信じること

の続き




今日は「信じること」について書きたいのだが、そのためには自分のとあるエピソードを引用せざるを得ない。関係者の中には思い出したく無い人も居るかもしれないが、ご了承願いたい。


私はM1ぐらいの頃まで、ピアノ愛好会の後輩を厳しく指導していた(余談だが、入学当初から先輩をもっと厳しく指導するような奴だったと思う)。厳しく指導していたが、私は悪意があったつもりはなく、後輩のためを思って注意していたつもりだった。そして、それが注意されている後輩達にも伝わっていると思っていた。


しかし、実際には彼らにはイライラが溜まっていたようで、5人の後輩に呼び出され、私を吊し上げる会が開かれ、私は大いに糾弾されることになった。私はその場でも自分の言っていることの方が後輩達の言っていることより真っ当だと感じていたものの、とにかく5対1で私を擁護してくれる人も居ないので、ひたすら叩かれ続けた。


それから数日は、私は怒りと悲しみで頭がおかしくなりそうだった。なぜ彼らの事を思ってやったことで、こんなに彼らに嫌われなくてはならないのだろうか。彼らには私の気持ちは伝わっていなかったのか。どうして彼らは分かってくれないのか。もう彼らの事が「信じられない」と思った。


そこでふと、「信じられない」という言葉が引っかかった。「信じられない」というのは、相手の事か?相手が悪いのか?いや違う、「信じられない」というのは「自分が」「信じることが出来ない」という意味だ、と思った。


信じることは、自分だけで出来る。相手を信じることが出来ないのは、あくまで自分の問題だ。相手がどんな事を言っていようが、自分が信じることさえできれば信じていることになる。私は彼らを信じたいと思っているのだから、それは自分の気の持ちようでどうにかすればいいことだ。相手を「改善」する必要は何もないのだ。


そこまで考えて、一気に気持ちが楽になった。彼らが私を嫌おうがなんだろうが、私は彼らに愛情を注げばいい。しかしもちろん、もっともっと注意深く、より彼らのためになる方法で。


さて、私の聖人アピールはどうでもいいので、「信じる」について考えよう。「信じる」は自分だけで出来るが、しかし自分で完全に制御できる事ではない。「信じたい」と思うことまでは出来ても、それで信じることが出来るかどうかはまた別である。自分の心が「信じられない」と主張しているのであれば、それは実際信じていないのである。「信じることが出来ている」ということがイコール「信じている」ということなのである。そしてそれ自体は「感覚」である。感覚(や感情)であるということは、他の要素からは反証不可能であるということを意味する。気温が低くても人が暑いと感じているなら暑いのであり、それは外気温とは全く関係なく成立する事である。それと「信じられる」は同じものだ。そして感覚に「気のせい」はない。感覚とはすなわち気だからだ。


キリスト教でいうところの「神を信じる」というは、「神を感じる」ということなのだろうし、実際神を感じている人がたくさんいるのであろう。それは、自分の中の体験なのだから、本人たちが感じているのであれば感じているのである。


信じることが出来るかどうかは、何によって決まるのだろうか。信じたいと思う気持ちと、信じたことで良い結果になった経験の兼ね合いになるだろうか。片方が弱ければもう片方がより必要なのかもしれない。この話は、また別の機会にすることにしたい。




(一旦終了。以下雑談)

「信じる」と言えば私にとってはこの曲、という曲があるので、是非ともどうぞお聞きください。ゲーム「MOTHER」のアレンジアルバムより、「 Pollyanna (I Believe in You) 」です。私はあの日以来、涙なしには聴けません。
https://www.youtube.com/watch?v=vBbRJoHTJAM

歌詞、訳を掲載しているサイト
http://tamagokake.hateblo.jp/entry/2015/03/25/092757
一番を抜粋引用します。

"朝日はまた輝くって信じてるし、
虹の終わりには金のツボがあるって信じてる。
バラは露にキスされるって信じてる。
同じように、あなたを信じてもいいでしょう?

架空の童話やお守りを信じているし、
十字に誓ったあなたの約束を信じてる。
空はいつまでも青いって信じてる。
同じようにあなたを信じていいでしょう?

私のことをあなたはバカだというかもね。
変でおかしいって、ポリアンナと呼んだっていい。
希望の光を信じてる。それがあなたを信じる理由。"