教育のせいにできるのかな

「親がこうだったから自分もこうなってしまった」「学校教育がこうだったから自分はこうなってしまった」っていうの,まあそれ自体が事実かと言ったら事実な事も多いだろうとは思うのだけど,じゃあ同じ教育受けてたらお前も私と同じだけの品位が得られたのか?というと全然そんなことねえだろってなりますよね.


親が甘やかしてくるから,「いつまでも甘えてたらダメになる」と思った人と,「甘やかしてくれるなら甘えておこう」と思った人がいたとして,子供が「甘やかすから悪いんだ」とか言うようなもので.


教育した人が人格者だったかどうかで,被教育側の品位が優位に変わるんだろうか.あんま変わらないんじゃないかとか思う.


私は例えば運動に関してはずっとコンプレックスを持っていたし,できなくて恥ずかしいなーみたいな局面はたくさんあったけど…別にそれを誰かのせいだと思ったことはないけどな.先生を恨んだりとかよく分からん.軽蔑ならよくしてたけど.

弱者認定のジレンマ

自分の事じゃなくて,第三者の教育について論ずるときにいつも困るのは,「自分は苦境でもそれを糧として頑張れた」っていう体験を一般化して良いものかという事.似たような話は,「上司にこんなひどいこと言われた」「嫌ですって言ったらいいじゃん」「言えるわけないじゃん!」みたいなやりとりで多々感じる事なのだけど.


「強者の論理」を振りかざすのは,他人を弱者だと思っていないからこそなのである.他の人も自分と同じように,苦難を乗り越えられると思っている.自分が乗り越えてるのに,「みんなは乗り越えられないだろうから効果はあっても厳しくするべきではない」と言うのは,うぬぼれてやせんか?と思ってしまう.


でも多くの人が,「自分はあなたと違って弱者なので厳しくしないでください」に当たる主張をしてくるのである.そのくせコンプレックスの塊だったりする.あれは本当に,どうしたらいいのかと思う.