風邪

うん,なんか気持ちが優れないのかと思っていたが, 単なる風邪だこれは. まあしっかり寝て幾分ましになった. でも今日はさっさと休もう.

ジョック - Wikipedia

これ読んで思うのは,日本の方がアメリカより個性が尊重されてるんじゃないか? ということかな.

フリーソフト

フリー限定「感動した!」ってやつ, ……はて,類似スレが最近もう一個あったはずなのだが見つからない.

手を触れずに弾くピアノ「AirPiano」(動画)

なるほど,オクターブ違いは高さで表現するのか.

ところで面白いけど実用性はないよなこれ. ポテチ食った後でも問題なく弾けるぐらいか.

「落書き女子大生の謝罪に感銘。落書き跡に銘板で学校名を残したい」 フィレンツェの大聖堂が申し出

これはまあ良かったのではないか. しかし「これをそのまま賞賛しすぎると,わざとそういうことする奴も出てくるかもしれないから」, という理由でプレートつけるとかは断ったら,もう終わりでいいんじゃないだろうか.

別にイタリア側も晒し者にしようとかそういう意図は無いと思うぞ. 単純に,謝りに来る事例がほとんど無かったから感心したってのだと思う.

謝って済む事は謝って済ます,というのは気持ち良いではないか.

謝って済む問題

私が大学に入ってから何度か他人に激怒したのは,ほとんどのケースが, 「謝って済む問題なのに謝らなくていいように嘘をついた」時だ. 非難されるべきは「悪意」であって「間違い」ではない.そして「嘘」は悪意なのだ. また,これはなかなか場合分けが難しいが, 責任ある立場においては,「何もしない」が悪意になることもあるのだ.

でもそういうケースを体験して思うのは, 「この人は謝っても許してもらえなかった過去があるのかな…」ということだ. 謝ることが間違いによって落とした信用を回復する最良の手段だと思えない環境で生きてきたら, 謝らずに間違い自体を無かった事にしようとする気持ちもうなずける.

相手を信じるということは,相手がミスをしないと信じることとは違う. 相手に悪意が無いと信じるということなのだ. 相手を信じれば信じるほど裏切られる回数も上がるが, 信じてもらえる回数も上がっていく.

裏切られる事に耐えられない人は人を信じずに生きていくといい. 私は,せっかく強固な心を持って生まれてきたので, 私が信じれば相手が嘘をつかないで済んだ可能性を,捨てずに生きていたい. 人に信じてもらえていない人は人を信じることが出来なくなる, というのは概ね当たっているとは思うが, ならば無条件で信じることを始める人が必要なのだ.

musicBottles

参考文献探してたら.

サビ検出プレイヤーSmartMusicKIOSKとかいうのも. こっちのがすげえか.

ゲド戦記

夕方遭遇したnewbold宅で食事をご馳走になった後、 まったく知らなかったのだけどゲド戦記がテレビでやるというので見た。

期待通り過ぎて終始ニヤニヤが止まらなかった(笑)。 あのね、私は「むちゃぶり」とかのすべりまくり系のギャグが大好きなのですよ。 ちなみにとなりでnewboldは寝てた(笑)。 とにかく非常にだれた進行。そして声が聞き取りづらい(ハウルもだが)。 あと、人物絵がまんまナウシカ

しかし正直いって、何の才能も無いはずの人が 突然監督をやることになって突然仕上げた一作目としては、 良くできてると言えなくもない…という意見に賛同したい気もする。 後で参考サイトのリンク貼っておきます。

私はハウルよりは好きかもしれない。 作者のゆがんだ精神を押し付けるアレに比べれば、 ゲドの扱っているテーマはありふれてはいるし、 全く心に迫って来ないとは言え、おかしくは無いと思う。 セリフは激寒だが、ムカつきはしないし。

ところでこれって原著を元にしてるんでしょうか? (あ、してないみたいだな) 名作と誉れ高い原著において、こんなプロットがあるわけねえわな…。 以下あんまりもともと内容が無いので困らないかもしれませんが、 ネタバレ気味に書くので白文字にしておきます。

初めて着いた町で二度も危険な目に会った人が、 疲れたからといって外で寝る……馬鹿すぎだろ。

アレンを拒絶するテルー→テルーが歌うのをアレンが聴く→ 仲良しに……なんで?逆なら分かるが…。

魔法の剣に魔法の剣らしさが皆無。

人と竜の関係が良く分からないので、 最後の変身が何を意味するのか分からない。

…ほら、ハウルの時より突っ込みが少ない(笑)!

ゲド戦記 (映画) - Wikipedia -より。

2005年6月に鈴木と吾朗は原作者との打ち合わせのため渡米の予定をしていたところ、駿は「監督がスタジオを離れるな!」と一喝した。「じゃあ宮さん(宮崎)が来てくださいよ」と鈴木に促され、仕方なく駿と鈴木が渡米する事となった。原作者との会見の場で駿は、スクリプトについては責任を持つということでル=グィンの了承を得た。なお、その際に上記『竜とアレンが向き合う絵』をル=グィンに見せたが、駿は「これは間違っていますよね」と吾朗の解釈について批判した。そして、自分が昔書いた「ゲド戦記」などのスケッチを見せて、自分が原作のファンだったことをアピールした。このことについて鈴木は「はじめて宮さんを殴りたくなった」と話している。

松浦晋也のL/D 「ゲド戦記」を観る

ゲド戦記」は、宮崎吾朗監督が、自らと父との葛藤を投影したプライベートフィルムだ。しかも、一般的な父子像に昇華し切っていない、金のかかった生煮えプライベートフィルム。  その意味では、せいぜい100人ぐらいの劇場単館でかけるべき内容といえる。「生煮えなところもまた、味わい深くて面白い」と観賞するような、美食が過ぎてゲテモノ食いに走ったような客向けの作品なのである。

あまりにも可哀想なので原作を読んでみようかなと思うような映画でした。 そして崖の上のポニョある意味見たくなってきました。

あーあと、テルーの唄なんだが…。おっかしいなあ。 カラオケで友人が歌ってたのは結構好きだったんだけど…。 歌の内容があの場面に合っていないと思うのだが、どうか。 なんというか、そこまでのテルーに、 あれだけの歌詞や曲が作れるほどの文化レベルを感じない というのが一番の違和感だったと思います。 誰かに教わったとかいう話も出てこないし。

そうそう、ラストの「終。」がセンスありすぎ(笑)。 なんだあの神がかり的なタイミングは(笑)。