正義に迎合する事の恐れ

例えばタバコって今どこかしこで嫌われてて,どんどん排斥していこうという流れになってるのですけど,そういう流れになっているからこそ「それを盾に人を排斥しようとしていないか」ということを気にしてしまうような気がするのです.特にタバコに関しては,もう悪と決定的に言われているのだけど,だからこそあえてやっている人を非難しにくいという気持ちを持つのですよね.


自分がタバコを吸わない,あるいは嫌いであることを人にどう説明するか,と思うんですけど,私の場合は「肺の病があって」とか言ってもいいんですけど(笑)(いや,事実なんで,できればほんとに止めて欲しいんですけど),なんとなく「フツーの頭してればタバコなんてやらんだろ」とは言いにくいのですよ.「麻薬と一緒だろ」とは言えない.


例えば大学に入って20歳になるまでにお酒を勧められた時って,喜んで飲む人もいたけど,法律を破る事に抵抗があった人って,何かしらの言い訳,正しい側なのに言い訳を考えたりしませんか?


もっとくだらない話にすると,一人暮らしをしている人が「いただきます」とか言うか?という話で,「もちろん言うよ,感謝の気持ちを忘れないようにしたいから」と言いにくい雰囲気ってありませんか?


まあ争いを避けていると言ったらそれまでかもしれませんが,そこで争わないのがほんとにいいかも分からないという事もあると思うのですけど.こういう事言うと「そんなことにエネルギーを割きたくない」って言う人がいるんですよね.愛の足らない奴らだと思うけど.自分も足らないけど.


よく言えば,正義に迎合するだけで思考停止していないか自分を疑い続けているとも言えるのですけど,はっきり言ってもう私は言い訳する事に労力を使いたくないし,そんなことを疑っているうちに解決できた事を放置して後悔するのも嫌なのですよ.



それとは別の話で,タバコは軽度の「自傷行為」であるという説は私はなんとなく分かるような気がするのですよねえ.