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patiに同行してもらって、ズボンを買う。
いい加減買わな過ぎていたので…。
その後いったん家に帰り、大学に行こうかと思ったが、
雨降りそうだったので家で勉強すればいいやと思いつつ家で何もしてない。
やっぱ外出ないとだめだ。
明日はちゃんと研究室もピアノ部屋も行こう…。
ボランティアは偽善かみたいなことをよく考えるんだけれども。
例えば、不幸な境遇で生まれてきた人を、かわいそうだと思うべきかみたいな。
同じ人間として生まれてきて生きるしんどさが違っちゃいけないのかなあ。
人間同士という意味で種として仲間ではあるわけだけど、当然競争相手でもあるわけで。
わざわざ「差」を作るために自分の上の世代の人は頑張ったわけで。
アフリカの難民を救うことが本当にすべきことか?とか考えてしまう。
それに、募金とかしてちゃんと届く気が全然しないんだけど。
まあ一番最悪なのはホワイトバ(以下略
自分のするすべての行為は自分のためである、ともう断言しよう。
人を助けるのも、人を助けた充足を得たいとか、助けた人からの評価が上がるからとか、
自分に利する所があるから、と考えよう。
自分の周りの人を幸せにすることを全力ですれば、
周りの人が自分を幸せにしてくれるだろう。
別に具体的に何かをくれるようになるとか、そういう話ではないけど、
自分をよく思ってくれる人が周りにいる以上に求めるものなんてあるかね?
…なんか話が危険な方向になってきた気がするが、言いたかったことは、
ボランティアするより身近な人を幸せにし尽くしすのが先じゃないの?
少なくとも私の行動基準からするとそうなるんだが。
自分が普段顔合わせる人を幸せにした方が効率よくない?
「心的距離×相手の喜び」が最大になるように考えてるのかな(笑)?
まあ周りがもうどうしようもないぐらい幸せだってんなら分かるんだけど、
私の周りには悩んでる人多いんだよね。
大学生なんてそんなものなのかもしれないけど。
一番多いのが「自分の価値」がどうとかいう話で…。
「そんなもん私と喋ってくれるだけでものすごい価値だよ」と、
「私」を強調して(笑)言ってやりたいんだが。
それは半分(笑)冗談として、同じ距離で会話してる友人がいるのに、
死にたいとか言うのは「目の前の相手が死んでもなんとも思わない」と言ってるようなものでは?
失礼じゃないかそれ?
…また話が行き過ぎているな。最初の話に戻ろう。
世間の言う偽善は、他人のためと言いつつ自分のためにやること、かもしれんが、
私の考える偽善は、何が自分に利するか考えず他人のためと思ってすること、
というような感じになるのかな。
そもそも自分以外の心の中は覗けないんだから、他人のためかどうかなんて分からない。
分かるのは、その人の行動基準に筋が通っているかどうかということだな。
猫がまた部屋に来た。
電子ピアノの鍵盤に乗せてみた。最初は忍び足で音を出さなかった(笑)。
特に興味を持つ様子も見られませんでした。
つーか子猫だけど既に鍵盤で遊ぶにはでかいよ。