人と違って、人に興味がないなあということ

ちょっと前にテレビでe-sports(電子的ゲームによる競技)の特番をやっていたらしく、それを見ていた母が興奮気味に私に内容を解説してきた。ストリートファイターVのときど氏の話だった。母としては、私がゲームが好きだから乗ってくると思ったのであろうが、正直言ってその話にはあんまり興味ないなあ、と思った。どういうことかというと、特番でフィーチャーされていたのが、ゲームの話ではなく、ゲームのプレイヤーの生き様に関する話だったからだ。それだったら普通のスポーツとなんら変わらないではないか。そして、そういうのばかりだから私はスポーツ界隈が好きじゃないのであって、それと同じになるなら同じようにe-sportsにも興味が持てないな、と思った。


別にスポーツに限った話ではないのだが、私が思うに、多くの人は、人にしか興味がない。そして、私は人には興味がないのだ。少なくとも、優先順位が相当違うなと感じる。そして、そのことによる齟齬というのを感じる機会が結構多い。


例えばピアノの分野で考えて見ると、ショパンコンクールなんか放映しても、大体の人にとっては演奏の違いなど分からないし、演奏の中身にフォーカスして特集を組んでもそんなものを楽しめるのは少数派になってしまう。しかし、その人の見た目や生き様というのは、別にピアノや音楽への造詣には関係ないから、皆がほぼ平等に評価・鑑賞することが出来る。それは単に人を好きになるとか嫌いになるとかいうレベルの事だから、誰にだって平等なのは当たり前だ。一般向けの番組が人にフォーカスするのはそういう理由なのだと思う。


スポーツでも、私は、そこでどういう技術が使われているのかとか、どういう戦略でやっているのかといった解説を聞くのは好きだが、選手自体にはほとんど興味がない。あるいは野球の球団を応援するみたいな気持ちも無いし、もっと言えば誰が勝つか負けるかもどうでもいい。選手同士がぶつかっていい試合が生まれることに価値があると考える。


特に嫌いなのは、勝った人が性格まで肯定されるという構図で、スポーツははっきり言ってそればっかりだ。そもそも勝った人か、その直前ぐらいの人しか取り上げられもしないので、結果的に勝者の称賛ばかりになっている。いや、勝者の称賛それ自体は別にいいのだが、他の人が称賛されるべき生き様で生きている可能性というものをもうちょっと考えればいいのに、と思ってしまう。e-sportsもそういう構図に近づくなら、スポーツと同じで私的には気に入らないものの一つになってしまうだろうと思う。


ただ私も、またピアノの話になるが、例えば良い曲を探す、良い演奏を探す、といった活動をするとして、演奏者や作曲者という関連性を利用するということはある。良い曲であればどんな作曲家のものでも平等に評価したい、という気持ちはあるが、いくらそう思っていてもさすがに完全にランダムに次に聴く曲を選んだりはしないわけで、良い曲がありそうなところから探そうと思うと、作曲者や演奏者といったものをブランドとして探す手掛かりにはしている。したがって、例えばこの選手に注目していればいい試合が見られる、という発想であれば、十分理解できる。


ただ、根本的な違いとして、私は「コンテンツを評価するのに、それが誰が作ったものかということに左右されたくない」と考えているのに対し、普通の人は、まず「人を評価したい」という所がそもそものモチベーションなのかなというような印象を抱いている。


私は少し前から歴史の勉強をしているのだが、いわゆる歴史好きの人達とはずいぶん話題にすることの方向性が違うように思っている。私は、歴史の大きな流れが知りたくて歴史を勉強しているのに対し、普通の歴史好きというのは、歴史上の登場人物の生き様に興味がある(かっこいいとか言いたい)のだと思う。ちょっと前に、高校の歴史の教科書から坂本龍馬などの人物が消えるかもしれない、というニュースがあったが、私は趣旨には賛同しているのだが、多くの人は人への興味からしかいろんなことへの興味が持てないのが普通なので、私のような感覚に合わせない方が結果的には上手く行くんじゃないかなと思ったりした。


しかしもちろん、私のやり方・考え方が良いとは必ずしも思っているわけではなくて、とにかく違うなと感じているということなのである。例えば、自分には分からないことがあったとして、それを全部納得いくまで調べるのは無理な場合に、可能な限り自分で考えて結論を下す、というのと、その分野の専門家の人となりを評価して信用できそうだと思った人の言うことを鵜呑みにする、というのとでは、ほとんどの場合、後者の、人を頼りにする方が真実に近い結論にたどり着けるような気がする。


まあしかし人とは考え方が違うことが多い、ということを事前に理解しておくことは、コミュニケーションにおいて役立つことである。別に、人との違いを人を対立するために使わなくてはならない訳ではないのだから。

大逆転裁判

大逆転裁判は、結構微妙だという話を聞いていたのですが、2が出てそれが最高に良かったと評判だったので、どうも1の時の皆さんの不満は続編前提なのにそれが知らされておらず伏線とかが投げっぱなしになってる事だったらしいので、そんじゃあ2が出た今は安心して1をやれるというわけだな、ということで買ってみました。なんかダウンロード版がセールで安かったんだけどいくらだったか忘れた。


公式サイトその他


前回やった逆転裁判5が、私的にはシリーズ最低の出来で、もうこのシリーズは見限ろうと思ってたんですけど、上記のような流れでやってみることにしました。


まるっきり情報を仕入れずに始めたので、結構驚くことがありました。え?シャーロックホームズが出て来るの?とかそういうレベルで。公式サイトでめっちゃプッシュされとるやん。巧舟がメインディレクターに据えられていることすら良く分かってなかったよ。


全体的には…やっぱりテンポが悪いんですよ。演出が過剰というか。いちいち成歩堂のリアクションが多いし。全然まだ反論の余地があるのにダメージ食らっていちいち時間取られるのウザいといったところは、もうちょっと何とかならないのかなあと思います。


でもまあシャーロックホームズとの共同推理みたいなのは結構楽しかったですね。いや、めちゃ簡単でゲームとしては微妙なんだけど、演出的にはなかなかいいと思いました。


いろいろ不満はあるんですが、大筋の部分がそんなに悪くなかった気がするので、終わった後の気持ち的には「まあこれぐらいならいいかな」って感じでした。そのうち2もやりますです。

意思決定と全体を把握すること

"アホな教師、荒れた子供は、どんどん減ってる。 でも頭のおかしい母親は、どんどん増えている。 理由は簡単で、健康から教育まで「母性の不安」を煽る事が、広告マーケティングの主戦場になっているから。ある意味、可哀想な被害者なのだ。"

https://twitter.com/allergen126/status/927033428595191813


というツイートを見て思ったこと。


アホな教師や荒れた子供が減っているかも分からないし、頭のおかしい母親が増えているかも分からないが、母親の不安が煽られているというのはそうだろうという実感がある。


この前サークルの後輩達が話していて面白かったのだが、あるカップル男女の野菜が嫌いな男Aが、女Bの方に野菜ちゃんと食べろと言われていた。そしてそこには、野菜を良く食べるという別の女Cもいた。


その場でも話したのだが、その男Aと女Cを見ると、圧倒的に普段の体調がいいのは男Aだった。もちろん、それだけで野菜を食べなくてもいいという話にはならないが、かと言って野菜を食べろと言う方に説得力が無いのも確かだろう。そして、体調の良くない女Cは、あまり睡眠がとれていないという話で、じゃあ睡眠の方が大事なんじゃないの、みたいな話になった。…いや、その場の結論がそうなったかは良く分からないが、少なくとも私はそう思った。


もちろん、野菜を食べた方が良いというのは、ある程度実験とかで示せるものなのだろう。ただ、それが、他の要素と比べてどれだけ重要なのか?というのはなかなか示されていないように思う。今は、テレビでもネットでも、健康に関する情報が溢れている。そういうものを見て、これをした方が良い、こういうことはしない方が良い、という項目が自分の中で増えていく。しかし、それのどれが重要で、どれは些末なことなのか、ということは皆分からないのではないだろうか。


もし、決定的に重要な事柄を無視して、些細な影響しかないことに躍起になっていたら、自分としては健康になるために頑張ったつもりで、元々の何もしてない状態より状況が悪化することは重々あり得ると思う。そういうことが、冒頭の「頭のおかしい母親」の正体なのだろうと思う。


これは言い換えると、「勉強すると馬鹿になってしまう」ということでもある。目の前の人より自分の方が結果が劣っているのに、目の前の人に頭で知っている知識でお説教をしてしまうというのは滑稽な状態だろう。勉強を理論と言い換えると、理論と現実が食い違っているなら、それはいつも現実の方が正しくて理論が間違っているあるいは不完全で、理論の方を修正しなくてはならないという感覚を無くすと、勉強はどんどん暴走していってしまう。


この辺は、人間の身体があまりに複雑なので、なかなか原因と結果のつながりが見えにくいというのはもちろんある。このことについて、湿潤療法が出て来た時の説明を思い出す。キズパワーパッドなどの根拠となる理論の話だ。皮膚は乾燥に弱いので、消毒とガーゼは傷をむしろ悪化させてしまう。しかしそれがなかなか見直されなかったのはなぜかと言うと「人間の治癒力が高すぎるので、悪い処置をしてさえも直ってしまっていたので、その因果関係が見えにくかった」ということだった。確かに、なかなかそういう関係を見直すのは難しそうだ。しかし、そういうことを頭の片隅に可能性として置いておくのは有益なことだろう。


この前、私は「風邪ってうつるものか?」という話をして、医者をしている後輩から「うつる」と回答が与えられていたわけだが、だからそれが「気を付けなければならないこと」か?というのは私は未だに疑問視している。やっぱり風邪になることのほとんどの原因は免疫力の低下だと思う。そこがほとんど決定的に大事で、他の事は気にするほどの事ではないと思う。もちろん、実験環境下でそういう結果が出る、つまりうつることは正しいというのは事実でも、今の自分の年齢とか生活状態で気を付けるべきということになるかはまた別問題だと思う。


コンピュータサイエンスの世界には、ボトルネックという概念がある。ある計算というか処理をする時に、ほとんどの時間はある一部のところでかかっているので、そこを直さない限り他をいくら改善しても全体のパフォーマンスは向上しない。ボトルネックとは、その全体のパフォーマンスを下げている所のことだ。ボトルネックが何かを見極めないことには、他の手はほとんど無駄になる。もちろん、一つのボトルネックを解消すれば、その次のボトルネックが表れるので、もし現状以上を望むなら、今度はそこを対処しようということになるのだが。


健康の話をする時でも、何がどういう順番で重要なのかということをもっと意識しなくてはならないと思う。そうでなければ、「これは子供に悪いのではないか…」などと、無限に母親の心配が増えてしまう。優先順位の付いたリストを作って、上から順に解消するように考えるようにする、上が解消しないうちは下は気にしないでよろしい、などとして、負担を軽減してやらなければならない。「気にすべきこと」ではなく、「気にしなくていいこと」をもっと伝えてあげなくてはならない。




ここまで考えていたのだが、ふと、これってまさに「意思決定」(ディシジョン・メイキング)とは何かということなのだなと思い至った。


そういう優先順位をつけることが現状で出来ていないとすれば、それは、全体を見るということに取り組んでいる人が少ないか、あるいはそれが難しすぎて手に負えないというようなことなのだろうと思う。そこには、科学というものが、物事を細かく分割してその中で効果・影響を見てきたという歴史による、全体を見ることへの造詣のなさが影響しているのだろうと思う。


「科学は価値判断をしない」というような言葉を聞く。でも、それは分割してものごとを見るという伝統に馴染んでしまっているからそう感じるのであって、別に全体を見て優先順位を付けることが科学でないわけではないだろう。もし、結果の指標が存在するならばだが。


つまり、意思決定の科学というのは、全体を見ることであり、そしてきちんと結果に向き合うということなのではないか、ということが改めて言えるのではないかと思った。

アナログ時計はいつデジタル時計になったのか

「アナログ時計はいつデジタル時計になったのか」と言われたら、普通は「そうだよね確かにアナログ時計の後にデジタル時計は発明されたよね~」と思うことだろう。それは確かにそうなのだが、今から話すのはその話ではない。実は、我々がアナログ時計と呼んでいるものは、実は情報学的にはデジタル時計なのだ。だから、もっと根源的な意味で、アナログだったものがいつデジタルになったかという話をしたいと思う。

 

ここでひとまず、アナログ情報とデジタル情報の違いを確認しておこう。アナログな情報というのは、連続な情報のことで、細かく見ていけば無限の情報量を引き出すことが出来るもののことだ。それに対してデジタルな情報とは、そうしたアナログの情報をある閾値で上か下か分けてしまって、持っている情報の量を確定させたもののことだ。エタノールを使った温度計をイメージしてみよう。エタノールの温度計は、無限に細かく見ていけば、実際には目盛りにピッタリは一致していないはずである。その状態はアナログ情報だ。それを人間が、どこかの目盛りに一番近いと判断して、その目盛りの値を読み取って、「36.2℃」などと決めれば、それはデジタル情報になっている。デジタル情報であるということは、人間の観察が入った後の情報だと考えることができる。

 

我々が「アナログ時計」と呼んでいる時計について考えてみると、あの時計は秒針が「カチッカチッ」っと、ある秒とある秒の間の状態を持たずに動いている。したがって例えば、アナログ時計で0.1秒といった1秒より細かい時間を測ることは出来ない。デジタル時計ではどうかというと、もし時間の最小単位が0.1秒だったとすれば0.1秒は測ることが出来るが、だとしてもそれより細かい0.01秒は測ることは出来ない。そういう意味では、この二つは細かさが違うだけで、どちらもデジタル時計なわけだ。

 

では本当のアナログ時計とはどんなものかというと、例えば日時計は本当のアナログ時計だ。見た目は一般的なアナログ時計とほとんど同じだが、それとは違って、間の状態を見ようと思えば見ようとしただけ持っているからだ。

 

さて、では冒頭の疑問に戻って、アナログ情報がデジタル情報になった瞬間について考えてみよう。原理が分かりやすいものとして、クォーツ時計で考えてみる。クォーツ時計とは、水晶を使った時計だ。水晶振動子と呼ばれる素子があって、これに電気を流すと一定速度で規則正しく振動する。ちなみに一秒間に32,768回振動するらしい。それをカウントして、32,768回振動するごとに一秒に換算して秒針を動かせば、時計として使えることになるというわけだ。

 

しかしこう考えるといつアナログ情報がデジタル情報に変わったのかは良く分からない。電気を流された水晶は、最初から「 32768分の1秒」というデジタル情報を作り出しているような気がする。自然現象が最初からデジタル情報を作り出しているなら、人間が観察するからデジタル情報になるという原則に反するではないか?

 

でもそうではない。こう考えてみよう。「もともと『振動』などという現象は存在していない」のだと。電気を流した時に、水晶はただ「動く」のであり、その動きが人間には同じ動きを繰り返しているように見えたので、それを人間が「振動」と呼ぶことにしたのだ。このとき、元々の動き自体は、無限に細かく見て行けば毎回ほんの少しずつは違うものになっているはずだが、その細かな差異は無視して同じ動きだと見なすことで、「振動」が「1回、2回」とカウントできるようになったのだ。

 

人間が何かを何かだと「見なす」ところが、アナログ情報がデジタル情報になるところなのだ。

繋がり過ぎる世界の倫理

インターネットによって我々はすごく簡単に人と繋がることが出来るようになったわけですが、繋がり過ぎて疲れてしまったという人の話もよく聞きます。facebook疲れなんて言葉もありますし、LINEの既読スルーを咎めるなんて話もありますね。

 

これまでの人類は人と繋がるのが難しい世界の中で生きて来たので、努力の方向性は基本的に人と繋がることに限定されていたわけですが、やはり適正量の繋がり具合というのはあるようで、自然にしていると繋がり過ぎてしまうのであれば、これからは人と距離を取ることを学ばなければならないのでしょう。

 

…ということは以前から考えていたのですが、これはもうちょっと応用範囲の広い話かなという気がしてきました。

 

例えば不倫をした人に対する怒りを表明する人達を見ると、私の感覚では「当事者が怒るのは分かるけど部外者の我々はほっといたらいいんじゃないの?怒る権利とかあるか?」という感じで、なんでそんなに怒るのかなーと思っていたのですが、よくよく考えてみると「酷い目にあった他者を見て、自分の事のように怒る」ってとても道徳的ですよね。そういう人が居るのは何も不思議じゃないし、むしろかつて規範とされるのはそのような考えだったと言えるでしょう。

 

つまり、現代の、インターネットがあって、さらにSNSがあって、皆が自由に全世界に向けて発言できる環境ではそういう「道徳的」な態度は不適応になってしまうけど(「炎上」と呼ばれたりして)、それは今が「繋がり過ぎの世界」だからなのであって、そうでない世界ではきっとそうあるべきだったんだと思います。

 

普遍的な倫理というものは存在しなくて、あくまで環境に対して倫理が決まるので、環境が変わると倫理も変わります。しかし、倫理を大事にしてきた人ほど、倫理が変更されることに耐えられない、なぜならその古い倫理がその人を作っているから…というような原理があるのかな、と思います。

 

とりあえず、ネット時代に適応した自分のような考え方は(本当に適応できてるのか知らんけど)、少し前の世代からすると全く当たり前でも道徳的でもないということ、だからそんなに簡単に理解できるはずだと思わないこと、を意識しておいた方が良いのかな、と思いました。

ゲド戦記(1〜3巻)

古典の名作と言われるのは出来る限り読んでおきたいよなーという気持ちで、3大ファンタジーの一つと言われるゲド戦記の小説版を読んでみたのですが、かなり面白くて個人的にはお気に入りのシリーズとなりました。


ゲド戦記と言えばジブリの映画がつまらないことで有名ですが(?)、宮崎駿は元々ゲド戦記の原作が大好きだったらしくて、息子の吾郎が映画を作ることになったときに作者のル=グウィンに会って、いかに吾郎が原作の素晴らしさを理解していないかを雄弁に語ったとかいうさすが宮崎駿だなっていう畜生エピソードがあるそうです。それはさておき。


ゲド戦記は6巻まで出ているのですが、3巻までで一旦ひと区切りしたと思ったら、30年以上経ってから4巻が出てみんなびっくりしたとかなんとか。私は今のところ3巻まで読みました。4巻以降はなんか急に現実に引き戻されるような辛さがあるらしいですが、まあそれはそれで楽しみです。

影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)

影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)


1巻の「影との戦い」は、主人公のゲドがまだ若くて、自らの才能と向き合う話。2巻はゲドがかなり名声を得た後の話で、女性の自立の話(作者のル=グウィンは女性)。3巻はゲドが大賢人としてトップまで上り詰めた状態で、死に向き合うお話。かな。


一応映画に出て来るアレンは3巻の登場人物なので、映画版は3巻を元にしていると言えそうですが、何もかもが違うので特に関係はないと思った方がよさそうです。そもそも舞台設定からして、アースシーっていう海がメインで島が連なっているポリネシア地方みたいな世界なので、船で移動する場面がすごく多いんだけど、そんなイメージ映画でゼロですよね。私は小説版を読みながら、ゼルダの伝説風のタクトを思い出しました。多分参考にしてるんだろうなあと(もちろんゼルダゲド戦記を)。


ゲド戦記の世界では、本名はバレると相手に好き放題されちゃうので、普段は通名を使っているという設定になっています。「ゲド」は本当の名前で、普段は「ハイタカ」っていう名前を通名にしています。こういうモチーフは他の作品でも結構出て来るし、例えば我々がインターネットを使う時にハンドルネームを使って、本名がバレると嫌がらせされたりして危険(笑)みたいな現状にも似てる気がして、このあたりの設定に私は一番興味があったんだけど、それに関して特に目立った示唆は得られませんでした。ただし、物語上はすごく有効に機能はしていて、友人のカラスノエンドウが本名を明かすシーンには感動しました。


深みのある作品だと思うけど、作中の雰囲気自体は結構地味で、名作だぞーって子供に読ませようとすると子供は退屈しちゃうかもしれない。私はハリーポッターって倫理観があんまり好きになれないんだけど、やっぱり子供が楽しめるという意味では結構レベル高い作品なのかもとか思い直したりしました。


読んだ後にジワジワきて、なんとなく読み返したくなります。うーむさすが名作や、と思いました。オススメです。

日常を音楽の本番にしたい(ピアノ弾き向け)

音楽における「本番」がコンサートに偏り過ぎてはいないか

私は長くピアノを弾き続けていますが、ここ5年ぐらいはコンサートには出ていません。ピアノを弾く人には、コンサート(あるいはコンクール)に出演するという目標を立てて、それに向けて練習するという取り組み方をしている人が多いのですが、私はそうではないということになります。

 

それはなぜかと考えると、私自身が、他人の演奏をコンサートで聴くということにあまり価値を感じていないからだと思います。このご時世、CDなりYouTubeなりで物凄く上手い演奏をいくらでも聴くことが出来るわけで、それより劣る演奏をわざわざ聴きに行くということにあまり意味を感じないのです。したがって同様に、私がコンサートに出たとしても特に社会的な価値はない、と考えています。

 

 もっと言ってしまえば、演奏者が「自分がハレの舞台で活躍している」という実感を得るために、お客さんに「来てもらっている」という感覚になっていることが結構多いんじゃないかと思うのです。しかし今はどの創作分野でも「クリエイター余り・消費者不足」の状態です。そういう状況で本当に必要なのは発表する方ではなくて、発表を見て聴いてそれを称賛する人の方です。そう思うので、私は自分が積極的に称賛される方に回りたいとは思えないのです。

 

しかし、たとえ社会的な価値がなくたって、自分がピアノを弾いて楽しかったらそれは何物にも勝る価値ではないか、とも思っています。実際私は家で一人で楽しくピアノを弾いています。

 

ただ、一人でも楽しいというだけで、別に一人の方がいいと言ってるわけではありません。横で親しい人が聴いてくれたらいいなとは思いますし、音楽に詳しい人とあーだこーだいいながら弾けたら楽しいなと思います。あまりやったことないですが、セッションのようなことが出来たらそれもいいでしょうね。

 

ここで思うのは、音楽ってもともとプレイヤー同士で楽しむのが基本であって、コンサートのように演奏者と観客が完全に分かれているものって、むしろ特殊な形態なのではないか、ということです。それが現代の、特にピアノ界隈では、あまりにも「コンサートという本番」のために「その他すべてが『練習』になっている」印象を受けるのです。

 

そうではなくて、一人で弾いて自分が楽しむ、あるいは仲間と弾いて音楽を作り上げることを楽しむ、という日常の音楽こそが「本番」である、という意識転換は出来ないものでしょうか。

 

グランドピアノは日常の音楽には適さない

音楽の本番がコンサートに偏り過ぎていると思うことの一つの例が、家にグランドピアノを置きたいという人がたくさんいることです。私は家にグランドピアノを置くというのはかなり狂気に近いことだと感じています。もし私がグランドピアノを軽く買えるお金を持っていても、今だったら電子ピアノを買うと思います。

 

グランドピアノを家に置くのの何がおかしいかというと、グランドピアノは大きなホールに行き渡るだけの音量が出せる楽器なので、そんなものを家で鳴らしたら音が大きすぎるということです。

 

うるさいから近所迷惑だという話でもありますが、弾いている自分が聴くという目的でもそんな音量は欲しくないです。自分の家の中で電子ピアノで弾くときにも、音量は最大まで上げません。そんなに大きな音はそもそも聴きたくないからです。

 

実際、ピアノの弾き過ぎで耳を傷める人というのもいますし、耳栓をして弾いていてるピアニストもいます(具体的にはスティーブン・オズボーン)。ホールでお客さんが聴くには必要な音量であっても、演奏者にとって望ましい音量とは言えないわけです。

 

 

それでもなお多くの人が自宅にグランドピアノを置こうとするのは、コンサート本番に使うのがグランドピアノなので、その感覚に近いもので練習したいと思うからでしょう。まさにこの制約こそが、音楽文化に非常に大きな影響を与えていると感じています。

 

この話は、例えばピアニストの内田光子さんも以下のインタビュー動画で指摘しています。

 

www.youtube.com

(5:14~) 


インタビュアー「ドビュッシーは別種のピアノを使っていたの?」


内田「ええ ずっと軽い楽器をね!
特に現代のコンサート用のピアノは大きな問題を抱えています
私たちが弾くのは こんなにも長く大きな楽器で
必要に迫られて重いアクションになっています
ホールは より大きくなり 大きい音が要求され そのために
昔よりも ずっと重い楽器でなくてはならない
鍵盤ひとつをみても
ドビュッシー時代とはさほど変化していませんが
ショパンの時代と比べると大きな違いがある
ショパンの楽器…例えばエラール プレイエルなどは
実に鍵盤が浅くて とても軽く
私自身 試してみましたが
エチュードを弾くと実に美しい音がでるんです
でも この楽器などは多分ほぼ2倍位重いのではないかしら
ドビュッシー自身が弾いていたものよりね」

 

Debussy 12 Etudes : interview Mitsuko Uchida part1 (Germany) 日本語字幕付

 ここでは、音量と関連して、鍵盤の重さについての話も出て来ています。ピアノは電気など他の動力による音量の増幅はしていない楽器なわけですから、大きな音が出るということはそれだけ大きなエネルギーを人間が使っているということです。

 

コンサートホールに響き渡る音量を出すグランドピアノを弾くためにはそれだけ大きなエネルギーを使って(具体的には重い鍵盤のピアノを)弾く必要があります。そして、コンサートホールで弾くことが本番である限りはそれと同等のピアノに慣れておかなくてはならないわけです。家で弾くならもっと小さい音量のピアノでいいはずなのですが、本番と違うピアノに慣れておくわけにはいかないという事情がそれを許さないのです。

 

ショパンなどはコンサートホールよりはサロンのような(比較的)狭い場所で弾くのを好んだと言いますし、上のインタビューにもあるようにそうした場所にふさわしいもっと軽い鍵盤のピアノを弾いていたようです。今あるピアノリサイタルの姿を築き上げたのはリストで、その後はどんどんピアノはホール向きに進化していくわけですが、もっと家庭向けに進化したバージョンがあっても良かったのではないかと思うのです。

 

というかまあアップライトピアノや電子ピアノは家庭向けに進化したピアノですね。しかしアップライトピアノも電子ピアノも、グランドピアノを目標にしてそれに近づくことを目指しているからこそ、グランドピアノの下位互換として認識されているというのが現状だと思います。しかしこれらも、コンサートで弾くことが本番ではないと思えば、そうした認識も変わっていくと思いますし、またグランドピアノを目指すことをやめれば、より普段使いに適したものが生まれてくるのではないかと思います。…ただ、もしかしたら、そうして進化したものは既にピアノとは呼ばれない、別の存在になっているのかもしれません。

 

日常を本番にするには

では具体的にはどうすれば、コンサートではなく日常を音楽の本番にすることが出来るのでしょうか。

 

ここで私たちがどういう時に「練習している」と感じているのかと考えてみると、曲をまだきちんと弾けない状態であると感じている時だと思います。つまり、取り組んでいる曲に対して自分の実力がまだ及んでいない状態の時に「練習している」と感じるのだと思います。そして(やや飛躍があるかもしれませんが)練習であると感じているということは、「本番ではない」と感じているということなのだと思います。

 

つまり現状は多くの場合、「本番に対して練習の割合が大きい」という状態になっていて、これをどうにかして本番の割合を大きくしたいわけです。

 

単純に「実力に対して弾こうとしている曲が難しい」ということが問題なのであれば、身の丈に合った簡単な曲を弾けばいいということになるでしょう。ただ、難しいほど良い曲というわけではないにしろ、良い曲は結構難しいことが多いので、現在の自分では弾けない難しい曲をなんとかして弾く、ということに長い時間を費やしている人は多いと思います。というか私がまさにそうでした。そして、それも別に悪いことではないと思っています。憧れの曲に必死で食らいついていくのは基本的に楽しいことですからね。そういう気持ちだけでは続けられなくなってからどうするかという話なのかもしれません。

 

しかし根本的な問題は少し違うところにあると思っていて、それは結局ピアノを弾く人は、楽器と自分の表現したいことが繋がっていなくて、自動機械のようにピアノを弾いているために、応用が全然効かず、好きなように弾くことが出来ない、というようなことだと思っています。

 

例えば伴奏として打楽器を演奏することを考えると、まず簡単に演奏できる基本のリズムパターンがあって、上級者はそれをさらにカッコよく複雑にして演奏しているということが想像できます。ということは、最低限曲として成立するという弾き方と、もっと本格的な弾き方が連続的に繋がっていて、その間を自由に決められるということだと思うのです。

 

これが出来るためには、ただ一つの動きを身体に覚え込ませるのではダメで、音符のうちのどれがどのような役割を担っているかを知る必要があります。それは言い換えると音楽理論の知識ということになると思いますし、実際に音楽理論を学ぶことでそういうことが分かるようにもなるとは思いますが、必ずしも座学として勉強しなくてはいけないとは思っていません。

 

例えばフォルクローレサークルの知り合いの話を聞くと、大学から演奏を始めたにもかかわらず、4年で卒業する時には、みんなでセッションをやろうとなったらその場ですぐ入れる曲は100曲ぐらいあると言っていました。要はそういう風に音楽に接してきたかどうかだと思うのです。

 

なお私自身は座学が性に合ってる面もあって、座学が効率的に感じるからという理由で結構理論の勉強をしていたりしますが、それもまあ本人次第だと思います。

 

私にはこのような問題意識がずっと前からあったので、ここ何年か、リードシートという、コードとメロディーだけが書かれたJ-POPなどの楽譜から、自分で伴奏を作りながら弾くという練習をしてきて、それが最近は結構出来るようになって、ようやくなんとなく楽器と親しくなれたような気がしています。

 

例えば部屋で弾いていて、楽譜をパラパラめくりながら「この曲なんだっけ、弾いてみよう。(その場で弾く)…あーいい曲だなあ」というようなことが出来たりするし、弟が部屋に来た時に「この特撮の曲がさー」とか言いながら弾いたりということが出来るようになったのです。こういうことが昔からやりたかったんです!

 

もちろん楽譜に書かれた曲を弾くのであれば、初見能力が非常に高ければ、素晴らしい曲に触れる機会が増えて、どんどん楽しい思いが出来るでしょう。こちらも私は長年ないがしろにしてきたので、最近反省して少しずつですが改善できないかと取り組んでいる所です。

 

別に皆が私のようになるべきだとは思っていないのですが、もしかしたら多くのピアノ弾きはコンサートという形態から離れた方が音楽を楽しむことが出来るかもしれない、ということを一度考えてみてはいかがでしょうかというお話でした。

 

(以上で本題は終わりで以下は付録)  

付録

細幅鍵盤ピアノとコンクール

普通の楽器というのは自分で持ち歩けるので、本番でも普段自分が使っている楽器を使うことが出来ますが、ピアノは持ち運ぶのが大変難しい楽器なので、会場に据え付けられているものを使うことが一般的です。これは、自分用にカスタマイズされたピアノを使うのが困難であることを意味しています。

 

しかしピアノは万人が平等に使いやすい楽器とは程遠い楽器です。手が小さい人にとっては鍵盤の間隔が広すぎて、演奏が困難になってしまうことが良くあります。日本人としては10度が届かない人が多いことがよく話題になりますが、それ以前に女の人では8度が届かない人もまま見られます。そして8度つまりオクターブが届かないと、この楽器の魅力を引き出すのはかなり難しくなります。

 

そうした要望に応えて、最近では手の小さい人向けに細幅鍵盤ピアノというのも出て来ているみたいです。しかしこれも、コンサートホールにある本番のピアノが変わらないのでは結局意味がないということになってしまいます。いや、もしコンサートが本番なら、ですが。

 

しかし最近はこうした状況に対して、細幅鍵盤が選べるタイプのコンクールも出て来ているようです。コンクールに出るようなガチ勢の人達は、そうした「本番」の場が変わらないとなかなか細幅鍵盤を選ぼうという気になれないと思うので、少しずつですがそういう動きがあるのは喜ばしいことだと思います。

 

コンサートと演奏の価値を決める要素について

コンサートでクラシックを弾くことには社会的な価値はないという話をしましたが、もちろんこれは「私程度の能力の人が演奏することには社会的な価値はない」という話であって、価値がある人はコンサートに出たらいいし、私だってそういう上手い人の演奏を聴きに行きたいことはあります。

 

つまり私にとってはコンサートというのは「とびきりのごちそう」であればよくて、それは常食しなくてもいいものです。むしろ疲れるから常食はしたくないと感じているかもしれません。

 

ピアノ特有の事情もあると思っています。例えば私は和太鼓が好きなのですが、和太鼓はCDで聴いても私にとっては全く楽しくなくて、生演奏で身体にビンビンと振動を受けることや、太鼓を打っている姿というビジュアルも込みで楽しんでいるからです。オーケストラも同様に生じゃないと楽しみにくいものかもしれません。ごちそう感もありますし。それに対して、私はピアノはCDの音だけで十分満足できます。十分満足できるというか、むしろその方が好きかもしれません。

 

ちなみに、演奏する曲目によって要求される演奏能力は変化します。クラシックは一番競争が激しい分野なので、プロや音大卒生などという上位互換がいくらでもいるので、自分が演奏する価値は限りなく低くなります。それに対して、自編曲の曲などは、一応唯一無二のものなので、ニッチな需要に応えるという形で、演奏能力はそれほどなくても価値を感じてもらうことが出来ます。

 

他にも、演奏者への興味から演奏を聴きたいという場合には、演奏の上手い下手に関わらず演奏を聴くことに価値を感じることはあります。知り合いの演奏を聴きに行くというのはこれですね。別にそういう聴き方を馬鹿にしているわけではなくて、これはこれで楽しいものだとは私も思います。ただし、演奏にその人の性格が表れると感じて楽しめるのは一般的な感覚からするとかなり上手くなってからなので、下手な演奏ではそれを楽しむことが難しいため、結局「上手くなくても楽しめる」とまではいかないという問題もあります。

 

過去記事