芸術と社会性

大学の「芸術系サークル」は何をすべきかと言うお話。(執筆中)


最近、あまスタや斬桐舞のような、「誰でもすぐ参加できる」「社会的な露出の多い」サークルが目立つようになってきた。そうでなくても、元々あったサークル同士にも結構そういう意識の差があった。そのようなサークルを


はっきり言って、私は「誰でもできる事」なんかに、ちっとも魅力を感じない。斬桐舞なんかは「ユニバーサルソーラン」なんていう標語を掲げているが、それはつまり誰でも出来る事しかやってないということだ。しかしそれは、「誰でもできる」と言う事が彼らにとっての売りなのであり、それによるメリットがあるはずなのだ。


私のやりたい事は自分にしかできない事に全力で「尖っていく」事であって、事実私はピアノ愛好会員として、そのように活動してきたと思う。


ピアノ愛好会は、そういう意味で、かなり「芸術的な」サークルだ。しかしそれゆえの弊害もある。「周りの人が凄過ぎて出演したくない」という人が続出するのである。私はそういう人を別段慰めたりしない。そういう人は、私の感覚からすれば、頭を使っていない。自分の才能という残酷な現実に向き合う勇気が足らない。その限られた才能の中で、披露するに値すると思う物を、自分で考えなくてはいけない。


私は「アマチュアは総合的にはプロに及ばなくても、ある一点においてはプロを越えていなくては意味が無い」というぐらいに思っている。それと同じように、初心者であっても、なんらか自分に出来る最大のパフォーマンスを考えて、他の人にまねできない事を追求すべきだ。「ナンバーワンになれないならば、せめてオンリーワンにならなくてはならない」のだ。



よく大学のサークルでは「自分たちの好きなようにやるべき」ということと「お客さんを意識するべき」という立場が対立する。お客さんの事を意識していないと「自己満足」と批判される。しかし、私の感覚としては、芸術なんてのは自己満足をするための物である。もちろんナルシストになりたいと言っているわけではない。


人に受ける物を作ろうというのは芸術的な態度ではない。ただただ、自分にとって良いと思う物に近づこうというのが芸術活動である。他人の創作物に触れるのは、その中の何に自分が良いと思うかを知るためであって、売れてる要素をそのまま借用するためではない(それが以前話題になった、インスパイアとパクリの違いだ。そしてそれは究極的には、他人が判別出来る事ではない)。


しかし、よくよく聞いていると、対立しているのは「ちゃんとやるかやらないか」という事だったりする。そんなのは、答えとしては「ちゃんとやる」に決まっているではないか。


大学のサークルというのは、その位置づけから、教育的な要素を含んでいる。大学にとってのサークルの位置づけは「課外教育」だ。「正課」に対する「課外」ということだ。


集団生活というものを通して、コミュニケーション能力などを鍛える場であって欲しいとか、








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