内面の表出とストレス

凄く当たり前というかそんなことみんな知ってるよってことのような気もするのですが、一応自分で言語化したことが無かった気がするので書いてみます。


「酒を飲まないと本音が言えない」と言うように、お酒というのはリミッターを外す効果があるように言われます。私はこの,普段は本来の自分の姿をすべてさらけだしてはいけないと思ってセーブしてる,という考え方をまず支持します.


私は飲み会とかでキャラが変わったりすることはまずありません。そして酒を飲もうが飲むまいが,本音を言ってるほうだと思います.私はよく自制心の強い人だと思われるようですが,自分では内なる声に忠実だと思っています.そして,私はその日の機嫌というような,波が非常に少ない方だとよく言われるし,自分でもそう思っています.


自分の実感としては,私は物凄くストレスを感じる事が少ないです.また,私はよく個性的だといわれます.


以上のような実感から仮説を立ててみました.

  • 人は,自分が考える常識の範囲に絞って自分を表出して人と接している
  • 自分の内面と,表出できる分の差の大きさをストレスとして感じる

そう考えると

  • 私は内面そのままの状態がかなり普通であるが,他の人より「自分の考える常識の範囲」が緩いので,周りには特別に見えがち
  • 逆に他の人はもっと内面そのままは常識の範囲を逸脱しているが,私よりは常識の範囲を狭く見積もっているので,普通に見えがち

となります.そして

  • 私はほとんど自分を押さえつけていないのでストレスが少ない,何かの拍子で弾け飛ぶ事も少なければ,弾け飛んだとしても大して変わらない
  • 普段自分を押さえつけている人ほど,たまの反動が大きい

ということになりそうです.


さてここで,よく言われているような「人との接し方」が何に当たるかを考えてみると,ほとんどは「常識の範囲の見積もり方」だと思うわけです.それはそれで大事なのですが,私は「内面をまともにすれば万事解決じゃね?」と,いつも言っていたわけですね.


つまり結論としては、私は根っからの常識人であり善人であるということです。いやあ、本音を言うと気分が良いですね。

補足とか

内面と常識の範囲を決めることの境界をどのように考えたらよいか,ということですが,簡単に言うと「そうすべきだと納得してやる」と「仕方が無いと思ってやる」の違いです.


周りの環境によっては,「そうすべきだと納得してやる」ことが残酷な事もありえます.でもそれでストレスが減るのは事実だと思います.なので,上で言っていた「常識」というのは,「属している社会に適応した考え方」だと思ってください.もちろん、環境を変えるという選択肢もあることを忘れないように。