メッセージは科学的に正しくないからこそメッセージになる

(この文章は自分的には論理の展開がおかしい気がしているんだけど、見直してそのうち仕上げたいなので、公開しといた方が自分でも確認しやすいので公開しておく)

(この文章の趣旨的には、「メッセージ」は「科学」と一緒で、情報量を増やすものなので、それを反するものだと書いているのがおかしいのかな)



科学とは何かを語るうえで重要な指標として「反証可能性」というものがある。「科学とは何か」なんてことに皆が興味が有るのか無いのか分からないが、これが分かっていると日常でも役に立つと思うので紹介する。これは情報量と関係のある概念だ。


「無駄を無くせ」なんてことを言う人がよく居る。しかし、無駄という言葉はそもそも「要らないもの」という意味を含んでいるわけで、無駄を無くした方が良いのは当たり前である。だからその言葉には情報量がない。それに対して、「何が無駄なのか」を挙げることには情報量がある。そして、特定のものを「無駄だ」と指摘すると「いやそれはあんたは無駄だというかもしれないけど、私にとっては無駄じゃないんだ」と反論することが出来る。例えば「ゲームは時間の無駄」などと言えば多数の反論が来るであろう。反論の余地がない話は確かに正しいが、言っても意味がない。


「この世には二通りの○○がいる」という語り口がある。ここで例えば「世の中には二通りの男がいる。結婚していない男と、結婚している男だ」などと言ったとすると、この文章は「結婚」のところに何を入れても正しい。文の構造自体がそうなっているのだ。こういう文の事を「トートロジー(恒真)」な文という。これに対して、例えば「世の中には二通りの男がいる。結婚していない男と、結婚を後悔している男だ」という文だとすると、これはおそらく正しくはないが、言った人が「男は結婚をすると後悔する」というメッセージを出していることは分かる。もしそれが正しければ新しい事を言えていることにはなる。そこに情報があるわけである。


嵐の大野氏は、やる気を出さないメンバーに向かって「目の前の事を頑張れない奴が何を頑張れるんだ!」と言ったそうである。かっこいい言葉だと思う。しかしそれはメッセージであって、正しくはないな、と思うのである。ブラック企業の社長のような、目の前のことに人を縛りつけて不満を言わせない目的の人も同じことを言うであろう。だからこの言葉はシチュエーション限定でしか(文脈依存にしか)正しくないのである。


今私は「こういう場合は正しくない」と、大野氏の意見を否定して見せた。ある命題を否定する論証をすることを「反証」という。反証とは、事例を挙げるなりして「その説は間違っています」と言うことだ。であるから、反証可能性があるということは「どのような事例が示されれば、あなたの説は間違っていることになりますか?」という質問に答えられるということだ。そして、科学には、この反証可能性がなくてはならない(という考えの学者が多数派である)。科学の法則はすべてが仮説であり、いつか否定されるかもしれないが、今のところ正しそう、というものなのだ。科学は「絶対に正しい」とは「絶対に言うことが出来ない」。それは弱々しいと思うかもしれないが、その謙虚さが科学を他と区別しているのである。だから「絶対に正しい」などと言う科学者は信用してはいけない。


しかし、例えば医者が患者に「私の病気は治りますか?」と聞かれて、「絶対に治るとは言えない」と返答するのは、科学的には正しいのだろうが、果たして医療として正しいのだろうか?あるいは、大野氏が言うようなかっこいいセリフは馬鹿な意見なのだろうか?きっと、相手に言いたいことが伝わったのなら、そのシチュエーションでは科学とは別の意味で、メッセージとして正しかったのだと思う。逆に言えば、メッセージとは、正しいとは限らないことを正しいと言い張る事なのだと思う。


書いていて思うが、こんなまどろっこしい話を、学者以外の誰がするというのだ。おおよそ世の中のかっこいい事は、科学的に正しくない事の中にあるんじゃないだろうか。