欠点を誇る

「人の名前覚えられないんですよねー」って言う人が多く居る。昔の自分もそうだった。そして思い返してみると、そんな自分をなんとなくかっこいいと思っていた。それを今は恥じている。


私はよく「理系的」と言われる。昔は自分でもそう思っていた。そして、理系である自分は、人とコミュニケーションを取れなくて良いと思っていた。でもその二つは、世間的に相関関係があるというだけで、同時に実現する事が不可能だという事ではなかった。


多くの人は、「何かが出来るようになると、何かが出来なくなる」と考えているが、それは誤りである。何かの能力が何かを妨げるという事はないし、もしそれがあると感じるなら、問題の切り分けが下手なのである。正確に言うならば、「トレードオフではない成長の方法を無限に考える事が出来る」だけなのだが。


ただし、人間のエネルギーや時間は有限であるというのも事実である。能力習得に時間や労力がかかるとすれば、何に重点を置くか、ということは当然選択しなければならないし、各自で既にしているはずだ。


「人の名前が覚えられない」と主張するのは、「人(しばしば、『あなた』のニュアンスで使われる)の名前を覚える事を大事だと思っていない」と伝えているのと同じである。非常に失礼なセリフなので、控える事をオススメする。


欠点を自分で申告する人は、どこか誇らしげだったりする。その行為で「その欠点の代わりに何かが優れている」事が説明できてると思っている。だが、欠点を潰してもその優れてる点を残す方法はほぼ間違いなく存在する(ただし、その方法を誰もが思いつけるとは限らない)。欠点は欠点でしかない。


「欠点があった方が魅力的」というのは、総合的に自分のレベルに釣り合う相手を探したいというだけの話である。