皆既月食を見なきゃと思った話

この前、皆既月食と赤い月を見ました。正直、見たいかと言うと別に見たくなくて、義務感みたいな気持ちで見ました。その義務感というのも、周りに話題を合わせなきゃというものではなくて…。じゃあなにかと言うと…。


そういうイベントがあると、良いカメラで撮った写真がインターネットにはたくさんアップロードされるじゃないですか。そういう写真では月はクッキリハッキリ写っていて、ぶっちゃけて言うと、そっちの方が見る分にはきれいなんですよ。でも、なんかそういうものばっかり見て、自分の目で見てないな、本当の月はそんなきれいじゃないんじゃないかな、って思ったんですね。


私は視力が低いけど、まあメガネかけてれは普段は問題ないのですが、月なんてかなりぼやけて見えるわけです。とても写真のようにくっきりは見えない。写真の方が綺麗だと思うわけです。ここで「自分の目で見たら月はもっときれいだった!」っていう話なら皆さんも満足するのかもしれないですけど、そうはならなくて。


でも、本物の月というのは、写真と、自分で見たのではどっちなんでしょう?それはもちろん、どっちも本物です。我々が見ているのは脳内に作られたイメージ(現象)なのだから、目で直接見ようが、写真を挟んで間接的に見ようが、別に優劣はない。だから、どちらに抱く感想も、別物ではあるが本物でもある。「自分の目で見ただけじゃ分からなかったけど写真で見たら魅力が分かった」と思ってもいいし、「写真で見たら綺麗だったけど自分で見たら大してきれいじゃなかった」と思ってもいい。


そういう考えが自分に浸透していくと、月を見ても、思うのは「きれいだな」とか「きれいじゃないな」ではなくて「ああ、私の目から始まる認識システムでは月はこのように見えるんだな」「写真とはこれぐらい違うのか」みたいな感じになるのですね。見た対象ではなく、自分の認識装置を観察しているわけです。


なんでわざわざ幻滅するために自分の目で見なきゃいけないんだろうな、って思わなくもないんですけど、でもまあ幻滅するために見るのも大事なんだろうな、というのが最近思う所でして。これはバランスの問題だと思うのですが、どうも私は理想化された伝聞の世界ばかり見てしまう傾向があると自分では思っているので、もう少し自分で直接体験することを増やした方が健全なんだろうなあと思ってるんですね。


というわけで、健全さを保つために、実物の月を見て幻滅して(いや、言うほど幻滅してないですが)、見て良かったなあと思ったのでした。そして、あなたに会って、人に会うって大して面白くないなって思って、会って良かったなあって思いたいです…あ、ダメな結論のやつだこれ。

人と違って、人に興味がないなあということ

ちょっと前にテレビでe-sports(電子的ゲームによる競技)の特番をやっていたらしく、それを見ていた母が興奮気味に私に内容を解説してきた。ストリートファイターVのときど氏の話だった。母としては、私がゲームが好きだから乗ってくると思ったのであろうが、正直言ってその話にはあんまり興味ないなあ、と思った。どういうことかというと、特番でフィーチャーされていたのが、ゲームの話ではなく、ゲームのプレイヤーの生き様に関する話だったからだ。それだったら普通のスポーツとなんら変わらないではないか。そして、そういうのばかりだから私はスポーツ界隈が好きじゃないのであって、それと同じになるなら同じようにe-sportsにも興味が持てないな、と思った。


別にスポーツに限った話ではないのだが、私が思うに、多くの人は、人にしか興味がない。そして、私は人には興味がないのだ。少なくとも、優先順位が相当違うなと感じる。そして、そのことによる齟齬というのを感じる機会が結構多い。


例えばピアノの分野で考えて見ると、ショパンコンクールなんか放映しても、大体の人にとっては演奏の違いなど分からないし、演奏の中身にフォーカスして特集を組んでもそんなものを楽しめるのは少数派になってしまう。しかし、その人の見た目や生き様というのは、別にピアノや音楽への造詣には関係ないから、皆がほぼ平等に評価・鑑賞することが出来る。それは単に人を好きになるとか嫌いになるとかいうレベルの事だから、誰にだって平等なのは当たり前だ。一般向けの番組が人にフォーカスするのはそういう理由なのだと思う。


スポーツでも、私は、そこでどういう技術が使われているのかとか、どういう戦略でやっているのかといった解説を聞くのは好きだが、選手自体にはほとんど興味がない。あるいは野球の球団を応援するみたいな気持ちも無いし、もっと言えば誰が勝つか負けるかもどうでもいい。選手同士がぶつかっていい試合が生まれることに価値があると考える。


特に嫌いなのは、勝った人が性格まで肯定されるという構図で、スポーツははっきり言ってそればっかりだ。そもそも勝った人か、その直前ぐらいの人しか取り上げられもしないので、結果的に勝者の称賛ばかりになっている。いや、勝者の称賛それ自体は別にいいのだが、他の人が称賛されるべき生き様で生きている可能性というものをもうちょっと考えればいいのに、と思ってしまう。e-sportsもそういう構図に近づくなら、スポーツと同じで私的には気に入らないものの一つになってしまうだろうと思う。


ただ私も、またピアノの話になるが、例えば良い曲を探す、良い演奏を探す、といった活動をするとして、演奏者や作曲者という関連性を利用するということはある。良い曲であればどんな作曲家のものでも平等に評価したい、という気持ちはあるが、いくらそう思っていてもさすがに完全にランダムに次に聴く曲を選んだりはしないわけで、良い曲がありそうなところから探そうと思うと、作曲者や演奏者といったものをブランドとして探す手掛かりにはしている。したがって、例えばこの選手に注目していればいい試合が見られる、という発想であれば、十分理解できる。


ただ、根本的な違いとして、私は「コンテンツを評価するのに、それが誰が作ったものかということに左右されたくない」と考えているのに対し、普通の人は、まず「人を評価したい」という所がそもそものモチベーションなのかなというような印象を抱いている。


私は少し前から歴史の勉強をしているのだが、いわゆる歴史好きの人達とはずいぶん話題にすることの方向性が違うように思っている。私は、歴史の大きな流れが知りたくて歴史を勉強しているのに対し、普通の歴史好きというのは、歴史上の登場人物の生き様に興味がある(かっこいいとか言いたい)のだと思う。ちょっと前に、高校の歴史の教科書から坂本龍馬などの人物が消えるかもしれない、というニュースがあったが、私は趣旨には賛同しているのだが、多くの人は人への興味からしかいろんなことへの興味が持てないのが普通なので、私のような感覚に合わせない方が結果的には上手く行くんじゃないかなと思ったりした。


しかしもちろん、私のやり方・考え方が良いとは必ずしも思っているわけではなくて、とにかく違うなと感じているということなのである。例えば、自分には分からないことがあったとして、それを全部納得いくまで調べるのは無理な場合に、可能な限り自分で考えて結論を下す、というのと、その分野の専門家の人となりを評価して信用できそうだと思った人の言うことを鵜呑みにする、というのとでは、ほとんどの場合、後者の、人を頼りにする方が真実に近い結論にたどり着けるような気がする。


まあしかし人とは考え方が違うことが多い、ということを事前に理解しておくことは、コミュニケーションにおいて役立つことである。別に、人との違いを人を対立するために使わなくてはならない訳ではないのだから。

大逆転裁判

大逆転裁判は、結構微妙だという話を聞いていたのですが、2が出てそれが最高に良かったと評判だったので、どうも1の時の皆さんの不満は続編前提なのにそれが知らされておらず伏線とかが投げっぱなしになってる事だったらしいので、そんじゃあ2が出た今は安心して1をやれるというわけだな、ということで買ってみました。なんかダウンロード版がセールで安かったんだけどいくらだったか忘れた。


公式サイトその他


前回やった逆転裁判5が、私的にはシリーズ最低の出来で、もうこのシリーズは見限ろうと思ってたんですけど、上記のような流れでやってみることにしました。


まるっきり情報を仕入れずに始めたので、結構驚くことがありました。え?シャーロックホームズが出て来るの?とかそういうレベルで。公式サイトでめっちゃプッシュされとるやん。巧舟がメインディレクターに据えられていることすら良く分かってなかったよ。


全体的には…やっぱりテンポが悪いんですよ。演出が過剰というか。いちいち成歩堂のリアクションが多いし。全然まだ反論の余地があるのにダメージ食らっていちいち時間取られるのウザいといったところは、もうちょっと何とかならないのかなあと思います。


でもまあシャーロックホームズとの共同推理みたいなのは結構楽しかったですね。いや、めちゃ簡単でゲームとしては微妙なんだけど、演出的にはなかなかいいと思いました。


いろいろ不満はあるんですが、大筋の部分がそんなに悪くなかった気がするので、終わった後の気持ち的には「まあこれぐらいならいいかな」って感じでした。そのうち2もやりますです。

意思決定と全体を把握すること

"アホな教師、荒れた子供は、どんどん減ってる。 でも頭のおかしい母親は、どんどん増えている。 理由は簡単で、健康から教育まで「母性の不安」を煽る事が、広告マーケティングの主戦場になっているから。ある意味、可哀想な被害者なのだ。"

https://twitter.com/allergen126/status/927033428595191813


というツイートを見て思ったこと。


アホな教師や荒れた子供が減っているかも分からないし、頭のおかしい母親が増えているかも分からないが、母親の不安が煽られているというのはそうだろうという実感がある。


この前サークルの後輩達が話していて面白かったのだが、あるカップル男女の野菜が嫌いな男Aが、女Bの方に野菜ちゃんと食べろと言われていた。そしてそこには、野菜を良く食べるという別の女Cもいた。


その場でも話したのだが、その男Aと女Cを見ると、圧倒的に普段の体調がいいのは男Aだった。もちろん、それだけで野菜を食べなくてもいいという話にはならないが、かと言って野菜を食べろと言う方に説得力が無いのも確かだろう。そして、体調の良くない女Cは、あまり睡眠がとれていないという話で、じゃあ睡眠の方が大事なんじゃないの、みたいな話になった。…いや、その場の結論がそうなったかは良く分からないが、少なくとも私はそう思った。


もちろん、野菜を食べた方が良いというのは、ある程度実験とかで示せるものなのだろう。ただ、それが、他の要素と比べてどれだけ重要なのか?というのはなかなか示されていないように思う。今は、テレビでもネットでも、健康に関する情報が溢れている。そういうものを見て、これをした方が良い、こういうことはしない方が良い、という項目が自分の中で増えていく。しかし、それのどれが重要で、どれは些末なことなのか、ということは皆分からないのではないだろうか。


もし、決定的に重要な事柄を無視して、些細な影響しかないことに躍起になっていたら、自分としては健康になるために頑張ったつもりで、元々の何もしてない状態より状況が悪化することは重々あり得ると思う。そういうことが、冒頭の「頭のおかしい母親」の正体なのだろうと思う。


これは言い換えると、「勉強すると馬鹿になってしまう」ということでもある。目の前の人より自分の方が結果が劣っているのに、目の前の人に頭で知っている知識でお説教をしてしまうというのは滑稽な状態だろう。勉強を理論と言い換えると、理論と現実が食い違っているなら、それはいつも現実の方が正しくて理論が間違っているあるいは不完全で、理論の方を修正しなくてはならないという感覚を無くすと、勉強はどんどん暴走していってしまう。


この辺は、人間の身体があまりに複雑なので、なかなか原因と結果のつながりが見えにくいというのはもちろんある。このことについて、湿潤療法が出て来た時の説明を思い出す。キズパワーパッドなどの根拠となる理論の話だ。皮膚は乾燥に弱いので、消毒とガーゼは傷をむしろ悪化させてしまう。しかしそれがなかなか見直されなかったのはなぜかと言うと「人間の治癒力が高すぎるので、悪い処置をしてさえも直ってしまっていたので、その因果関係が見えにくかった」ということだった。確かに、なかなかそういう関係を見直すのは難しそうだ。しかし、そういうことを頭の片隅に可能性として置いておくのは有益なことだろう。


この前、私は「風邪ってうつるものか?」という話をして、医者をしている後輩から「うつる」と回答が与えられていたわけだが、だからそれが「気を付けなければならないこと」か?というのは私は未だに疑問視している。やっぱり風邪になることのほとんどの原因は免疫力の低下だと思う。そこがほとんど決定的に大事で、他の事は気にするほどの事ではないと思う。もちろん、実験環境下でそういう結果が出る、つまりうつることは正しいというのは事実でも、今の自分の年齢とか生活状態で気を付けるべきということになるかはまた別問題だと思う。


コンピュータサイエンスの世界には、ボトルネックという概念がある。ある計算というか処理をする時に、ほとんどの時間はある一部のところでかかっているので、そこを直さない限り他をいくら改善しても全体のパフォーマンスは向上しない。ボトルネックとは、その全体のパフォーマンスを下げている所のことだ。ボトルネックが何かを見極めないことには、他の手はほとんど無駄になる。もちろん、一つのボトルネックを解消すれば、その次のボトルネックが表れるので、もし現状以上を望むなら、今度はそこを対処しようということになるのだが。


健康の話をする時でも、何がどういう順番で重要なのかということをもっと意識しなくてはならないと思う。そうでなければ、「これは子供に悪いのではないか…」などと、無限に母親の心配が増えてしまう。優先順位の付いたリストを作って、上から順に解消するように考えるようにする、上が解消しないうちは下は気にしないでよろしい、などとして、負担を軽減してやらなければならない。「気にすべきこと」ではなく、「気にしなくていいこと」をもっと伝えてあげなくてはならない。




ここまで考えていたのだが、ふと、これってまさに「意思決定」(ディシジョン・メイキング)とは何かということなのだなと思い至った。


そういう優先順位をつけることが現状で出来ていないとすれば、それは、全体を見るということに取り組んでいる人が少ないか、あるいはそれが難しすぎて手に負えないというようなことなのだろうと思う。そこには、科学というものが、物事を細かく分割してその中で効果・影響を見てきたという歴史による、全体を見ることへの造詣のなさが影響しているのだろうと思う。


「科学は価値判断をしない」というような言葉を聞く。でも、それは分割してものごとを見るという伝統に馴染んでしまっているからそう感じるのであって、別に全体を見て優先順位を付けることが科学でないわけではないだろう。もし、結果の指標が存在するならばだが。


つまり、意思決定の科学というのは、全体を見ることであり、そしてきちんと結果に向き合うということなのではないか、ということが改めて言えるのではないかと思った。

アナログ時計はいつデジタル時計になったのか

「アナログ時計はいつデジタル時計になったのか」と言われたら、普通は「そうだよね確かにアナログ時計の後にデジタル時計は発明されたよね~」と思うことだろう。それは確かにそうなのだが、今から話すのはその話ではない。実は、我々がアナログ時計と呼んでいるものは、実は情報学的にはデジタル時計なのだ。だから、もっと根源的な意味で、アナログだったものがいつデジタルになったかという話をしたいと思う。

 

ここでひとまず、アナログ情報とデジタル情報の違いを確認しておこう。アナログな情報というのは、連続な情報のことで、細かく見ていけば無限の情報量を引き出すことが出来るもののことだ。それに対してデジタルな情報とは、そうしたアナログの情報をある閾値で上か下か分けてしまって、持っている情報の量を確定させたもののことだ。エタノールを使った温度計をイメージしてみよう。エタノールの温度計は、無限に細かく見ていけば、実際には目盛りにピッタリは一致していないはずである。その状態はアナログ情報だ。それを人間が、どこかの目盛りに一番近いと判断して、その目盛りの値を読み取って、「36.2℃」などと決めれば、それはデジタル情報になっている。デジタル情報であるということは、人間の観察が入った後の情報だと考えることができる。

 

我々が「アナログ時計」と呼んでいる時計について考えてみると、あの時計は秒針が「カチッカチッ」っと、ある秒とある秒の間の状態を持たずに動いている。したがって例えば、アナログ時計で0.1秒といった1秒より細かい時間を測ることは出来ない。デジタル時計ではどうかというと、もし時間の最小単位が0.1秒だったとすれば0.1秒は測ることが出来るが、だとしてもそれより細かい0.01秒は測ることは出来ない。そういう意味では、この二つは細かさが違うだけで、どちらもデジタル時計なわけだ。

 

では本当のアナログ時計とはどんなものかというと、例えば日時計は本当のアナログ時計だ。見た目は一般的なアナログ時計とほとんど同じだが、それとは違って、間の状態を見ようと思えば見ようとしただけ持っているからだ。

 

さて、では冒頭の疑問に戻って、アナログ情報がデジタル情報になった瞬間について考えてみよう。原理が分かりやすいものとして、クォーツ時計で考えてみる。クォーツ時計とは、水晶を使った時計だ。水晶振動子と呼ばれる素子があって、これに電気を流すと一定速度で規則正しく振動する。ちなみに一秒間に32,768回振動するらしい。それをカウントして、32,768回振動するごとに一秒に換算して秒針を動かせば、時計として使えることになるというわけだ。

 

しかしこう考えるといつアナログ情報がデジタル情報に変わったのかは良く分からない。電気を流された水晶は、最初から「 32768分の1秒」というデジタル情報を作り出しているような気がする。自然現象が最初からデジタル情報を作り出しているなら、人間が観察するからデジタル情報になるという原則に反するではないか?

 

でもそうではない。こう考えてみよう。「もともと『振動』などという現象は存在していない」のだと。電気を流した時に、水晶はただ「動く」のであり、その動きが人間には同じ動きを繰り返しているように見えたので、それを人間が「振動」と呼ぶことにしたのだ。このとき、元々の動き自体は、無限に細かく見て行けば毎回ほんの少しずつは違うものになっているはずだが、その細かな差異は無視して同じ動きだと見なすことで、「振動」が「1回、2回」とカウントできるようになったのだ。

 

人間が何かを何かだと「見なす」ところが、アナログ情報がデジタル情報になるところなのだ。

繋がり過ぎる世界の倫理

インターネットによって我々はすごく簡単に人と繋がることが出来るようになったわけですが、繋がり過ぎて疲れてしまったという人の話もよく聞きます。facebook疲れなんて言葉もありますし、LINEの既読スルーを咎めるなんて話もありますね。

 

これまでの人類は人と繋がるのが難しい世界の中で生きて来たので、努力の方向性は基本的に人と繋がることに限定されていたわけですが、やはり適正量の繋がり具合というのはあるようで、自然にしていると繋がり過ぎてしまうのであれば、これからは人と距離を取ることを学ばなければならないのでしょう。

 

…ということは以前から考えていたのですが、これはもうちょっと応用範囲の広い話かなという気がしてきました。

 

例えば不倫をした人に対する怒りを表明する人達を見ると、私の感覚では「当事者が怒るのは分かるけど部外者の我々はほっといたらいいんじゃないの?怒る権利とかあるか?」という感じで、なんでそんなに怒るのかなーと思っていたのですが、よくよく考えてみると「酷い目にあった他者を見て、自分の事のように怒る」ってとても道徳的ですよね。そういう人が居るのは何も不思議じゃないし、むしろかつて規範とされるのはそのような考えだったと言えるでしょう。

 

つまり、現代の、インターネットがあって、さらにSNSがあって、皆が自由に全世界に向けて発言できる環境ではそういう「道徳的」な態度は不適応になってしまうけど(「炎上」と呼ばれたりして)、それは今が「繋がり過ぎの世界」だからなのであって、そうでない世界ではきっとそうあるべきだったんだと思います。

 

普遍的な倫理というものは存在しなくて、あくまで環境に対して倫理が決まるので、環境が変わると倫理も変わります。しかし、倫理を大事にしてきた人ほど、倫理が変更されることに耐えられない、なぜならその古い倫理がその人を作っているから…というような原理があるのかな、と思います。

 

とりあえず、ネット時代に適応した自分のような考え方は(本当に適応できてるのか知らんけど)、少し前の世代からすると全く当たり前でも道徳的でもないということ、だからそんなに簡単に理解できるはずだと思わないこと、を意識しておいた方が良いのかな、と思いました。

ゲド戦記(1〜3巻)

古典の名作と言われるのは出来る限り読んでおきたいよなーという気持ちで、3大ファンタジーの一つと言われるゲド戦記の小説版を読んでみたのですが、かなり面白くて個人的にはお気に入りのシリーズとなりました。


ゲド戦記と言えばジブリの映画がつまらないことで有名ですが(?)、宮崎駿は元々ゲド戦記の原作が大好きだったらしくて、息子の吾郎が映画を作ることになったときに作者のル=グウィンに会って、いかに吾郎が原作の素晴らしさを理解していないかを雄弁に語ったとかいうさすが宮崎駿だなっていう畜生エピソードがあるそうです。それはさておき。


ゲド戦記は6巻まで出ているのですが、3巻までで一旦ひと区切りしたと思ったら、30年以上経ってから4巻が出てみんなびっくりしたとかなんとか。私は今のところ3巻まで読みました。4巻以降はなんか急に現実に引き戻されるような辛さがあるらしいですが、まあそれはそれで楽しみです。

影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)

影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)


1巻の「影との戦い」は、主人公のゲドがまだ若くて、自らの才能と向き合う話。2巻はゲドがかなり名声を得た後の話で、女性の自立の話(作者のル=グウィンは女性)。3巻はゲドが大賢人としてトップまで上り詰めた状態で、死に向き合うお話。かな。


一応映画に出て来るアレンは3巻の登場人物なので、映画版は3巻を元にしていると言えそうですが、何もかもが違うので特に関係はないと思った方がよさそうです。そもそも舞台設定からして、アースシーっていう海がメインで島が連なっているポリネシア地方みたいな世界なので、船で移動する場面がすごく多いんだけど、そんなイメージ映画でゼロですよね。私は小説版を読みながら、ゼルダの伝説風のタクトを思い出しました。多分参考にしてるんだろうなあと(もちろんゼルダゲド戦記を)。


ゲド戦記の世界では、本名はバレると相手に好き放題されちゃうので、普段は通名を使っているという設定になっています。「ゲド」は本当の名前で、普段は「ハイタカ」っていう名前を通名にしています。こういうモチーフは他の作品でも結構出て来るし、例えば我々がインターネットを使う時にハンドルネームを使って、本名がバレると嫌がらせされたりして危険(笑)みたいな現状にも似てる気がして、このあたりの設定に私は一番興味があったんだけど、それに関して特に目立った示唆は得られませんでした。ただし、物語上はすごく有効に機能はしていて、友人のカラスノエンドウが本名を明かすシーンには感動しました。


深みのある作品だと思うけど、作中の雰囲気自体は結構地味で、名作だぞーって子供に読ませようとすると子供は退屈しちゃうかもしれない。私はハリーポッターって倫理観があんまり好きになれないんだけど、やっぱり子供が楽しめるという意味では結構レベル高い作品なのかもとか思い直したりしました。


読んだ後にジワジワきて、なんとなく読み返したくなります。うーむさすが名作や、と思いました。オススメです。