今日のtwitter

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  • 眉毛は額の汗が目に入らないようにあるらしいんですが、もみあげは寝ながら音楽聴いてボロ泣きした時に涙がイヤホンに入らないようにあるんだと思います。 posted at 10:06:06
  • 「他人からどう思われようと気にしない」と思われてるかどうか気にしている感ある. posted at 11:30:18
  • Facebookのスパムアカウント用の肖像権フリー写真集」ってサービスはどうか.無理か. posted at 20:28:54

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人が作った物を解析する事

  • ゲーム内の計算式などを推測したり実験で検証したりする楽しさは,科学実験の楽しさと行為としては変わりが無いのだが,絶望的に違うのは「正解が必ずあり,それを考えた人に聞けば分かるはずの事である」というところで….でも本人にとってそれが気にならなければ同じなのかもといつも考えてしまう. posted at 22:26:31
  • もしその計算式が,「みんなが喉から出るほど欲しい物」であるとすればどうだろう.素晴らしいバランスを実現する式なので,他のゲームでも使いたいから,それ自体に価値がある,とか.それを隠匿する意図が開発者にあれば,それを解析するのもまた楽しい気がする. posted at 22:33:47
  • 計算式に限らないが,大抵のビデオゲームでは,開発者はゲームを無限に難しく出来る.でもそうするとみんなが楽しめないから,開発者は「こんぐらいかなー」って調節する.それを,何かがおかしいと思うのである.将棋の敵AIを無限に難しく出来ないことと比べて考えてみたりする. posted at 22:40:49
  • 楽曲のアナリーゼとかでもそうかもしれない.(全然詳しくないけど)例えばバッハの曲だったら一音一音に意味(内的必然性と言っても良い)があるから,それを解析する事に意味があると思う.でも自分で作曲してみりゃ分かるが,そんな真面目に考えて作ってない.だから解析されても困る. posted at 22:42:58
  • ジョジョの単行本の作者のコメントの所に「こう書かざるを得ない重力を感じた」みたいな話がある.他の漫画家も「キャラが動いてくれる」とか言う.それは内的必然性の別の形だろう.ゲームの計算式も,そこに必然性があるか,ということを問いたい,ということかもしれない(今は結論なく書いてる). posted at 22:48:42
  • 素因数分解が掛け算に比べて難しいのは当たり前で,ゲームの解析というのはそういうものなところがある.我々は「問題があればつい解いてみたくなってしまう」ようであるが,それが意味のない問題でも,自分で問題を作って解いてれば無限に楽しめるものなのだろうか?というような問いである. posted at 22:59:35

今日のtwitter

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  • RT @ynabe39: それは「学問という特殊なゲームの中だけのルール」なんです。 RT @tweeting_drtaka: 研究職のあいだでは「我々の業界ではむしろご褒美です」状態。 RT @ynabe39 ふつうは他人の間違いを指摘するのはそれ自体が攻撃 posted at 00:46:38
  • 自分が音楽になれるとしたら、雨音のような音楽になりたい。 #普通の女の子に好かれるような発言 posted at 02:32:28
  • リスト:大人の踊り(アダルト) posted at 19:33:13
  • 二十四時間使い続けられる録音機を使う社会になったらどうなるかなあと。というか技術的には今で出来そう。 posted at 23:37:30
  • 録音と言わず映像でも。ネットだけじゃなくてすべてログを残す感覚。グーグルグラスがそれか? posted at 23:38:14

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  • 「こんな何年も前にちゃんと未来の事を予測できてた人が居たんだ!というかこの本結構売れたはずなのになんで身近にこの話してくれた人ゼロだったんだろ!」って良く思うんだけど,たぶん今読み返して価値のある本だけ今残ってて,他のダメな本もたくさんあったってことなんでしょうね. posted at 20:34:14
  • 人を曲に例えるっているのは面白いな…. posted at 20:20:52

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  • 「遺作」となってる作品を弾く時は「黒歴史掘り出してサーセンwww」っていう気持ちを持つべきなんじゃないかな? posted at 09:46:06
  • 寝ている時の方が,自然に寝返りを打ってる気がする.起きていると意識的に寝ようとしてしまって体を動かさなくなってしまう(ことがある). posted at 11:20:56

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自分自身に飽きる事の効果

小学生ぐらいの頃,日記を書けって言われましたか?夏休みの宿題とか.私はそんなに書いた覚えは無いのですが,とにかく当時は全然面白いこと書けませんでした.でもその後は私は高校の途中ぐらいからWebページを作って,その後もブログで長いこと日記みたいなものを書き続けています.今は主にtwitterになっちゃってますけど.

小学生の当時には誰もそんなこと教えてくれなかったんですけど,自分で色々書いてみて後々考えてみると,日記を書くことには以下の二つの効果(少なくとも片方)があるのではないかと思うのです.

1.日記に書けるようなイベントを自発的に起こす事
2.同じ様な日々の中に面白味を見出す事

このどちらかをすれば,日記を書き続ける事が出来ます.もちろんその両方をする事も出来るのですが,この二つって方向性が正反対ですよね.なので片方の能力がもう片方の能力を強化するのではなく,むしろ弱める効果があるような気がするのです.

先に言っておくと,私は2のような,内向きな努力が好きだっていう話です.


ちょっと違う話かもしれませんが,例えばこんな話を良く聞きます.自分が偏差値的に高い大学に入ったとすると,自分はその中では凡人になってしまう.その大学に入ったという価値は,外部に出た時に顕著に発揮される.それはもちろん正しいのですが,同時に「その中ですら凡人でありたくない」という気持ちを突き詰めていく事も出来る.ということは成功体験の数と実力は必ずしも比例せず,むしろ反比例するかもしれません(それは極論なので,そんな事は一概には言えないと思ってますよ,一応)(成功体験があることと,それに満足して成長しなくなる事は別ですよね.成功体験があった方が努力したくなる事も多い).

そう言えば,私の居るピアノ愛好会というサークルは,そういう意味での内向きなコミュニティの典型だと思います.「外に出しても恥ずかしくない実力」という意味では,割と多くの人が持っているのに,飛び切り上手い人が居るのでそれを実感しにくい.だからみんな自分独自の道を模索し始める.もちろん,私はまさにその典型なんですけどね.ただ,その傾向が行き過ぎているとも感じていて,実際もっといろんな場での発表の場があれば,実力的に不安のある人も出演する喜びを感じられるんじゃないかと思ってるんですけども.


もう少し本題に近い所に踏み込んだ例を出します.何かを自分が考えて思いついたとする.その話を聞いてくれる人が居なかったら,その話はもう自分は知っているのだから,思いついた時は面白いと思っても,しだいに新鮮味を失っていきます.その話を聞いてくれる人が居ればその人に話して楽しんでもらう事が出来る.しかしいつも同じ人にしか会わないのであれば,次に会う時は別の話題を用意しなきゃいけません.それが,色んな人に会っていれば,同じ話を何度もしていられる.もちろん,人に会って楽しいという事が「悪い」なんてことは言えないでしょう.私もそう思っているわけではありません.でも「色んな人に会って色んな考えを聞くのが,考えを深めるのには良い」と一概には言えないと思うのです.

人に会って話をすれば,当然それまでに考えたことと違った意見も聞けるでしょうが,同じ意見もたくさん聞くことになるでしょう.自分で整理した方が「この意見はもう考えたから,それとは違う意見を考える」ということを自発的に行う事が出来るかもしれない…もしそれを望むのであれば…と思うのです.


冒頭の日記の話とも関係あるんですが,そういう風に考えを深めるときに,文章に書くということはかなり重要だと思っています(なので今日もこうして書いているのです).なぜなら,先ほど「自分が考えた事はしだいに新鮮味を失っていく」と書きましたが,実際には結構忘れていってしまうからです.それは,新鮮味が復活するという意味ではなんら悪い事ではないというか,むしろ良い事なのかもしれませんが,考えを深めるにあたってはやり直しになってしまうので非効率なのです.(これは研究での事として強く感じます…)

なお,もちろん,アウトプット(まさに「自分の外に出す」という感覚)する事で,構成を持ってまとめるために色々考える効果もありますし,書いたものを後で見直すと客観的に見る事が出来るという利点もありますね.私は最近はさらにtwitterbotを使って,後々まとめたい事に関係があるツイートをリマインダとしてランダムで吐かせるようにしています.


そういう意味で,私はどうも物凄く「自分自身に飽きて」いるんじゃないかと思うんです.それどころか,飽きるように自分を追い込んでいるのかもしれません.そしてなんでそんなことをするかというと,それが自分の原動力だと分かっているからなのかもしれません.

しかし私がそういう人間であるならばこそ,私自身が飽きていようとも,意識的に同じ話を色んなところでするぐらいがちょうどいいということになるのかもしれませんね.

「自分の事が好きな人は嫌い」という感覚

なんとなくみんなと相容れないなあと思ってる事について話したいと思います.

私の知り合いには,食事に行って,その店の人と話をする人が居ます.私はそれが羨ましいと思うかと言うと全然羨ましくないんですけど,その知り合いの態度以上に,店の態度として客と楽しく話すのってが好みじゃないなあ,といつも思うのです.店はお金をもらって客にサービスを提供するのであれば,その話してる人にはサービスを多く提供していると思うので,不公平じゃないかと思うのです.

別に自分がサービスを多く得られないから憤っているというわけではありません.私にも,行くと,なぜだか知らないけど店員がサービスしてくれようとする店があったりします.なにも言ってないのにデザートにアイスを出してきたりとか….私はそれを,正直嫌だなと思っていました.その店の食事は好きだったのに,そういう要素のせいで行くのが億劫になっていました.

もちろん,話をするだけなら,それを望む人には提供して,望まない人には提供しない,というのは良いのかもしれません.でも世の中には常連になるとサービスの変わる店って結構あると思うのです.あるいは「店の人と仲良くなって得しちゃった」とか自慢げに言う人は多いと思います.

私は「ひいき」とか「不公平」そのものが良くないんじゃないかと思ってるんです.だから,自分が優遇されるということも良くないと思うようなのです.「ようなのです」というのは,私は別にそう思いたくてそう思っているのではなく,自然にしてるとそう感じるようなのです.昔からそうだったかは分かりませんが….


お金を取ってサービスを提供する場合と同列に考えていいのか分からないのですが,その他の場面でも同じような事を感じています.実に多くの人が,他人を「敵と味方」に分けていて,接し方を変えていると思います.味方だと思っている人の意見は,一見無茶苦茶でも出来るだけ読みとろうとしてあげて,敵の意見はちょっと聞いておかしかったらすぐに切り捨ててしまうというような….もちろん精神の衛生上,そうした方が良い場合があるのも分かるのですが,余力がある限り誰に対しても敬意を持って接するべきなのではといつも思ってしまうのです.

遠くの誰か,例えば政治家とかが馬鹿な事を言ったとする.私はそういうのを叩くのも最近は億劫なのです.そういう政治家より自分が賢いかは分からない.同じ立場だったら自分が同じ(あるいは別種の)過ちをしなかったとは思えないのです.同じように,私の周りの人達だったらもっと上手くやれたとも思っていません.自分が正すべきはまず自分であり,次に自分の周りの人達であり,少しずつ広げていくべきだと思っているのです.なお,別に厳しくすることだけじゃなくて,優しくするのもそうするべきじゃないかなと思います.


別の角度からの話ですが,例えば自分に好きなアーティストが居て,その人が私個人に注目してくれたら嬉しいだろうかというと,私は嬉しくないのです.私はそのアーティストが,自分なんかと次元が違う凄い人だから好きなのです.そういう人は,何者でもない私なんかに興味を示さないはずなのです.実際がどうなのかはともかく,少なくともそういう前提でファンに接しているアーティストに好感を持っているのです.「応援してください」なんて言うアーティスト(スポーツ選手とかもそうですね)は,私から見ると媚を売っているように見えます.いや,実際売ってる場合も多いでしょうし,ファンもそれでいいならいいんでしょうけどね.私は,ファンであるからこそ,ファンの方を向いたものなんかが欲しいのではなく,本人達が良いと思う道を突き進んで欲しくて,それに着いていきたいと思うのです.(その結果振り落とされることもあるでしょうが,それもまた本望ということです)


しかしその感覚はどうも行き過ぎじゃないかなあと思ってる節もあります.少なくとも他の人にもそうして欲しいとは全然思って無いのですが,自分の事としても,そういう考えを持つべき場面もあるとしても,そうでない場面もあるのではないかなと….でも個人的には,そういう「私の事なんか見てない」人と仲良くしたいなあと思っているというお話なのでした.