スゲー学校が楽しみ。非日常すぎるで。



私はちゃんとやってるところを褒めて、ちゃんとしてないところを叱ったと思う。

逆に言うと、ちゃんとしてるのに無反応だったり、
ちゃんとしてないのに優しい言葉をかけたりとかはしてないと思う。


責任者と新旧会計で来いって言ってたのに、新旧会計しか来なかったサークルがいて、
責任者に聞く運営の話はなくてもよかったけど(大体知ってるから)、やはり再面接にした。

負担が増えるのは分かっている。もちろん私の負担も増える。
そんなの、「ま、おおめに見ときますか」と言いたいに決まっている。

しかも、「話聞かないからこんなに迷惑かかるんだよ」と言いたい訳ですらない。

会計に不備があったら、それを監視していなかった責任者も怒られるべきなのに、
責任者がいなかったら会計だけが怒られる格好になってしまうことを心配したからだ。
責任者に「会計にも興味をもってあげてください」ということもできないし。


目の前の優しさが結果として、あるいは合計としての優しさになるか、という判断は難しい。


施設を使えていないサークルに施設を提供したいと思ったとき、
いくら今使ってるサークルの現状を悪化させたくないと思っても、
全体として、合計として考えると、「ゼロのサークルがいる」という状況では、
サークル一つ一つの平等性が説明できない。


そういう視点で考えるようにしていない人は多い。
八方美人とかいうんだな。


ではピアノとか、芸術のことで考えてみてはどうか。

簡単に言うと、「あんたは知り合いの演奏をけなせるか?」ってことだ。


感想に、褒めることしか書かない。全員に対して褒めることしかしない。
そんなことで芸術なんてやってられるのだろうか。


頑張っていい演奏が出来た人には対価として褒めて、
練習不足でつまらない演奏をした人をけなして、なにが悪いのだろうか。
頑張っている人と頑張っていない人に同じ評価を与えてはいけない。

なぜなら、頑張った人と頑張っていない人の納得度の合計が一番高くなるように
評価をするのが、「合計としての優しさ」だからだ。


幸いな事にピアノという楽器は、頑張りと結果がほぼ完璧に比例する。
(もちろん一定以上のレベルになると才能もいるのだろうが)
なので、頑張ったのに下手とか頑張っていないのに上手な事例を気にする必要がない。


当たり前だが、わざわざ演奏会に行ってけなしたい人なんているわけがない。
観客は、感動したくて来ている。拍手したくて来ている。
コンサートとして当たり前のことをすれば、拍手は来るはずなのだ。
その当たり前のことができていない場合の罪は重い。


ほんとうに芸術を愛する心があるなら、けなせるはずだ。