意思決定と全体を把握すること

"アホな教師、荒れた子供は、どんどん減ってる。 でも頭のおかしい母親は、どんどん増えている。 理由は簡単で、健康から教育まで「母性の不安」を煽る事が、広告マーケティングの主戦場になっているから。ある意味、可哀想な被害者なのだ。"

https://twitter.com/allergen126/status/927033428595191813


というツイートを見て思ったこと。


アホな教師や荒れた子供が減っているかも分からないし、頭のおかしい母親が増えているかも分からないが、母親の不安が煽られているというのはそうだろうという実感がある。


この前サークルの後輩達が話していて面白かったのだが、あるカップル男女の野菜が嫌いな男Aが、女Bの方に野菜ちゃんと食べろと言われていた。そしてそこには、野菜を良く食べるという別の女Cもいた。


その場でも話したのだが、その男Aと女Cを見ると、圧倒的に普段の体調がいいのは男Aだった。もちろん、それだけで野菜を食べなくてもいいという話にはならないが、かと言って野菜を食べろと言う方に説得力が無いのも確かだろう。そして、体調の良くない女Cは、あまり睡眠がとれていないという話で、じゃあ睡眠の方が大事なんじゃないの、みたいな話になった。…いや、その場の結論がそうなったかは良く分からないが、少なくとも私はそう思った。


もちろん、野菜を食べた方が良いというのは、ある程度実験とかで示せるものなのだろう。ただ、それが、他の要素と比べてどれだけ重要なのか?というのはなかなか示されていないように思う。今は、テレビでもネットでも、健康に関する情報が溢れている。そういうものを見て、これをした方が良い、こういうことはしない方が良い、という項目が自分の中で増えていく。しかし、それのどれが重要で、どれは些末なことなのか、ということは皆分からないのではないだろうか。


もし、決定的に重要な事柄を無視して、些細な影響しかないことに躍起になっていたら、自分としては健康になるために頑張ったつもりで、元々の何もしてない状態より状況が悪化することは重々あり得ると思う。そういうことが、冒頭の「頭のおかしい母親」の正体なのだろうと思う。


これは言い換えると、「勉強すると馬鹿になってしまう」ということでもある。目の前の人より自分の方が結果が劣っているのに、目の前の人に頭で知っている知識でお説教をしてしまうというのは滑稽な状態だろう。勉強を理論と言い換えると、理論と現実が食い違っているなら、それはいつも現実の方が正しくて理論が間違っているあるいは不完全で、理論の方を修正しなくてはならないという感覚を無くすと、勉強はどんどん暴走していってしまう。


この辺は、人間の身体があまりに複雑なので、なかなか原因と結果のつながりが見えにくいというのはもちろんある。このことについて、湿潤療法が出て来た時の説明を思い出す。キズパワーパッドなどの根拠となる理論の話だ。皮膚は乾燥に弱いので、消毒とガーゼは傷をむしろ悪化させてしまう。しかしそれがなかなか見直されなかったのはなぜかと言うと「人間の治癒力が高すぎるので、悪い処置をしてさえも直ってしまっていたので、その因果関係が見えにくかった」ということだった。確かに、なかなかそういう関係を見直すのは難しそうだ。しかし、そういうことを頭の片隅に可能性として置いておくのは有益なことだろう。


この前、私は「風邪ってうつるものか?」という話をして、医者をしている後輩から「うつる」と回答が与えられていたわけだが、だからそれが「気を付けなければならないこと」か?というのは私は未だに疑問視している。やっぱり風邪になることのほとんどの原因は免疫力の低下だと思う。そこがほとんど決定的に大事で、他の事は気にするほどの事ではないと思う。もちろん、実験環境下でそういう結果が出る、つまりうつることは正しいというのは事実でも、今の自分の年齢とか生活状態で気を付けるべきということになるかはまた別問題だと思う。


コンピュータサイエンスの世界には、ボトルネックという概念がある。ある計算というか処理をする時に、ほとんどの時間はある一部のところでかかっているので、そこを直さない限り他をいくら改善しても全体のパフォーマンスは向上しない。ボトルネックとは、その全体のパフォーマンスを下げている所のことだ。ボトルネックが何かを見極めないことには、他の手はほとんど無駄になる。もちろん、一つのボトルネックを解消すれば、その次のボトルネックが表れるので、もし現状以上を望むなら、今度はそこを対処しようということになるのだが。


健康の話をする時でも、何がどういう順番で重要なのかということをもっと意識しなくてはならないと思う。そうでなければ、「これは子供に悪いのではないか…」などと、無限に母親の心配が増えてしまう。優先順位の付いたリストを作って、上から順に解消するように考えるようにする、上が解消しないうちは下は気にしないでよろしい、などとして、負担を軽減してやらなければならない。「気にすべきこと」ではなく、「気にしなくていいこと」をもっと伝えてあげなくてはならない。




ここまで考えていたのだが、ふと、これってまさに「意思決定」(ディシジョン・メイキング)とは何かということなのだなと思い至った。


そういう優先順位をつけることが現状で出来ていないとすれば、それは、全体を見るということに取り組んでいる人が少ないか、あるいはそれが難しすぎて手に負えないというようなことなのだろうと思う。そこには、科学というものが、物事を細かく分割してその中で効果・影響を見てきたという歴史による、全体を見ることへの造詣のなさが影響しているのだろうと思う。


「科学は価値判断をしない」というような言葉を聞く。でも、それは分割してものごとを見るという伝統に馴染んでしまっているからそう感じるのであって、別に全体を見て優先順位を付けることが科学でないわけではないだろう。もし、結果の指標が存在するならばだが。


つまり、意思決定の科学というのは、全体を見ることであり、そしてきちんと結果に向き合うということなのではないか、ということが改めて言えるのではないかと思った。