文章の練習

なんだか最近文章が書けなくなってる気がする。いや、前からだが、会話が前より出来るようになった分そう思うのかも知れない。

以下、だらだら書く練習。スピードを出して書くことを心がける。


長い文章を書けなくなったのは(いやまあそんなに書いてなかったけど)、ブログにして、タイトルを付けなきゃいけなくなったからじゃないかなあとか思う。…と、いつもだとここまで書いてその理由とかをほっぽり出してしまうから短くなってしまうという説も出てきた。。論文とか書いてて字数制限とか考えると、どんどん冗長性が無くなっていって、そういう文章を書くのが普通になってしまったような気がするが、別に論文も冗長性があっても良いはずなんだよね。「例えば」とかいう書き方って含まれてちゃいけないとかいうのも、誤解なのかも知れない。


そうか、詳細に語ろうとしてないから、文章が短くなるのか。そんなことは当たり前のような気がするが、しゃべりとの相違と考えると合点がいく。しゃべりでは相手の反応を見て、伝わってないと思ったら「どこの説明が足りてないんだろう」とか考えるものな。このブログを書いて、読んで反応を見られるのは基本的には私だけだ。私が書いてるんだから、私が分かるのは当たり前であって、説明が短くなる。これは当然だと。でも、発想ってメモしないと失われていくので、「思い出す鍵」としてメモする。そんな感じで普段書いてるのかな。


人と話してて思うことなんだけど、「その人以上にその人のことが分かる人はいない」ってのは、常には正しくないよな。相談ってのは、相談されてる人の方が、相談してる人を分析して、そこに有益な情報があったりするわけだから。それは単純に人生経験の違いとかで、自分が体験して乗り越えたことなら、アドバイスできる、とかそういう話で。


もっと普通の、「教える、教えられる」の関係でも、そういうことはあると思う。生徒が、「自分の分からないこと」と的確に伝えることが出来れば、先生はその知識があれば当然答えられる。でも、先生に求められてるのってのは実はもっと高度なことで、「相手が何を分かってないのかを把握する」ところからやらなくちゃいけない。大層に書いたけど、そんなことはみんなやってて、例えばテストなんてのがそうだな。良いテストってのは、何を理解してて何を理解してないかを判断出来るように意識して作ったテストだと思う。で、まあ普通の勉強だったらそういうテストっていう関門があるんだろうけど、仕事仲間同士とかで仰々しくテストするわけもないので、それの代わりになる物で、相手の理解度(度っていうと度合いって感じになるけど、大小というより「アレは良し、コレはだめ」みたいな物だと思う)を把握しなくちゃいけないわけだな。


ちょっと話を戻すと、なんでこんな書き殴りを始めたかって言うと、これから今年度中に、情報処理実習手引きと、会計マニュアルの修正とか執筆とかしなきゃならんからなんだよ。どうも、私は文章を短く書きたがる傾向があって、その傾向に付随してか、練った文章しか書きたくないと思って遅筆になりがちなんだよ。でもこれからやらなきゃならない量がとんでもないので、全部に満足のいく文章を提供出来るとは思えない。ので、上からザーっと書く練習ってのをした方が良いんじゃないかと思ったんだよね。書く事への敷居を下げて、どんどん手を動かしていかないといけない状況な分けよ。もちろん、論文もあるしね。


練って書こうとすると、どうにも文単位(酷いときはそれ以下)の切り貼りが多くなって、それは字数制限的には必要だったりするのかもしれないけど、読む人にとって優しくない感じになるんじゃないかと思うんだよね。元々私は「数式はシンプルなほど美しい」みたいな思想の側の人間で(笑)、冗長性ってのを結構嫌うんだけど、文章が上手いなって思う人のを読むと、結構冗長だなって思って、考えを改めたんだよね。練った文章は、練ったことを伝えるには良いけど(笑)、内容の伝達には必ずしも良くないと。詩を書いてるんじゃないんだから(笑)。


あと、関係あるような無いような話だけど、切り貼りで書こうとすると余計に時間掛かったりするんだよね。既に収まりの良いように書いたはずの文章に、何か内容を追加するってなると、整合性のため余分な労力が掛かると。まあ、じゃあゼロから書き直したらすぐ整合性がとれるかっていうと分からないけど。


マニュアルと言えば、芸サ連の後輩のとらにゃも君がすげーバリバリ書いてたので、どんな風にやったらいいのか聞いてみたいね。指南してくれないかな…。今この文章はホントに行き当たりばったりで書いてるけど、伝えたい(なきゃいけない)ことが明確にあったら、「含めるキーワード」みたいなのをメモしてから書くのかしら。最近そういう普通のこともやってないなあ。あ、でもこの文章でも、書いてて「そうだあの話もしよう」って思ったら、その時点でちょっと下にメモしたりはしてるんだけど。引き受けてるマニュアルは、結構両方大規模な物だから、全体の構成も考えなきゃいけないよね。そういうのって、やり始める前からスパっと決められるもんなのかなあ。


ここまで、意外にスムーズにだらだら(スムーズとだらだらは矛盾してるか?)書けました。実は前から、「自分と、それに突っ込みを入れるキャラ」っていう形式の日記にあこがれがあるんだよね。あれ、いつかやってみたい。残念ながら私には自分の中に別の架空設定のキャラとかいないので、やるならこれから作らなきゃいけないけど。ところで、書いた分を見返すと、「指南してくれないかな…」とかって大神の影響が微妙に現れてる気がする。


風呂入ってきた。再開。


理解力の高い人が、必ずしも説明力の高い人ではないという話はよく言われるんだけど、私もそう思う。でも、その二つは単に独立しているのであって、理解力が高いと説明が下手、ということはないと思う、という話を以前した。理解力が高い、というのは、聞いてすぐ分かるという意味だけど、説明には、その周囲の知識が必要という意味で、「ちゃんと理解してる」ということはやっぱり必要だと思う。テストの作成の話じゃないけど、何を持って理解していると言えるのか、ということを考えられないといけない。「分かったけど、説明出来るほどには分からない」と言うように、その間には差があるんだと思う。そういう「メタ理解」は、何においても役立つ技能になりうる。(どうでもいいけど「メタリカ」が浮かんだ)


いや、何がいいたいかっていうと、相手の分からないことを相手以上に分かる瞬間ってのが結構あって、




(ここで寝落ち)



それって痛快であると同時にちょっと怖いって思うとかそんな感じなんだけど。