マリオワールドのカバーアルバムで最高に面白かったxocが,
カービーのカバーアルバム出したらしい.

アルバムといっても,もちろんフリーダウンロード.

ちょっと聴いたが,こりゃマジ最高だな.この水準,なにより遊び心.





ニフティ、動画にコメントを付けられる「ニフニフ動画β版」


おい(笑).




「一日が36時間だったらどんなにいいだろう」

というセリフに関して,「じゃあいじめられてる人は一日が12時間ぐらいだといいのかなあ」
とか考える私はちょっと黒いかもしれない.

うん,大して変わらないだろ(笑).




「制約があった方が創造的なことはしやすい」と前々から思っているのだが,
それとは別の方向から,似たような話.

iwatam氏のゲームとは何かを読んで.


このコラムの中で一番興味深かったのは,4.2. 宝探しである.

ゲームとは「勝負」でなければならない.
しかし,もしゲームを作る人とプレイヤーが対決するとしたら,
作る側がクリア不可能なゲームを作ればいい.

結果,ゲームを作る側は「手加減」をするしかない.
しかし,感覚的にも分かると思うが,勝負している相手の「手加減」というものは,
気づいたときにムカつくものであるはずだ.

本質的には,相手が本気で勝負してきていることが望ましい.
しかし,少なくとも,手加減しているのを分からないように勝たせてあげている,
ぐらいには見せて欲しいものだ.


バテンカイトスというゲームは,レベルアップするかどうかをプレイヤーに委ねていた.
しかし,ゲームをクリアするという目的において,
レベルアップをしないという選択肢を選ぶ理由は全くなかった.
「ハンデをつけないと勝負にならないから」それを選んでいた.
それは個々の戦闘というゲームに対しては正しい楽しみ方と言えるが,
そのゲームをクリアするという大目標からすると,プレイヤーの「手加減」であり,
はっきり言ってそれはゲームではなかった.





さて,創造的なことと「手加減」について.

ファミコンが,3音だけだから名曲がたくさん生まれた,という背景には,
制約があるからこそ,その中で本気で頑張っていたからではないか.

何故そう思うのかと言うと,私がピアノで曲を作ろうとしたとき,
ピアノというのは私には広大すぎて,どうにも本気を出すことができないからだ.

少なくとも自分の手の動きに余裕がある状態で,改善の余地がないと言い切れるか?
弾きやすさを考えていて,本当に曲が良くなることを追求しているのか?

弾きにくい方がいいと言っているわけでも,音が多くなければいけないと言っているわけでもないのだが,
追求すべきところをしないで終わりとしていいものだろうか.
しかし,区切りをつけないで曲ができるのかと言うと….
このぐらいでいいやと思わなければ曲が完成しないのだ.少なくとも,私は.



まあ,いいや.
言いたいことは,人が感動するのは「本気」であるかどうかということに尽きるのではないかということ.

そういう意味で,自分が本気を出せる対象と対峙するよう心がけないといけない.
コンピュータ以外のゲームでは,そんなことは当たり前だ.

練習のし過ぎが,曲への愛情を奪うようではマズイ.
「達人とは、"永遠の初心者" のことである」とはよく言ったものだ.






mixiで,かなり上手い事言ったつもりだったのに反響無くて寂しかったので,
しょうがないからマジレスしといた.