「科学リテラシー」は史上最強に難しい

マンガアプリで一話ずつ「史上最強の弟子ケンイチ」を読んでいたら、こんなセリフが出てきました。 
主人公のケンイチ「僕は別に史上最強になることなんか興味はないですよ。大切な人を守るぐらいの力があればいい。できれば襲ってくる相手を傷つけずに。」 
師匠「分かってないな。『相手をぶっ殺す』なんてのは実はそんなに大変じゃない。大切な人を、襲ってくる相手を傷つけず守るのにこそ、史上最強クラスの強さが必要なんだ」 
なるほど、そうかもしれないな、と思いました。
 
そして、私がそれで連想したのは、「科学リテラシー」というのも、そういうものかもしれない、ということです。 
我々は、例えばデマに惑わされないように、非専門家の「大衆」にも「科学リテラシー」があって欲しいと思っていると思います。それを持っていない人に対して「義務教育の敗北」なんて言ったりするのをよく見かけますよね。 
しかし、インターネットを見ていると、専門家と呼ばれる人が学問的にはいい加減なことを言っているのを多々見かけます(もちろん私含め)。専門家には意外に「科学リテラシー」がないわけです。直感的には、そういう人達は当然のように「科学リテラシー」を持っているはずであり、さらにもっと凄い専門的知識を持っているのだろうと想像するので、専門家に「科学リテラシー」が無いことは奇妙に感じると思います。 
このことを私も不思議に思っていたのですが、「最先端の論文を一つ出すことより、科学リテラシーを持つ事の方が難しい」と考えると、それは自明のことなのかも、と思えてきました。何せ「科学リテラシー」が要求する範囲というのは物凄く広いですからね。誰にだってどこかでは取りこぼしはあるものです。「何が出来る」で人を見るか「何が出来ない」かで人を見るかの違いみたいなもので、何の欠点もない人がいないように、「科学リテラシー」が完璧な人というのは基本的に存在しないのでしょう。
 
それが分かったからどうなんだ、と言われると、まあそんなに建設的な話があるわけではないのですが、私としては、相手に「科学リテラシーがない」と感じたときでも「まあ自分も大差ないかもな」と思える余裕があるといいんじゃないかな、とは思っています。

多様性を減らすことで多様性を増やす

いまだに古いガラケーを使ってるんですが、3Gの電波が終わってしまうから買い換えろという案内が来ました。しょうがないなと思いながら、今度こそスマホにしようかと思ってカタログを見たところ、どれも同じにしか見えなくて、どうやって選んだら良いのかと途方に暮れています。
 
 
ところで、スマホじゃない方の携帯をガラケーと呼ぶようになったのは、「日本でガラパゴス的進化をした(世界標準からは離れている)」という揶揄が元になっているわけですが、個人的にはナチュラルに多様性を愛しているので、「ガラパゴス」という言葉には良いイメージしかなく、なんでそれが悪い事のように言われるのかよく分からないと思っていました。なので私は、みんな普段から「多様性が大事」とか言ってるのに、なんでガラパゴス化を非難するの??とかぶつくさ言っておりました。実際ガラケーの方が選ぶ楽しみがあったと思いませんか。
 
 
…という自分の疑問に、一部答えられる事に気がついたので、解説してみます。
 
 

 
“「ものづくり」の科学史 世界を変えた《標準革命》”という本を読んでいたら、コンテナってのはすごい発明なんだ、というようなことが書いてありました。コンテナってのはあれです、輸送のための大きな箱です。あれの何が画期的だったかと言うと、規格を統一したことで、海での輸送に使ったコンテナを、そのまま陸上での輸送にも使えるようになったので、移し替えの手間が減って、輸送のコストを劇的に下げることができたんだそうです。
 
 
そして上記の本では、さらに興味深いことが指摘されていました。コンテナを採用して輸送のための箱の規格を統一することは、多様性を失わせることです。しかし、コンテナを採用すると輸送コストが下がるので、商品の流通は容易になり、結果的に流通する商品の多様性は向上した、というのです。
 
 
このことが意味するのは以下のことだと思われます。
 
 
「あるレイヤーでの多様性の減少は、他のレイヤーでの多様性を増加させることがある」
 
 
これは、見逃しがちな視点ではないでしょうか。我々はつい、多様性はそれ自体さらなる多様性を生むもの、みたいに考えがちだと思うのですが、現実はそうとは限らないみたいです。
 
 
そして、このコンテナのケースでは、まさに人間にとって嬉しい形で多様性の減少が使われているのだと思うのですね。輸送のための箱にバリエーションがあろうがなかろうが、ほとんどの人にとってはどうでもいい。しかし、流通する商品のバリエーションが増えるのは、多くの人にとって大変嬉しい。
 
 
ですから、他のケースにおいても、単に多様性がある方が良いとか無いほうが良いといった議論をするのではなくて、増えたら嬉しい多様性というのは何なのかを考えて、そのためならこの多様性は小さくなっても良い、といった議論をするべきなのだと考えることができます。
 
 

 
以上を踏まえて、スマホが多様性を失ったことで何の多様性が上がったのか?と考えてみると、おそらく、どのスマホでも同じ操作が出来るというメリットによって、アプリの多様性が上がっているのだと思われます。順番としては、アプリを作った時にそれを利用可能なユーザーが多くなるので、作る側のメリットが大きくなるので、作る人が多くなる、したがってアプリが増える、というようなことでしょう。
 
 
ここで「そうかー、アプリが多様になる方が便利になるもんな、それに比べればデバイスの多様性は優先順位低いか」と一旦は思ったんですが、でもやっぱり、デバイス自体の多様性ももう少し優先されてもいいような気もしました。コンテナは、消費者が触れるものではないので見た目はどうでもいいですけど、手に持つものであるスマートフォンは、身につけるアイテムとしての価値をもっと主張したいもののような気がします。
 
 
それがそうなってないのは…。なんでなんでしょう?今ちょっと考えてみた限りでは、「アプリを使うというより映像コンテンツの視聴に利用する人が増えてそれ用の画面としての優先度が上がった」とか「デコればいいという考えが広まったし、どうせケースに入れるからガワはどうでもいい」といったものが浮かびました。どれぐらい説得力があるかはよく分かりません。
 
 
まあともかく、「あるレイヤーでの多様性の減少は、他のレイヤーでの多様性を増加させることがある」という話が思考のヒントとして面白いと思うので、是非ともおすそ分けしたいと思ってこんな話をしたということでした。
 
 

  (参考)

新型コロナウイルスに関する基礎事項の解説(ウイルスの名称と緊急事態宣言)

新型コロナウイルスについて、普通にニュース見てたら分からなかったけど、調べたら「そうだったのか」と驚いて「それぐらいちゃんと説明しといてくれよ」と思ったことを紹介しておきます。

 

 

1.「新型コロナウイルス」と「COVID-19」という言葉の関係

この二つは、一般には相互に言い換え可能のように使われていますが、別物です。

 

先に答えを言ってしまうと、こうです。

 

 

これは

 

 

という関係と同じと言えば分かりやすいでしょうか。

 

私は最初、「新型コロナウイルス」という名前だと、次のコロナウイルスが出てきたら別の名前を付けなきゃいけないから、ウイルスに固有名を付ける必要があって、それがCOVID-19なのかな?と思っていたのですが、調べたら違いました。そもそもCOVID-19というのは何の略かと言うと、

 

 

でした。感染症つまり病気の名前なんですね。なおdiseaseは、一般的には疾病や疾患といった訳があてられますが、それは「感染症などの、原因が明確な、体内の異常に由来する病気」といったような意味です。このケースでは明確に感染症なので感染症と訳されているようです。では、ウイルス自体の固有名はないのか?と思って調べたところ、それは

 

 

という名前でした。これを見てようやく分かったのですが、新型コロナウイルスは以前騒動になったSARSの2だったんですね。そして前回のSARSもウイルス名ではなく病名で、その病原体はコロナウイルスの一種だったんですね。ただし、ウイルスの命名自体が病名に由来しているという順番なので、SARSと言ってウイルス名を指すのでもほとんど間違いにはならなそうです。厳密にウイルスを指すなら「SARSウイルス」とか言うべきだったのでしょう。

 

 

この件についての解説は以上ですが、少し議論を深めると、「病原体→病気」の部分って「病原体+人→病気」って書いた方が正確かなと思うんですね。似たような話として、

 

  • "Disasters occur when hazards meet vulnerability."
  • 「災害は、危機が脆弱性に出会うことで起きる」

 

という言葉があります。例えば地震そのものはhazardで、地震によって起こる被害がdisasterという関係です。ここで、日本はhazardもdisasterも同じ「災害」と呼んでしまうので、それを分離する意識が低い、というような議論を聞いたとがあって、本当かは分かりませんが面白い指摘だなと思いました。

 

そうした話に関連して、最近は「免疫力」とはなんぞや、という所が気になって考えている話があるので、それを次の記事で書きたいと思っています。

 

2.地方自治体(北海道など)が出した緊急事態宣言と、国が出す緊急事態宣言の違い

これも、実は完全なる別物です。実は、地方自治体が出す緊急事態宣言には、法的な効力は全くありません。単なる言葉です。

 

国が出す方の緊急事態宣言はなんなんのかと言うと、なんらかのマズい事態において、それに対応する「特別法」を発動する時に慣例的に使われる言葉です。「緊急事態宣言」という文言に特別な意味があるわけではなく、「非常事態宣言」などと言っても特に違いがあるわけではないようです。

 

では今回発動される(された)「特別法」はなんなのかというと、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」というものです。「等」と付けておくことで、感染症に広く使えるようにしているのですね。

 

 

ここの「第四章 新型インフルエンザ等緊急事態措置」のタイトルが「(新型インフルエンザ等緊急事態宣言等)」となっていますね。緊急事態宣言を出すということは、ここに書かれていることをやるということになります。ここでは一応「緊急事態宣言」という言葉が使われているので、「非常事態宣言」ではなく「緊急事態宣言」で告知されているのだと思われます。具体的な内容については、今さらですし、ここでは割愛します。

 

改めてまとめるとこういう関係になります。

 

  • 国が出す緊急事態宣言:特別法の発動(法的根拠あり)
  • 地方自治体が出す緊急事態宣言:単なる言葉、スローガン(法的根拠なし)

 

私の感覚では、こんなに違うものを同じ名前で使う無神経さが信じられません。ニュースを見ていても、「北海道は緊急事態宣言を出したのに、東京都は出さないのか」などと責められたりしていたと記憶しているのですが、言っている人達はそもそも何の効力もないものであることを理解していたのでしょうか。

 

一歩踏み込んで考えてみると、こうした無神経さの裏には、「行政は法的根拠のある活動しかできない」という原則(「法律による行政の原理」)を理解していない人が多いという実態があるのではないでしょうか。これは、義務教育の中でも最優先で理解しておかなくてはならないことに感じます。(私も大学生の途中まで理解していませんでしたが)

 

今回の騒動では、日本は他国のような強制力を持って国民の活動を縛れないことに私も改めて気付かされました。人権にうるさいと思われる西洋よりもさらに厳しかったのですね。これは日本が敗戦の際に、それまでの反省から行政の暴走を防ぐために大きな縛りを与えたからでしょう。法律のことを教える教科は公民だと思いますが、法律は歴史があって定まっていくのですから、是非とも二つの教科を連動させて教えて欲しいものです。

 

私も、義務教育をする立場ではありませんが、こうした話は折に触れて学生に解説していこうと思います。身の回りで起きたことを題材にしたら、理解もし易いでしょうしね。

縦割り組織は望んで生まれるわけではなく仕方なく生まれる

前回の話の続き。前回は、第一次世界大戦時に、官僚的機構が複雑さの限界を超えて身動きできなくなってしまった、という話。
  

suck-a-sage.hatenablog.com

 


 

官僚は縦割りだとよく文句を言われる。では、官僚を縦割りでないようにすることができるだろうか。

 

私は大学の学部生の頃、芸術系サークル連合会(芸サ連)という、サークルをとりまとめる学生組織に入っていた。その組織の執行部と呼ばれる中心メンバーは6人だった。6人でやるにはかなり多い仕事量があったので苦しかったのだが、しかし、人数を増やしたら楽になるか?というと、そうではないだろうなという実感があった。

 

なぜメンバーか6人だったのかというと、これは先輩が言っていたのだが、「大学生が、放課後に週一回集まれる限界の人数が6人ぐらいだから」という理由だった。

 

つまり、やることが多いから仕事を分担しようと思って人数を増やすと、全員が密にコミュニケーションを取れる機会が減ってしまうので、その再確認等のロスが仕事を分担出来て楽になる分を上回る(楽にならない)という判断をしていたのだった。これは、結構正しかったように思う。

 

しかしそれで耐えられないほどに仕事量が増えてしまったらどうするか?と言われたら、やはり人数を増やすしかないのだが、その場合は、組織内に上下関係を作って、必ず執行部ミーティングに居なくてはならない人と、その出席者に話を聞けば無理に参加しなくてもいい人に分けるしかない。それをしないと、たまに人が集まれるときだけしか意見交換や意思決定ができない、いかにも鈍重な組織になってしまう。

 

つまりどういうとことかというと、組織のやるべきことが少ないうちは、全員が意思決定の場に参加する対等な組織が成り立ち、その方が効率もいいのだが、やるべきことが多くなってくると、必要な人員も増えて、そうなると上下関係を作って、部下は他の部署がやっていることについて把握しなくても構わないという形にしないと、とてもではないが組織が回らなくなってしまう。これが縦割り組織が生まれる背景ではないか、ということである。

 

ここでのポイントは、組織はなりたくて縦割り組織になっているわけではないのではないかということである。人数が増えるとコミュニケーションコストは人数に対して指数関数的に増加するので、あるところで限界を迎えて、関係のコネクションを断ち切るしかなくなる。そうしないと人間は複雑化の前にたじろいで身動きできなくなってしまうからである。縦割り組織はそうして「仕方なく」生まれるのであって、最初から縦割り組織になりたい人達が居るわけではない。出来ればお互い対等に密にコミュニケーションをとりたくても、それが許されないのである。

 

冒頭の問いに戻ると、官僚が縦割り組織になっているのは、そうでもしないと身動きが取れないぐらい、仕事量が多く、仕事上関係する相手も多く、複雑なプロセスを経て意思決定をしなくてはならないからではないだろうか。そしてそれを、官僚の各個人の怠慢によってそうなっていると見るのは、官僚ほど複雑な仕事をしていない人達の驕りではないだろうか。また、官僚の各個人にとっても、自分の努力が足らないせいだなどとは思わずに、もっと大きな構造上の問題であると理解する方が、自身の健康にとっても組織にとっても良いのではないだろうか。

 

以上で今回の話は終わりだが、組織が大きくなる時に、あるところから同じやり方では上手く行かなくなるのでやり方自体を変えなくてはならなくなる、というのは結構言われることだと思う。また、個人が問題に対処する時にも、対象の複雑さに応じたやり方がある、という話にもどことなく似ている。その話はまた今度書こうと思う。

 


 

(補足)

ここで「官僚」というのは、象徴的に使っているだけで、「大企業」とか「大手銀行」とか言ってもよく、大きな組織全般に関わる問題と思ってもらってよい。

 

芸サ連の6人という数字は、あくまで大学生の本業である学業やその他サークルやバイトなどがあるうえで、残りの時間で集まれる最大の人数として設定されているので、仕事のようにそれを専業としている場合はもう少し多くなると思われる。有名なものでは、Amazonの「2枚のピザ理論」というのがあって、2枚のピザを食べるのにちょうどいい8人が組織の最小単位として良いとされている。

 

人数が増えると人間関係が指数関数的に複雑になる、って本当だっけ?と自分でも不安になったので改めて考えてみたところ、確かになる。もし、AさんBさんCさんがいて、AとB、BとCみたいに、二者間の関係がどれだけ生まれるかを考えると、それは人数nに対して(n^2)/2にしかならない(行列の半分を想像すると良い)のだが、AとB、AとBとCのように、3人以上の関係をそれぞれ考慮するとべき集合になって、2^nだから指数関数になる。

 

正しいことだからやめられない。だからバランスをとるのは難しい。

この前、「バランスをとる」ということは自分の信念に反する行為をするってことだから、思ってる以上に難しいよね、という話をしたのですが、あんまり伝わらなかった気がするので、こういう説明はどうかなあと考えてみました。

(前回の記事)

suck-a-sage.hatenablog.com

 

「鬱になるのは真面目な人」っていう説明を聞くと、当事者は「真面目な人がなるのだから鬱になるのは悪いことじゃないんだ」って感じるんじゃないかと思うんですよ。しかし、鬱になっているのが真面目なせいであって、それで不幸になっているなら、真面目であることを止めようとするべきなんです。止めるという言い方が良くないなら、少し抑えようとするべきと言ってもいいかな。しかし、本人は「真面目であることはいいことだ」と思っているから、それをやめようとは思えない。そういうことが起きるんじゃないかと思うんです。

 

最近の筋トレ話にも絡めてみます。私は最近は、とりあえず増量を目指して食事をやや増やしていますが、筋トレ自体は一旦中止していて、特にしなくなっています。それは「脂肪がある程度付かないと筋肉も付かない」という理論があるので、それをそのまま鵜呑みにしてやってみようと思っているからです。しかしおそらくですが、多くの人はそう聞くと「いやいや運動しないのかよ」って思うと思うのです。そこで私は「今は最低限の脂肪すら無い状況なので、こうするのが正しいんですよ」って言って、相手の困惑した顔を見るのが楽しみなのですが(笑)、ここで困惑が起きる背景がまさに多くの人が陥りがちな問題を示しているのではないかと思うのです。

 

普通、筋トレをするのは、良いことであり、かつ、苦しいことであるとされています。あるいは、ダイエットの一環であるとも考えられています。そこには、自らの怠惰さに立ち向かうというイメージがあります。もっと言うと、多くの人が「痩せなくては」と思う背景には、怠惰でないことを証明するためという感情があります。太っているという事と怠惰のイメージが結びついているためです。痩せることそのものが目的なら、苦しむことは必須ではなく、結果として痩せれば苦しくない方法の方が良いと思うわけですが、怠惰でないことを証明するのが目的の場合には、行為は苦しいことである方が良いのです。就活でマラソンを走ったことがあるというのが根性があることを示せるものとして有効だみたいな話がありますが、それはマラソンが苦しいものであることをみんなが知っているからです。

 

そういうわけですから、私が筋トレをすると言いながら今は運動はしていないと言うと、聞いている人はずっこけるわけです。こいつは怠惰でないことを示す気が全くないらしい、ということですね。でも私は怠惰でないことを示すために「筋トレをしたい」わけではなく、自分の健康のために「筋肉を付けたい」わけですから、「目的を見誤って勤勉になってはいけない」と考えて、その通り実行しようとしているわけです。

 

この話をしていて思い出したのは、ブッダ(お釈迦様)が悟りを開いた時の話です。ブッダは、他の僧侶がやるように苦行にずっと取り組んで、断食等で自分を痛めつけていたわけですが、それに疑問を感じてやめようと思い、差し出されたお粥を受け取って食べて、その後瞑想して悟ったとされています。これはつまり、ここでは苦行は「怠惰と立ち向かうかっこいい行為」であると認識されていたという事だと思うのです。自分が受けた苦しみで徳の高さを競う行為であったと言ってもいいでしょう。しかし、それは本来の目的を見失っている、世間の体裁を優先して自分を不幸にしているだけだ、とブッダは気付いたのではないでしょうか。

 

このような話を一言で表すと「美しく生きようとしてしまう問題」というようなものになるのかなと思います。最近、そのことをよく考えるのですが、長くなりそうなので続きはまたの機会に。

筋トレで一度太らないと筋肉が付かないのはなぜか?

鍛えることで成長する場合と潰れる場合の違いはどこにあるか

 

2年前に一度ぎっくり腰になってから、何か対処しなくてはいけないかなと考えていて、最近(元文章を書いたのは2019/2/27でした)ついに筋トレを始めました。第一の目的はぎっくり腰の予防なのですが、他にも、昔からお尻の肉が無さ過ぎて堅い椅子に座るとお尻が痛くなる(最悪坐骨のところから血が出る)ので、お尻を分厚く出来ないかとも考えていました。そのため、両方に効果がありそうなスクワットから始めました。あと体幹を鍛えるための「プランク」というやつもやってます。日々の生活の中でも、エスカレーターを使っていた場面で出来るだけ階段を使うなど、運動量をやや増やすようにしました。そして、私はとても痩せているので、筋肉量を増やして体重そのものも増量させたいと考えていました。

 

それで少しやってみてどうなったかというと、体重は全く変わらないか、むしろわずかですが痩せました(苦笑)。よく考えれば当たり前なのですが、みんながダイエットと称してやっていることをやるわけですから、基本的にはエネルギー消費が増えて痩せるわけですね。もちろん、自分としては普段よりちょっと多めに食べようとはしたのですが、それと消費量が拮抗していて、体重を増やすには至らなかったようです。

 

そこで、筋トレに詳しい人に相談してみたのですが、筋トレの理論的には、筋肉を付けるには一度脂肪を付けるなどして太らないといけないそうです。身体の中にエネルギーを一度蓄えて、筋肉に変換するための元になるものを作っておいた状態で運動することで筋肉が増えるようです。確かに、身体にエネルギーが無い時に運動したら、筋肉を分解してエネルギーにするしかない気がしますし、その通りな気がしました。私は人類の健康ギリギリぐらいの痩せ具合で生きてるので(ちなみに、身長184cm、体重55kg)、筋肉に変換するための余剰がないんでしょう。相談した彼曰く、プロテインの中でも、「ウェイトゲイナー(Weight Gainer)」という、体重増加のためのタイプがあるので、それがオススメですよということだったので、買ってみることにしました。今日届くらしいです。楽しみです。

 

さて、その話はともかくとして、「筋肉を増やすには一度脂肪を付けなくてはならない」という話が、なんとなくですがとても面白い気がしました。しかしそれがどう面白いのかということが自分でも良く分からなかったので、そのことについて最近考えていたのでした。

 

例えば教育などの文脈でも、「人を過酷な状況に置く」ということで、「成長する」こともあれば「潰れる」こともある、というのは皆さんも実感としてあると思います。そして、どういう場合には成長して、どういう場合には潰れるのか、ということはあまりきちんと理論化されていないように思います。筋トレも基本的には「自分を過酷な状況に置く」わけですが、それが「(筋肉が)成長する」に繋がるには、「身体にエネルギーの蓄えがある状態にする」という条件があるという事になります。これはきちんと理論化できているわけで、とても進んでいる事例なのではないかと思うわけです。したがって、筋トレについて考えることで、他のことにもヒントが得られるのではないか、という気がするのです。

 

ただし、単純に成長一般に一般化すれば良いという話でもないでしょう。それが他の例にも当てはまるかというのはまた別問題です(なぜなら一般化や具体化には解釈が伴うので、そのやり方は一意に定まるわけではないので)。しかし重要なのは「きちんと理論化する」「上手く行かなければ誤りだと認める」という態度なのかなと思うのです。そういうものが、他の「教育一般」には欠けていることが多い気がするのです。…現代教育の悪口は今日の本題ではないですが。

 

人体の体温調節に見る「身体の意思」

 

上記の問題を考えるにためのヒントになりそうな現象として、突拍子もない例だと思われるかもしれませんが、ここでは人体の体温調節について考えてみます。

 

昔から、寒い時に「せっかく身体に脂肪があるのだから、これを自分の意志で今熱源として使ってしまうことにすれば、寒さがしのげるはずではないのか?それを強制的に行う方法はないのか?」ということが気になっていました。現代人の我々は、食料が食べられないという危機的状況にはないので、身体に蓄えておく量は最小限でいいはずですから、蓄積してるエネルギーのほとんどを使ってしまって大丈夫なはずでしょう。私がまさにいい例で、限界ギリギリまで痩せていても、大きな病気とかをしない限りは、特に問題なく過ごせるわけです。

 

そういうことを考えていたのですが、身体というのはそう簡単に思い通りにはならないのかなあ、と半ば諦めていました。しかし、少し前に「痛覚のふしぎ 脳で感知する痛みのメカニズム」という本を読んで、「もしかしてそういうこともある程度できるのではないか」と思うようなヒントを得ました。その本は痛覚についての本ですが、神経一般についても書いてあって、暑さ寒さを感じる神経の話のところに何気なく書いてあったことが、私の常識を覆す話だったのです。

 

それは(今手元に本がないので正確ではないですが)「人体は寒さを感じると手足など末端の血流を減らして体温が奪われるのを防ぐ」という文章でした。体表面の温度と外気の温度に差があるほど熱が奪われてしまうので、その差を小さくすることで熱を奪われることを防いで、臓器など大切な部分の熱が奪われないようにしているということらしいです。

 

これが常識を覆す話だと感じたという事は、私はそうではない理解をしていたという事になるのですが、では私はどう理解していたかというと、人体というのは「身体を温めようとしている」が、「寒さに負けて温めきれない」ので、手足が冷たくなってしまうのだと思っていたのです。でも、この説明によるとそうではないのです。

 

ところで、皆さんは「体幹を温めると全身が温まる」という話を聞いたことがないでしょうか。例えば、マフラーをすると体感でかなり温かくなるというのは実感があると思いますし、腹巻をすると冷えにいい、みたいな話も良く聞くと思います。私はこれを「体幹を温めることで、そこの血液が温まって、その血液が身体を巡ることによって他の場所も温まる」みたいなイメージで捉えていました。しかし、上記の説明を聞いて、それは少し違うのではないかと思うようになりました。

 

推測ですがおそらく、正しいメカニズムはこうなのです。我々が寒さを感じると、身体はエネルギーの不足を心配して、末端の血流を減らそうとします。それは臓器などの大切な部分の温度を下げないためです。ところが、体幹、すなわち臓器などがある部分を温めることで、そこに熱が十分あれば、身体は余剰分を末端に回しても問題無いと判断して、手足などの末端に熱を供給するようになって、結果として全身が温まるのです。

 

これは、単なる解釈の違いと言ってしまえばそうだとは思います。「体幹を温めれば全身が温まる」というノウハウだけ知っていれば、普通の人にとっては十分でしょう。しかしそれでもこの発想の転換には大きな意味があると思うのです。

 

私が最初に想像した通り、人体はやろうと思えば身体を温められるだけのエネルギーを蓄えてはいるのです。しかし、それは「あえてしていない」のです。「やろうとしているのだけど上手く出来ない」ではないのです。

 

例えば、お酒を飲むと身体が温まりますよね。私は、お酒を飲んだ夏の日に雨を浴びてしまったことがあって、結果どうなったかというと、体温が奪われてしまってガタガタと震えることになりました。夏の日にですよ?つまり、体表面に冷たいものが当たったら、体表面の温度を下げないと体温が奪われて危険なのです。お酒はその「体温調節機能」をおかしくしてしまうのでそういうことが起こるのであって、正常な状態というのはそのコントロールが効く状態のことを指すわけです。だから、寒い時に手足が冷たくなるのは、(限度を超えなければ)正常なわけです。

 

そういう順序から想像すると、「寒さに強くなりたいから寒い環境に身を置く」みたいなことをするとどうなるかというと、おそらくですが、より基本の体温を下げる方向に身体が適応するのではないでしょうか。もし「いつも手足が温かい状態に保てるようになりたい」という目標でそういう「訓練」をしてしまうと、「いつも手足が冷たい」(が、意識としては気にならない)状態になるという正反対の結果を招くのではないでしょうか。このメカニズムの理解が正しいかは分からないのですが、メカニズムの理解が間違っていると「訓練」が意図せぬ結果を招く、という事自体は言えると思います。

 

なお、医学的な話については専門ではないので話半分に聞いて欲しくて、この話も推測ですが、たぶん免疫等の都合的には体温は高い方が都合がよくて、出来れば高くしたいところを、体温を奪われ過ぎないように調節しないといけない、というせめぎ合いの中で環境に合った状態が選ばれるのではないかと思います。風邪で熱が出るのはウイルスと戦うためであって、安易に解熱すると風邪が長引くという話からも、基本的に体温が高いことは悪いことではないということが伺えます。熱が出るのは、温存していた兵力を一気に投入している状態なわけですね。ただし他の条件として、たんぱく質が変質するほど体温を高くしてはいけないという話はありますし、他にもあるのだろうとは思いますが。

 

さて、大事だと思う所を再確認すると、こういうことです。手足が冷えてしまうことを、「身体はいつも手足を温めようと頑張っているが、強大な寒さには負けてしまう」と捉えている状態と言うのは、「身体の意思」を誤解している状態です。ここで例えば、「身体を寒さの過酷な状況に置けば強くなって解決する」などと思ってしまうと、それは「頭の意思」と「身体の意思」が反対方向を向いている状態になってしまいます。しかし実際にはこのケースでは(仮に私の考えが正しいとすればですが)、「身体の意思」は「末端を冷やそう」なのです。したがって、身体の意思を頭の意思が素直に聞いて対処すると、「体幹に熱が足らないのが不安なら、体幹を温めればよい」になるのです。頭の意思と身体の意思が一致することで、無理なく身体に指令を送ることができるという事です。

 

なお、頭の意思と身体の意思が一致することの重要性というのは、鬱に関する話題の中でも良く聞きます。「身体の意思を無視して頭の意思を無理矢理通していると、あるときから身体が反逆して言うことを聞かなくなる」そうです。そういう面からも、「身体の意思」に耳を傾けることの重要性を感じるのです。

 

冒頭の話に戻ると、私は、「身体に好き放題エネルギーを消費させてでも身体をあっためるスイッチみたいなものがあったらいいな」と思っていたわけですが、(何の手間も要らないというわけではないですが)それに近いもの(体幹を温めればよい)が手に入ったわけです。これは凄いことではないでしょうか。凄いというか、「そういうものがある」という発想を得ること自体が凄く有益に思えるのです。

 

「身体の意思」が分かると筋トレもそれ以外も上手く行く

 

これを筋トレの話にも応用してみましょう。「一度体脂肪を増やしてからでないと筋肉は付かない」ということを、単純に現象として説明すると、「体内に余剰エネルギーがある状態だとエネルギーが筋肉に変換されやすい」ということになります。これを、身体の意思という面からとらえるとどうなるか。

 

まず、生物として考えると、筋肉というのは付けば付くほどいいというものではなくて、筋肉が増えると消費エネルギーが増えるので、食料の少ない状況では不利になります。したがって、人間には「使わない筋肉を減らす」機能が付いているわけです。「減ってしまう」ではなく、「積極的に減らそうとしている」のです。他の動物を見ると、ネコなどは運動しなくても筋肉が衰えることはないようです。クマなども、物凄く強いですが、あれは別にトレーニングして強くなったわけではないでしょう。「ネコやクマには筋肉を減らす機能がついてない(というか、筋肉を減らすと死に直結するのでしないようにしている)」のではないでしょうか。人間に「筋肉量の調節機能が付いている」のであって、「人間は劣っているから放っておくと筋肉が衰えてしまう」ではないのです。

 

そういう発想から考えると、今自分の身体に脂肪などのエネルギーの蓄えがないのに、筋肉を増やしたら、ただでさえ少ないエネルギーがさらに足らなくなって、破滅一直線になってしまいます。したがって、身体は、いくら運動をしても「筋肉を付けない」という選択をするしかないのでしょう。つまりこれが、冒頭の問いの「一度太らないと筋肉が付かないのはなぜか」の答えではないか、と思われるのです。

 

もちろん現代に生きる私たちは、お腹が空いたらいつでも食料を供給できるような環境に居るので、大昔のように食料不足の危機におびえているわけではないので、できればその事情を身体にも理解して欲しいのですが、身体というのはそう簡単に変化するものではないようで、1万年前ぐらいの生活の記憶を引きずっているようです。人類の文化的な変化が急激すぎて、進化での適応はそんな速い環境の変化には対応していないのでしょう。(もちろん、急速に対応しているものもあるのだろうとは思いますが)

 

そうした事情で、「身体の意思」はしばしば大昔の記憶に基づいて判断をしていて、現代に生きる我々の「頭の意思」の常識では面食らうことも多いのですが、そうした身体の意思というか事情を読み取ってあげることで、身体が頭の(自分の)味方になっていくのではないかと思うのです。

 

そして筋トレをすることで、そういう「身体の意思」に対する理解を深められたらいいな、と考えているという事なのでした。

 


(参考)

 

第一次世界大戦に学ぶ「専門性の向上による組織の硬直化」

 今回はオリジナルの話ではなくて、「無形化世界の力学と戦略」(長沼伸一郎)という(PDFで買った)本の中での、第一次世界大戦についての解説から一部を切り取った話になります。

 

正直この本を読むまで、第一次世界大戦がどういうものなのかさっぱり分かっていなかったのですが、読んだら随分見通し良く分かりました。ただ、それを全部説明するのは無理なので、ここではテーマを絞ってお届けします。

 

そのテーマは「専門性の向上による組織の硬直化」です。

 


 

第一次世界大戦の頃の戦争では、鉄道による人や物資の輸送網を確保すること(兵站)が最重要の位置を占めていた。第一次世界大戦の発端にも鉄道が関係している。鉄道網の敷かれている範囲の拡大はそのまま勢力圏の拡大を意味していた。そういう背景もあって、その頃ドイツは「3B政策」という政策を実行しようとしていた(この名前は当時のドイツで使われたものではなく、後からそう呼ばれるようになっただけらしいが)。3Bというのは、ベルリン、ビザンティウムバグダッドのことで、ベルリンはドイツの首都、ビザンティウムはトルコのイスタンブールの旧名であり、地中海と黒海の間の首根っこ、バグダッドはイランの首都でペルシャ湾にも近い。どこも重要な拠点である。

 

この3B政策は、イギリスの3C政策(これも鉄道の政策)と対置してそれらが対立していたと取り上げられることも多いが、第一次世界大戦の直接の引き金となったのは、イギリスというよりはロシアとの関係である。ロシアは、地中海側の海の出口を求めていた。ドイツの鉄道の計画と、ロシアの海運の計画が交差する場所こそが、第一次世界大戦の引き金になったバルカン半島ということになる。

 

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バルカン半島をめぐる情勢

(図1、無形化世界の力学と戦略、第三部 P70)

 

バルカン半島の国々は、ドイツとロシアの代理戦争をやらされていた。大戦の直接の引き金と言われるサラエボ事件は、セルビア人の青年がオーストリアの皇太子を暗殺したという事件だが、これは、ロシアがスラブ系であるセルビアを支援していたということによる。ドイツとオーストリアは同盟関係にあるので、かくしてロシアへの攻撃の理由が手に入ったという状況になる。

 

先ほど言った通り、ドイツにとってメインの敵はロシアであった。しかし、ロシアというのはあまりにも広いので、ナポレオンが手こずったように、攻めても攻めても戦線が後退するだけで、いつ終わるとも分からない戦争になってしまうことが想像される。そのときに、後方を他の国に攻められたら悪夢の二面戦争に突入することになってしまうということで、後方の憂いを先に断つことが優先された結果、ドイツはまずフランスを倒してしまい、その後余裕を持ってロシアと戦うという戦略を取ろうとした。そのためにドイツはフランスを倒すための大作戦(シェリーフェン作戦)を実行し、あと一歩でパリが陥落するかというところまで追い詰めるのだが、結局これは防がれてしまった。つまり、恐れていた二面戦争に実際に突入してしまったのである。

 

というわけで、第一次世界大戦についての外観を確認しておくと、この戦争のメインプレイヤーはドイツで、ドイツとフランスが戦うのがドイツにとって西側である「西部戦線」、ドイツとロシアが戦う東側が「東部戦線」ということになる。そしてこの二つの戦線が、特に西部戦線が完全なる膠着状態になり、ほとんど戦線が動かない状態が続いた。なお、今回は詳しく取り上げないが、最終的にイギリスが参戦して海上封鎖を行うことによって、ドイツの食料が枯渇し、ドイツが内側から崩壊して終了、というのが大まかな流れである。

 

ちなみに、先ほどバルカン半島が火種だったという話を書いていたが、実際に戦争が始まってみるとその地域の人達はほとんど重要なプレイヤーとして動いていないというのも面白い。以上のように見るとその理由はそれなりにスッキリすると思われるが、これも要素を切り取って見ているという面はあり、歴史家にとっても第一次世界大戦の開始というのは謎の多いもののようである。

 


 

さて、激しく前置きが長くなったが、今回注目するのは膠着していた西部戦線である。そもそもなぜ戦線が膠着していたのかというと、この時に「機関銃+塹壕+鉄条網」という鉄壁の防衛スタイルが確立してしまい、それを突破する方法を双方が見出せなかったからである。このセットをここでは「機関銃陣地」と呼ぶが、これがドイツとフランスがにらみ合ったまま伸びに伸びて、ついには海岸線まで到達してしまった。この機関銃陣地に攻撃を仕掛けた場合、攻撃側が必ず敗退し、防御側が常に勝利した。

 

それでは「無意味な攻撃はやめよう」となったかというと、実はそうならず、フランス側もドイツ側も、「敵陣を破れないのは、兵隊の『突撃精神』が足らないからだ」と考える司令官が、兵隊へ執拗に突撃を要求し、無残な死体が量産される事態となってしまった。ついにはドイツは戦線を維持することだけを考えるようになり、フランスも兵士が上層部に反乱を起こし司令官を交代させて突撃は行われなくなるのだが、そうなるまでにおびただしい数の死者を出してしまったこともまた事実である。

 

ここで我々日本人は、やや意外の念を覚えるのではないだろうか。というのは、そうした「精神論による無理難題の克服」というのは、第二次世界大戦のときの日本軍および現在の日本の専売特許のように語られることが多いからである。そうした愚かさは我々日本人だけでなく、ヨーロッパ人にも十分あったのだということがここから見て取れる。ドヤ顔で「日本人はすぐ精神論に走る」などと言うセミナー講師に出会っても、これからは「それは日本人だけではなく、世界中広く見られる現象である」とやや引いた目で見ることが出来るだろう。

 

では、精神論に陥ってしまった原因を民族性に求められないとすれば、何に求めればいいのだろうか。

 

ここで、冒頭の鉄道の話に戻ってくる。鉄道がいかに戦争を変えたのかというのはそれ自体物凄く面白い話なのだが、そこまで話していると話が終わりそうにないのでまたの機会にすることにして、ここでは、鉄道が戦争を含む国家戦略の中核にあったことと、その鉄道を管理する能力が極めて専門的で難しいものだったことに着目する。

 

一般的に言って、専門家集団のやっていることを外部の人が評価することは難しい。外部の人から見ると専門家がやっていることは複雑過ぎて、何をやっているのか理解することが出来ないからである。そして、当時は軍が鉄道を管理していたわけで、それは結局「軍のやっていることに口出しにくい」雰囲気になっていたということである。つまり、政治家や世論が軍をコントロールすることが難しくなり、組織の硬直化を招くとともに、「軍部の暴走」が起きやすい状況を作ってしまっていた。

 

そして、そのことがまさに先に述べたような「突撃精神」のような悲劇を招いたと考えられるのである。言い換えると、おかしな考えを持つ人が出るのは仕方がないが、それを政治家なり市民なりが止めることができない状況になっていたということが本質的な問題だということである。

 

ここで改めて振り返ってみると、第一次世界大戦には、「英雄」として名を馳せた人というのは特に思い浮かばない。これもまた鉄道が戦略の中心にあったことと関連している。英雄が大胆な作戦を思い付いてそれを実行するには、その作戦を理解して実行する人達が必要である。しかし、鉄道網を敷くような超大規模事業を行うには、多くの人の同意が必要なので、その意志は最大公約数的にしかなり得ない。そのような状況下で「天才的な発想」というものを思いついたとしても、それを凡人である多くの人達が理解することは原理的に難しいため、予算が集まらずその計画は実行されないこととなる。したがって、天才の活躍の余地というのがなくなっていたのである。戦争の主役は、官僚組織のような集団に移っていたということになる。かくして第一次世界大戦は、華々しい英雄譚は鳴りを潜め、「顔の見えない戦争」となり、塹壕の中で名もなき兵士が無残に死んでいく戦争だというイメージが後世に残されることになった。

 

重要な点を再度確認しておくと、無駄死にすると分かっているのに突撃するという軍の暴走を止めることができなかったのは、要は軍に権限が集中ししていたからだし、それを止める政治的リーダーが居なかったということでもある。そしてその根本にあるのが専門家による専門知識の肥大化による硬直化であるということだ。

 

第一次世界大戦のときには鉄道がそうした硬直化を招いていたというだけで、要は大規模な予算を必要とするものが戦略のメインになった場合には同様に硬直化の危険があると言ってよい。その意味で、これはその後の世界にも一般に当てはまる法則であると言える。では、その後、常に組織というものは硬直化していったのかというと、続く第二次世界大戦は意外にもそうではなかった。

 

第二次世界大戦第一次世界大戦と違って、そこには確かに「顔の見える」人達がいるのである。そして、特に指導者を見てみると、チャーチルヒトラールーズベルトなど、やや独裁傾向のある、場合によっては危険な(もちろんヒトラーは実際に危険だったわけだが)指導者が活躍していたと言ってよい。こうした人物が指導者になれたということは、それを民衆が許容したということであるが、その理由は、これまで見てきたような第一次世界大戦の問題への反省からと考えられるのである。

 

つまり、専門分野の複雑化に伴う組織の硬直化という問題が直接解決されたわけではないのだが、より強権を発動する政治家を選んでバランスを取ったということになる。通常なら危険すぎるそうした人達が指導者になっていたのは、第一次世界大戦の時に、官僚的機構の鈍重さに危機感を抱いていたからで、確かにあの時には必要なことだったのだろう。ちなみに、第一次世界大戦時にフランスの首相だったクレマンソーは「戦争は軍人に任せておくには重要過ぎる」という言葉を残している。これも第一次世界大戦の悲惨な状況を理解するとその発言の意味が良く分かる。

 

そして、日本人にとって重要な点だが、この「官僚的機構の肥大化」「軍部の暴走」による失敗というのは、まさに日本が第二次世界大戦で経験した事である。これはまさに、日本が第一次世界大戦に参加していなかったため、高い授業料を払わずに済んでしまったからだと考えることが出来る。嫌な汗の出る話である。

 

ただ私としては、そうした「専門家の権限肥大による硬直化」といった現象は日本固有の問題ではないということが分かって、であればそれほど悲観することは無いとか、解決不可能な問題ではないと思えたという意味で、この整理は希望の湧くものであった。

 


 

以上で今回の話は終わりだが、第一次世界大戦について理解することは、その後の情勢を理解するうえでもかなり重要ではないかという印象を持った。もちろん、特に他の歴史的事件、例えば第二次世界大戦よりより第一次が特に重要ということはないのだが。しかし、日本も戦った第二次世界大戦に比べて、第一次世界大戦について語れる日本人というのはかなり少ないのではないかと想像される。

 

例えば、普通に日本人として暮らしていると、ドイツにはヒトラーというとんでもない独裁者がいてそいつが悪かったから第二次世界大戦(のヨーロッパ局面)が起きたみたいな理解になりがちだが、その要因は明らかに第一次世界大戦の戦後処理にある。パリ講和会議において連合国がドイツにふっかけた賠償金が大きすぎて、ドイツは「まともな方法」では、自国を立て直すことは出来なくなっていたのである。ヒトラーおよびナチスが台頭したのはそうした無茶な制裁に対する復讐心によるものであり、ほとんど第一次世界大戦戦勝国の罪と言ってもいいレベルである。

 

ちなみに、この賠償金額に反対していた連合国側の人は居なかったのかというと、ちゃんと居たのだ。それが当時イギリスの大蔵省に居たケインズである。ケインズというのは、もちろんケインズ経済学で知られるあのケインズである。ケインズはイギリス代表として講和会議に参加して反対を表明したがそれを通すことはできず、結果的に代表を辞任している。賠償を求める戦勝国の民意には勝てなかったのである。しかし、私的はこれを聞いて「さすがはケインズさんは偉大だな」との思いを新たにした。

 

さらに見ていくと、第二次世界大戦後に日本がそれほどの賠償金を課せられなかった背景には、この時にドイツを追い詰めすぎてもう一度戦争を仕掛けられてしまったことの反省が大いにあったようだ。こんなところにも、「ヨーロッパ人には第一次世界大戦の教訓が生きている」と見ることが出来よう。

 

さらにさらに、現状で北朝鮮がミサイルを日本の方に打っても世界各国が北朝鮮をいじめてくれないのはなぜか?というのも、あまり追い詰めすぎると「ドイツや日本みたいに決死の反撃をしてくる」可能性があるということをみんな理解しているということなのだろう。

 

また、戦争の話ではないが、安倍政権が当初「今大事なのは決断することだ」とアピールしていたことが思い出される。たしかに安倍政権は、良くも悪くも「決断する」という印象を受ける。そして確かに、その前の政権が長らく何も決断できない状態が続いていたという印象も強い。もちろん、悪い決断をするぐらいなら保留にしておいた方が嬉しいことも多いのだが、安倍政権が選ばれたのは、複雑化しすぎて硬直化した世界で何かを行うためには、強権を持つ人をトップに据えるしかないという民衆の選択があったということなのかもしれない。