馬鹿とは最適化する範囲の設定のせいで自分を不幸にしていることだ

数日後までにやらなくてはいけないことがあるのに、今日一日まるごと遊んでしまったとする。そういうのは普通馬鹿な事とされる。しかし例えば、自分が明日死ぬとしたらどうだろう。そのやらなくてはいけないことが何なのか分からないが、明日死ぬと思ったら、普通は今日まだ生きているうちに一番したいことをすると思う。それは馬鹿な事とは言われない。むしろそうすべきだろう。そして究極のところ、人間は今日死ぬかもしれないし、誰もそれを絶対に起きないとは言い切れないのだから、今日を遊んでしまった人を馬鹿だと言い切ることは出来ない。しかし、我々は平均寿命が何年ぐらいか知っていて、どうせまだまだ死なないだろうと思っているので、未来に向けた準備をしなくてはならない。そうなると、今は辛くてもやった方が良い事をやる必要が出てくる。


これを、「どの範囲(この場合は期間)を最適化するか」という問題だと考えてみる。40年生きるつもりと、60年生きるつもりと、80年生きるつもりとでは、生き方は変わってくるはずだ。そして、他人の生き方を安易に「馬鹿」と言うことは出来ない。それはきっと、最適化の範囲が違うだけで、それぞれ最適化なのだろうから。若い人に対しては、短絡的な快楽に身を委ねることを馬鹿と言う人が多いだろうが、かといって長期ばかりを最適化しようとして、死ぬ時に「もっとやりたいことをやればよかった」と後悔する人も居る。そこは自分でバランスを考えるしかない。人が他人を馬鹿と言う時は、その人と最適化の範囲が違うだけの事が多いが、自分でも不幸だと感じているなら見直すといい。


動物にとって普通、食料(エネルギー)は有限だ。だから、ただ筋肉を強くしたら、エネルギー消費ばかり多くて、獲物が少ない地域では不利になってしまう。それぞれの生物は優れているのでもなく劣っているのでもなく、生き方を選択して自分なりに適応しているだけだ。


人間が他の生物に比べて強いか弱いかといった議論は、観点を変えれば色んな言い方が出来るだろうが、例えば地球上に広く分布できているという意味では強いと言う事が出来る。そしてそれは、身体そのものが強いからではなく、いろんな状況に対応する方法を思いつく思考力があるからだ。人間には寒さから身を守る毛皮はないが、着脱できる衣服を使うことで寒い地域にも暑い地域にも適応していった。動物的に強くなるということは、しばしばある環境への特化だった。だからある環境では強く見えるが、他の場所では生きられない。人間が広く分布できたのは、汎用性のある能力を開発したからだ。例えば言葉や文字やなんかがそうだ。それ自体は食えないが、何をするのにでも役に立つ。


日本に生きる我々は、食料が有限だと感じる機会は少ない。むしろ食べ過ぎで困っているぐらいだ。そうなってくると、あと有限なもので主要なものは時間ということになる。有限な時間の中で出来ることを最大化するには、やはり汎用的な、言い方を変えれば抽象的な能力を鍛えることが鍵になる。「なんにでも使える能力」を鍛えておけば、そこから少し手を伸ばすだけでやりたいことがやれてしまうというわけだ。


確かに抽象的能力は便利なものだが、だからといって抽象的能力だけでは何もできない。抽象的に持っている知識を、なんらかの形(身体の動き、とかでもいいが)に具体化しない事には何にも使うことは出来ない。「机上の空論」というやつだ。また、学んだことの効果が出るまでに時間がかかる。だから長い期間を最適化するつもりでなければ損をしてしまう。


抽象的能力を鍛えることは大事だが、それこそが賢さだというのもまた偏狭な考えである。逆もまたしかりで、要はバランスが大事だということだ。