正しいことだからやめられない。だからバランスをとるのは難しい。

この前、「バランスをとる」ということは自分の信念に反する行為をするってことだから、思ってる以上に難しいよね、という話をしたのですが、あんまり伝わらなかった気がするので、こういう説明はどうかなあと考えてみました。

(前回の記事)

suck-a-sage.hatenablog.com

 

「鬱になるのは真面目な人」っていう説明を聞くと、当事者は「真面目な人がなるのだから鬱になるのは悪いことじゃないんだ」って感じるんじゃないかと思うんですよ。しかし、鬱になっているのが真面目なせいであって、それで不幸になっているなら、真面目であることを止めようとするべきなんです。止めるという言い方が良くないなら、少し抑えようとするべきと言ってもいいかな。しかし、本人は「真面目であることはいいことだ」と思っているから、それをやめようとは思えない。そういうことが起きるんじゃないかと思うんです。

 

最近の筋トレ話にも絡めてみます。私は最近は、とりあえず増量を目指して食事をやや増やしていますが、筋トレ自体は一旦中止していて、特にしなくなっています。それは「脂肪がある程度付かないと筋肉も付かない」という理論があるので、それをそのまま鵜呑みにしてやってみようと思っているからです。しかしおそらくですが、多くの人はそう聞くと「いやいや運動しないのかよ」って思うと思うのです。そこで私は「今は最低限の脂肪すら無い状況なので、こうするのが正しいんですよ」って言って、相手の困惑した顔を見るのが楽しみなのですが(笑)、ここで困惑が起きる背景がまさに多くの人が陥りがちな問題を示しているのではないかと思うのです。

 

普通、筋トレをするのは、良いことであり、かつ、苦しいことであるとされています。あるいは、ダイエットの一環であるとも考えられています。そこには、自らの怠惰さに立ち向かうというイメージがあります。もっと言うと、多くの人が「痩せなくては」と思う背景には、怠惰でないことを証明するためという感情があります。太っているという事と怠惰のイメージが結びついているためです。痩せることそのものが目的なら、苦しむことは必須ではなく、結果として痩せれば苦しくない方法の方が良いと思うわけですが、怠惰でないことを証明するのが目的の場合には、行為は苦しいことである方が良いのです。就活でマラソンを走ったことがあるというのが根性があることを示せるものとして有効だみたいな話がありますが、それはマラソンが苦しいものであることをみんなが知っているからです。

 

そういうわけですから、私が筋トレをすると言いながら今は運動はしていないと言うと、聞いている人はずっこけるわけです。こいつは怠惰でないことを示す気が全くないらしい、ということですね。でも私は怠惰でないことを示すために「筋トレをしたい」わけではなく、自分の健康のために「筋肉を付けたい」わけですから、「目的を見誤って勤勉になってはいけない」と考えて、その通り実行しようとしているわけです。

 

この話をしていて思い出したのは、ブッダ(お釈迦様)が悟りを開いた時の話です。ブッダは、他の僧侶がやるように苦行にずっと取り組んで、断食等で自分を痛めつけていたわけですが、それに疑問を感じてやめようと思い、差し出されたお粥を受け取って食べて、その後瞑想して悟ったとされています。これはつまり、ここでは苦行は「怠惰と立ち向かうかっこいい行為」であると認識されていたという事だと思うのです。自分が受けた苦しみで徳の高さを競う行為であったと言ってもいいでしょう。しかし、それは本来の目的を見失っている、世間の体裁を優先して自分を不幸にしているだけだ、とブッダは気付いたのではないでしょうか。

 

このような話を一言で表すと「美しく生きようとしてしまう問題」というようなものになるのかなと思います。最近、そのことをよく考えるのですが、長くなりそうなので続きはまたの機会に。