文章の練習 2日目

ガリガリ書いていこうと思うんだけど。でも朝からそんなことして一日を潰すのはもったいないので、また後で書きます。



さて、なんの話をしようかな。こんな長文のための長文なんて書いてもね、私のファンじゃないと読む気全然起きないんじゃないかと思うんですけど。ファンってなんだよって思うんですが、ファンとしか言いようのない人が結構読んでるような気がしないでもない…。そういえば、日記を読んでると、その人に会ってなくてもなんか身近に感じられたりしますよね。少なくとも、私はそうです。だから私に一方的に親近感を感じてる人も、いないことはないんじゃないかなーと思うんですけどね。…親近感とは限らないか。「こいつとは生きてる世界が違う」と、遠ざけてるケースもあるかもしれないね。


ネットでは、「見せる自分」と「隠す自分」を好きなように設定出来るじゃないですか。だから聖人君主の様なことばっか書いてても、実際会ってみたら超ワイルドで惚れ直したとか言うこともあると思うんですけど。じゃなくて、すげーデタラメで幻滅することもあるんじゃないかなと思うんですけど。でもやっぱ、私の中ではブログとか書いて公開するというのは、自分のことを知ってもらうためってのが大きいですね。だから、出来るだけ素直に書こうとしてます。…って言っても、それを証明出来ないんだけどさ。


私の言う事って、世間標準とはズレてることが結構あると思ってるので、真意を誤解されないように、少しでも説明の場が欲しいと思うんですよね。「酷く聞こえるかもしれないけど、こういう一貫性の中でやってるんだ」みたいな。実際、ここを読んでるから、私の言うことをすんなり受け入れられるという人も一人二人はいると思う。


説明したら、誤解は減りますよね。でもそれって、「お互いを正しく理解できたら、問題はきっと解決する」となるとは限らないですよね。ぶん殴りたいような性格の人と話して、誤解無くその本性を知ってしまう、という意味でも、誤解は減ってしまうのですよね(笑)。まあ私は自分を自分でそういう人間だは思ってないけど、多かれ少なかれ、自分を全部出さない方が良い関係のままで居られるケースはあると思います。でも、人なんて無数にいるわけじゃないですか。どうせ全部の人と関わる事なんてできないわけで、本性晒して、それでも嫌わないでいてくれる人に絞ってしまったって、まだ何人も人がいますし、そういう人と楽しくやればいいと思うのです。毒を持った動物が派手な色をしてるみたいな話で(笑)、特殊だと思うならそれをアピールしておいた方がお互いにとって良いのではないかと思うのです。


ですが、私から見ると他の人というのは、結構みんな個性的に見えます。個性ってのは、周りと上手くいかない要素みたいな意味でここでは読んで下さい。私なんか、ほとんど素でこの日記ぐらいなわけです。でも、いつもは大人しいアイツが周りの目も気にせず好き勝手書いたら…?きっともっと強烈な物になるのでは…と思うのです。いや、世間的には多分私って個性的とか言われてるんでしょうけど、私は個性を隠さないでも何とかなるぐらいに個性が薄いから(笑)、「ストレス軽減のために個性をそのままにしてる」ことが出来るんじゃないかなーと思うのです。


あのー突然キレたりする人っているじゃないですか。いるじゃないですかっていうか、母親とかがそうなんで、昔からそういう人になじみ深いんですけど。でもかなり信頼してた人でも、そういう面がある人って結構いますよね。あれってのは、やっぱ普段のフラストレーションがあって、「我慢してる」っていう気持ちが募ってるからこそ、些細なことで爆発するんじゃないかと思うんですよね。私なんか、自分が急にキレる、っていう状況が起こる気がしないもの。爆発する人は、「本来こうしたかった」みたいなのを、ことごとく達成出来てないってことなんですかね。他者への攻撃性ってのは、ジョジョでも言ってるように、自分の弱さから来る物なんじゃないかなーと思います。イジメも、ストレスの多い中間階級がするとか言うじゃないですか。


まあ突然キレる人は個性が強くて、周囲と軋轢が生じやすくて我慢も生じやすいんでしょうけど。あの突然キレるってのをやられると、「コミュニケーションしようとしたことを後悔する」レベルで幻滅しますね。それがまた自分にとって良くない結果を招くという自覚がない。いや、自覚はあるけど、どうしても制御が効かないのかもしれないなあ。


自分が攻撃的になるときも、やっぱり余裕がないときのような気がします。だからこの世のキレる人の割合を考えると、結構多くの人が、「途切れることなく余裕のない日々」を送ってるんじゃないかなあと思うのです。



まあ個性に関しては色んな説を各々で考えてらっしゃるのでしょうが、私は最近こんなことを思うのです。相手の個性を認めるというのは、「相手を嫌わないようする」という事ではなくて、「嫌いだと思って、でも誠実に対応する」とかいう事ではないかと。好きとか、嫌いってのは、理由のない物、つまり他の感覚の元(根拠)になる物ではないですか?それを無理にねじ曲げようとするべきじゃないんじゃないのかなと。


私には、嫌いな人がいます。その嫌いの度合いもピンからキリまであります。というか、人を見て嫌いだと思うのは、人を見て「良いな」と思うのと同じだけ発生するはずでしょう。そんなに特殊な感情なわけがない。自分自身にだって、嫌いなところがあるんですから。その程度の軽い、「嫌い」です。どうも、嫌いというと、もう全てを否定してるようなニュアンスでとられるような気がするんですけど。だから私も嫌いとは表現しないことが多いと思いますけど。「嫌い」に度合い(範囲)がない問題かな。嫌いだってことと、馬鹿にするって事も、違いますよね。


「人を嫌ったら、自分が狭い人間だと思われる」というような呪縛に捕らわれてる人が多いんじゃないかって思うんです。もちろんそれは「自分のことを棚に上げていくらでも他人を批判しても良い」とか言いたいわけじゃなくて。「嫌いな物を嫌いと認めることで自分の心が軽くなるなら、そうしたらどうですか?」という提案です。もちろん、それを表出させるかは全くの別問題ですし、憎悪の気持ちを増幅させることを推奨してるわけじゃないんですけど。でも、案外そんなぐらいの、「本当の自分とのギャップによるストレス」が、結構効いてくるんじゃないかと思うんですけど。どうですかね。


まだ書けるけど、きりがいいので今日はこのぐらいにしておきましょうかね。

以下メモ。予告とも言えるか?でも書くとは限らないよ!そうだ、書いて欲しいことあったら言ってくれても良いですよ。

  • 原稿用紙を前から書くように
  • 自分の力の拡大、懐古
  • 奉仕の喜び
  • フィクションとの距離
  • Twitterへのあてつけ?
  • 旅行の話(笑)
  • 昔の話(笑)