最近の進歩.


研究棟の自動ドアに手を出しながら(振りながら)近づくことによって,
歩く速度を落とさず自動ドアが通れるようになった.

自動ドアが開くのを待つのも嫌だし,自分の歩く速さを下げるのも嫌,というのが,
いかにも私らしいな,と自分で思う.


自転車で道路を横断する時に,車とのタイミング調整法として,
止まって欲しい時は運転者をガン見するという技能の他に,
先に行って欲しい時は,かなり手前で止まってわざとそっぽを向く,
というのが意識的にできるようになった.
これは手を出して「どうぞどうぞ」とやるよりもはるかに早く,効果的である.
それになにより,「譲ってやった感」を相手に感じさせないのがいい.

これを使うたびに「魚住の隠れた好プレイ」という言葉がよぎる.



次の目標は,「いや,そういうのいいから」をとっさに使えるようになることかな.



なんか風来のシレンをプレイするような人生だなあ.




宗教見解(ファトワ)「母乳を5口飲みなさい」にエジプト国内は大混乱?

ルールベースの思考の愚かしさ,というかここまでくるとわざとルールベースの
振りをしてるんじゃないかって気がするな.




宝くじが当たったという嘘を数人で協力して吹聴して,クズ人間を選別するってのはいいかもね!




ジョージウインストンの楽譜が正式に発売

私は買わないけど.






パガニーニによる超絶技巧練習曲集第3番 変イ短調 ラ・カンパネラのMIDI

を掲載しているサイト発見!

シャア専用ラ・カンパネラ

ワラタ.


フジ子・ヘミングについて

聴いた事無いから知らんが,出力される音楽がすべてだろう.
彼女の人生がいかに苦難に満ちていたとか,そんなことはどうでもいいのだ.
楽譜に忠実じゃなくてもいいけど,その方が説得力があれば,って話です.

……ってそれじゃ昨日のMaksimと反対のこと言ってるって?
そういう要素が,音楽を肯定する理由にはならない,という話をしている.
売るための戦略は推奨しても良いが,音楽家としての音楽の見方を失ってはいけない.







フジ子・ヘミングの名言として知られる,

>「間違ったっていいじゃない、機械じゃないんだから」

についてちょっと思うところを.

まず,フジ子・ヘミングには別に不満を持ってないことを述べておく.
もし不当に良い評価を受けているのだとしても,それは評価するものの問題であり,
評価される方は評価されたくてやってるんだから責められる筋合いは無い.



この言葉は,「演奏にミスタッチがあってもいいじゃない」って意味ですよね.
そりゃ,あってもいいですよ.でも,無い方がいいよね?

まあ「間違えるぐらいの方が人間味があっていい」とか言う人もいるかもしれませんが.
(そうかだから君達はそんなに間違えるんだなあわざとやってたのか)


で,まあ冗談はさておき,もちろんこれは,
「もっと大事なことがあるでしょ」という意味…ですよね?
「機械にできなくて人間にできることを追求しよう」という意味…ですよね?


例えば,試験で,筆記試験と面接があり,面接は人間性を見るものだと仮定して.
ここで言う「間違ったっていいじゃない、機械じゃないんだから」とは,
「筆記試験で間違ったっていいじゃない.人間性で勝てるなら」という意味でしょう.



というわけで,この発言はフジ子・ヘミングさんが事実ミスタッチが多いらしいことからして,
「ミスタッチが少しぐらい多くたって,表現力が私ぐらいあれば気にならないでしょ」
という高慢な宣言なんだが.

いや,高慢なのは私は好きですが,君達は嫌いなんじゃなかったっけ?




で.

こんな開き直りの発言より,ちゃんと指の回るピアニストが
「大事なのは技術ではなく,何を表現するかということだ」と言うという,
普通の話の方が私は聞く気になるんだが,どうしてこれはそんなに名言扱いされているのでしょう?

まあ実際演奏聴いてないんで,ちゃんと指の回るピアニストよりはっきり
その「表現」が素晴らしいのかもしれませんが….





んでまあ単純な推論から思いつく理由としては,
「自分が頑張らなくて済む言葉を名言としてありがたがる」人が,
「間違ってもいい」と聞いて喜んで飛びついたんじゃないかなあと.

人を馬鹿だという仮定を立ててしまうのを最近できる限りやめようとは思っているのだが,
まあ多分当たってるんじゃないかなーと思うんだけどどうかな.



そもそも人に「間違ってもいい」と言われないと間違っちゃいけないと思ってるのか?
人が間違うのは当たり前だが,だからこそ間違わないよう努力するのが尊いんじゃないか.

間違ってもいいよ.ただ,それで負けて文句言えるわけじゃないぞ.
さっきの試験の話じゃないけど,間違って試験落ちて,試験する側に,
「間違ってもいいだろ!なんで私が受からないのだ!」って主張するのはアホでしょ.



最近のmixiで犯罪あぶりだすとか,馬鹿が馬鹿やってるのはほっといた分自分が有益,
とかそういう話じゃないけど,私も,親しくない人には,

「間違う人って人間味があっていいよね」

とか言ってなぐさめて,社会的競争力を削いで,自分の利益を確保しようかと.







試験終わったしFラン大の実情を書いてく

研究がしたい,なんて,自分では当たり前のことと思ってたんだが,
そんなこと考えるのってものすごくとんでもないことなのかもしれないと思った.

インターネット見てると自分より賢い人なんてのはいくらでもいるしなあ.



それにしても,最後の334がいいわ.

ある大学でこんな授業があったという。
「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。
そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。
教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
学生は声を揃えて、「いや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、
いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」
「それは違う」と教授は言った。
「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、
大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」
君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。
それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり・自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。
もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、
君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう