言葉の取り合い

ずっと考えているけどまとまらない色々な話があるのですが、考えていてもまとまらない気がしてきたので、書けそうな所から順次書いて公開していきたいと思います。まとまらないんだけど、なんだかどれも関連があって、それらの関連性も含めて述べるべきではないかとも思っていたのですが、それは後からやる事にしたいと思います




「生命とは何か」という問いがある。そして例えば、ウイルスは生物であるとか生物でないといった議論がある。しかし私はこれに少し妙な印象を覚える。これは、必ず一つに決めなくてはいけない事なのだろうか。ここで、ウイルスを含まない方を「生命a」と名前を付け、含む方を「生命b」と付ければ、少なくとも議論上の齟齬は解消するはずである。「生命をこのように定義すればウイルスは入るし、このように定義すれば入りませんね」で話は終わりのはずである。そんなに目くじら立てて論争するようなこととは思えない。にもかかわらず多くの人は、何かしら客観的な基準において、ウイルスは含まれるとか含まれないといった事が判定できると感じているかのようなのである。


突飛かもしれないが、これが意味することは以下のような事であると考えられる。我々は生命とは何かを実はすでに知っている。いや、知らないはずだと私は思うのだが、知っていると信じているのである。そして、知っている「生命とは何か」に合致する定義を探している。「生命」という言葉を、好きなように定義していいものだとは考えていない。自分の知っている「生命」と同じでなくてはならないと感じているのである。


このような、「自分の知る言葉が、自分の知っている通りの意味に結びついていて欲しい」という欲求を、私はどうでもいいものだと思っていた。逆から見れば、言葉というのは、定義次第で任意に決められると思っていたということだ。しかし、もしかしたらそうではない(どうでもいいことではない)のかもしれないと思い始めた。


例えば「DQNネーム」という言葉を「キラキラネーム」と呼び替える動きがあった。これには明確に「独創的な名前を付けることを肯定的に捉えて欲しい」という気持ちが含まれている。替えて欲しいと思うということは、変わることに意味があると思っているということだ。これはすなわち、「言葉が変わっても中身が同じだったら意味は同じではないのか」という問いに対して「同じではない」と答えるということだ。似たようなことは、例えば「障害者」を「障がい者」と呼び替えようみたいな動きにも見て取ることが出来る。


別のパターンとして、言葉そのものを無くしてしまうという方策もたびたび取られる。例えば「どもり」(吃音とも言う)という言葉がある。話し始める際に言葉が上手く出てこず、詰まったような音を繰り返してしまう状況及びその人を指す言葉である。今では差別的意味合いがあるとされ、おおやけには使われなくなった。使われなくなったが、その症状(?)を持つ人が居なくなったわけではない。実際身近にも何人も居る。しかし、それを意識すらしない事が増えたし、私以外の人も、気にしている様子はない。実際、気付いていないかもしれない。断言できる事ではないが、言葉がなくなったことで、「症状」すらも消滅したのではないかと感じる。恐らく、「コミュ力が低い」などの、別の何かの概念に吸収されてしまったのだ。その意味では、確かに差別語を禁止することで、差別がなくなってるのかもしれない。


言葉は「概念を表現するための手段」ではないのかもしれない。それ自体が良し悪しを持つ「思想」のようなものであるのかもしれない。「生命」が自分の知っている通りの「生命」であって欲しいということは、自分の思想に共感して欲しいであるとか、悪く言えば自分の思想が他の思想より優位であること示したいということのように思える。


いや、そう思っているのがむしろ普通なのかも知れない。生命を「生命a」と「生命b」に分けて良いという発想自体が、ある種訓練されて出来たものである。ここには、それらに優劣を付けようという発想はない。ただ、二つの概念があり、それらに別の名前を付けて区別しようという意志があるだけだ。


考えてみると、「どもり」という言葉を知っていたとして、それを単なる症状として捉えるならば、言う方も言われる方も不快にはならないはずである。風邪をひいて頭が痛い時に、「頭痛がある」と言う方も言われる方も特にそれで傷ついたりはしまい。あるいは「ハゲ」はどうだろうか。髪の量が少ないことは客観的な事実として認識しうることである。しかしそれを言われると傷つき、であるからこそ言う事がはばかられるのは、そこに「ハゲは良くない事」という思想が背景にあるからだろう。ただ「違う」のではなく、「優劣」を感じさせている。


優劣を付けようとしているということを、分かり合うことを拒否していることだと考えてみる。自分の持っている定義の方が優れていると思っていない人は、「生命a」、「生命b」と名付けることに躊躇はない。しかし自分の定義の方が正しいと思っている人は、それを許容できないのではないか。


こういう、「言葉と意味の対応」について争うことを「言葉の取り合い」という名前だとするならば、言葉の取り合いは、分かり合おうとしている人達にとっては不毛な争いだが、実際には分かり合おうとしている場というのは人間にとって極めて限られた局面でしかなく、言葉の取り合いをすることによってまさに思想の戦いが行われており、そしてそれが人間にとってかなり重要な戦場なのではないだろうか。




(一旦終了。以下余談というか、自分用でもあるメモ)

・この話の中で、分からなくて飛ばした部分がある。それは「知っている」についてだ。私は「知っている」とは「知っていると信じている」ことなのではないかと思う。「信じる」については言いたいことがあるので、それを次に書きたいと思う(予告)。

・上記に関連したメモだが、「数学は演繹で出来ている」のだが「最初の数学は演繹…というか、公理系から出来たわけではない」のだと思う。

・そもそも「○○とは何か」という問い自体が何を意味しているのかが分かっていないように思う(分かる事なのかもわからないが)。「内包」「外延」などについてなんとなく勉強してみたが、何か話せるほどよく分かっていない。

・コンピュータと人間のコミュニケーションの違いは何かと、自分の授業のために考えていた。ひとまず出した考えを載せておく。人間もコンピュータも、プロトコルに基づいて情報が受け渡されるが、人間には完全に共通のプロトコルは存在しない。そのプロトコルセットは、開いた系である。それに対してコンピュータのプロトコルセットは閉じた系である。しかし人間は人間同士のプロトコルセットが、不完全ながらもある程度共通していると信じており、それによって誤解を生みながらもなんとかやり取りをしている。今回の話で言うと、言葉に対応する概念が一意に定まっている状態が、閉じた系の状態である。閉じた系のプロトコルで情報をやり取りする時には、送り手と受け取り手の情報は一致する。しかし開いた系を用いている人間にとって、送り手と受け手の情報は一致しない。この場合、情報を「生み出す」のは、受け取る側である。この話も、どこかでしたい。今書いた以上の発展はないかもしれないが。

・「シニフィアンシニフィエ」とか「言語ゲーム」とか「サピア=ウォーフの仮説」などの言葉について知らないわけではなく、そういう既にある議論を引用した方が良いのだろうとは思うのだが、このエントリにも関連する話だが、「名前を付けると分かっていることのように感じる」のだが「私の意識としてはとにかく分からないと感じている」ため、使わないことにした。いや、単に良く知らないというのもあるが。