安全な所でするのが議論だ

自分の言っている事が「今現実に有事に対処している人に対し安全な後ろから石を投げる」行為であり、また話している事も「人類全てがこの思想を理解すれば世界は平和に」といった類の妄言と気づいてない模様。

こういう言い方をする人結構いるんだけど、これは何も悪くないことを悪い事のように言ってるだけだと思う。


前者の、

「今現実に有事に対処している人に対し安全な後ろから石を投げる」行為

は、つまり「感傷的にならず客観的な判断をしている(もしかしたら被害者の人への取材不足かもしれない)」ぐらいの話であり、別になんら責められる要素ではない。


後者の、

「人類全てがこの思想を理解すれば世界は平和に」

は、常にそう思える発言すべきで、なんの問題も無い。思慮が浅くてそれを指摘されたら、それを訂正すりゃいいだけ。世界の平和を願うのは善意だ。善意で発言するのの何が問題なのか。思慮が浅いと分かるなら内容を指摘すればいいだけ。


ところでこの堀江の文章は、私は趣旨がはっきりしないとは思う。ただ、上に上げてるような問題ではないと思う。

公の心

議論は公の心でするんだよ。何が公平か不公平か、自分の基準で照らし合わせて主張するの。そこに結論によって得する人と損する人がいたとしたら、議論を公正な目で行うのは難しくなる。当事者でありながら公の心を忘れない人は多くない。普通は当事者を議決に加えない方が有意義な結論が出せる。ただし、当事者の意見は当然聞くべきだ。これ以上ない重要な情報なんだから、でも当事者が議決に加わる事はいい結果を生まないことが多い。


「ある意見を聞いたら、こう思うはずだ」という決めつけがおかしい。意見はどこまでも聞くべきものだ(時間は有限なのでどこかでけりを付ける必要はあるが)。そして、自分の発言は、自分ならどう考えるかということを言えば良い。意見に納得したら賛同すればいいし、違うと思ったら違うと言えば良い。分からないなら分からないと言えば良い。