ゲームが面白いこととゲームとして面白いこと

あるゲームが面白かったとして、それがゲームとして面白いとは限らない。…というと、ちょっと分かりにくいので、前者を「エンターテイメントとして面白い」、後者を「ゲーム性が面白い」という言い方にしよう。テレビゲームに限らない話なんだが、ここではテレビゲームの話をする。


結論から言うと、世のテレビゲームはかなりゲーム性が低い。これは、私はまず、開発者がゲーム性というものを良く分かっていないのではないかと疑っていたのだが、もちろんそういう場合もあるだろうが、どうも「わざとゲーム性を下げている」節を最近感じるのである。

  • ゲーム性について
    • ゲーム性が高いとは対戦相手のAIが賢い事
    • 対戦相手がいないゲームにはゲーム性は無い
    • 対戦相手がこちらを負かそうとしていないゲームはゲーム性はないもしくは低い
  • ゲーム性の需要(受容)について
    • ゲーム性の高いゲームは馬鹿に優しくない
      • 大衆受けしない
    • ゲーム製作者は売れるゲームを作らなきゃいけないのでゲーム性が高い事を目指さないのではないか?
  • ゲーム性とエンターテイメントとしてのゲーム
    • 買った値段分のエンターテイメントがあれば文句はないはず
    • ゲーム性の良さは商売上軽視されがちで、その他が重視されがち




ゲームのグラフィック話をする。ゲームのグラフィックは全体的に向上しているが、ゲーム性はそうではない。なぜそうなるかというと、グラフィックの良し悪しは、見ただけで誰が見ても大体同じ評価になるから、頑張れば頑張った分だけ評価される。それと比べてゲーム性は、見る人が見ないと分からないし、そもそもやってみないと分からないから、売り上げに貢献しにくい。ゲーム性を向上させるのはゲーム性を良く理解していないと出来ない。


ゲームにおいて「映画みたい」というのは、ゲーム性を重視する人から見れば蔑称である。別にグラフィックに限らないが、ゲームのゲーム性以外の部分を強化することは、分かりやすく「(エンターテイメントとして)高評価につながる」し、「売り上げにも貢献」する。それは音楽だったり、シナリオだったり、インターフェイスだったりする。言い方は悪いが、「ゲームを良く知らない人にアピールするには、ゲーム性以外のところでアピールした方が分かりやすい」のである。あるいは、「人間の見た目と性格」と捉えても良いかもしれない。大体の(俗)人にとっては、見た目が良いということに接するモチベーションが最初にあり、性格の良し悪しは接してみた後で知る事になる。それは良い態度だとは思わないが、しょうがない面があるのは認める。


テレビゲームを作ろうという人で、デザイナー等の専門職の募集なんかはあったりするが、本来はゲーム理論をちゃんと勉強した人の採用枠があるべきなんじゃないかと思う。まあそういう私が別に学んだわけではないので、詳しくは触れない。そしてもしかしたらそういう会社もあるのかもしれない。調べた事ないけど。


さて、「ゲーム性」について説明する。「ゲーム性が高い」というのは「対戦相手AIが賢い」と考えると、色々理解しやすいと思う。


「ちゃんとしたゲーム」の例として、将棋を取りあげる。将棋の対戦相手の代わりをコンピュータがしてくれると、それはコンピュータゲームになる。さて、将棋のAIプログラムを組んだとして、それの出来が悪い状態を考えてみる。こちらのある手に対して、コンピュータはいつも自分の首を絞めるような手を指してしまう。そしてプレイヤーはそれを覚えておいて、毎回その手を指すだけで勝ててしまう。逆に賢いAIというのは、こちらの手に対して臨機応変に対応する。そしてそれはその場の狭い状況だけで判断してしまうのではなく、勝利(王将を詰む)という最終目標に向けて、必要な事だけをする。


ファイアーエムブレムというウォーシミュレーションゲーム(とここでは呼んでおく)がある。私もまあまあ好きなゲームだ。「将棋の様な」とよく形容される。ゲーム性の高いゲームとして認知されていると思うが、確かにそこいらのRPGよりはゲーム性は高いが、将棋に比べると、かなりAIが賢くないと思う。AIを賢くするのが難しくて出来ないならしょうがない。でも、そもそもAIを賢くしようとしていない気がするのだ。


このゲームでは、あるステージにおいて、味方に比べて敵の数は圧倒的に多い。キャラクター一人ひとりの性能にはそれ程差はない(というとちょっと語弊があるのは承知だが)。となれば、あとはAIが互角なら、敵が勝つはずだ。だが実際は、こちらは一人の死者も出さず、相手を全滅させることができる。敵AIは頭が悪く、こちらがどういう距離を取っていても出来る限り近づいてくるので、位置を調節すれば必ず先手を取って攻撃を仕掛ける事ができる。これは一例で、その他戦術らしい戦術は一切使ってこない。


ただ、あのゲームの売りは、キャラクター愛を育むことであったりするので、敵が自分たちほど賢く、勝負するたびに実際の戦争の様に味方が死んでいく事は望まれていない。そして、少人数で大人数を倒す方が「難題を乗り越えた」感が強くなる。それが快感であり、ゲームとして頭を悩ませる快感を越えるならば、その方がいいと思ってわざとやっているように思われるのだ。そしてAIも、ビックリするほど馬鹿ではない。ちゃんと弱そうな奴を優先的に狙ってくるぐらいのことはする。頭を使いたいと思っている物にとって、敵が馬鹿だと「興醒め」してしまうものだが、大抵の人にとっては(本格的なゲームに馴染みの無い人にとっては)そこまで酷いという事もない範囲に収まっていると思う。


ここまで、ファイアーエムブレムを馬鹿にするような事を書いていたように見えたかもしれないが、アレは正直ゲームとしてはかなりマシな方で、その他の大体のゲームというのはそもそもゲームではない。ゲーム性はゼロ、あるいはゲームとしては破綻している物ばっかりである。


…その辺の話を書こうと思ったのだが、iwatam氏の解説があれだけの量をかけて書いているのに、ここで書ききれるわけがない気がしてきたので、諦める事にする。詳しくは参考に挙げるリンク先を読んで欲しい。少しだけ抜粋する。

まとめよう。「ゲーム」には相手が必要である。相手も同じように自分を負かそうと考えなくてはいけない。現在、そのように「考える」ことができるものといえば人間とコンピュータくらいだろう。それ以外のものはゲームとは言わない。


だから、多くのビデオゲームはゲーム失格である。STGで敵は本当に自機をやっつけようと努力しているだろうか?スーパーマリオでカメ達は本当にマリオをやっつけようと努力しているだろうか?面白いゲームはこの問いに「イエス」と答えられる。

さて、今回の本題はテレビゲームの面白さはゲーム性にあるとは限らないということだ。そして、どうも製作者の方も、そう言って開き直ってる所があるんじゃないかなと思うのだ。


というのも、ちゃんとしたゲームというのは、当たり前だけど、かなり難しい。いや、ちゃんとしたゲームでありつつ簡単に作るということが難しいのかもしれない。ゲーム製作者の方も、そういう素養が無いから、自分で出来ないようなものは作らないし、お客さんも出来るはずが無いと思っていて、だからゲーム性を高めない方がいいと思っているんではないだろうか。


なお「コアゲーマー」というのが本当に「ゲーム性」という物を理解しているかは、かなり怪しい。そして理解しているからといってゲーム性が高いものを望んでいるかというと、それも一概には言えない。


結局「面白ければなんでもいい」という気持ちで、各製作者が面白いと思う物を詰め込んでいるだけだ。そして、それは別段責められるべきことでもない。グラフィックやシナリオやサウンドや体験が、値段に見合えばそれでいいと。そして今はさらに「ゲーム性が低い」という事が魅力として捉えられているのかもしれない。頭脳の勝負なんかしたら自分の馬鹿さを実感しなくちゃいけなくなる。そうなるより、誰でも出来る事であってもクリアできる方が楽しい、という感覚は、分からないでもないとは思うのだ。