自由の制限

人は、自分が幸せになる方法を、きちんと選べるだろうか。

 

今の日本は、昔に比べると「結婚しない人」に優しくなったのではないかと思う。以前はもっと結婚しない人に圧力がかかっていた。今でも圧力はかかっているとは思うが、概ね減少傾向と言えると思う。これを「偏見がなくなって社会が良くなった」と単純に言えるだろうか。

 

我々の社会の仕組みは概ね、働かない人の社会保障を、働いている人によって支えるようになっている。仕組みとして、子供が減ると、少ない若者でたくさんの高齢者の面倒を見なくてはならない。ある程度人口がピラミッド型に近くないと、どんどん若者が苦しくなってしまう。これが今起きている事である。この仕組みでは、子供を産んで、さらに育てて労働者にまで持っていく事が推奨されている。結婚して子供を産んだ人は、それを育てきるまで、自分の事は出来ず、子供を必死に面倒を見て、またお金を捻出するため働き続けなければならない。結婚しなかったものは、自分の事をする時間が取れるし、働きも自分が生きていけるだけで良い。こういう現実が見えていて、人は結婚したいものだろうか。

 

そう考えると、皆が「結婚しない奴は人としてどうか」などという圧力をかける事には、実は意味がある。結婚して子供を産んでいない人は、社会への貢献度が低い事になるからだ。

 

もっと突き詰めて考えてみると、離婚をしないように圧力をかけることにも意味がある。子供を育てるという責任を簡単に放棄されては困るからだ。同性愛に嫌悪を示すのもそうだ。同性愛という愛の形はともかく、同性同士では子供を産めないのだから、子供を産むという貢献をすることができない。それを無条件に認めて良いのかという理屈が成り立つ。

 

もちろん、それを「偏見や周囲からの圧力」という形で実現しているのが正当なあり方だと言っている訳ではない。結婚した人への優遇策や、同じ事だが結婚しない人が損する制度を作って、その中で自由に選ぶ分には誰にも文句は言わせない、というようなやり方もできるはずだ。それでも不公平と言うかもしれないが、そうでないなら、子供を作って高齢者を支えなくてはならないという仕組み全体を見直さなければならないだろう。

 


 

話は変わって、就職活動についてだ。以前、なぜ就職活動がこれほど厳しくなってしまったのかについて触れた。その話をもう一度簡単にまとめてみる。

  1. リクルートなどの会社が多くのエントリーを出すよう煽る
  2. 皆が多くの会社にエントリーを出す
  3. 合計の採用数は変わらないのに、「落ちた」回数だけが膨れ上がる→つらい
  4. 採用する企業側も、応募の数が多過ぎるので、個々の応募者をじっくり見る事が出来ない
  5. 採用側は(リクルートの子会社が運営する)SPIなどの統一テストに頼る

 

リクルートの悪口は今回の本題ではないので、今回の話題に関係する部分を抜き出す。

  • a.皆が、より良い会社に就職しようと思って、多くの会社にエントリーを出す
  • b.すべての会社の倍率が上がり、皆が苦しむ

 

以上のようになる。さて、ここで「じゃあ多くの応募を出すのがいけないんだな」と思って、多くの応募を出さなかった人はどうなるかというと、恐らく多くの応募を出した人より望みの会社に入れる確率は下がるだろう。自分は損してもいいと達観している人がたくさん居れば良いが、なかなかそうはならないだろう。だからこれはみんなで足並みをそろえないと上手くいかない。とすると、これは個人の心がけでは実現できないので、なんらかの制度による制限をすることになる。

 

自分が最良の結果になる事を追求すると、皆が苦しむ。その皆には自分も含まれるので、自分が最良の結果にならないにしても、制限を受け入れた方が自分も楽になる可能性がある。しかし、では例えば「受けられるのは一人5社まで」などという仕組みに皆が納得するであろうか。どちらかというと、最近の社会は、こういう制限を取っ払い、自由化するのが良いとされて来ていると思う。

 

ここが今回の本題である。我々は、いつも自由化を望み、皆を幸せにするための制限に納得する事が出来ない。そして自分が望んだ自由によって苦しんでしまう。我々はこのことに無頓着なのではないだろうか。

 

野球のドラフト制度で高校生が自由に球団を選べないのはなぜか。高校受験をする時に先生が受かりそうな高校を受ける事を強制できなくなったのはなぜか。お見合いがなくなって恋愛結婚をするようになった結果どうなったか。詳しくは書かないが、どれも共通の問題だと思う。

 

私自身の思い出を振り返ってみると、高校受験の時に、あまり行く気の無い私立高校を滑り止めで受けて受かったのだが、それに受からなかった友人と話してとても悲しい気持ちになり、なぜ自分は行く気のない高校を受けてしまったのだろうと思った。その時の体験を引きずって、大学受験の時には滑り止めは一切受けなかった。ただ、それも上手く行ったから良かったようなもので、正しい判断だったかは私の預かり知らないところにあると思っている。

 


 

もちろん、全体の利益のために個人がいくら不利益を被って良いわけではない。個人を守るために人権という考えが生まれた。しかし、どうも我々はこの人権を万能のように思い過ぎなのではないだろうか?社会は社会全体の利益のために動いているのであって、そのために個人の権利を守った方が良いとなれば守るだけである。それを、無限に自分の好みの世界を提供してくれるもののように思っている人が多くないだろうか。

 

例を挙げると、生活保護があるのは、本当に困窮した人達はどんな犯罪をしてもおかしくない人達だからだ。その人達を守る事が、そういう犯罪を減らして、それが社会全体の利益になると思うから支給されるのである。支給される人のためだけにやっている訳ではないのである。

 


 

自分の自由を制限しているものは、多くの場合、皆が馬鹿だからあるわけではない。少なくとも制限されている人以外を守るためにあり、またそれは実は自分をも守っているものかもしれない。この事を頭の隅に入れておいた方が良い。

 

ただし、自分が不利益を被っていると主張してはいけないということではない。どんどん主張するべきだ。ただし、その分だけ、相手側の言い分を聞くべきだ。私が感じる問題は、そういう主張の際に相手を馬鹿だと決めつけている人が多い事である。相手を馬鹿だと言うことは、このケースにおいては、自分の利益を増やして他者の利益を減らすことに異論の挟む余地がないと言っていることになる。そんな態度をとってばかりいたら、まともな人が離れていくのは当然である。また、そういう自分勝手な人の話をまともな人が聞いてあげることは世のためにもその人のためにもならない。

 

「この偏見や圧力に意味がある」というのも、意味があるからそれでよいと言っているわけではない。しかし、偏見や圧力がなくなったら解決するわけではない問題について、偏見や圧力を用いないで済む正当な仕組みを用意せずに、それが解消されると考えるのは現実的ではないと考えている。

 


 

「多くの人は自分の幸せを自分では上手く選べない」という考えを突き詰めていくと、「賢い他者に管理された方が良い」とか「コンピュータが決める最適解に従う方が良い」という考えが出てきてしまう。こういう考えは、フィクションなどを見ても、常に否定されてきた*1。また、そう言われたら「馬鹿にするな」「お前が俺より賢いってどう決めるんだ」と言いたくなる話だとは思う。

 

しかし、本当にこれらが悪い考えなのか、私にはよく分からなくなっているし、実は自覚がないだけで今でも十分管理されているのではないか、とも思うのである。

*1:2015年7月29日追記:これは私の見識が無さ過ぎただけで、ロボット(人工知能)についての一番有名と言っても良い小説である「我はロボット」はこれとは真逆の結論を出していました。お恥ずかしい限りです。ただ、私がそう思うぐらい、その思想が理解されず、他のフィクションにも影響を及ぼせていないことの証左にはなるのかもしれません