切り取っている世界

見るとか聴くとかいう行為は感覚器からの情報を脳内で構成する事によって初めて認知するわけで、自分と隣の人で、世界が同じように見えている・聴こえているか分からないわけですが。


もっと一般的な話として、「見ているものが違う」「聴こえているものが違う」という事ってたくさんありますよね。注意力とかいう話の以前に、分解能みたいなことでもある。


例えば私はどうも高周波の音が聞こえないようです。そうなると、横の人が「素晴らしい音楽だ」って言ってるのがそう思わない時に、隣の人が聴こえてる音が聴こえていないから、という場合がありうるのですよね。


私は視力も低いので、見えている世界が本当に違うんじゃないかとか思ったりもします。


で、そういう事って別に目や耳に限らない話ですよね。五感にも限らない。


会議の議事録とかを修正する立場なのですが、議論されていたことと全然関係ないことが書かれていたりして驚きます。でも、それってもし私が書いたら、別の人が修正したい内容になるかもしれないですよね。どっちが切り取った内容が正しいか、というのはなかなか一意に言えるものではないと思うのです。


誰かが書いた議事録を見るというのは何気に恐ろしい行為だなーと思います。「この理解じゃ、あの発言になるはずだよな…」ってのが如実に表れています。


よく「質問力」みたいなものが取り沙汰されますが、あれは単に理解力と同じだと思います。理解力というのは相手の言うことを自分の中に構成する能力です。自分の中でその構成したものを色々な角度から眺めて、穴があいて補修が必要な場所について確認すると、それが質問になります。


しかし議論の場で議論を追えてない人がたくさんいるというのは、実感としてないでもなかったのですが、こうして議事録を見て目の当たりにすると結構インパクトがあります。全員に議事録を書かせて確認したいぐらいです。


少なくとも議論に関する能力は、同じ会議に出席していても、別世界が見えていると言える位の差が発生していると感じます。