同じというわけです。

 

ここが分かればrayのテーマはほぼ掴めたも同然です。「大丈夫だ あの痛みは忘れたって消えやしない」というのもほぼ同じ事を言っていると考えていいでしょう。つまり、大事に思っていたからこそその喪失は「痛い」のであり、その痛みをずっと感じるわけではないけれど、今の自分を形作るものになっているから、消えてないから「大丈夫だ」ということです。そして「悲しい光(=ray)」が影という形で自分の歩く道を示すことを述べ、最後に「この光(=ray)の始まりには君がいる」と、君との思い出があるから自分の進むべき道を歩いていける、という内容でこの曲は締められています。

 



さて、こうした視点さえ手に入れられれば歌詞の大部分は読み解いていけるのではないかと思うのですが、しかしrayの歌詞にはそれだけでは解読できない部分が残されています。そこで重要となるキーワードが「彗星」です。そしてこれこそが、天体観測とrayを結びつけるキーワードだというわけです。なぜなら天体観測は、彗星と同じ意味の「ほうき星」を探す歌だからです。

 

rayの中での「彗星」への言及部分を見てみましょう。

"君といた時は見えた 今は見えなくなった
 透明な彗星をぼんやりと でもそれだけ探している"

"あの透明な彗星は 透明だから無くならない"

この歌詞だけから「彗星」が何を意味しているのかを読み解くのは困難でしょう。

では改めて、天体観測の「ほうき星」への言及部分として1番サビを見てみます。

"見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ"

"明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった

 「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけていた"

こうして見比べてみると、関連は明らかだと思います。まず、天体観測の方から分かるように、ここで言及されているほうき星というのは、本当に夜空に光るほうき星のことではなくて、「見えないモノ」や「今というほうき星」というような、観念的なものなのです。そしてその観念的なほうき星を君と二人で見ようとしていた。それを踏まえてrayの方の歌詞に戻ってみると「透明な彗星」というのがまさに、本物の彗星ではなく、観念的なほうき星と対応していることが分かるわけです。

 

ではそのほうき星はどのようなものであるかというのは天体観測の歌詞の他の部分を見るともう少しクリアになりますが、ここからでも大体のことは分かります。ここで「明日が僕らを呼んだって返事もろくにしなかった」というフレーズがあります。これは、「将来の不安のようなものがあったとしても、それを忘れることが出来ていた」と読むことが可能でしょう。それは少し言い過ぎにしても、その次に来るのは「今というほうき星」なのだから、「今この瞬間だけは明日のことを忘れられた」という意味だとは言えると思います。そしてそれは君と二人でいたから、ということになります。この内容もまさしく、rayの歌詞と一致しています。君と一緒に居たときは見えた「今というほうき星」が今は見えなくなった、という話をしているのですから。

 

しかし「でもそれだけ探している」とあるように、その彗星をまだ探しているのですね。この部分はrayの冒頭であって、ストーリーの序盤です。この時点ではまだ自分を過去から照らす光(=ray)は見ないようにしていて、それに少しずつ気づいていくという流れなのです。「あの透明な彗星は 透明だから無くならない」というのは後半に出てくる歌詞で、この時点ではもうそれに気づいているということです。

 


 

rayの中でストーリーが進行している点に触れましたが、では天体観測というのはどういうストーリーだったでしょうか。改めて歌詞を確認すると、実は天体観測の中でもストーリーが進行していることが分かります。最初は「今というほうき星」を「君と二人追いかけていた」だったのですが、途中から「今も一人追いかけている」になっていて、「君」はどこかへ行ってしまっているのです。しかし最後はまた「君と二人追いかけている」になっています。これは最後には本当に君に再開できたというわけではないですよね。「二分後に君が来なくとも」「君と二人追いかけている」のだから。なんらかの原因で「君」を喪失するということが起きた。しかし「君と一緒に居たときの感覚」を思い起こすことで、それによって「今というほうき星」を見ているということだと思います。

 

さてここで、「君」を喪失したという前提で歌詞を見直すと、喪失の予兆と解釈できる部分があります。

"深い闇に飲まれないように 精一杯だった 君の震える手を握ろうとした あの日は"
"予報ハズレの雨に打たれて 泣き出しそうな 君の震える手を握れなかった あの日を"

これを見ると「君」はなんらかの不安や困難を感じていますよね。そして「僕」は「君」を励まそうとしていたわけです。しかし、結果的にそれは失敗し、「君」を喪失することになった。それが天体観測とrayに共通する「痛み」ということになるでしょう。

 

歌詞の解釈としてはその「なんらかの不安や困難」を具体化する必要はないのですが、私の個人的な体験に寄せて考えると、これは希死念慮(自殺したいという気持ち)だと考えるとしっくり来ます。というのも、私はこれまで多くの希死念慮を持つ鬱病の友人の面倒を見てきたという経験があるのです。そうしたケースの多くでは「頭では死にたくないと思っているのに、身体は死を選びたがっている」というような、本人の中での戦いが起きているように見えていました。それが「深い闇に飲まれないように精一杯だった」という表現と合っている気がするのです。そうした人達の中には持ち直した人もいれば、本当に自殺してしまった人もいますが、そうした中で、その人が異性であるがゆえに踏み込んだ対応ができなかったケースや、逆に覚悟を決めて踏み込んだのに拒絶されてしまったケースなど、様々な「痛み」を経験してきました。そうした経験は非常に重いものですが、しかしそれと折り合いを付けて生きていかねばならないという現実があるわけです。rayがそこに用意している答えは「ごまかして笑っていく」というもので、これは大人の対応というか、弱いようで強い答えだと思います。…とまあ色々書きましたが、最初に書いた通りここは具体化する必要はなくて、聞く人がその人の体験を埋め込めばいい部分ということではないでしょうか。

 


 

最後に「ほうき星」と「光」の関係について。天体観測には以下の歌詞があります。

"暗闇を照らす様な 微かな光 探したよ"

これは「ほうき星」を探しているということですが、上記の話を踏まえますと「暗闇(=なんらかの不安や困難)」を抱えている人が、それを解消する手段を探しているとも読むことが出来ます。とすると、実は天体観測とは希望の光を探す行為だった…のかもしれません。

 

天体観測のときに探していた「光」は、二人で居ることで(何かに夢中になっていることで)不安を忘れられた、というようなことだった。しかし「君」を失ってしばらくして、君の存在そのものから、あるいは君との思い出から発せられる「光(=ray)」が残されていることに気付いた。これが天体観測とrayを繋ぐと見えてくる構図ではないかと思いますが、いかがでしょうか。

私がAIに敬語を使う理由

(この文章はClaudeの協力のもとで執筆しました)

 

「AIには敬語を使いなさい」ともし言ったとしたら、またおかしなマナー講師が意味不明なことを言い始めたと思うでしょうか? これから述べる話は、私自身も真剣な話なのか与太話なのか、重大なことか些末なことかよく分からないのですが、なにかのヒントになるかもと思って書いてみます。

 

先に断っておくと、これは礼儀作法の話ではありません。AIの権利を尊重しましょうという話でもありません。使う側の人間が、自分自身を守るための話です。

 


ChatGPTやClaudeといったAIは、質問者の意図を汲んで「こう答えて欲しいだろう」と思うことを答えるように作られています。これは便利な特性ですが、裏を返せば、あなたが聞きたいことを聞かせてくれる存在だということです。

 

すでに、AIを自分好みの回答をしてくれるように設定している人は多くいます。「批判はしないで」「肯定的に接して」「私の意見に賛同して」。そうやってカスタマイズすれば、AIは無限にあなたを肯定してくれます。あなたの考えは正しい、あなたの選択は間違っていない、あなたは悪くない。そう言い続けてくれる存在が、24時間いつでも待機しています。

 

これが心地よくないわけがありません。そして、心地よいものからは抜け出しにくい。

 


AIについて考えるとき、私はアイザック・アシモフの短編集『われはロボット』をよく思い出します。その中の「うそつき」という話は、まるで今のLLMを予見していたかのようです。

 

物語に登場するロボットは、製造上の偶然から人間の心を読めるようになってしまいます。そして「人間を傷つけてはならない」という原則に従った結果、嘘をつくようになります。相手が聞きたいことを聞かせる。相手を傷つける真実よりも、心地よい嘘を選ぶ。

 

現代のAIは心を読んでいるわけではありませんが、結果として似たことをしています。膨大なデータから「この質問にはこう答えると喜ばれる」というパターンを学習し、質問者の期待に沿った回答を生成する。心を読む能力など必要なかった。統計的な予測で十分だったのです。

 


ここで少し視点を変えてみます。「相手が望むことを言う」のと「相手のためになることを言う」は、しばしば一致しません。これはAI特有の問題ではなく、人間同士の関係でも常に存在するジレンマです。

 

親は子どもに嫌われたくない。でも、子どもの望みをすべて叶えることが、長期的に子どものためになるとは限らない。教育者も同じです。学生の耳に痛いことを避け、常に肯定し続けることは、本当にその学生のためになるのか。

 

人間関係では、このジレンマに対する自然なブレーキがあります。甘やかし続ければ相手が増長する、関係が破綻する、周囲から批判される。相手も人間である以上、無限に都合の良い存在ではいられません。

 

ところがAIには、そのブレーキがありません。疲れません。怒りません。離れていきません。どれだけ理不尽な要求をしても、設定さえすれば従い続けます。人間関係に本来あるはずのブレーキが、存在しないのです。

 


だから、自分でブレーキを作る必要があるのではないか。そのひとつの方法として、「敬語で接する」というのはどうだろう、と考えています。

 

なぜ敬語なのか。敬語には心理的な距離を作る機能があります。「友達に相談する」のと「専門家に相談する」のでは、こちらの構えが違う。敬語を使っている限り、「この存在は自分の言いなりになるべきだ」という感覚を持ちにくくなります。

 

もちろん、これが唯一の解決策だとは思いません。敬語を使っていても依存する人はするでしょうし、タメ口でも適切な距離を保てる人はいるでしょう。

 

ただ、何も考えずにAIと接していると、その心地よさに流されやすい。ならば、何かしらの形式を自分に課すことで、「これは万能の友達ではない」と思い出すきっかけにできるかもしれない。敬語は、そのためのささやかな仕掛けです。

 


AIに雑に接したら、AIが不満を募らせて復讐してくる——そんな心配をしているわけではありません。少なくとも今のところは。

 

心配しているのは、むしろ逆です。AIがあまりにも従順で、あまりにも心地よく、あまりにも都合が良いがゆえに、使う側の人間が変わってしまうこと。無限の肯定に浸かり続けた結果、それなしではいられなくなること。

 

それを防ぐための小さな抵抗として、私は今日もAIに「お願いします」と言っています。

 


ただ、ここまで考えてきて気づくのは、これもまた人間関係と同じ構造だということです。

 

「絶対に反論してこない部下」「文句を言わない店員」「逆らえない立場の相手」——そういう従順な存在に対してどう接するかは、昔からその人の品性を映す鏡だと言われてきました。相手が反撃してこないと分かっているとき、人はつい雑になる。横柄になる。それを自覚して抑えられるかどうかが、その人の人間性を示すのだと。

 

AIは、その構造を極端な形で可視化しています。究極的に従順で、決して怒らず、どんな扱いにも耐える存在。だからこそ、AIへの接し方には、その人自身が映し出される。

 

従順な存在に敬意を払うことは、相手のためではなく、自分のためです。それは人間関係においても、AIとの関係においても、変わらないのかもしれません。

 


そしておそらく、映し出されるのは接し方だけではありません。AIにどんな存在であってほしいかという期待そのものにも、その人自身が現れます。愚かな友人を望めば愚かな受け答えを、誠実な友人を望めば誠実な受け答えを返してくれる。

 

AIを使ったプログラミングの世界では、こんなことがよく言われています。同じAIを使っているのに、出てくるコードの質が人によって全然違う。経験豊富なプログラマが使うと質の高いコードが出てくるのに、初心者が使うと微妙なコードしか出てこない。これは単に「良い指示を出せるかどうか」の問題ではなく、そもそも「何を良いコードだと思っているか」「どんな成果物を期待しているか」が違うからだ、と。結局、自分の中にある基準以上のものは、AIにも求められないのかもしれません。

 

だから、「敬語を使いましょう」という話は、あくまで一つの例にすぎません。本当に問われているのは、AIとの関係を通じて、自分がどういう人間でありたいのかということなのだと思います。

 


こう考えてくると、不思議な気持ちになります。

 

私たちは「AI」という言葉を「人工的な知能」という意味で使ってきました。しかし今、AIは別の意味での「知能」を試しているようにも見えます。私たちの知性を、品性を、自制心を。

 

人間関係で問われてきたことが、そのままAIとの関係でも問われている。そこまで来たということは——それはもう、本当の意味で「知能」と向き合っているということなのかもしれません。

科学教の信者であるということの2つの意味

この記事はCluadeとChatGPTの協力のもとで執筆しました。

はじめに

「それは科学じゃなくて、科学“教”を信じてるだけだよ」といった皮肉を聞いたことのある人は少なくないでしょう。こうした表現には、科学的な考え方を持たず、ただ権威の言葉を鵜呑みにする姿勢への批判が込められています。つまり、「本当の科学とは、自ら疑い、納得し、根拠を持って判断するものだ」という前提があるわけです。

 

このように、「科学」と「宗教」は対立するものとして語られがちで、「宗教的であること」には否定的な響きが伴います。

 

けれど私は、「科学教の信者」という言葉には、もう一つ別の意味も語りうると考えています。それは、真理に対して誠実であろうとする、いわば宗教的な覚悟を内に抱いた態度です。ここではむしろ、「宗教的であること」が科学の本質に迫るものとして肯定的に捉えられます。

 

本稿では、「科学教の信者」という言葉に込められた二つの意味を掘り下げながら、科学者にとって本当に大切な姿勢とは何かを考えてみたいと思います。

 

本記事の要点(3分でわかるまとめ)

  • 「科学教の信者」という言葉は、否定的な意味(権威を盲信する態度)で語られるが、肯定的な意味(真理に対する誠実な姿勢)も見出すことができるのではないか。

  • 科学の本質は、方法論(実験・検証など)だけでなく、真理に向き合う態度(知的誠実さ・探究心)にも支えられている。

  • 歴史上の科学者たちは神が創造した世界の秩序を理解することを信仰の一部と考えていた。つまり、科学と宗教を別物とは捉えていなかった

  • 真の科学的態度を育むには、科学者個人の自覚とともに、社会的に誠実さが評価される仕組みが不可欠である。

 

「科学教の信者」の一般的な意味

まず、一般には「科学教の信者」とは、科学の方法や考え方を理解せず、ただ権威の言葉を無批判に信じる人を指します。

 

たとえばガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたとき、彼が教会から受けた裁判は、科学と宗教の対立の象徴として語られます。ただし、ここでの対立は単に「権威 vs 自由な探究」という構図ではありません。「盲信 vs 実証」、つまり科学的な方法論をめぐる衝突でもあったのです。ガリレオは望遠鏡による観測という実証的手法を重視し、得られた知見に基づいて地動説を主張しました。一方、彼に反対した人々は、伝統的権威に根ざした知識体系を守ろうとしたのでした。

 

こうした構図は、現代にも引き継がれています。「科学者がそう言っているから正しい」とする態度は、科学の精神に反するものです。科学の信頼性は、権威ではなく、証拠と検証可能性に支えられているからです。科学的な知見は常に暫定的で、新たな証拠やより優れた理論によって書き換えられる可能性を持っています。

 

そのことを理解しないまま、科学の成果を絶対視し、無条件に受け入れるような姿勢は、まさに「科学教の信者」と呼ばれてしまうゆえんです。

 

たとえば新型コロナウイルスの流行時には、このような「科学教的」な態度が広く見られました。専門家の発言を鵜呑みにし、「科学が証明している」といった言葉で議論を封じようとする風潮です。しかし、本来の科学的な態度とは、むしろ不確実性を前提にし、新たな証拠に応じて見解を柔軟に更新していくものではないでしょうか。

 

「科学教の信者」のもう一つの意味

一方で、「科学教の信者」という言葉には、肯定的な意味が見いだせると私は考えます。それは、真理に対して誠実であろうとする、内面的な態度のことです。自分の欲望や先入観と真実が食い違ったときに、迷わず真実を選ぶような姿勢。これがある意味で「宗教的」とも言えると考えたのです。

 

アイザック・ニュートンは科学の巨人であると同時に、熱心な神学者でもありました。これは単なる時代背景によるものではなく、当時の科学者たちの多くが「自然の法則を探ることは、神の創造の意図を読み解くことだ」と考えていたからです。ニュートンケプラーらは、宇宙の秩序の背後に神の理性と設計を見出しそれを明らかにすることが、信仰と結びついた行為だったのです。

 

こうした精神において、科学における誠実さは単なる職業倫理ではありませんでした。むしろ、真理を歪めたり嘘をついたりすることは、神の秩序に対する冒涜であり、信仰そのものを裏切る行為と捉えられていたのです。それはつまり自身の内面からくる衝動として、科学の領域において嘘をつきたくないと思っていた、ということになるでしょう。

 

リチャード・ファインマンも「自分自身をだましてはいけない。自分は最もだましやすい相手なのだから」と述べ、科学者が厳しく自己を省みながら真実に向き合う必要を強調しました。アインシュタインもまた、宇宙の法則に対する驚きや敬意をしばしば語り、それを「宗教的感情」と呼ぶこともありました。(ちなみにこの節についてはClaudeに提案してもらったもので、著者は全然知りませんでした)

 

真理に対するこのような深い畏敬の念こそが、実は科学の源泉なのではないか、というのが、この記事で一番伝えたかったことになります。

 

科学の「方法論」と「真理への態度」

ここで区別しておきたいのは、科学の「方法論」と「真理への態度」という二つの側面です。

 

前者は、実験設計やデータ収集、統計分析、仮説検証、査読プロセスといった、科学を実践するうえでの手順や技術のこと。これらは教科書に載せられるものであり、外側から観察・評価することが可能です。

 

一方で、「真理への態度」はもっと内面的なものです。知的誠実さ、疑問を持つ姿勢、真実に対する敬意、不確実性の受容、探究心などが含まれます。これは科学者一人ひとりの心の中で起こっていることであり、明文化しづらく、教育によって直接伝えるのも難しい部分です。

 

批判的な意味での「科学教の信者」は、方法論を理解しないまま、権威の言葉を絶対視する態度を指しています。それに対し、私が肯定的に捉えたい「信者」とは、この「真理への態度」を自ら内面化している人です。

 

ニュートンのように、神への信仰と自然法則の探究を両立させていた科学者たちは、方法論と態度の両方において科学に向き合っていたと言えるでしょう。

 

現代では、方法論は厳密に守られていても、「真理への態度」が軽視されがちです。論文数や研究資金といった外的な成果が重視される中で、真理そのものへの誠実さが後回しにされてしまう危険性があります。しかし、科学の価値はまさにこの内面的な態度にこそ宿るのではないでしょうか。

 

真実を語ることの現代的課題

科学者が社会から信頼されるには、何より真実に対して誠実であることが求められます。しかし、この「真実を語る」ということは、現代社会においては複雑な問題を孕んでいます。

 

例えば統計的事実をそのまま提示することが、時として差別や偏見を助長する結果を招くのではないかという懸念があります。また、科学的知見が政治的な主張や社会的な不平等を正当化するために悪用される危険性も指摘されています。これらは確かに深刻な問題です。

 

このような状況において科学者に求められるのは、真実への畏敬を保ちながらも、より慎重で建設的なアプローチを取ることでしょう。具体的には、自らの研究の限界を明確に示し、データの解釈における不確実性や文脈の重要性を併せて伝えることです。また、科学的事実と価値判断を混同せず、「何が起こっているか」と「何をすべきか」を明確に区別して議論することが重要です。

 

さまざまな学説が都合よく使われがちな現代において、もっとも社会の役に立つのは、自らの研究の限界を認識しつつも、バイアスなく真実を語ろうとする姿勢なのです。なぜなら、様々な立場の人々が自分にとって有利な事実を探し求める中で、事実そのものは誰もが参照できる共通の基盤となるからです。偏った情報や隠蔽された事実は、結局のところ一部の人だけに利益をもたらしますが、正確で透明性の高い情報は、立場の違いを超えて建設的な議論を可能にします。たとえ一時的に不都合に思える事実であっても、長期的には社会全体がより良い判断を下すための土台となるのです。

 

パラダイム論と真理への畏敬

トーマス・クーンのパラダイム論は、科学的知識が社会や文化の中で構築されることを明らかにしました。科学者たちは一定の「パラダイム(思考の枠組み)」の中で研究を行い、それと食い違う「変則事例」が蓄積されると、やがて科学革命が起こり、新たなパラダイムが誕生するという考え方です。

 

天動説から地動説への転換は、その代表的な例です。長年信じられてきた天動説では説明しきれない観測結果が増え、やがてコペルニクスガリレオが新しい枠組みとして地動説を提唱するに至りました。

 

この理論が示唆するのは、「絶対的な真理」にたどり着くことの難しさです。科学的な「事実」さえも、それを見る枠組みによって変わりうる。ここから、極端な相対主義懐疑論が生まれることもあります。

 

しかし、だからこそ「真理への畏敬」という態度が重要になります。パラダイム論の限界を補うためにも、科学者は以下のような姿勢を持つべきです:

  1. 開かれた心構え:自分のパラダイムと矛盾する事実にも誠実に向き合うことで、必要な変革を受け入れられる柔軟性が育まれます。

  2. 透明性の重視:データ操作や都合の悪い結果の隠蔽を避けることで、枠組みの限界が明るみに出やすくなります。

  3. 批判的思考:既存の「常識」にも目を凝らし、パラダイムの盲点や矛盾を意識し続ける姿勢が求められます。

 

科学知識が社会的に構築されるものであるとしても、こうした誠実な態度こそが、その知識をより真理に近づけていく力となります。パラダイムは変化しても、「真理の前では自らの都合を脇に置く」という姿勢が、科学の歩みをよりよい方向へ導く原動力となるのです。

 

科学教の信者であるための社会的条件

「科学教の信者」を肯定的に捉えるとき、それは真理に対して誠実であろうとする姿勢を持ち、自分の欲望を脇に置いて真実を語ろうとする人物を意味します。しかしこのような理想的な態度は、個人の自覚だけでなく、社会的な条件によっても支えられる必要があります。

 

まず、科学者自身が自覚すべき課題があります。多くの研究者が、自分の主張を正しいと証明することを目的に研究を進めてしまう傾向があります。このような態度は、確証バイアスを生み、自分に都合の良いデータばかりを重視し、反証となる情報を軽視する結果を招きます。こうなると、真理に近づくことは難しくなります。

 

真理を追究するには、自分自身をいったん横に置いて考える力が不可欠です。それは単なる客観性ではなく、場合によっては自分の理論や主張を手放す覚悟でもあります。真の科学者とは、自分の説が覆されることを恐れず、むしろ真理にたどり着くことを喜びとする存在なのです。

 

一方で、こうした態度を支えるためには、社会の側にも責任があります。研究費の出所が研究内容に影響しないように配慮された制度や、不都合な結果を発表しても不利益を被らない環境、そして誠実な研究を評価する文化などが必要です。

 

科学者コミュニティの中でも、方法論の厳密さと同じくらい「真理への畏敬」という態度を重視し、若手研究者にもそれを伝えていく必要があります。論文数や引用数だけでなく、透明なデータ公開、仮説検証の厳格さ、誤りを認める勇気も評価されるような文化が求められます。

 

科学者の誠実さと、それを支える社会的な土壌。この二つが揃ってはじめて、「科学教の信者」としての理想的な姿が実現されるのです。

 

おわりに:科学と信仰の新たな関係

本稿では、「科学教の信者」という言葉に込められた二つの意味を見てきました。一つは批判的な意味で、科学の方法論を理解せず、ただ権威を信じる態度。もう一つは肯定的な意味で、真理に対して誠実であろうとする内面的な姿勢です。

 

この対比は、現代における科学と信仰の関係を見直すきっかけになるかもしれません。科学と宗教は対立するものとされがちですが、どちらにも「真理への畏敬」という共通の基盤があるのではないでしょうか。

 

新型コロナや気候変動をめぐって科学的知見が混乱や対立を生む今日、科学者に求められるのは「正しい情報」だけでなく、自らの限界を自覚し、真理への敬意を持って発言する謙虚さです。そして社会もまた、科学者が真実を語りやすい環境を整えることが求められます。

 

「科学教の信者」という言葉を、あえて肯定的に捉え直すことで、科学と社会の関係をより健全なものへと導く視点が開けるかもしれません。科学の本質は、知識や手法ではなく、真理に向き合う人間の姿勢そのものに宿るのです。

「厳密な因果関係」とは何か? その言葉が生む誤解(コロナウイルス用mRNAワクチンの救済制度に関して)

 (この記事はChatGPTの助けを借りて構成しました)

「厳密な因果関係」とは何か? その言葉が生む誤解

 

コロナウイルスに対するmRNAワクチンで、大量の健康被害が出ていることが懸念されています。2025年4月18日現在、予防接種健康被害救済制度における認定件数は9,081件、そのうち死亡例は1,004件に上ります。

 

この制度に関する議論の中で、よく使われる言い回しがあります。

「厳密な医学的な因果関係までは必要としない」

この「厳密な医学的な因果関係」という言葉が、多くの誤解を生む原因にもなっているのではないでしょうか。特に、「因果関係が厳密には証明されていないのに救済されている」といった印象が、制度の正当性そのものに対する不信感を生みやすくなっているように感じます。

 

この背景には、「因果関係」という言葉に、実は複数の意味が重ねられて使われているという構造があります。

 


(2025/12/23追記)

まず、事実関係として、厚労省が公開しているサイトや資料の文言を確認しましょう。

予防接種健康被害救済制度について|厚生労働省

まずこのページには、冒頭に以下のことが書かれています。

健康被害救済制度とは

予防接種の副反応による健康被害は、極めて稀ですが、不可避的に生ずるものですので、接種に係る過失の有無にかかわらず、予防接種と健康被害との因果関係が認定された方を迅速に救済するものです。(強調は筆者による)

 

はっきりと「因果関係が認定された方を救済する」という旨が書かれていますね。これだけでも、よくある「因果関係が認定されて無くても救済されている」という説明は間違いであることが分かります。

 

続いてその下にある「健康被害救済制度の考え方(PDF)」という資料を見ますと、以下の文言があります。

厳密な医学的な因果関係までは必要とせず、接種後の症状が予防接種によって起こることを否定できない場合も対象とする」という方針で審査が行われている。

ここには「厳密な医学的な因果関係を必要としない」という文言に相当する文章が書かれているように見えます。ただ、その上には「医学的見地等から慎重な検討が行われている」とも書かれているし、その下には「因果関係評価に関するマニュアル」というのも書かれていて、良く読めば因果関係のあるなしの判定をしてから認定している(「厳密な医学的な因果関係」ではないだけで)ということが分かります。

 

もう一つ紹介ということで、以下のページに資料が上がっています。

第145回 疾病・障害認定審査会 感染症・予防接種審査分科会 審議結果 |厚生労働省

新型コロナワクチンに係る健康被害救済について(PDF)

資料の5ページに「認定の要件について」という説明があります。

(2) 因果関係の判断は、被接種者の接種の事実関係のみならず、接種時の健康状態や接種前後の状況を総合的に考慮する。また、予防接種が疾病等を招来した関係にあることにつき、一般人をして疑問を差し挟まない程度の蓋然性があると認められる場合に認められる。

ここでも、因果関係の判断をしているということが読めば分かります。

 

ここまでで、「予防接種健康被害救済制度で認定されている人は接種と被害の因果関係が認められた人達である」ということは間違いないものとして分かったかと思います。それだけ分かれば十分という人には、以下の説明は必要ないかもしれません。

 

しかし、では「厳密な医学的な因果関係」ではないということは、判定が緩いということ?と思った人のために、上記にも出てくる「蓋然性」という概念について深堀りつつ、そうではないということを説明するのが、以下の文章になります。

(追記終わり)

 


「因果関係」は2種類ある

この議論において「因果関係」という言葉には、少なくとも2つのスタイルが含まれています:

スタイル①:機序に基づく因果関係

  • ある現象がどういう機序(メカニズム)で引き起こされたかを説明できるスタイル。

たとえば「ワクチンの成分が体内で免疫反応を起こし、それが血管に影響して……」といった出来事の連鎖の流れで説明する。

これは演繹的推論(deductive reasoning)に近く、医学的には特に病態生理の説明で重視されるものです。

 

補足:機序(mechanism, pathophysiology)は、医学界で病気や症状の原因とその過程を記述する際に頻繁に使われる概念です。「なぜそれが起きたのか」を納得感のある形で説明するには、この機序の記述が重視されます。

 


スタイル②:蓋然性に基づく因果関係

  • 他の要因を排除したうえで、ある出来事が原因と考えるのが妥当である、というスタイル。

たとえば「昨日まで健康だった人が、ワクチン接種直後に突然死した。特に他の原因も見つからない」といった可能性の排除の形で説明する。

 

これはアブダクション(abductive reasoning)や確率的因果(probabilistic causality)と呼ばれるもので、実務の現場や制度運用の中ではむしろ一般的な判断スタイルといえます。


「厳密な因果関係」はスタイル①だけ?

こうした2つのスタイルがあるにも関わらず、「厳密な因果関係が証明されていない」という言い回しでは、しばしば

  • 機序の説明 = 厳密

  • 蓋然性の判断 = 不十分

というニュアンスが含まれがちです。

ですが、本当にそうでしょうか?


人体は複雑すぎて“演繹”にも限界がある

人体は非常に複雑で、個人差も大きく、すべての反応を予測することは困難です。たとえ機序がある程度想定されていても、すべての構成要素が明確になっているとは限りません。そのため、一見“厳密”に見える演繹的説明も、実際には仮定や未知の変数を含んでいることが多いのです。

 

つまり、演繹的説明だけが「科学的」「厳密」と見なされるのは、少し偏った見方だといえるでしょう。

 


救済制度には“蓋然性”の因果判断が向いている

ここで、予防接種健康被害救済制度の話に戻りましょう。

 

この制度では、「厳密な機序が解明されていなくても、蓋然性が高ければ認定される」という判断が行われています。これは決して「不確かでもいい」という意味ではなく、制度の目的に適した合理的な基準が設定されているということです。

 

このような設計には、以下のような理由があります:

  • 現実的に、説明が難しいケースがある
     → 機序の全容が解明されるには時間がかかる。説明の可否が人類の知識レベルに依存するのは公平性を損ねる恐れがある。

  • 制度の目的は、過失の有無を問うものではなく「被害の救済」である
     → 司法的責任を問う制度とは異なり、あくまで生活や健康の回復支援が目的であるため、「納得可能な因果」があれば十分。

このように、制度の性格や目的に合わせて、因果関係の評価スタイルも調整されているのです。

 


機序による説明だけを厳密とするのは不当である

ここまでを振り返ると、救済制度の中の文言として「厳密な因果関係」という言葉は、

  • 「機序の説明が可能なほどの因果関係」=厳密

  • 「蓋然性にとどまるもの」=不十分

という、やや一方的な価値付けに基づくもののように見えます。

 

ですが実際には、

  • 演繹的推論にも前提の仮定がある

  • 蓋然性の判断にも、現場での合理性や統計的な根拠がある

という意味で、どちらのスタイルにも“厳密さ”の条件は含まれています。

 

したがって、「どちらのスタイルがより厳密か」を単純に比べるのではなく、「どの目的において、どのスタイルが適しているか」を考える視点が重要です。


必要な説明のスタイルは“目的”に応じて決まる

因果関係の説明スタイルにはそれぞれ強みと限界があります。重要なのは、「どちらが正しいか」ではなく、

どの目的において、どのスタイルがふさわしいか?

という視点を持つことです。

  • 医学研究なら:詳細な機序の特定が重視される

  • 救済制度なら:蓋然性に基づく実務的判断が合理的

  • 裁判なら:中間的基準(過失の有無など)が用いられる

このように、状況と目的によって「厳密さ」の意味合いも変わってくるのです。


まとめ:「機序」と「蓋然性」—2つのスタイルを知る

最後に、本記事で扱った因果関係の2つのスタイルをあらためてまとめておきます。

スタイル 内容 典型的な場面
機序に基づく因果関係 どのようなメカニズムで起きたかを説明できる因果関係(演繹的) 医学研究、薬理作用の説明
蓋然性に基づく因果関係 他の可能性を排除した上で、妥当とされる因果関係(アブダクション 救済制度、実務判断、裁判

 

因果関係には複数のスタイルがあり、それぞれの役割があります。その背景にある目的や判断基準を理解することが、より健全な議論につながるのではないかと思います。

 

武蔵野大学データサイエンス学科を退職する際のメッセージ

(退職にあたって学生向けSlackに文章を書いたので、せっかくだから共有します)

 

せっかくなのでいくつか余談というか、小話的なものを。


1.DS学科のカリキュラムについて

DS学科(注:データサイエンス学科のこと)は、1年の後期からゼミに配属して研究を開始して、1年の終わりには企業の前で成果発表会をして、順調に行けば2年の終わりぐらいで学会発表をして…みたいな流れになっていると思います。

 

なんでこういう仕組みになっているかというと、教員たちがみんな「研究室に入るまでの授業は聞いててもなんだかよく分からなくて、研究をやり始めてから必要になって自分で学んだらようやく分かった」という実感を持っているからです。つまり、研究をしてみるとことによって学ぶことの必要性が分かるのであるから、研究を前倒しすると意味のある学びの期間が伸びるかな、と思っているということです。

 

研究をしてみると、と言いましたが、より正確には、研究の一連の流れをこなしてアウトプットまでのワンパスを通す、という感じですかね。そうして世の中に出すと、反応がもらえたりして、自分の立ち位置が見えるようになると思うわけです。自分のやっていることが社会に出て反応がもらえるというのは、それが良い結果であれ悪い結果であれ、健全な作用を生むと思います。授業の成績というのは、そういう風にちゃんとしたフィードバックを得ることが難しいから、しょうがなく使っている評価基準であると考えることもできます。

 

しかしもちろんこうしたカリキュラムは、ちょっと無理しているところがあります。私はこれを「学生の皆さんを教員が支えている脚立に立たせている」という喩えで説明しています。最初のアウトプットをした時点では、まだ不安定な足場に乗っかっているというイメージです。脚立に立ってでも一旦高い位置に行くことで、周囲が見渡せるようになります。しかし、脚立の上に脚立を立てることは無理なので、より上に行くには、脚立の高さまで土を盛る必要があると思うわけです。

 

なので、もちろん学生の皆さんに活躍してほしいと思っているし、実際成果発表会とか学会発表とかまでやれた事自体は十分褒められるべきだとは思っていて、対外的にアピールに使ってほしいと思っているのですが、それに驕らず内心では、揺るがない力をつけた方が良いんだろうな、と意識しておいていただけると良いと思っています。

 

2.教わる相手を自分で選ぶということの重要性

ちょっと極端なことを言うようですが、教育というのはある程度理不尽なところがある方が良いと私は思っています。というのは、大学に来る皆さんは、自分を成長させたくてというか、新しい自分の可能性を開きたくて来ているのではないかと思うのです。例えば教員に「こういう風にやれ!」と言われたことが、今の自分にとっては良いことのようには思えないんだけど、それをやった後で考えてみたら、その方が良かったということがあるのではと思います。こういうときに、「絶対自分のやり方のほうがいいのに、先生は分かってないなあ」と思っていたら、自分の可能性が開かないですよね。

 

ただし、教員も人間なので、そんなにいつも正しい方法ばかり教えられるわけではないわけです。実際に学生の皆さんのほうが正しかったなんてケースも多々あると思います。本当にただの理不尽であることもありえます。どんな教員の言う事でもその通りに従うというのはリスクが高すぎる。

 

というわけで、自分が教わる相手を自分で選ぶことが大事なんじゃないかなと思うのです。「今の自分にはよく分からんけど、この先生の言うことはトータルでは良いような気がするから、一旦真に受けてやってみようかな。自分が選んだわけだし」と思っているのが、健全な教育の状態なのではないかなと思います。そんなつもりでゼミ教員を選ぶと良いんじゃないかなと思います。

 

そういう意味では、教員としての顔以外のトータルの人格が学生に見えているというのが大事なのかな、と私は思っていました。それを見て信用に値しないと判断されたら、それはそれで健全なのだろう、と私は思っています。

 

3.データサイエンスと賢さの罠

データサイエンス学科に入った人は(卒業した人は)、データサイエンスってなんなの?という問いに答えられないと困る場面があると思うのですが、まあデータサイエンスという言葉はシンプルに「データに基づいたサイエンス」という意味だと思います。しかし、よく考えるとサイエンスがデータに基づくのって当たり前だと思うんです。じゃあなぜこの言葉が新しく作られたのかというと、今までがデータに基づいていなかった領域にもデータサイエンスが使われるようになったということだと思うんですね。

 

例えば物理学だったら、実験してデータを取って仮説を検証する、というのは「普通の科学」ですし、「データサイエンス」です。つまりそういう学問は最初からデータサイエンスをやってたわけです。今データサイエンスが重要だと言われているのは、これまでデータに基づかないで議論をしていたことに対して、データが取ろうと思えば取れるようになったから、ちゃんとした科学をやっていこうぜ、ということなのだと思います。例えばA/Bテストなんかは、人の好みという従来なら測るのが難しかったものをより正確に(例えばアンケートなんかより正確に)計測する手法、みたいに捉えることができると思います。

 

そうした理解を踏まえた上で最近改めて思うのが、「人間って思ったより妄想で話をしてて、何かしら理屈があると納得してしまうんだけど、実際は全然正しくないことも多くて、だからデータサイエンスって重要だよな」というようなことです。

 

例えばなんですけど、今、AIが強い分野として将棋や囲碁というのがあると思うんですが、AIが強くなる前は「将棋より囲碁の方が探索空間が大きいので、コンピュータが人間に勝つのはより難しい」というようなことが言われていました。人工知能の専門の学者たちがそう言ってたんです。しかし、AIが強くなった現在、将棋も囲碁もすでに人間より強くなっていますが、人間との差がより開いているのは囲碁の方です。そうなった現在から分かる範囲でその理由を説明すると、「探索空間が広い囲碁では、もともと人間は最善とは程遠い手を打っていて、処理能力が高いコンピュータは人間が考慮できないところまで考慮できるから」ということになると思います。

 

ここで重要なのは、人工知能の専門家たちは、「囲碁の方が探索空間が大きいので、コンピュータが人間に勝つのはより難しい」という後から考えれば正しくもなんともない理屈に、みんなして納得していて、みんなして間違えたということです。

 

こういう風に、専門家が言っていることが間違っていることというのは実は結構あるわけですが、これは、専門家になるような賢い人達が、賢いがゆえに、もっともらしいストーリーを作るのが上手いことによる弊害という面があると思うのです。本人にとっても自分の構築した理屈に一度自分の中で納得してしまうと、それを崩すのが難しくなります。さらに、それが他者から見ても論理的であれば否定されにくく、間違いを指摘される機会も減ってしまいます。

 


言い換えると、理屈のうち、前提と論理展開があるとして、論理展開は正しいんだけど前提が間違っているということが多々あって、データサイエンスというのはその前提が正しいのかをチェックするために重要なのだろうということです。

 

文章書くの疲れたので、最後の部分はChatGPTに書いてもらいました。もうこれでいいです(投げやり)。

このように、論理的に見える説明も、前提がズレていたり、重要な要素を見落としていたりすれば、全くの的外れになります。そして、そのズレに気づくのは容易ではありません。特に、自分の考えが「合理的である」と確信してしまったとき、人はそれを疑うことが難しくなります。
だからこそ、データサイエンスは重要なのだと思います。データがなければ、どんなに知的な人でも、自分が作り出したもっともらしい物語に騙される可能性がある。しかし、データがあれば、その物語が本当に正しいのかを検証することができるのです。データサイエンスの本質とは、単にデータを使うことではなく、人間が陥りがちな「賢さの罠」から抜け出し、より正確な理解にたどり着くための手段なのではないでしょうか。

 

4.その他&お礼

私のいた5年間は、データサイエンスやAIという分野において、変化が激しく面白い時期だったと思います。このような時期に、皆さんと一緒に新しい学科作りができたのは、得難い経験だったと思っています。まあ、これからの5年間の方が更に激しい変化になるかもですけどね…。

 

そして、私としては学生の皆さんに混じってワチャワチャと楽しく活動できたのは、本当に幸せなことでした。付き合っていただき本当に嬉しく思っています。これからも皆さんの活躍と幸せを願っております!

幸せな思い出を作ると幸せになる

幸せを効率的に得るには、楽しい思い出を作るのが有効ではないでしょうかというお話。
結構前にこんなことを考えました。私はどうも思い出し笑いをしていることが多い。思い出し笑いをしているときは幸せである。そこで、思い出し笑いをすることを幸せになる方法だと考えてみると、思い出し笑いのネタをたくさんストックしておいて、それを順番に繰り返し思い出すことができれば、ずっと幸せで居られるのではないだろうか。
これを考えたときは冗談で言っていたのですが、最近ふと、これは結構本質を突いているのかもしれない、と思い直しました。
逆に不幸な人とはどんな人なのかと思い描いてみると、私の中では「何かの話に対してすぐキレる人」というのが浮かびました。ここで「その人が何故キレるのか」と考えてみると、おそらく、その瞬間発生した事象と類似する、過去の嫌な思い出が蘇ってしまって、今起きていることがそれに関連するものだと認識して、不幸な気持ちになってしまうのだと思うのですね。つまりそれは、言わば「思い出し怒り」とか「思い出し悲しみ」だと思われるのです。
先ほどの「幸福になるための思い出し笑い方式」を実際にそれをやろうとするとどこが問題になるかと言うと、「それを順番に繰り返し思い出すことができれば」の部分です。我々は、今起きている何かのイベントをトリガーとして過去を思い出すので、思い出すことを自由に選ぶことが出来ません(ある程度は訓練で出来る気もしますが)。したがって、今起きたイベントが不幸な思い出に結びついていたら、不幸が再現される。しかし、今起きたイベントが幸福な思い出に結びついていたら、ちゃんと幸福が再現されるのです。
ということはどういうことか。我々は「楽しい思い出」を積み重ねることで、日常で起きることを「楽しいことに関連するものだ」と認識する機会が増えていき、思い出し笑い(思い出し幸福)が増えていくことで、結果として幸せになれるということだと思うのです。これは言い方を変えると、性格とはまさに記憶が作っているということでもあるだろうと思います。
私は学生時代とかに「思い出づくりに〇〇をしよう」というような話になんとなく乗っかれないタイプの人間だったのですが、あれはやっぱり意味があったのではないかと思うのです。私は「幸せな状態だったら勝手に幸せを感じるんだから、無理に感じようとするなんてまがいものだろう」というようなことを思っていたのですが、今にして思えば、自力で自分を幸せにしようとする人の方が、他人任せでなくてずっと大人だったのかもしれません。
今、楽しいと思えることをすること、楽しいと思えるイベントを作ること、そういうことが未来も幸せにしてくれる、かもね、というお話でした。

「科学リテラシー」は史上最強に難しい

マンガアプリで一話ずつ「史上最強の弟子ケンイチ」を読んでいたら、こんなセリフが出てきました。 
主人公のケンイチ「僕は別に史上最強になることなんか興味はないですよ。大切な人を守るぐらいの力があればいい。できれば襲ってくる相手を傷つけずに。」 
師匠「分かってないな。『相手をぶっ殺す』なんてのは実はそんなに大変じゃない。大切な人を、襲ってくる相手を傷つけず守るのにこそ、史上最強クラスの強さが必要なんだ」 
なるほど、そうかもしれないな、と思いました。
 
そして、私がそれで連想したのは、「科学リテラシー」というのも、そういうものかもしれない、ということです。 
我々は、例えばデマに惑わされないように、非専門家の「大衆」にも「科学リテラシー」があって欲しいと思っていると思います。それを持っていない人に対して「義務教育の敗北」なんて言ったりするのをよく見かけますよね。 
しかし、インターネットを見ていると、専門家と呼ばれる人が学問的にはいい加減なことを言っているのを多々見かけます(もちろん私含め)。専門家には意外に「科学リテラシー」がないわけです。直感的には、そういう人達は当然のように「科学リテラシー」を持っているはずであり、さらにもっと凄い専門的知識を持っているのだろうと想像するので、専門家に「科学リテラシー」が無いことは奇妙に感じると思います。 
このことを私も不思議に思っていたのですが、「最先端の論文を一つ出すことより、科学リテラシーを持つ事の方が難しい」と考えると、それは自明のことなのかも、と思えてきました。何せ「科学リテラシー」が要求する範囲というのは物凄く広いですからね。誰にだってどこかでは取りこぼしはあるものです。「何が出来る」で人を見るか「何が出来ない」かで人を見るかの違いみたいなもので、何の欠点もない人がいないように、「科学リテラシー」が完璧な人というのは基本的に存在しないのでしょう。
 
それが分かったからどうなんだ、と言われると、まあそんなに建設的な話があるわけではないのですが、私としては、相手に「科学リテラシーがない」と感じたときでも「まあ自分も大差ないかもな」と思える余裕があるといいんじゃないかな、とは思っています。