幸せを願うのと,幸せの価値観を押し付けるのとは違うんだということがよく分かりました.

自分の定義で自分が幸せならよいではありませんか.






…という発想をする人をオタクと言います.





オタクの気持ち悪さというのは,社会一般の価値観に従わない人が居ることに対する不安です.
社会の価値観に従う人にとっては,それを叩かないと自分の地位が脅かされるので,攻撃対象になります.

…というと,オタク擁護をしてるみたいですが,それが普通だと思います.
迫害されることに脅えながらオタクをするなんてのは,覚悟が足りません.
同じオタクでも,私はそういう人はあまり支持しません.



かといって,社会の価値観から外れる程かっこいいとも思いません.
大切なのは自分にとって正しいかどうか,なわけで.




平成17年1月7日 もうオタクとつき合うしかない?

>たまに「オタクがオタクをやめる」という話も聞きますが、
>ちゆには「犬が犬をやめる」と同じくらい無理のある響きに聞こえます。



しかし誇り高いオタクってのは実はそんなにいなくて,
趣味が悪いだけの一般人が多いんじゃないかなあと思う今日この頃です.





昨日の信頼の話と似たような話になるが,
褒めるということとけなすということは同等ではないのだろうか?

任天堂好きの集まる掲示板で「嫌いなものって言わなくてもいいと思います」とか
言われたのが妙に印象深かったんだが.

雑誌のゲームレビューで,10点満点で評価するのに,5から10までしか使わないとしたら,
それを0から10で表現すれば,差を倍細かく表現できると前から思っていたのだが.

全部褒めようとすると,本当に褒めたいものに使うべき表現が分からなくなってしまう.



…と考えたところで思ったのが,逆に言えばものすごい語彙力があれば褒めっぱなしでも問題ないのではないだろうか.
要するに,なんでもかんでも「すごい!」とか言うのが馬鹿っぽいという話なのであり,
的確に差異を提示することができれば問題ないのかもしれない.


というわけで,語彙力のない人達は私に「けなすな」とか説教するの自重しろ(笑).



じゃあ褒め言葉の上限を拡張すれば,けなす言葉がもう少し少なくて済むのかな?

いや待て,「けなしてはいけない」ということ自体の是非を考えているのだった.